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23〜26日まで、大連ではソフトウェア会社の大イベントがあった。アジア中のソフトウェア会社が集まって、各ブースに分けられ、展示会をしている。我が社もその中の一角に紛れ込んでいて、私もナンチャッテ会社説明をしていた。そんな訳で、日本人も結構来ており、ペーペーの私は彼らの送り迎えやら何やらで、この前は大連中をウロウロしていた。 まず、とある高級ホテルに、この前観光案内したおじさんを迎えに行き、空港へ送っていった。それにはVIP専用のニッサンの新車が用意されていた。この交易会の為に、ニッサンの新車数十台が、もちろん背広を着た運転手つきで用意されている。相当お金がかけられている。しかも、どういう訳か、その車は道路を走るにもちょっと優先され、少しくらい交通違反をしてもよしとされるらしい。。おかしな規律だ。 空港へ送り、帰りは私一人だからどぉせ新車はどっか行き、バスだろう、と思っていたが、運ちゃんは待っていてくれてラクに会社へ戻ることが出来た。こういう運転手たちはどこから集められてきたのか気になり、本職などを聞かせていただいた。普段は自動車教習所の教師をしているそうで、このイベントの期間だけ臨時で借り出されているらしい。 会社に着き、午後、名刺の整理で目が痛くなってきた頃に、また別の日本人おじさんが現れ、今度はその人にお供して、ある大学に行くようにと命じられた。 もう、60は過ぎている方だ。戦争末期の大連生まれだが、当時大連は日本人だらけだったので、中国語は話せない。運転手と事務の人とそのおじさん(おじぃさん?)と私、の4人で車に乗り、大学へと向かった。 その人が大学に行く理由は、奨学金を渡しに行く為。広い世の中には本当にいろいろな人がいるものだ。いきなり、中国の大学に寄付しよう、と考える方もいらっしゃる。もっとも彼の場合は大連生まれだから、というのもあるが。。 車の中で、運ちゃんと事務員、私でおじぃさんの大連時代の昔話を聞いていた。当時大連には日本人が大変多く、日本人学校があり、その状況は日本に住んでいるのとほとんど同じだったそう。戦争で負けたから、しばらく日本に帰ることが出来なかったらしい。裏を返せば複雑な話である。おじぃさんが大連にいたのは、日本軍が占領していてそこで生まれたからだろう。だが中国人二人は反感ももたず、理解して聞いていた。 大学に着き、奨学金の受け渡しだ。奨学生に選ばれた学生3人と、大学の幹部らが待機していた。社長もおり、私は練習とテストを兼ねて、その場の学長とおじぃさんへの通訳を命じられた。 寝言は寝てから言ってくれ。。 なんでなんの予言もなく突然言い出すんだ?! どうにも逃げようがなく、日本語への通訳は私が、中国語への通訳はその大学の中国人の日本語教師がやった。 という訳で、中国語へは流暢に、日本語へはぎこちない通訳が始まった。 学長もそのおじぃさんも大変マイペース。どこにでもいそうなお年より。数字や固有名詞もおかまいなしに連打し、ペラペラ早口。 当然、私の頭脳で100%出来るわけではなく、数字などは、聞きながら忘れていく。要約しすぎたりおかしな事を言って爆笑されたりもした。やりずらいったらありゃしない。でも今だから笑われて済むが、10年後、いや5年後同じ事をしたら大変だ。 その辺は、社長や中国語への通訳者がフォローしてくれた。 内容はやはり、奨学金を寄付してくれて感謝!とか、日中友好の未来の優秀な若者のために!とかだ。(←この訳も微妙にわけがわからない) おじぃさんが奨学金と賞状を学生に手渡しし、日本語を少し話せる学生が手紙を読んだ。お礼と、これからもしっかり勉強します。と語っていた。活気のある大学、学生たちでうらやましい。それからおじぃさんとタクシーで会社に戻った。やはり大変マイペースな方だ。タクシーの運ちゃんや一般の中国人にも普通に日本語で話し掛ける。通じるわけがない。 それにしても、大連の大学生に奨学金を寄付するなんて、すごい人もいるもんだ。当然だが、大変感謝されていた。
一方ソフトウェア企業の展示会は、一日目以外日本人などほとんど来なく、暇だった。人が来たとしても、同じような業務の会社のスパイみたいなものだった。 ゲーム会社が少林寺などを呼んだりしていて、アピールしていた。続きはその写真でッス。
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