ぼくが死んでも 歌などうたわず いつものようにドアを半分あけといてくれ そこから 青い海が見えるように
いつものようにオレンジむいて 海の遠鳴り教えておくれ そこから 青い海が見えるように
寺山修司
月があんなにも神秘的に私たちを惹きつけるのは、じぶんで耀いていないからかもしれない。
私たちは、光によって、その存在を、他に認識されている。私たちに、自ら発光できる能力は備わっていない。触れても、匂っても、聞こえても、見えないものは、実質存在の有無につながってしまう。
そこには、たしかに、ある。しかし、それを、可視させるものは、光だ。光がなければ、私たち人類は、進化さえできなかった。
私の伯父は、白内障を病んで、壮年期に視力を失った。私が4歳くらいだっただろうか。伯父は、私に、「故郷」を教えてくれた。
忘れ難き、ふるさと。
視力を失いつつあった伯父にとって、掠れ行く故郷のたたずまいは、万感の思いを吃逆させていたのかもしれない。
私は、幼いくせに故郷を口ずさむ、異様な子供だったようだ。断片的に残る記憶の中に、伯父のその姿は、小さく幽かだ。下の伯父によって、ようやく、全ての歌詞を記憶できたその日、伯父は、血を吐き、倒れた。
視力をなくし、尚、不治の病を得た伯父は、私が小学校に入学してからしばらくのち、逝った。衰弱憔悴の果て、兄妹に見守られながら、その生き様に似て、静かに、愚痴をなにひとつこぼさず身罷った。
大好きだった柑橘類を、その墓前に供えることが、現在、母の日課となっている。
ひとも他によって光を得ると言い換えられるだろう。耀きは、他によって、もたらされる。
ならば、伯父は、その38年の生涯に於て、一度でも、光に包まれた事があったのだろうか。それを、伯父の年を随分追い越してしまった私は、時々、思い出しては、胸が詰まってしまう。
伯父の墓は、朝日がふりそそぐ場所にある。
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