2016年 09月 04日 の記事 (1件)


ここに、いるよ。
あなたが、迷わぬように。

ここに、いるよ。
あなたが、探さぬように。

ある朝、
老教師の元を、
刑事が2名訪い、
事件の検証を要請しました。
行先は、
隣家の2階です。
眩むような日だまりがたゆたう
広い庭を抜けて
古い玄関扉をくぐって
ギシギシ軋み音を立てる階段を昇り、
薄暗い廊下の先に扉の開け放たれた部屋、
管理人夫婦と刑事が2名、
大きな窓から降り注ぐ陽光のもとに置かれたベッドに、
痩せこけた少女が横たわっていました。
刑事が、
少女の日記を手渡します。

老教師は、ある事件を起こし、
過疎化した
この漁師町の高校に転任してきていました。

事件とは、
生徒との好ましくない関係です。

老教師には、
書店を営む美しい妻がいました。
美しい妻と
平凡だけども
過不足のない日々を送っていたある日、
ひとりの女生徒が、
彼のクラスに転校してきました。
不思議な雰囲気を漂わせた少女です。
影をたたえたその容姿は、
氷山のように隆寒、
その肌は透き通るように蒼く儚げで、
この年代がもつ輝くような健康美と
正反対の
病的な美をまとっていました。
嗜好は通常
偏るものです。
ですから
光と影、
好まれるのは
光ではないのです。
騒然とする教室内、
気の早い幾人かの男子生徒が
彼女にアプローチします。
ですが、少女は、
悉く振ってしまい、
相手にすらしません。
一部の不良生徒のグループを除いて、
ほとんどの男子生徒が撃沈します。
不良生徒たちには
近づいてはならない警戒心が
働いていたのでしょうか。
そうこうするうちに、
熱は醒め、
女生徒は
恐ろしいほどの無口ぶりと相まって、
次元の違う特別な一隅を、
クラスの中に築いてしまいました。

何が少女をこれほどまで
頑なにさせるのでしょうか。
担任の老教師は
懸念をぬぐえません。
週に一度も放課後の生活指導も
はかばかしくありません。
返事はなおざりで、
孤立するその理由を
けっして明かしてくれませんでした。

老教師は
クラス生徒数40名、
40分の一の気掛かりが
徐々にふくらんでくることを、
禁じえません。

夏が終わり樹々が色づく頃、
女生徒が、学校に来なくなりました。
電話は、通じません。
老教師は仕方なく、彼女の家を訪問します。

出かける前、
教生時代からの付き合いだった
女性校長が彼を呼び止めました。
忠告です。

『女生徒とはいかなる場合も
垣根を越えた
親密さを抱いてはならない』

何故か?とは
問い返しませんでした。
抜き差しならぬ仲に陥り
職を追われた同僚教師を
たくさん見てきたからです。

女生徒は
町を一望できる小高い岡の上の
一戸建て平屋のアパートに独り住まいしていました。
ノックをすると
かぼそい返事の声が
頻繁な咳、
鍵のかかっていない扉をひらくと
ネグリジェ姿の女生徒が
ふらふら揺れながら佇んでいます。
熱に窶(やつ)れたその容貌、
風邪をこじらせていたことを
素人にも悟らせるでしょう。

老教師は、
ベッドに戻り
静養するように命じて、
冷蔵庫を物色、
スープを作りはじめました。

独り住まいらしい部屋の中には
家具らしいものが必要最低限に揃うだけでしたが、
キッチンを覗くと
一応の家電は備わっていたのです。

女生徒はベッドで眠りもせず、
老教師のお節介な背中をまぶしげに見つめていました。
相変わらず、氷のように無口でしたが、
温かいスープは、頑なな少女の心を、
少しだけ、溶かしてゆきました。

複雑な家庭に育ち、
聞くに堪えない暮らし、
少女は独りこの街に夜逃げするように
引っ越してきていました。

『少女の体力が戻るまで』

と自らを戒めながら、
老教師は少女の元を足繁く訪れ、
少女の重い口から零(こぼ)れでる
身の上話を聞きます。

語らいの少ない食事ではありましたが、
二人を隔てていた何かも、
いっしょに、
溶貸してゆくようでした。

少女とは、
特別な季節なのです。

そのことを、
老教師は、克明に知らされます。

少女は、
この世に出現したたったひとりの理解者に、
いつしか恋心を抱くようになりました。
人の思慕の量は
どのように決まり
どのように顕れるのでしょうか。

年の差なんて、気にもなりません。
奥さんがいたって、
彼の同居人程度にしか看えません。
狭視野、
見たいものだけを視る、
このトランス状態は、
心理学的にも証明されています。
この症状の顕著な特性は
麻薬のような常習性をもたらせることでしょう。

夢を語るこの世代は、
なにもしらないまま
突き進んでしまいます。

少女の恋はエスカレートしてゆきました。
一途な思慕は、
時には
そうでない者にとっては重荷になりかねないことを、
彼女は理解できません。

思いを雑揉し、
重ねて、積み上げ、
崩れてはまた積み上げ、
塗り上げてゆく。
経験はその虚しさと賢さを教えてくれますが、
未経験は望むまま欲するままに、
戒めはかすみ、
制御すら設けられはしません。

雁字搦めになった老教師は、
観念せざるをえないでしょう。
老教師にも、
残滓があったのです。
経験の果てにも
相応の未体験があることを
まざまざと知らされました。
忘れかけていたもの、
胸を抉(えぐ)るような
慟哭、
時の流れさえ止まるかのような
悦楽、
噴きあがるものは一つや二つではなく
それらは渦のように干渉しあいながら、
やがて一つの塊となり
沸点に達しようとしていたのです。

二人は一線を越えました。

ですが、
教師と生徒。
昔も今も
この禁断の関係は
祝福されません。

二人の逢瀬は、
秘密という甘い蜜にまみれ、
色づいた虚空の世界を漂います。

術なくも、
燃え上がる炎を維持させるだけの
情熱のない老教師は、
限界を悟ります。
この少女の莫大な感情を受けるのは、
自分ではない、と。

別れを切り出された少女は、
あっけないくらい
あっさりと従います。

ですが、いくばくかの後、
狂ったように暴走しはじめました。

不良生徒を日替わりに誘って連れ歩き、
老教師の前で、これ見よがしにベーゼを交します。

老教師は
むくむくもたげる感情を押し殺し、
静観するだけでした。

女生徒の復讐は
日に日にエスカレートしてゆき、
妻の営む書店のウインドウガラスを叩き割り、
無言電話をかけ続けるまでに至ります。

妻は、異常に怯え、夫を詰問します。
夫は、正直に白状してしまいました。

数十年の夫婦関係が、
この事件を境に、
ひび割れてしまうのです。

別居しよう、
妻の申し出に反駁できる資格は、
老教師にはありません。
全て、彼の責任でした。

しかし、少女の暴走は罷みません。

逃げるものに希望は生まれません。
踏みとどまり、
立ち向かうものにしか
希望の先にある
解決はもたらされないのです。

老教師は、神を棄てました。

倫理というしがらみの全てを
抛ったとも云えるでしょう。

男友達と誰もいない教室で抱きあう場面に乗り込み、
少年を殴りつけ、
半裸の少女を抱きしめます。

崩落の音を、
つぶさに聞いたでしょうか。

不倫理という背徳に、
正面切る覚悟が出来る前触れでした。
なにかが生まれるためには、
なにかを犠牲にしなくてはなりません。
犠牲にしたものがどれだけ大きかったのか、
生れ出ずる魔性には、関係のない事です。

教室での不純交遊は、
放り出された男子生徒の告げ口により、
学校側にしれてしまいました。

親友だった女子校長の弁護にもかかわらず、
職場を追われた老教師に、
妻との正式な離婚という追い討ちがかかります。

なにもかも失った老教師は、
一緒に退学処分となった少女の行く末を案じますが、
消息は杳(よう)として知れません。

寂れた漁村に転勤した老教師は、
黙々と暮していました。
彼が、
日々思い浮かべていたものが、
別れた妻だったのか
行方知れずの少女だったのか、
それは、誰にも解りません。
担ってしまった巨大な荷を、
少しづつ下ろすような月日が、
何ごともなく、過ぎ去ってゆきました。

そうしたある日、
二人の刑事が尋ねてきたのです。

少女は餓死していました。
管理人の話によると、
買い物する姿を見た事がないので、
時々、食物を届けていたが、
悲しいくらいに小食だったそうです。

老教師は、
いたたまれず、
ベッドの傍の大きな窓の前に立ちました。
景色が拡がるその中に、
老教師の陋屋が映りました。

なんということでしょう。

少女は、毎日、この窓から、
老教師を見守っていたのです。
放校されて半年、
どうやって、
自分の住まいを探し出したのだろうか。
どうして、隣に住みながら、
一言も声をかけてくれなかったのか。

老教師の胸が
茜色に泥(なず)んでいきます。

日記には、
こう記されてありました。

”わたしは贖罪しなければならない。
毎日、彼を黙って見守ることを、
命の尽きるその時まで、
つづけなければならないのだ。

あなたは、そこにいる。
愛しいあなた、
わたしは我慢する。
それがわたしへの罰なのだから。
でも、
でも、声をかけたい、

大好きなあなた、

わたしは、
ここにいるよ”

奄美の歌姫による「ワダツミの木」を
初めて聴いたとき、
深夜映画で偶然視聴した
フランス映画を想いだしました。

秀逸なこのラストシーンを、
筆者はいつまでも忘れる事ができません。

ここに、いるよ。
あなたが、迷わぬように。

ここに、いるよ。
あなたが、探さぬように。
2016 09/04 21:46:03 | none
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