2010年 02月 08日 の記事 (1件)


ここに一葉の写真がある。

老人が、
酒場のカウンターにひとり、
グラスを傾けている。
人差指と小指を弾けるほど伸ばしている。
人差指には銀の指輪。
男は、いや、人は雰囲気だと謂うものたちがいる。
たたずまいや言動、自然な仕草にまなじり。
語らずとも雰囲気はそのものを饒舌に語りかけてくれる。
老人は、孤独を背負う。
老いはそもそも孤独なものだからだ。
そこには身が引き締まるような哀愁が漂い、
生きてきた歳月が刻まれている。
虚無とは有無相対を超越した境地より発する。
虚しいまでになにもないからこそ、
発するものがある。
老人はその何かを絶え間なく発している。
それは「イキザマ」であろう。

小さい頃から私は早く老人になりたかった。
何故だと問われても応えようがない。
今やっと50代の半ばにさしかかろうとしている。
もう少しで、
夢だった60代になり70代を迎えられる。
そうなったとき、
私がどうなっているかも夢想してきた。
それがこの一葉の写真に表現されている気がする。
白髪を長く伸ばして束ね、
クロムハーツのパーカーを羽織り、
ごつい銀の指輪をはめ、
漆黒のサングラス、
銀のピアスを耳朶にぶらさげてもいいだろう。
なんて渋いのだろうか。
男は老いて尚渋くなければいけない。
渋いとは、洒落ていることである。
洒落るために装いは大事なアイテムなのだ。
老人だからこそそこに拘りたい。
飲む酒も拘りたい。
酒をたしなまない私が、
ロックやストレートで飲めるのは、
バーボンだけである。
70歳の私が、場末のバーのカウンターを前に、
バーボンをぐいぐい飲み干してゆく。
喧騒のなかに、
ふと、
諍う声が反転する。
面倒くさそうに振り返った私は、
男が情婦らしき若い娘を殴っている場面を見据える。
待ったれやこら!
啖呵は派手にきるものだ。
バーボンのボトルを手にした私を男が睨みつける。
見上げるほどの大男だ。
言動一致、いいや、躯が先んじる。
私は首を30度ほど傾けて、
揶揄するように罵倒する。
大男は激怒して襲いかかってくるだろう。
老人だからと手加減する器量があるのなら、
女を殴ったりは絶対にしない。
大男は怪力だけが自慢の無法者(器量が蚤よりも小さい者)だ。
突進する様はさながら猛牛である。
70の老人が敵うわけがない。
そう、敵うわけがない。
なにも考えずに立ち向かってゆけば、だ。
私は突進する大男のこめかみをボトルで横殴る。
どうなろうが知ったこっちゃない。
これは喧嘩だ。
喧嘩は殺し合いである。
殺すつもりがなければ、
喧嘩なんかしない。
知らぬふりをして日和見していればいい。
それを、皆、判っちゃいない。
殴りあったことで気心が知りあえ仲よくなる、
そんなのは夢物語である。
大人は遺恨を必ず心理のどこかに遺して忘れないものだ。
遺恨がどれだけ不当なものであろうと関係ない。
だから執念深い遺恨をも覚悟しなければいけない。
娘を扶けようと立ち上がったのだ。
後戻りは出来ない。
大男は一瞬ふらつき、己が血潮に一瞬は弛れる。
しかし二瞬後にはとめどなく噴火する激怒に全身が覆い尽くされ、
私の襟首を遮二無二掴むと、
私の2倍はありそうな拳骨で殴ってくる。
私の身体は宙に浮いている。
しかし私は狼狽することなく、
躊躇することもなく、
大男の両耳を掴み、
鼻梁に渾身の力を込めて頭突き(ばちき)する。
5回から6回も入れてやれば、
どんな気丈な大男でも失神するか戦意を失う。
失ってくれなければこっちが困る。
何故なら、そのあとぼこぼこにされるのは私だからだ。
大男の戦意は遺憾ながら喪失することなく、
形勢逆転、
私はこれでもかとぼこぼこに殴られ、
蹴られ、半死状態だ。
いつのまにか人だかりができていている。
皆想うだろう、
バカな爺だ、勝てるわけないのに何考えてるんだ、と。
バカな男とバカな女の痴情のもつれじゃないか、
抛っておけばよかったのだ、と。
私と大男がやりあっている間に娘はどこかに逃げたようだ。
そのことに気づいた大男が娘の後を追う。
身動きできない私は病院送りだろう。

ここからだ。

数ヶ月後、退院した私は大男を探す。
草の根わけてでも探し出す。
やられたらやりかえさなければいならないからだ。
これは鉄則だ。
生きたいのなら、死にたくなければ、
立ち向かうしかない場面が春秋には頻繁に訪れる。
どれだけ恐くても、どれだけ辛くても、
背を向けず、真正面に立ち、ただ一歩だけ踏み出す、
それを勇気という。
自失して遮二無二走り出すことを勇気とは云わない。
わずか一歩踏み出すことが、勇気なのだ。
一歩踏み出せれば二歩めは臆することに逡巡しない。
勇気の欠片もないものに、
天才は絶対に宿らない。
命を懸けず自らを天才と称することは、詐欺に等しい。
この世のなんと詐欺師の多いことか。
勇気の欠片も持たぬ偽本物たちのいかに多いことか。
反吐が出そうになる。
私は死んでもそんな連中にはなりたくない。
本物と呼ばれたければ、命をかけなさい。
その勇気がなければ、偽物に甘んじて世の失笑を買えばいい。

憎しみは憎しみしか生まない、
物知りげに宣う者がいる。
バカを言うな、
憎しみを忘れることほど
自分を騙し、見限ることはない。
後悔とは、自分を裏切ったことへの懺悔より生じる。
生じた後悔は爛れ腐乱して自分を殺す。
見苦しい言い訳なんか誰も聞いてはくれない。
憎しみを忘れ、自分を殺し、
見苦しく言い訳し続ける春秋は煉獄そのものである。
業火に焼かれたくなければ、
やるしかないのだ。
そう懸命に念じ信じることによってのみ、
憎しみは浄化されてゆく。
純粋に憎むことは自らを純化してゆくことになるのだ。
純化なくして、救いはない。
だからこそ復讐するのだ。

虚無より生じ、
虚無へと消えてゆく、
所詮それだけの春秋だ。
今死んでも、明日死んでも、
悔いがないのならそれでいいではないか。

そうして老人(私)は、
今宵も場末の安酒場で
レモンスライスを啜りながら
バーボンを飲んでいる。


2010 02/08 22:03:23 | none
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