いで湯旅・山旅・鉄道旅・お遍路…様々な旅の迷路を巡ろう

2005年 11月 の記事 (10件)

山梨紀行最終回は、いよいよ厄除地蔵尊祭り当日の模様です。
これからの自分のあり方の足がかりにもなりそうな有意義な時間でした。



         
               準備完了

翌朝、一階の奥の食堂で朝食を頂いていると、ロビーや玄関の方から明るくも騒がしいやり取りが聞こえてくる。
この宿の前にも出店が構えられ、日中から夜にかけては、温泉宿から主役に近い立場を奪い取る(?)ようだ。むろん主役は塩澤寺である。

朝の温泉街
女将さんの話では、山梨県全域のみならず、真言宗関連のお寺関係者をはじめ全国から参拝者が訪れ、その数は十万人を越えるという。ロビーで一服していると玄関の外では慌しく地元の人達が右往左往している。

この厄除地蔵尊祭りは、観光ガイドなど、一般的には「国の重要文化財に指定されている地蔵堂に安置されている本尊の石造地蔵菩薩坐像が、この日一日だけ耳を開き善男善女の願いを聞き入れてくれる」とされているが、昨日の塩澤寺のお身内の方からの話などを基にした私の解釈としては、空也上人による厄除地蔵菩薩像と完全な秘仏である弘法大師の坐像が一つとなり、それにより善男善女の願いに対して耳を開いてくれる、と解釈している。
女将さんにも確認したところそれは間違いないらしい。ただ、祭りの盛り上がりとは裏腹にその辺の詳しい根拠に関しては、案外地元の人達もよく分かっていないケースが多いそうだ。この辺は前述した下部での事情にも通ずる部分であり、私も苦笑いするしかなかったが‥。
宿を出る。時に午前九時。女将さんからは、「どうせ夕方くらいまで湯村にいるんでしょ、一段落ついたらまた寄ってくださいな」と一言。私は自然に笑顔が出て、おそらくそうする旨を伝えた。そして足は再び温泉街中心部に向かい始めた。

昨日は暗くてよく分からなかったが、昨日通った道の両側には既に開店直前の出店がズラリと並んでいる。祭りが始まるのが十二時からで、その一時間前くらいから急激に人が増えてくるらしい。
さすがに今はまだ地元の人が準備中という時間帯である。たこ焼き屋、占い、りんご飴‥等、自分的には初詣の神社の参道の風景のようだ。ただ、どんどん歩いている内にそのスケールに驚く。
温泉街のメインストリートのみならず、脇道にいたるまで、凄い数の出店だ。おそらく百件以上あるだろう。まさに?十万人を迎え入れる準備まもなく完了!?と言う感じか?徐々に温泉地全体の来るべき熱気をひしひしと感じ始める。

熱気直前の山門前
女将さんからは「参拝者が増え始めてから境内に入ろうしたら?とんでもない?ことになる」と言われたのを思い出し、早めに塩澤寺境内に入ることにした。山門の前に着くと、警察官だか警備員だか分からないが、ピーク時間を想定して警備の予行演習のようなことをやっている。かなり緊張した面持ちにみえる。

昨日来た時は真っ暗だったので改めて見ると、また違った顔を感じる。山門の両側の斜面に無数の石仏があり、そしてその石仏を従えるように斜面の中腹には、弘法大師像が佇んでいる。そして改めて感じた。やはり、ここが湯村の中心であり、また象徴なのだ。
山門をくぐり石段を上がる。境内はまだ、人はまばらで、関係者らしき人達だけのようだ。早く来て正解!
境内に入ると本堂の横に西堂と呼ばれるお堂があり、そこには弘法大師の坐像がある。ただ、そのお堂はここ(塩澤寺)ではいわゆる『大師堂』とは呼ばずあくまで『西堂』とよんでいるそうだ。そしてこの西堂は祭り中護摩札申込所になっている。改めて見ると、そこだけは申込希望者で結構人が集まっている。

祈祷護摩札申込所
早速私も行ってみた。正面には『祈祷護摩札申込所』とあり、受付のおじさんが四〜五人おり希望者を受け入れている。奥を見ると黄金色の弘法大師坐像がそのやり取りと見守るように鎮座している。

ここまで来たら私も‥、とばかりここは一つ申し込もうと言うことになった。受付のおじさんから話を聞きながら進めていく。

    志納料
まず『御護摩札祈祷志納料』とあり、金額によっていくつかバリエーションがある。

 〇 交通安全祈祷守     二千円以上

 〇 別護摩           二千円以上

 〇 大護摩           三千円以上

 〇 特別大護摩        五千円以上

 〇 大護摩開運隆昌     一萬円以上

 〇 特別大護摩開運隆昌  二萬円以上

となっており、それぞれ独自の意味が込められているようだ。私はとりあえず財布の中身と相談(寒い!)して『別護摩』を選択した。金二千円也。
すると今度は『厄除』から『必勝祈願』まで二十四通りのいわゆる願意を書いた紙を差し出された。「この中から任意に二つ選んでください」とのことである。

   願 意
自分としては、近年体調を壊すことがよくあり、また弘法倶楽部の今後のこともあるので、『身体健全』と『心願成就』というのを選んだ。この時ばかりは、客観的な取材の気分とは切り離れた心境だったのは言うまでもない。


          熱気と冷気

一通りの手続きを済ませた。後は祭り開始と共に実際に本堂の前で?厄除け?をしてもらい、その後宮殿(接待所)にてお札そのものをいただけるとのことである。

そうこうしている内に時間は十時を回った。省みると自分の行動のタイミングがギリギリだったのか?後ろを振り向くと申込希望者がいつの間にか大きな列をつくっていた。地元関係者の人達の行動もいっそう慌しくなってきたようだ。
ただ本番(?)開始まではまだ二時間弱ある。やや手持ブタさというか、時間を持て余す感じになってきて、本堂のまわりをうろうろしている状況。本堂の後ろは湯村山の山頂につながる山道になっており、ちょっと足を延ばしてみることにした。
      
境内は丁度山門から始まる湯村山の斜面に展開しており、本堂の裏は段々畑のように墓地が広がっている。本堂より前部はかなり喧騒してきたが、裏に回ると嘘のようにひっそりしており、霊気とも冷気とも取れる雰囲気が漂っている。裏の静寂が表の喧騒を見守っているかのようだ。
墓地が切れて山頂への山道と合流するあたりに、風変わりなお地蔵さんがあった。自然石の上に地蔵の首だけ乗っかっており、その顔がなんとも言えず愛嬌がある。丁度、赤塚不二夫の漫画に出てくるキャラクターのよう(?)

たんきりまっちゃん
後から聞いた話だと「たんきりまっちゃん」と呼ばれ愛嬌のある顔で、地元の住民にも親しまれているようだ。ただその愛嬌のある顔とは裏腹に由来は、昔痰や喉の痛みに苦しむ人が祈願して創ったとのことである。痛みから逃れたい一心をこのユーモア溢れる顔に託したとすると、なんだが逆に痛々しい印象もある。

湯村山案内図
このまま山道を登ってみたい気にもなったが、今日はここ二日間とはうって変わって曇天模様。頂上付近からの展望も望めそうもないし、第一これから祭り本番なのだ。時間的にもそろそろ引返すべきかと思い境内に戻ることにした。
午前十一時。あと一時間ほどになった。西堂前は申込希望者で長蛇の列となっており。本堂前は既に申込を終えた人と地元の関係者が入混じってごった返している。

本堂の表と裏はまさに熱気と冷気である。空を見上げるとヘリコプターが空中放送している。
「甲府市内のみなさん!本日と明日の二日間に渡る厄除地蔵尊祭りでは、道路及び交通機関等、大変混雑が予想されます!また行過ぎた行動はくれぐれも慎むようお願い致します!」
おそらく県警か何かのヘリであろう。なんだか阪神タイガース優勝時の道頓堀川のようで、改めて祭りの規模とその信仰心の発するパワーを再認識させられる。まだ始まっていないのに‥。
三十分前になり、そろそろ本堂前に行こうとして、ふと振り返ると「やはり!なるほど!」と思った。

本堂前からは湯村温泉街が見下ろせるが、とにかくメインストリートのみならず、小さい脇道までびっしりクロヤマの人、人、人、である。そしてその総てが真下の山門まで行列となっている。俯瞰すると四方に分かれた枝が山門前で太い一本の幹になって収束している、とでも言ったら当てはまるだろうか。山門前で一つになった行列はそのまま石段を上がり西堂の申込所まで続いている。

規制が必要な行列
横にいた警備のおじさん曰く
「まあ、願い事は長く待てば、長く待つほどよろしく聞いてもらえるんやろーなー、なんせ十二時にならな耳が聞こえんのやから、聞こえんかったらなんぼ願うてもだめやしねー‥」
なるほど、長く待てば待つほどご利益は多し、とも言えるのかもしれない。
いよいよ本堂前にも人がなかり集まり始めた。私も乗り遅れないように本堂の前に行くことにする。早く申込みを済まして多少余裕をカマしていたが、もうそう言う状況ではなくなったようだ。

  ほら貝
やがて、山門の横の宮殿の方から、七人くらいのいわゆる?使いの人?がほら貝を吹きながら、参道脇の石段を上がって来た。
「ブゥオゥー〜ン」
一瞬、境内内外の喧騒が静寂にかわり、熱気が冷気にかわる。
いよいよ?耳?を開ける、その時が来たようだ。

使いの人

 
        年に一度の同行二人

?使いの人?が本堂の前を通るころには、ほら貝は静まっていた。静寂の中、一人一人静かに本堂に入っていく。この中の誰かがあるいは、お大師様の秘仏を携えているのか?それとも既に、地蔵菩薩坐像のもとにあるのか?それは現時点では分からない。

本堂前は私の前に既に十人ほどが待っており、本堂の中をじっと凝視している。私も邪魔にならない程度に少し身を乗り出し目を凝らして見てみた。
やはり!既に本堂内では、地蔵菩薩像を前に護摩焚きが行われていた。

薄暗い本堂の中で、静に湛える炎を前に地蔵菩薩坐像がゆらゆらと照らされているのがわかる。どっしりしてかつ穏やかな表情だ。そして、
これが…
坐像の、丁度手の前あたりになる、補助台の上の小さな黒塗りの木箱。正面の扉は閉じられているが、
これこそがお大師様の秘仏なのである。

感銘している内にいよいよ本堂前の一人一人に対して厄除けが始まった。十二時を回ったようだ。私はその直前に本堂の中への目が切れてしまい、後はひたすら順番を待つだけであった。
私の番になり、前の人に習って両手を握り絞めて拝む。もう本堂の中を見る余裕はない。ひたすら手を握り締めていた。
その時の自分の心の中はもう憶えていない。また、木箱の中に秘められ、厄除け開始と同時に扉を開かれたであろうお大師様の秘仏そのものも、自らの目で確認する余裕すらなかった。
ただ、空也上人により大衆に受け継がれた信仰は、開創者である空海弘法大師の秘仏を介し初めて結実するはずなのだし、また私を含めこれだけの人々が本能的に引き寄せられるだけの歴史があるのだ。


弘法倶楽部毎号にもよく「同行二人」にと言う言葉が出てくると思う。四国八十八ヶ所においても、普通お遍路さんは「お同行」とも呼ばれ、これは志を同じくして修行している人というほどの意味かと思われる。
しかし「同行二人」と言うときは、単に仲間の遍路というような関係ではない。言わずもがな、お大師様、弘法大師と二人連れという意味である。お遍路さんは皆一人一人が金剛杖を介し「同行二人」の旅をし、そして八十八回の出会いを実現するのだと思う。

塩澤寺の厄除地蔵尊祭りは、同行の「旅」ではない、「出会い」である。ただしそれはわずか一年に一度しか実現しないのだ。そしてその一度きりの「出会い」の中に「遍路」の旅にも勝るとも劣らない信仰が凝縮される。
そう考えると、お叱りを承知で解釈するならば「年に一度の同行二人」とも言えるのではなかろうか。


私は今回初めて初めてこの塩澤寺における厄除地蔵尊祭りを体験した。そして湯村温泉と絡み合った歴史の流れと伝統を見聞したうえでの体験であったが、自分自身のちっぽけな探究心とこのような実体験が融合するには、まだまだ幼すぎる経験でしかないかもしれない。
しかし「巡礼」、「遍路」、そして今回の厄除地蔵尊祭りに集う十万人を越える人々…。そしてその一人一人の意識や信仰心の様々が、私のような人間にも「ほんの少しだけ」垣間見れたような気もする。


  宮 殿
その後、宮殿にて出来上がったお札をもらい、塩澤寺を後にする。祭りはこの後、明日の正午まで続くのだ。
私の体験は終了したが、「年に一度の同行二人」はまだまだ始まったばかりなのだろう。



いいだこがまるごと入ったたこ焼き
私は出店と人ごみでごった返す温泉街を歩き、所々出店にたちどまりながら、今日の朝のお話通りユムラ銀星に立ち寄った。そして忙しい中、昼食におでんといなり寿司をご馳走になってしまった。お代は辞退される。ありがとう。女将さんには深くお礼申しあげる。

出店を前にしたユムラ銀星
下部から湯村まで、昨日・今日と非常に濃密な時間な流れであった。まだまだ私なりの?がんばり?などとは言えないかもしれないが、まだまだ、今後も更に様々なことを吸収していくだろうと思う。


以上で、弘法倶楽部の3号から4号にかけて掲載(4号は未遂 )された「弘法大師ゆかりの湯と秘説の湯、城山・下部・湯村、山梨周遊」紀行は終了いたします。
しばらくお休みしてしまうかもしれませんが、まだまだ、下部温泉弘法秘説の続編や、秩父34ヶ所など載せたいものが幾つかあります。
その時はまたお付き合いいただければと思います。
2005 11/30 15:22:57 | none | Comment(0)
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今回からの2回は「弘法倶楽部・4号」掲載予定でした「塩澤寺、厄除地蔵尊祭り」編となります。
1回目は祭りの前夜として、湯村温泉にズームします。







          湯村温泉街

前号にて予定外の行動が発生した為に、メインであるはずの湯村温泉における厄除地蔵尊祭りが、本号にずれ込んでしまった。
まずはこのことについて深くお詫びを申し上げなくてはならない。ただ、前号発刊後、既に読者の方々より様々な感想、御意見、ご教示をいただき、程よい(?)プレッシャーを感じつつ筆を取っている次第である。

夜の温泉街
さて、やっと「本当の意味で湯村温泉に降り立った」わけだが、予定変更のアオリを受けて既に六時近くなり、夕暮れ時も既に終了という感じ。迫り来る寒さに身体が必死で反発している状況。
宿に入る時間もかなり遅れており、さっさと入ってしまいたいが、宿の場所を探すつもりが、そのまま温泉街をぶらぶらしてしまっている。
着いたらまず散策する、という習慣というか、自分が温泉行脚の中でつくってしまったヘンな性みたいなものには逆らえないようだ。
市街地の街道沿いにある、温泉入り口からしばらく歩いていると、街灯一つ一つにひらがなで『ゆむら』と書いてあるのが目に付き、温泉街の中心部に近づいて来ているのが分かる。
やがて温泉街を流れる小さな川のほとりに『歓迎、湯村温泉郷』と書かれた赤い石製の建て看板があり、この辺が中心街だと分かる。

その建て看板の横に川を跨ぐ小さな赤い橋が架かっており、その先には、ピンク色の古びた二階建て。スナックか何かであろう『赤い橋』という屋号が架かっている。
この時間でも真っ暗であり、営業中という感じではない。それ以外でも特に土産もの屋などもなく、地元の人しか入らないような飲み屋や食堂にぽつぽつ灯りが燈っている。

   鷲の湯
道がやや狭くなったその先に共同浴場『鷲の湯』があり、一階が浴場、二階は『湯村温泉芸能センター』になっている。二階のほうは現在機能しているかどうかは定かではないが、おそらく旅芸人一座の公演などをやっていた(いる)のではなかろうか?
この夜の温泉街の雰囲気の中で、私は、本誌二号で取り上げた山陰(兵庫県だが)の湯村温泉をふと思い出した。温泉名が同じで自分のなかでも何かと比較することが多かったのだが、あちらは夢千代日記ゆかりの温泉地として、夜は荒湯を中心に鮮やかにライトアップされるなど、観光温泉として非常に魅力的な整備がされていた。

山陰の湯村
ただその反面、夢千代日記の物語に描かれた温泉地のリアリズムに対するギャップを感じたのも事実である。
そして今こうして山梨の湯村温泉に佇んでいると、むしろ夢千代日記に描かれた温泉地のリアリズムと共通したものを、こちらの方に感じてしまっている。「山陰の湯村温泉も物語当時はこう言う感じだったんだろうな‥」、と。
『鷲の湯』から数十メートルくらいの一帯が一番の宿の密集地帯のようだ。そして宿の前や隙間の空き地など、道沿いの所々でテントを張り裸電球の下で地元の人達がせっせと何やら作業をしている。

にこやかにビール片手にという風情である。一瞬なにかな?と思うが、どうやら来るべき明日の祭りの出店の準備のようである。
そうだ、明日はこの一帯も十万人余りの人で埋め尽くされ、この寒さを圧倒する熱気が支配することになるのだ。ワクワク顔で準備に勤しむ地元の人達を眺めながらなんとなくその情景を想像してしまった。
しばらく歩いていくと、出店準備のテントも切れ、温泉街もかなり奥まってきたのだろう、徐々に道が細くなってくる。もう真っ暗で分からないが、湯村山という小さな山が温泉街の後ろに聳えており、道はその山の始まりに突き当たると同時に左に折れ曲がる。そしてしばらく行くと山肌を前衛するように塩澤寺の山門が現れた。

塩澤寺山門
山門の周りは温泉街の中心から奥にはずれており、民家の灯がぽつぽつと言う感じ。既に底冷えし始めた夜の風景でひっそり静まり返っている。

ここで少し塩澤寺の歴史について触れてみようと思う。

 
大同三年(八百八年)弘法大師空海上人が諸国を衆生救済の行脚をされたおり、この地にて厄除地蔵菩薩の霊験を感ぜられ、自らが、六寸あまりの坐像を彫刻され、その尊像を開眼されたのが、開創(福田山)とされる。以来当時の救いを求める老若男女の参拝の対象となった。
 その後、天暦九年(九五五年)空也上人(踊念仏の高僧)が、全国遊行の途中この地に感じ取った著しい霊験を元に六尺余りの厄除地蔵大菩薩像を彫刻安置し、それにより開基(福田山・塩澤寺)され、以降、蘭溪道隆により再興されるなど多少の変化を孕みつつも現在に至っている。

塩澤寺側面

弘法大師の手による坐像は、完全な秘仏であり、公開することは出来ない。ただ、毎年二月十三日の午後十二時から十四日の午後十二時までの間だけ、空也上人による厄除地蔵菩薩像と弘法大師の坐像が一つとなり、その二日間(正味は一日間だが、実質二日間にわたることになる)に限り一般に公開される。
つまりこれが年に一度の厄除地蔵尊祭りなのだ。
厄除地蔵尊がこの日だけは耳を開き、善男善女の願いを聞き入れ、あらゆる厄難から解放してくださる。これが毎年十万人余の人々により埋め尽くされる力となるのだろう。
山門をくぐると、本堂までは山の斜面に従って割りと長い石段になっている。真っ暗で人気(ひとけ)のない石段を上がってみるが、なんせもう六時をまわっている。

側面にある弘法大師像
宿に入る時間が気になり引き返そうとしたら、境内の掃除(おそらく)を終えた寺のお身内の方らしき人がいたので、ちょっと話を聞いてみたくなってしまった。もういい加減早く宿に入った方がいいと思っているのは当然だが、ただ明日になると今度は人でごった返してこう言うタイミングはなくなるのでは?とも思ったのだ。

やはりご住職のお身内の方で、立ち話状態で寒さが増してきているにも拘らずいろいろとお話いただいた。その中で特に面白かった話を一つ。
この塩澤寺には、ある意味本堂が二つあると言ってもいいのだそうだ。確かにかたちとしての本堂には空也上人による厄除地蔵大菩薩尊像がある。ただ一般には公開できずに秘仏として、住職しか知らない場所にしまい込まれている弘法大師による小さな坐像その物も、ある意味このお寺の本堂としての意味を持つ…。
住職のお身内の方はしみじみと語ってくれた。
この二つの?神?が年に一度だけ一つになるのだ。祭りの規模も、地元の人々の思い入れや熱気もうなずけるではないか…。ますます明日に対する期待が高まってきた次第である。
ちなみに、当日は空也上人による坐像の手のひらに弘法大師による秘物がのせられるそうだ。はたして肉眼で確認できるのだろうか?ついでにこれにも期待(?)しよう。
お身内の方にはお礼と同時に「明日もまた参ります」と言い残し、やっとのことで私の足は今宵の宿『ユムラ銀星』に向かい始めた。



          ユムラ銀星

再度中心街へ引返し、宿の案内版で場所を確認する。湯村に着いた時間が遅かったこともあるが、大急ぎでも、とにかく湯村全体を確認したかったので、正直宿の場所まで意識が及んでいなかったのである。
案内版を元に歩いていくと、どんどん温泉街入り口付近に戻っていき?普通の街道?が近づいてきた。そして最初に見た湯村温泉病院の向かいにユムラ銀星は建っていた。

ユムラ銀星
なんだ、よく考えると自分は先程素通りしていたのだ。とりあえずホッと一息。
鉄筋三階建の小ぢんまりした外観。もう五メートルほど先はバス停のある街道が走っているということもあるが、いわゆる温泉旅館というより、街中のビジネス旅館という雰囲気。ウーン‥宿の選択を誤ってしまったか‥。その時の正直な気持ちだった。
到着が遅れてしまい恐縮する中、年配の仲居さん(?)に何事もなかったかのように二階の部屋に通された。部屋の窓から外を眺めると、道を挟んで正面に湯村温泉病院がデンと構えている。
「もう夕食の時間は過ぎてしまっておりますので、お風呂は出来るだけ早く入ってくださいね、三十分後くらいにお食事をお持ちします。」
仲居さんはお茶の用意をしながら優しげにそう言って部屋を出た。言われてみれば確かに、もう時計は七時をとっくにまわっている。なんだか仲居さんに眠っていた疲れを起こされたようで、いっきに身体が重くなってきた。
ザブンと入って飯としよう。あ、しかし湯村の湯はここが初入湯なのだ。やっぱりじっくり浸かりたい。
などと馬鹿思案しながら浴室へと向かう。
一応浴室は男女別にあるが、片方は機能していないようで、ひとつだけが使われている。(寂れた宿でよく見掛けるケースだが‥)三〜四人入れるくらいの小さめの浴室に無色透明のきれいな湯が注がれる。

銀星浴室
下部の湯と似て、アルカリ性の柔らかい湯だ。ただ泉温は四十〜四十二度くらいで幾分熱く、下部のように、二槽に分けて入り分けるような習慣はないようだ。
ただそれ以外に下部と大きく違う点としては、まず湯量がある程度確保されていると言う点が挙げられる。湯村温泉全体で源泉は十二ヵ所あり、その湧出量は一分間に九六六リットルになる。まあ、岩手の須川温泉の六千リットルや、草津の三万六千リットル!ほどではないが、温泉地の規模と照らし合わせると、バブルな施設を造らずに誠実に源泉を配湯するとすれば十分な湯量であろう。

効能表
前号では触れなかったが、実は下部の湯量はこれらの場所に対して非常に少ない。私の常宿の大家は自家源泉なので問題はないが、源泉をきちんと使用している宿は実は限られている。

下部の湯
昨年騒ぎになった一連のまゆつば温泉騒動の中にも含まれてしまった宿が残念ながら幾つかあったのは事実である。
温泉地にとって湯量はその地の命に等しいし、それによってその地の実力や人気が左右されるのは、いさしかたのないことであろう。しかし私は決してそれによって自分のその地に対する評価や愛着が決まることはない。
むしろ湯量が少なくとも、湯量に合ったしかるべき施設で歴史を保っているところにより愛着を感じるし、またリピートしてしまう。
私は別に温泉評論家というわけではないので、偉そうなことは言えないが、逆に実際の湯量を無視して、湯量より?客量?を優先した入浴施設を造ってしまうのが問題なのである。
そういった宿が今となって行過ぎた経営根性のツケを味わっている現状であることは以前にも書いた。
たしかに、一企業として「発展させる」「成長していく」という意味での経営意識は素晴しくかつ重要なことだが、根本たる、また自らに命に等しい湯そのものと、それとは別の問題とも思えるのである。
ユムラ銀星の湯は浴槽自体は小さいが素晴しい湯であった。これでどこもかしこもが、とんでもなく大規模な施設を造ったりしたらまた変わってしまうかもしれない。
ただ、温泉地を維持し、また発展させていくには、「せざるをえない」こともあり得るかもしれないであろう。そしてその辺の突っ込んだ話はこの後、この宿の女将さんからじっくり聞くことになる。

         
          湯村の抱える問題とは

夕食後、部屋でそろそろ焼酎のお湯割りをちびちびやりながら、今日一日を振り返っていたりしている内にもう二三時をまわっていた。
下部温泉の元市長石部さんから得た弘法大師秘説から、今現在の湯村温泉まで、大師に関する秘説・伝説、二つの説を一日の時間の中で吸収した心地よい重さを感じている時間である。(いやいや、湯村はまだ明日が本番だが)
二三時半くらいになったが、やけに隣の部屋がうるさい。よく考えたら、当たり前な話し今日は祭りの前夜である。この日のために全国から様々な人達が訪れてくるのだ。今日あたりどの宿も夜はにぎやかなのであろう。
たださすがに、身体は疲れているが、頭はどうにもまだ冴えている状況である。明日の祭りを前にして盛り上がっているのはしごく当然で、ヒトとして心の中ででも責める気にはなれない。

ユムラ銀星のロビー
そこで飲んでいた焼酎とつまみを持ってなんとなく部屋を出た。ロビーで飲んでやろうという寸法である。
玄関は既に灯りが消えており、帳場の前も寝静まった雰囲気。テレビとテーブル、ソファーのあるロビーだけに明かりが点いている。田舎の旅館に共通した夜のイメージである。当然誰もいない。
しばらく一人で飲んでいると、帳場の灯りが点いて年配の女性がきたので、思わず視線を向けてしまった。なんか一人客がこんなところで飲んでたりするとヘンに思われてしまう(?)と思ったからだ。軽く挨拶し、
「いや〜祭りの前夜で、お隣さんも盛り上がってるみたいで‥」
と、ここにいる言い訳じみたことを言うと、女性は苦笑い混じりで「すみませんね〜、どうぞごゆっくりやってくださいな」

ユムラ銀星の女将さん
私はこのやり取りで「この方は女将さんだな」と直感した。浅香光代女史に似たどこか貫禄というか、存在感を感じる人だ。話がいつの間にか弾んできてきて、やはりこの方が女将さんだと分かるにはあまり時間は掛からなかった。
最初女将さんの方は立ち話状態だったが、話が盛り上がってくるといつの間にかソファーに座っていた。私は今回の趣旨を話し、この温泉地にまつわる様々な話の聞ける絶好のチャンスと思い、弘法倶楽部の前号を渡そうと急いで部屋に戻った。
前号を女将さんにお渡すると、お返しとばかりに、湯村の歴史を綴った分厚い写真集を用意してくれていた。
そして気が付いたら女将さんもまた、湯呑み茶碗の焼酎お湯割りを手に取っていた。

湯村は歴史こそ古く、山梨県では数少ない弘法大師伝説に彩られた温泉地である。ただ、下部や増富のように風光明媚な自然景観があるわけではない。実際私もバス停に降り立った時、「ここが温泉?」(失礼!)と思ったほどだ。
しかも、(ここが大事なのだが)湯治場としての位置付けが非常に中途半端な状況であることは否めない。下部などは前号でも書いたとおりリピートの湯治客に支えられている要素が大きいのだ。
その辺のことを女将さんに聞くと、やはり湯村も以前は湯治温泉としての伝統がもっとしっかりしていたそうだ。たしかにお湯自体は湯量も豊富で、その効能も温泉病院があることに証明されるように非常に高いのは間違いない。
ただ、女将さんが半ば嘆くようにもらしたのは、ここ数十年のあいだの各旅館の跡継ぎに問題があったということである。はっきり言って「何も考えてない」のだそうだ。「それはうちを棚に上げているようにもなりますが‥」とやや自嘲ぎみに話してくれたもの事実だが‥。
この宿の向かい奥に『湯村ホテル』という大きな鉄筋の宿がある。そこの今のご主人は唯一非常に今後の湯村について意識的に取り組んでおり、いわば孤軍奮闘状態だいう。
一例を挙げると、市街地という立地を逆に生かしてビジネス利用のお客さんに同等の料金で温泉旅館の情緒やサービスを提供する。それにより今までにない新しい客層を開拓しているという事である。
なるほどビジネス利用ならリピート利用にも繋がり易い。出張にきた時など、普通のビジネスホテルのユニットバスに浴するではなく情緒ある天然温泉に浸れるのだ。自分だってそっちの方がイイな、と思ってしまう。
湯治文化云々とはちょっとかけ離れているが、素晴らしい目の付け所だといえるではないか。しばし感心してしまった。
湯村ホテルのご主人はその他様々な戦略を実践しているようだが、いかんせんあくまで孤軍奮闘であり、他の旅館の跡継ぎ達は、古い伝統に乗っかっているだけでなにも考えてないのが現状ということである。女将さんの話はまさに悲喜こもごもであった。

千人風呂当時の記録
女将さんが持ってきてくれた写真集を見る。女将さんも多少ホロ酔い状態でいろいろ説明してくれる。
今温泉病院のある場所には、千人風呂という共同浴場があったこと。(病院の建物のてっぺんは六角形のデザインになっているが、それは千人風呂を偲んだものらしい)
ここユムラ銀星は以前は銀星館といい古い歴史があること。(改築時の写真が出ていた、昭和二十年代のものらしい)その他様々である。
写真をみるとこの宿を含めて改めてこの地の歴史の重さを感じる。また、その歴史を継承しながらも、今後の伝統づくりに真摯に取り組んでゆかねばならない。女将さんの話の端々には、その意識の強さゆえ、情念のようなものさえ垣間見えたような気がする。
ロビーの時計を見るともう一時四十分、さすがにお隣さんの前夜祭も終わっているだろう。女将さんに付き合ってもらったお礼を申しあげ、私も明日に向けてやっと就寝することにした。





強引に2回に分け掲載していますので、かなり1回が長くなってしまっております。
次回は、山梨紀行最終回として厄除地蔵尊祭り当日の模様を追います。
2005 11/29 15:19:20 | none | Comment(0)
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城山温泉の夕食が意表をつく内容で、なんとも楽しい思い出となりました。
しかし、本当の意味でここほど「昭和」を感じる宿は他にはなかったと思います。



贅沢な時間はあっという間に過ぎ、夕食の時間。
この宿は家族経営でかつ部屋は離れにもかかわらず、すべて部屋食である。一旦外へ出て大変であろう。敬服する。
また、桂川でとれた新鮮な川魚が焼きたてで出るのだ。M氏ともども楽しみに待つ。彼は例によって昼間のうどんはすっかり消化してしまい、極限の空腹状態のようである。

やがて、宿の娘さんが夕食を運んできた。岩魚の塩焼き、山菜のてんぷらなど、すべて焼きたての揚げたてである。まずはビールで乾杯する。
片っ端から食べて片っ端から「うまい、うまい!」決して高級な料理ではないが、一品一品がすごく丁寧で心もこもっている。

夕食のかに
しばらくして、娘さんは追加の品を持ってきた。でかい皿だ。それをみて驚いた!なんと巨大なずわいがにが、丸ごと一杯乗っかっているのだ。これにはM氏も目を丸くした。
しかしなぜ「山はあっても山梨県」の宿に“かに”が…?いやいや、今はそんなヤボなことは考えまい。素直によろこび堪能しよう!
しかし?かに?をみるとM氏は大変だ。実はM氏は周りの人間から「かにの天敵」とか「かに喰いザル」とか言われるほどの?かに好き?である。彼は年に一回北海道に旅行しているが、「北海道のかにを全種食い尽くす」とか言っているくらいだ。私は多少気遣い、足三本くらいで我慢して彼に譲り気味となった。

かにと対決するM氏
彼は至福の表情で?かに?と対決している。よくみると彼の前歯はやや出っ歯であり、それがまた構造上、かにの身肉を効率よくそぎ落とすのに適しているのではないかとも思われる。
まもなく巨大な?かに?は、すっかりカラだけの姿に変わっていた。後から女将さんから聞いたら「たまたま、横のつながりでいいのが入ったから出してみました。」ということであった。
翌日、空は引き続き快晴。窓の外の桂川が運んでくる心地よい冷気が目を覚まさせる。一応予報では今回の行程中は好天に恵まれる予定。普段のおこないが、そんなにヨイとも思わないが…、まあ悪くもないのだろうか。

城山温泉の朝食
寄り道はこれで一応終了。今日はM氏と別れて甲府経由で下部へ向かう。その前哨戦として充分英気を養ったつもりだ。
しかし改めて城山温泉は本当によい宿である。今回が五回目なのだが、近場ということもあり、また気が付いたら訪れていることだろう。
別れ際、女将さんとM氏共々昨晩の?かに?の話題で盛り上がった後、今後も変わることなく頑張っていただくようお願いし、城山温泉を後にした。



今年の10月の終り頃、この記事を載せた「弘法倶楽部・3号」をお渡しするため、女将さんに宿泊予約の電話をしたところ、ショッキングな返事か返ってきてしまいました。
「私共城山温泉は今年の10月いっぱいをもって廃業することになってしまいました…」


建物の老朽化に伴い、観光旅館としての安全性に問題が出てきてしまった。ただ責任上それをうやむやにして営業することはできない…。また、跡継ぎの問題等を考えても、総建て替えするのは不可能。
という覆しようのない理由だそうです。


先日10月29日「弘法倶楽部・3号」をお渡しするために訪れたのが、最後の訪問になりました。

記事を読んだ女将さんにはたいへん感激していただいたのが、自分にとってもささやかな喜びとなっております。


女将さん近影
今さら「残念だ」とか「なぜ?」とか言うつもりはありませんが、寂しさは隠しようがありません。
ただ、この場をかりまして言いたいと思います。


今まで、素晴らしいお湯と、至高の時間(とき)をありがとう!  

2005 11/21 16:33:51 | none | Comment(0)
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今回はこの日の宿泊地、一軒宿の城山温泉です。
実はずっと以前から「一度ここについて書きたいな」と密かに思っていたので、弘法倶楽部3号にこの文章を書いていた時は結構充実しておりました。





うどんで重くなったお腹を引きずり、再び都留市の中心部にもどる。都留市駅から城山温泉までの間は都内の私鉄沿線の駅間くらいしかない。
市街地を抜け、線路と平行して流れている小さな川に沿った道をふわふわした気分で歩く。路肩には掻き分けた雪が残っているが、空は冬晴れで幾分ぽかぽかしている。
川は道と住宅のあいだを流れており、大きな溝という感じだが、上の方からの雪解け水が多いのだろう、結構澄んできれいな流れだ。
   

冬の田舎町の空気にほのぼのしていると間もなく谷村町の駅前に着いた。都留市駅を一回り小さくしたような駅ロータリーがあり、周りは飲食店が三〜四軒と自転車屋が一軒。都留市の南のはずれの町という感じ。

谷村町駅
ここから城山温泉までは徒歩約六分。実はこの六分の間で驚くほどロケーションが変わるのだ。駅の表側はロータリーから始まる町だが、裏側は桂川という渓流が流れており、それが深い谷を造っている。
温泉へはまず踏み切りで線路を跨ぎ、かなり急な下り坂を渓流に向かって下りて行く。あっという間に人家が途絶え、一歩一歩の度に周りの風景が変わっていくのが分かる。徐々に渓流の音が耳に大きくなってきた頃に城山温泉のえんじ色の屋根が見えてくる。

最初に訪れた時はこの変化に多少驚いたが、もう五回目ともなるとむしろ “変化を楽しむ”という感じだ。道は下り切った先が桂川に架かるつり橋となり、一軒宿「城山温泉」は橋の手前、桂川の畔にひっそりと建っている。

道を挟んで宿の反対側に小さな広場のような所があり、私は必ず宿に入る前にここで一服してしまう。なにより桂川に架かるこのつり橋がよい点景になっており、橋の上から眺める渓流も素晴らしい。広場の脇の斜面に踏み固められた小道を降りると、すぐ河原にたどり着ける。
冬の雪解け水の混じった水はかなり冷たいが、春から秋にかけての渓流解禁期間は、良型のヤマメやイワナ、ニジマスが狙えることで、多くの渓流マンで賑わう。
 
城山温泉正面           城山温泉の犬
ただそういった時期になると、必ずこの渓流にもいたる所にゴミが投棄されているのが目に付くようになってしまう。一部の心得られない者の仕業と言ってしまえばそれまでだが、これは釣りに限らず山登り・秘湯めぐり・キャンプ等いろいろな分野で共通している。
何かがブームになり、それにより地域や分野が活性化するのは素晴らしいことだが、そうなると必ずと言ってよいほどヘンなヤカラがブームに乗じて混じってくる。一時期話題になってしまった登山ブームから発生したゴミ投棄問題や、尾瀬の水質汚染によるおばけ水芭蕉問題など、あまりいやな言い方はしたくはないが、やはり困ったものだ。
まあ様々な思いや憤りも交錯してしまうがきりがない。今の私は只々この美しい渓流が年間を通じてこの景観のままでいて欲しいと思うだけである。
野口冬人が城山温泉について書いた文章での冒頭はこうである。
「桂川に面した城山温泉は、小さいが庶民的で気の置けない「知る人ぞ知る」湯宿である。出張に利用する人、行楽帰りによる人、温泉だけを楽しみにくる人、釣果を誇って一浴して帰る人…さまざまな人がこの宿を訪れている。」
なかなか言い得て妙である。
創業が昭和三十五年。先代がボーリングして単純温泉、十五度の鉱泉を得たのを機会に開いた鉱泉宿で、建物は内装も含めて往時のまま。はっきり言ってかなり古びている。実際、一番最初訪れた時も正直「ここ大丈夫かなァ」と思ってしまったのを憶えている。ただ後で聞くと常連さんから、「昔のままでいて欲しい」という要望が多いことが分かってきた。そしていわずもがな、気が付いたら私もすっかりその一人になってしまっていたようなのである。
玄関に入り、客が釣った魚の魚拓などがかけられているフロントから、「ごめんくださーい」を一発。今日は一発でお馴染みの女将さんが出てきてくれた。「まあまあ、いらっしゃい!」M氏も一回訪れているので、ちゃんと覚えてくれている感じである。

宿泊棟を結ぶ廊下
宿はこの女将さん夫婦を含めた家族経営で、家族揃って世話好きで心温かい人物。特に女将さんは、自分の宿に対する考え方が謙虚でかつしっかりしていて、この女将さんを慕って常連さんになっている人も多いそうだ。
玄関を含む母屋が木造二階建てで、二階は宴会も出来る広間になっている。母屋を縦に走っている風情ある廊下を歩いていくと、母屋を出た後ろに、八畳間と六畳間の客室が十室。それが平屋と二階建ての建物、計七棟に分かれていて、石畳と屋根の付いた廊下で結ばれている。
それぞれの部屋に玄関がついているから、離れ形式といってもいいと言える。離れと言うとなんだかお偉方が泊まる高級宿のように聞こえるかもしれないが、自分としては(もちろんいい意味で!)昭和三十年代の長屋という風に見えてしまう。自分がよく泊まる宿の中でも、こんなカンジは他にはない。これらの要素一つ一つに自分は惹きつけられているのだろうと思う。

部屋からの眺め
あやめ、ぼたん、もみじなどの名称がそれぞれの部屋に付けられていて、今回もお決まりの「ききょう」に通される。部屋がまた素晴らしい。当然非常に古いが、窓を開けると小さな庭を挟んで桂川の河原はすぐそこである。縁側から庭に出て、そこで即釣りもできそうだ。
ぼんやり外を眺め、なーんにもしない贅沢な時間を楽しむ。なんにもしてないようで、実はこんな時間に様々なイマジンが湧いてきたりするから不思議だ。脳みそがリラックスしているのが自分でもよく分かる。とにかく至福の時間であることは間違いない。

城山温泉浴室
到着が割りに早かったこともあり、しばらくM氏共々部屋でなんにもせずのんびり過ごし、そろそろ風呂へ。浴室は一旦母屋へ戻り、廊下の途中にある。風呂は岩をふんだんに使ったひょうたん型の浴槽がある。冷泉を加熱しており、ひょうたんの半分は高温、もう半分は低温と二種類の温度に分かれている。大きくとった窓の外は桂川の流れ。なかなかの展望風呂だ。単純泉でゆっくり入っていると身体の芯まで温まる。湯治温泉としての評判もよく、リウマチス、神経痛、腰痛、胃腸病などに効果があるという。まあ今回の旅のプロローグの湯ということで、存分に堪能する。大満足の湯であった。


次回も引き続き城山温泉についてです。
そして、このブログを立上げる半月ほど前、この好ましい温泉宿に悲しい事態が起こってしまいました。そのことにも少し触れる予定です。


2005 11/18 14:44:00 | none | Comment(0)
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M氏の調べた都留市のうどん屋に突撃します。東京に住んでいる私はいわゆる「武蔵野うどん」が大好きなので、比較するのも楽しみです。


車窓の遥か先に雪化粧した富士山がチラチラ見えるようになってくると間もなく都留市駅に到着。所要時間十五分。都留市は四方を山に囲まれているものの、大学あり美術館あり寺社仏閣ありで結構文化都市の雰囲気がある。

富士急沿線の街並み
富士急行沿線の中にあってはかなり街の規模は大きい方だろう。時計を見ると十時ちょっと過ぎ。まだ多少朝の空気が残っている。
しばらくぶらぶら歩いていると、突然M氏が「腹が減った」と訴え始めた。何!高尾駅のホームで駅そば喰ってまだ大して経ってないのに!?
通常会社勤めの彼は仕事日の昼食などはあまり食欲がなく、本人曰く「なにを喰ってもあまりうまくない」そうだが、一転旅に出ると異常に腹の減るのが早い。さらに聞くとどうやら転地効果の影響で、胃腸の調子の活性化を促し空腹感を早めるらしいのだ。
非常に分かり易い理屈だが、まったく根っからの旅好きだ。
自分の考えていた予定よりやや早いがまあいいか、私にも多少その気があるのは事実だ。
ということでさっそく例のうどん屋を探すことにする。M氏はあざとくインターネットかなにかで調べたらしい。手持ちの案内地図がえらくいい加減なもので、かなりうろうろする。街自体はいろいろじっくり散策したくなる感じだが、今はうどんへの欲求がすべてを陵駕している。
やがてやっと「あった、ありました!」省みると中心部からはやや離れた、郊外に位置していた。

都留うどん屋『わかふじ』
『わかふじ』という屋号だが、のれんには『手打ちうどん』としか書かれていない。三階建てのビルの一階にあった。時間的にもまだ早いかなあ、とやや危惧するが『営業中』にホッとする。
のれんをくぐると、はたしてお客さんは一人もいない。まあ時間が時間だから当然か。ややシラけた表情のおばさん(おねえさん?)が一人でがんばっている。店内は田舎の食堂という感じ。
お互いに「まずはビールか」とばかりにメニューをみると、うどん以外にはつまみ類も幾つかあったが、煮たまごとか肉とか、要するにうどんの具が流用されているようだ。ただどれも異常に安い。さっそくおばさんにビールとつまみを三品ほど頼むと、笑顔で応じてくれた。実は明るい人柄なのかもしれない。
二人で気分よく飲んでいると、でっぷりした体格の男が入店してきた。あまり気にも留めずに飲んでいると、男が注文したうどんがきたのを見て驚いた。ちゃんぽん皿のごとく皿にうどんが高さ二十センチくらいも盛ってある。
更にすごかったのは、男はそれをものの五分足らずで全部喰ってしまったのだ。すぐ近くに座っていたということもあるが、非常に臨場感があり、二人で目を丸くしてしまった。言ってみればそれだけ「うまい」という憶測もできるので、否が応でも我々のうどんに対する期待は高まったようだ。
しばらくして、ぼちぼちお客さんが入ってきた。見た感じは、どう見ても?近所の〇〇さん?といった風情だ。どうやら地元の人たちの看板店的な感じ。
ビール・つまみが一通り落ち着いたので、満を持してうどんを注文する。私が東京の地元でよく食す「肉汁つけうどん」(いわゆる武蔵野うどんの代名詞)と同じメニューがあったので、それでいってみた。M氏も右へならえ。

肉汁つけうどん
うどんが運ばれてきたのは約三分後。飾り気のないざるにドバッと盛られている感じだが薄茶色のうどんが地粉によるものであることを物語る。早速一口食べた瞬間「をっ! うまいっ!」 すごいコシで、ムギュッと噛み締めると歯が押し返される感じ。なじみの深い武蔵野うどんに似ているがなお無骨でコシがつよい。つけ汁は濃厚ないりこの出汁に、先ほどつまみで頼んだもうに薄くスライスした豚肉が入っている。M氏共々替え玉を頼むまでさして時間はかからなかった。
武蔵野うどんもそうだが、うどんの文化が根付くところは必ずその土地や気候の条件(大概はマイナス的な)が共通している。一番大きな共通項は米作に適さないという点である。
例えば、その武蔵野うどんにしても、周辺の土地が関東ローム層であるため保水が悪く、水田には向かない地層だったために、アワ、ヒエ、小麦といった穀類の栽培に活路を見出したことから始まっている。都留うどんにしても同様で、穀物と共に歩んだ食文化が、この無骨なうどんとして今日に息づいているのだと言えるであろう。
しかし非常に安くて美味かった。これから城山温泉に行く時は、こことセットで考えようと思う。


自分が四国出身なので、こっちに出てくるまではいわゆる「さぬきうどん」しか知りませんでした。うどん文化も全国各地によって様々で、美味しかったと同時に大変勉強にもなりました。
次回は富士急沿線の、知る人ぞ知る「隠れ家的温泉宿」に泊まります。


2005 11/17 15:50:01 | none | Comment(0)
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山梨編第2回は高尾駅から富士急線までです。弘法大師の秘説・伝説に迫る前に富士急線沿線の、ある一軒宿の温泉に寄り道いたします。
 

現在、中央線高尾駅七時五十分。冬で空気が澄んでいることもあり、ホーム上でも既に山の空気を感じる。何度来ても自分にとっては至福の時である。
広大な関東平野もここをもって終わりとし、代わって生まれたての小兵の山達は次第に西方に勢力を広げてゆく。そして上方下方の同じような谷口集落から発生した兄弟達と交わり絡み合いながらやがて奥秩父山塊という巨大な山群を形成するのだ。
谷口集落というのはこう言った山と平野の切れ目に位置する場所であり、大概は山産業(林業や農業の一部など)と近代産業の中継をなす“まち”となる。
同じ東京都では武蔵五日市や青梅がそうで、埼玉県だと飯能や小川町と言うことになる。ここ高尾ももちろんその一つで、たしかに改めてグルリと見渡せば、西側にはすぐに山、東側にはビルやベットタウンが広がっている。その意味ではまさに『脱都会』の出発点といったところだろう。

高尾駅の天狗像
三泊四日の行程もあるので(ここで油断してはいけなかったのだが‥)一泊目は弘法大師とは特に関わりの無いところに寄り道することにした。(編集長の顔が怖い)二泊目・三泊目のウォーミングアップとでも言って許してもらおう。
ただ今日行くところは個人的にちょっとこだわりのある温泉宿なのだ。城山温泉という一軒宿。
初めて訪れたのが三年前。もちろん(?)温泉ガイドブック等では殆ど採りあげられていない口コミのみで営業しているような宿で、私は紀行作家の野口冬人が自著の本で紹介しているのが目に留まり、興味を抱いたのが一番最初の発見である。それが初訪して以来すっかり気に入ってしまい今回で既に五回目を数えてしまった。今回は去年の十月以来の来訪となる。
実は今回のこの寄り道には連れがいる。私の友人の一人にM氏という男がいて、まあいわゆる旅仲間である。もうかれこれ十五年の付き合いになるが、ともに旅好き山好き温泉好きということもあり、以来様々な山やいで湯探訪の道連れとなった。
単独で自分の気に入った所を行き当たりばったりで旅するのが好きな男で、私もどちらかと言うと単独放浪が好きな方なので、双方の嗜好が一致した時に同行の友となるようだ。たしか一週間程前に彼と一杯ひっかけた時に今回の弘法倶楽部の企画の話が肴になってしまった。
城山も下部も一度彼と同行したことがあり、相当興味を示したようだったが、双方共さすがに全行程というわけにはいかず「城山は寄り道だから来てもイイぜ」ということになった次第。
甲府行き普通電車は八時十五分発。ウイークデイにもかかわらず、車内は沿線の冬枯れの山を目指すハイカーでいっぱい。

沿線は千メートル前後の低山が多いので、夏場よりむしろ空気の澄んだこの時期のほうがかえってシーズンといえる。晴れていれば、富士山はもちろん、遠く南アルプスまで望むことができる。逆に夏場はガスって展望はきかず、また藪コギや虫の襲撃と仲良くすることになる。まあそれもまたヨシだが…。
高尾から中継地の大月までは約三十分。高尾を出た普通電車はすぐに山間部に突入しトンネルの連続となる。しばらくして相模湖を過ぎると、中央線は緩やかな山肌を河に沿って走る。いつも見慣れた光景だがやはりイイもんだ。

大月駅周辺
M氏もこのところなかなか旅の機会に恵まれずいささか禁断症状気味だったようで一気の開放感を味わっている様子。八ヶ岳山麓の奥蓼科温泉郷、福島の湯岐、秋田の泥湯などかつて訪ねたいで湯の話で盛り上がる。なんだか一週間前の飲み屋での話しの繰り返しのようでもあるが、環境が変わるとまた楽し、である。
登山家の山村正光が『中央線各駅登山』というような本を著しているくらいだから、大月の手前の猿橋を過ぎた頃には、半分くらいのハイカー客は、各々の目的の山を目指して降りていった。大月着は八時四十五分。

大月駅
大月駅はログハウス風の趣のある駅舎で山の中のターミナル駅の風格充分。駅の裏側には岩殿山がデンと鎮座している。岩殿山はかつて戦国武将小山田氏の居城であり要害の地として馳せ、今でもその遺構がかなり残っている。
標高は五百メートル程度の低山であるが、適度にスリリングな岩場があり展望もすばらしいので、富士百景にも選ばれハイカーにも人気がある。
私も登ったことはあるが、どちらかと言うと、こんもりした御椀を伏せたような山容がなにか町を見守っているようでもっぱら下から眺めるほうが好きだ。

富士急行
ここからは富士急行に乗り換え都留市方面に向かう。本日の目的地、城山温泉は都留市駅の一つ先の谷村町駅が最寄だが、時間も早く散策するにはいい距離なのでとりあえず都留市駅で降りることにする。M氏曰く「都留に行きたいうどん屋がある」そうだ。B級グルメを自称する彼に期待し、結果こっぴどく裏切られたケースが過去幾度となくあったので、あくまでも冷静について行こうと思う。
大月駅を出た富士急行線普通電車は、富士山を目指してぐんぐん高度を上げていく。大月が標高三百五十八メートルに対して終点の河口湖は標高八百五十七メートル。
約二十六キロの間で五百メートルも登ることになり、かなりの勾配で、JR最高地点を走ることで知られる小海線にも勝るとも劣らない山岳鉄道といえる。車窓に目を移すと田んぼや畑は少しずつ段をつくり、道はわずかに右肩上がりになっているのが「登ってるんだぜ」と主張しているかのようだ。


次回は都留市内にある「つるうどん」の店を訪ねます。
なかなかよい店でした。


2005 11/16 17:37:38 | none | Comment(0)
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今回より山梨編です。これは今年の夏発刊された「弘法倶楽部・3号」に掲載されましたが、残念ながら途中(前編)までになってしまっておりました。そしてこの場をかりて未掲載部分(後編)も発表できればと考えております。

けっこう長編ですので、今回はこの旅の「概要」を記します。



山梨県の温泉は名のある所だと武田信玄、いわゆる?信玄のかくし湯?と呼ばれる所が殆どで、弘法大師ゆかりの温泉は殆ど聞かない。というより私は?ない?と思っていた。
西日本だけではなく甲信越及び東日本に於いても、前号での茨城をはじめ各県ごとに点在しているが、山梨の湯は信玄のイメージが強過ぎるせいか弘法大師の存在をまったく見出せなかった。
(私の勉強不足に他ならないが…)
前回の山陰とは違い山梨は東京からも割りに近く、私の温泉行脚の中でもいわばホームグラウンドのようなエリアである。

実際にこの度の企画に於いても初入湯になるのは湯村温泉のみで、他の二つはお得意さんのごとく訪れている。ただ今回はあくまで弘法大師という視点が入るので、今まで気が付かず素通りしてしまっていた発見に出会える期待もあり、前回より芽生えた探求意欲を更に高めてくれる旅になりそうである。

山梨県は
「山はあっても山なし(梨)県、海はなくとも貝(甲斐)の国」
などと言われるほど四方を山に囲まれた文字通り山国である。一応中部地方に加えられているものの、一部は東京都と隣接しており都心部からも比較的アプローチし易い。
また近い割りに南アルプス、奥秩父山塊、八ヶ岳など二千〜三千メートル級の山々やその周辺には原始的な自然や文化、また湯治温泉が残っており、気軽に「脱都会」ができるとあって、東京からの日帰り観光旅行には最適な場所といえる。

私も都内中央線沿線に住んでいるということもあり、朝起きて晴天→気が付いたら車窓の山旅、なんてなこともしょっちゅうで、一時は高尾から甲斐大和くらいまでに点在する名も無い鉱泉を虱潰しに訪れたり、沿線付近を見下ろしている千メートル前後の山々にかたっぱしから登ったこともあった。今でも高尾発の甲府行き普通電車に乗ると「あ〜、また来ちゃった」と言うことになってしまう。
東京都心部を抜け八王子から先はいきなり山が迫ってくる。ある意味、東京駅を起点とすれば最短で『山岳』に到達できるラインといえるのではなかろうか。

この度は、かように比較的近場であるにもかかわらず、三泊四日という行程を得た。前回の強行軍とは大違い。信玄の隠し湯下部温泉の歴史に埋もれた弘法大師の秘説、弘法大師ゆかりの湯村温泉とその歴史と共に始まった厄除け地蔵尊祭り。特に下部に関しては一般的な弘法伝説とは一線を画し、まさに秘説の領域に踏み込む可能性もある。その意味で今回の旅は、行程を生かして自分にとっての“未知の山梨”を見る絶好の機会だと思う。
そして結果的にこの号ではその前編として、下部から湯村の厄除地蔵尊祭りの前日までを追うこととなってしまった。
本来ならばこの号でこの行程は完結するはずだったのだが、途中経過の中で予定外の行動を要するケースも出てしまったのだ。
それはこの駄文を粘り強く読んで頂いた方のみぞに知って頂けると思う。

2005 11/14 15:51:44 | none | Comment(0)
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2004年、冬、山陰いで湯随歩の旅も今回が最終です。そしてやっと訪問地、関金温泉に弘法大師伝説が出てまいります。


関金温泉鳥飼旅館の若女将
翌日、湯村に別れを告げ再びバスの人となる。今度来るのはいつになるだろう。ただ、もうその度に懸念するのはやめようと思う。
考えてみれば、湯村温泉は、慈覚大師が最初に発見して以来、千百五十年の歴史がある。四年間は確かになめてはいけないが、やはりほんのわずかの間であろうし、これからも小さな変化を孕みつつも、悠々と生きていくに違いない。
浜坂から鳥取行きに乗る。今日はいよいよ最終目的地、関金温泉へ。
関金温泉は三朝温泉と共に、山陰の名湯と言われている。三朝は入湯済みだが、関金はまだ果たせていない。共に歴史が古く、共に泉質がラジウム泉という点も共通している。いつかは行かねばならぬと思いつつ、冒頭書いたように、なかなか機会が見出せなかった。

実はこの度の「弘法倶楽部」の企画のきっかけになったのがこの関金温泉なのである。私はここが弘法大師のゆかりの温泉ということを知らなかった。
弘法大師ゆかりの温泉というと名のあるところでは、伊豆の修善寺、新潟の出湯、和歌山の龍神、熊本の杖立などがあり、あまり知られていないところだと、姉妹ブログ「弘法大師伝説をたずねて」でも取り上げられている相川鉱泉やぶんぶくの湯などがひっそりと息づいている。
その他調べれば調べる程数え切れないくらいあり、関金温泉はそのなかにあっては知られている方な筈だが、私の認識からは抜け落ちてしまっていた。温泉の存在は認知していても、そのゆかりを知らなかったとは我を恥じることこの上ないが、そういう自分にとってもよい機会であり、存分に関金温泉を吸収したいと思う。

餘部前後では、トンネルと断崖絶壁を交互に走っていた山陰本線も、鳥取で「鳥取ライナー」に乗り換え浜村の辺になると、平野部が多くなるせいか車窓からの景色も随分印象が変わってくる。

断崖絶壁の車窓からは、荒々しくもかつ荒涼とした姿をみせていた日本海も、ここでは落ち着き穏やかな表情に変わっている。私が幼い頃から慣れ親しんだ太平洋とも、また違った表情の豊かさを感じた。

関金へは、倉吉からバスで約三十五分。倉吉からのバスは三朝行きと関金方面行きの各々が出ている。六年前倉吉に降り立った時は三朝行きに乗った。

倉吉の駅前は割りと新しくこざっぱりとしており、なんだか東京周辺の新興住宅都市の駅ターミナルみたいな感じ。おそらく市の中心部は駅からやや離れたところにあるのだろう。駅自体はやはり三朝と関金の玄関口という印象だ。
小鴨川に沿ってバスに揺られ、蒜山三山が徐々に迫ってくると間もなく関金温泉に着いた。

関金温泉バス停
国道沿いにバス停がぽつりとあり、どこが温泉街か?一瞬戸惑う。多少うろうろするが、標識に従い車がやっとすれ違えるくらいの路地に入るとそこが温泉街の入り口。いわゆる中心部というのもがありそうな雰囲気ではない。

バス停付近
宿は私が泊まる鳥飼旅館を含め七件のみ。昨日の湯村と比べても規模は小さく、年末にもかかわらず、人はまばらである。バスから降りたのも、私以外はお年寄りの夫婦が二組とあとは地元風のおばさんが二名ほど。予想はしていたが温泉地的な要素よりも、より湯治場としての雰囲気を強く感じとった。例によってフラフラ散策を開始する。

 関金温泉は千三百年の歴史があるが、最初に発見したのは行基である。弘法大師ゆかりの温泉というと、弘法大師によってその歴史が始まったところが大部分を占めると思うが、ここは弘法大師により“再興”されたということになっている。ただ温泉の歴史そのものは行基から始まっているものの、本当の意味で関金の地から湧いた湯が“関金温泉”になったのは弘法大師からではないか?という憶測も出てくる。その辺の基話(モトバナシ)も聞いてみたいものだと思った。

だらだら登る細い道の両側に民家や、みやげ物屋とも日用雑貨屋とも見つかぬような店が肩を寄せ合いたまに旅館が混じっている。やはり観光温泉地というには生活的だ。関東周辺で例えると群馬県の湯宿温泉に近い雰囲気。言ってみれば本当の湯治というのは半分生活なわけで、これが本来の湯治場のあるべき姿だと感じる。

温泉街もかなり奥まったところに共同浴場「関乃湯」がある。湯村温泉の薬師湯は鉄筋の温泉会館であったが、ここの外観は民家風の建物で玄関の上に「関の湯」の看板がかかっており、まさに“湯小屋”という雰囲気。
明治三十四年以来の古くからの外湯で、自分もある程度の予備知識は持っていたが予想したとおりではあった。玄関戸はガタピシと開けるようなイメージがあったがサッシに変わっている。中に入るともっと予想と違った。
木の香りも新しいこじんまりした待合。番台にはニコニコ顔のおばさんが座っている。無人の湯小屋然とした想像が覆されてびっくり。聞くと、今年の九月に改装されたらしく、それ以前は私が予想したような感じがずっと続いていたらしい。おばさんにとっては本当に念願だったようで、実に嬉しそうに話してくれた。

関の湯番台
入浴料二百円也を払いソロリと入ると男女別に仕切られた清潔な脱衣場の奥に浴室がある。
浴室はこじんまりとしていて三〜四人で一杯になる檜作りの湯船がある。ここはさすがに自分本来のイメージ。洗い場はない。無人。存分に湯を浴びた後ゆっくり湯船に身体を沈める。ジャスト適温。四十六度の源泉は無色透明、無味無臭。温度調整され懇懇と溢れ出している。もったいなきこと限りなし。初入湯の喜びと湯の快適さに浸りしばし瞑想。
泉質は三朝と同じ単純放射能泉。ラジウム自体には、匂いや色の要素はなく、入った感じは普通の単純泉のようだ。ただラジウムは湧出後ラドンとなって気化するので、浴室を密閉することにより吸入効果が得られるそうだ。特に肝臓病や痛風によいとのこと。

関の湯浴室
そういえば関東周辺のラジウム温泉としては数少なくかつ名高い山梨の増富ラジウム温泉には、いわゆる露天風呂というものが殆どなかったような気がする。
温泉の恩恵だと思われるが、この三朝、関金周辺は平均寿命が全国でも屈指だという。今もなおこのラジウムの恵みは、内外の湯治者を支えているようだ。
調べてみるとこの周辺の温泉は三朝、関金以外でもラジウム成分が多少なりとも含まれているところが殆どである。ちなみにこの東伯郡の東南、中国山地の中程に「人形峠」というかつてのウランの産地として有名なところがある。おそらくその影響を受けた地下鉱脈がこの一帯に広がっているのであろう。ただ人形峠の反対側にある、岡山県側の奥津温泉をはじめとした美作三湯にはいずれもラジウム成分は殆どと言ってよい程ない。影響を受けた鉱脈は山陰側だけに展開しているということだろうか?
そんなことを考えているうちに、もう四十分も浸っていた。結局最後まで誰もこなかったが、初入湯の成果は充分過ぎるものであった。

湯上りにまた番台のおばさんから話が聞けた。ここは当初湯治目的で三朝に行っていた人が「三朝の湯は熱すぎる。」とのことで移ってくるケースが結構多いらしい。
なるほど三朝はたしか源泉五十六度くらいで自分も相当熱かったと記憶する。三朝の湯も効能は確かなはずだが、これはまた別問題であろう。
ただ、せっかく移ってくる人がいてもその中心たる「関の湯」があまりにもボロでは・・、という苛立ちとも悔しさとも言える思いがあったようだ。自分などはいたずらに改装や建替えで変っていくより、古くともそのまま歴史を証明していて欲しいとついつい思ってしまったりするが、実際に湯を守る当事者にとってはもっと現実的に立派であって欲しいと願うものなのだろう。
実際肝心の湯がしっかりしているのであれば、これは当たり前のことだなと改めて思う。おばさんの笑顔に同調し自分も多いに喜び、楽しい時間を過ごすことができた。
どうも「関の湯」には長く居過ぎた。冬の陽は短くアッという間に暮れてきた。他にもいろいろ観たいところもあるが、ともかく本日の宿鳥飼旅館に向かう。なにかと課題を残してしまいがちな旅だが、これもいつもの自分の旅のパターンだと無理矢理自分を納得させる。内心自分に甘いと分かっていながら・・・。

鳥飼旅館
鳥飼旅館は、二階建てのこじんまりした外観。玄関に入り「ゴメンクダサーイ」、・・・。二回目、
やがてニコニコ笑顔の奥方らしき人が出てきた。普段着姿の色白美人。ほっとすると同時になんとも家庭的な宿の雰囲気が伝わってきて嬉しくなった。
気さくな奥方からすぐに出て来れなかったことを詫びられ逆に恐縮するが、ちょこちょこ話掛けられながら、こじんまりした和室に通された。

昨日の寿荘の広―い部屋とは違い湯治宿の部屋の雰囲気。かえってこういう部屋のほうが落ち着く。例によってばったり大の字になろうとしたら、奥方がお茶とお菓子を持って入ってきた。
先ほどの関の湯では番台のおばさんの話の聞き役に回って聞けなかったし、思い切って「弘法倶楽部」の紀行取材のことを打ち明けたうえで聞いてみようと思った。弘法大師伝説についてである。
温泉街の端っこの方に「えぐ芋広場」なるところがあり、そこで「えぐ芋の話」というのを見たのであるいはそれかなとも思われるが、はたして・・・。
奥方は笑いながら快く丁寧に話してくれた。やはりその「えぐ芋伝説」である。

えぐ芋広場


今から千二百五十年ほど前のこと、一人の老婆が関金宿(湯関村)の湯谷川で芋を洗っていると、みすぼらしい身なりをした一人の旅の僧がとおりかかった。旅に疲れたとみえるこの僧は、たいそう腹をすかせていたのか、「もし、お婆さん。その芋を少しわけてくださらんか」と、声をかけた。僧のあまりのみすぼらしさにお婆さんは無反応。
「のう、お婆さんご無心じゃがの。腹がすいて・・・」問いかけるのを、押さえつけるように、「この芋はなあ、みかけはうまそうなけど『えぐ芋』といって、初めての人には口がいがむほどえぐうて、とても坊さんの口にあうものでは・・・。」よくばりな婆さんは、ていよく断った。「ほう、えぐ芋・・口がいがむのでは助からぬ、いやおじゃまさま。」

すげなくことわられたが、旅の僧はおだやかな笑みを残し、静かにその場を立ち去った。
その笑みが、まるで相手の心を見抜いているようで、婆さんはいたくカンにさわった。坊さんのうしろ姿にするどい口調で、「何がおかしい、乞食坊主めっ。こんなうまい芋を、お前なんかに食わせてたまるか!」婆さんは、坊さんへのつらあてのように、芋を思い切りかじった・・。
ところがどうしたことか、まさに舌もまがるほどエグい!婆さんは顔をしかめ、そんなはずはないと、ほかの芋を口にしてみるが、次の芋も、次の芋も・・・・
婆さんは気が違ったように残った芋を全部川に投げ捨ててしまった。

逞しく自生する「えぐ芋」
旅の僧はその夜、村の宿坊に泊まった。翌日、谷川で顔を洗っていると、冷たい流れの中に湯けむりのが立ち、ほのかなぬくもりがあることを感じた。僧が霊感により、源泉の位置を示し 錫杖を谷川に投げ込んだその場所を村人が掘ってみると、温泉がこんこんと湧き出した。
それは、それこそ女人が入浴すれば、肌を覆わなければならないような、無色透明のきれいなお湯であった。旅の僧は、宿坊の住職の請いをうけ、この地を訪れたしるしに錫杖を境内に立て、次の巡札へと旅を続けたとさ・・・。


語り部口調の奥方の話を要約するとこんなところ。旅の僧はいうまでもなく諸国巡礼中の弘法大師であろう。僧が残した錫杖は、やがて芽をふいて巨大なはねりの木となったが、昭和の初めに切り倒され、現在では切り株も残っていないという。
婆さんが投げ捨てた芋は、今でも谷川に自生しており「関のえぐ芋」として知られるに至ったそうで、例の「えぐ芋広場」周辺でもそれらしきものが確認できた。  
なんだか伝説というより“日本むかし話”といった感じだ。弘法大師ゆかりの温泉には、様々な伝説があるが、こんな素朴な“でんせつ”があってもいいと思う。
ただ気になったのは、この話だけを聞くと関金温泉の発見者はやはり弘法大師だったようにも聞こえる。仮に既に湯は存在していたとしても、実際はあってなきが如しだったのかもしれぬ。そう考えると、やはり関金温泉の本当の意味での歴史の出発点は弘法大師だったのかもしれない。

関の地蔵尊
後で宿からやや奥まった所にある「関の地蔵尊」の住職から聞いたりしたが、ここの湯の発祥はやはり行基であるとか、実は鶴が見つけたとか、様々な説があるらしい。住職は弘法大師であって欲しい口ぶりだったが、別に弘法大師に肩入れするワケではないが、私もやはりこの説を信じたくなる。

関の地蔵尊の弘法大師像
しかし話の中で大師を欺いた婆さんはその後どうなったのだろう。改心して関金発展に努めたのか?はたまた相変わらずのケチな婆さんのままで一生を終えたのだろうか?

鳥飼旅館浴室
さて、今回の旅の総仕上げとなる湯に浸りに行く。実はこの宿を選んだのは、ここが江戸時代からの湯元であり更に遡れば、大師の導いた湯を自家源泉として持っていることになるからである。それは奥方の楽しそうで、誇らしげな口調からもうかがえた。
男女別の、五人くらい入れるタイル貼りの浴槽。竹の筒からとうとうと注ぎ、注いだ分常に溢れている。肝心なものは本物中の本物である。湯にゆっくり身を沈め、改めて御大師様の恩恵を感じる。

鳥飼旅館夕食
私は正直いって、弘法大師に対してさほど多くの知識もないし、ヘタなことを書くと誌の読者に怒られるような不安もあった。しかしこうして、大師のいで湯との人間的な係わり合いを実感すると新たな探究意欲が湧いてくるような気がする。ただそれを導いてくれるのはやはりこの湯であることは言うまでもない。

翌日、天気は快晴。今回の行程もこれですべて終了。宿を出る前に奥方と少し話し込む。宿としては殆ど宣伝活動云々はやってないそうだ。奥方曰く
「宣伝し、やたらアレガイイデス、コレガイイデス、といっても仕方がないし、むしろそこから出るいろんな要望に答えられなかったら悲惨ですし・・。殆どは口コミで数少ない『いい』と言って頂いた方のリピートです。
 結局うちのとりえはお湯だけです。建物もご覧の通りボロですし。」

奥方の話を聞いて改めて思う。

いたずらに規模拡大し、踊り、いつしか湯が取り残され、今頃になってそのツケを味わっている宿がボロボロ出ている状況らしい。
が、決して豪華でなくむしろ質素であっても、本来本質であるべき湯を尊重し、そしてあくまで来訪者に対し誠実な姿勢がこの宿には感じられた。
関東周辺の宿に置換えると、板室温泉の江戸屋旅館、柴原鉱泉の菅沼館などに通じていると言っていいと思う。これらの宿はいずれも初来訪時の感銘が忘れられないが、ここ鳥飼旅館もまた同じである。


空は快晴だが、夜降った雪のせいで周りは雪化粧。帰り際に奥方から一言。
「弘法倶楽部、できたら是非一冊送ってください。今まで雑誌に取り上げられたりすることもなかったので、大事にします。」
喜んで承る。なにか力に・・などと思うわけではないが、むしろ私の方から置いて欲しいと思う気持ちのほうが強い。きっと編集長も賛成してくれるだろう。


改めて顧みると、餘部にしても湯村にしても訪れた場所ごとに私なりに目的を持って訪れたつもりだが、それは理屈ではなく五感で感じるものとしてであった。いつもどおり所々課題を残しながらの旅ではあったが、それがまた次につながり今後もまた続いていくと思う。
 今回、この機会を与えてくれた「弘法倶楽部」の編集長に深く感謝しながら、私は奥方が手を振る関金を後にした。



以上で2004年山陰紀行は終了です。
この文章を載せた「弘法倶楽部・2号」が出た後、鳥飼旅館よりお礼のお手紙をいただきました。
その時の感激は今でも忘れられません。

次回からは「弘法倶楽部・3号」に掲載されました「山梨周遊紀行」の予定です。
 

 




 

2005 11/10 19:25:13 | none | Comment(0)
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今回は山陰の入り口、湯村温泉に向かいます。
ちなみに「弘法大師伝説をたずねて」から来られた方には申し訳ございませんが、弘法大師伝説は次の関金まで出てきません、あしからず。





予想はしていたが、餘部ホームへの登りはけっこうキツかった。しばらく山登りもしてなかったし、かなり体力も落ちているかもしれない。「土地のお年寄りもみんなこれを上がったり降りたりしてるのか。」と思うと、なにか底力の違いを感じる。
息がやっと整ってきた頃に、浜坂行きが、ホームに入ってきた。時計を見ると三時半過ぎ。湯村には四時半頃着予定。冬は暗くなるのが早いので、できればもう少し早く着けるのが理想だがまあしかたがない。

ちなみにこの餘部にも温泉があり、余部温泉・余部荘と称している。もちろん未入湯であり今回は割愛となるが、城崎と共に次回の課題とする。

浜坂にはアッという間についた。相変わらずの駅前ロータリー。ここから湯村温泉へのバスが出るのだ。浜坂はどうしても湯村の玄関口というイメージだが、町自体はこの辺の中ではかなり大きく、浜坂温泉という温泉もある。一度留まる価値もありそうだ。

なんだか次回への課題がだんだん増えていくような気がするが、今までもこんなパターンで旅歴が続いてきたような気もする。いで湯旅然り、山旅もまた然り。
湯村へは、浜村よりバスで約二十五分程、「夢千代日記」では、海が間近な印象で描かれていたが、実際にはかなり山峡に入っていく。国道九号線を岸田川に沿って福知山方面に南下し、峠を幾つか越えると三方を山に囲まれた谷間に湯村温泉が見えてくる。

時計を見ると、午後四時三十五分。ちょっと遅れ気味。やはりけっこう暗くなってきた。徐々に街に灯が入り始め、夜景への準備を始めているこの光景は四年前と同じだし、ドラマのメインテーマの最後に出てくる映像もこんな感じだった。先ほどの餘部のワクワクとは違い、なんとなくホッとしたような気持ち。
 バスは温泉街の周りをうかがいながら今日の宿寿荘の横のターミナルらしき所に着いた。ここが終点、湯村温泉。中心街からはやや離れているものの、バスから降りるとすぐに私の五感は荒湯からの湯けむりをキャッチした。

さっそく中心街に足を向ける。四年前とおんなじ。まずは周りをグルリ見渡す。春木川を挟んだ源泉の荒湯。川に架かる薬師橋。そして、橋のたもとの共同浴場「薬師湯」。今回の旅の冒頭“四年の月日をなめてはいけない”懸念が徐々に解け始めていくのを感じる。心体(からだ)に残っている以前の情景を浮かべながら散策を始めた。
荒湯では相変わらず観光客に交じって、エプロン姿のおばちゃんが卵を茹でている。観光客も生卵を買って一緒になって茹でているのがなんとも楽しそうで微笑ましい。
荒湯は揺るぎない湯村温泉のイメージだが、温泉の規模自体は城崎のように巨大ではなく、荒湯を中心にした箱庭のような感じだ。周りを山で囲まれているので、さながら箱庭のような小さな国といったところ。この情景やイメージが「夢千代日記」の湯の里温泉になったのだろうか。

 湯けむりをもうもうと吐き出す荒湯の源泉温度は九十八度。飲泉場で長柄びしゃくで源泉を汲んで茶碗に入れおもむろに飲もうとするがなお熱い。なんせ生卵ならものの十五分くらいで茹で上がってしまうのだもの。
また熱いだけではない。ここの名物で「荒湯豆腐」というのがあるが、この熱湯に豆腐を入れて茹でると温泉成分の作用で絹ごし豆腐のようにきめ細かくなるという。長い歴史の中で、いわゆる温泉業だけではなく、人々の生活の中にも温泉の恩恵が生き続けているのは間違いない。
NHKの「ふだん着の温泉」ではないが、こういう地は本当に愛する者にはこれからも永劫愛され続けるだろうし、またそうであって欲しい。

 荒湯から、春来川に沿ってやや南に行くと夢千代広場がある。その中心に吉永小百合をモデルにした「夢千代像」が立っている。この銅像の台座は世界平和を願って広島市から寄贈されたものだという。台座の真ん中には
        「 祈 恒久平和 」
とある。今の世界情勢を考えると胸が痛むが、かすかな微笑をたたえた夢千代像の表情は、餘部でみた観音像の表情とだぶってみえた。
 NHKで放映された「夢千代日記」は、“ドラマ人間模様”というサブタイトルが付いていただけに、夢千代以外にも様々な“なにか”を内包したキャラクターがドラマを創っていた。

吉永小百合の手形
自分の印象に強いのは特に後半ともいえる「新・夢千代日記」のほうだが、鈴木光枝演じる夢千代と同じく原爆症を抱え、夢千代の母親との友人だった「たま子」(夢千代は母親のお腹の中でピカドンに遭ったという設定)。
松田優作演じるボクシングで相手を殺してしまい過去から逃げ回り、夢千代から過去と戦うことを悟る「岡崎孝夫」。
あがた森魚演じる天涯孤独のストリップ小屋の「あんちゃん」(小屋内では、あがたの「最后のダンスステップ」が絶えず流れていた)。などなど。
いずれの登場人物も主人公と同じく“なにか”を背負い、またそれに必死で反発して生きているようにみえた。

早坂暁の手形
秋吉久美子演じる夢千代と同僚の芸者「金魚」も印象が強かった。訳ありの他人の子供を育てながら、芸者の仕事で知り合った大会社のドラ息子とデキて、最終的には子供とも決別し男と心中してしまう。
ドラマに於ける女性の登場人物で「金魚」という役名は、他で私が知っている限りでは、小津安二郎監督作品「早春」に於ける岸恵子が思い出されるが、金魚というあだ名は
「金魚は見た目綺麗で可愛いが、同時に煮ても焼いても食えない。」
という皮肉めいた比喩から来ているそうだ。ただ実際は純心過ぎる程純心で、過ぎたところから、他人の運命をも巻き込んでしまう。秋吉久美子も岸恵子もそういう役どころを熱演していた。自分の周りにも思い当たる女(ひと)はいないかな?。ふとそんなことも考えてしまった。
いや、失敬。脱線。
思い浮かべる程に枚挙に暇がないが、四年前も周りの風景を見ながらこんな感じでドラマを思い出していたような気がする。

今宵の宿は寿荘というところ。四年前は高山屋というこじんまりした家庭的な宿に泊まった。お湯も雰囲気も良かったので今回も泊まりたかったが、残念ながら満員だった。
寿荘は宿名の印象とは裏腹な鉄筋六階建ての巨大旅館。設備も整い清潔で従業員の応対も丁寧で気持ちが良い。一頃は宿泊料が高くガタイばかり大きい割りに細部や応対のいい加減な宿も多かったが、ここはそういうことはなく好印象が持てた。シーズンの一人客でも気持ちよく迎えられ、もったいないくらい大きな和室に通された。まあたらしい畳の香りが心地よく、まずはバッタリ、大の字。
しばらくして、いざ浴室へ。以外にもお風呂はシンプル。大きなタイル張りの浴槽。荒湯からの九十八度の源泉を引いて満々と湛える。適温。透明な単純泉。荒湯からはやや離れた位置に建つ宿なので、その間に適温に収まるのかもしれぬ。また宿でも多少の調整をしているのかもしれない。
入った途端、どうしても「あァ〜・・。」とため息みたいな声が出てしまう。四年振りの湯村の湯。まずはしばらく湯に身体を沈めたままであった。

夜、また温泉街をフラフラ散歩する。荒湯近辺は鮮やかにライトアップされ、温泉情緒をますます演出している。近年はあくまで、健全観光化される方向で、ドラマに出てくるようなストリップ小屋や怪しい飲み屋はない。いい様な悪い様な、複雑な心境にもなるが、まったく変わらなければ良いかというとそう言う訳ではなく、残るべきものと、消えざるを得ないものがはっきりしていればいい、とも思う。
薬師湯に入ってみた。四年前は地元の人と浴衣姿の宿泊客が渾然としていたが、今回はほぼ地元の人だけ。まだ八時前にしては少ないなと思った。
宿が巨大化すると土産もの屋や娯楽施設が宿の中に納まってしまい、客はあまり外へ出なくなるとよく言われるが、やはりそうなのか?一人勝ちみたいな風潮のある温泉地は、永い眼で視ると大概は衰退の道を歩んでいるが、湯村はそうであって欲しくないと切に思う。

薬師湯はいわゆる湯小屋ではなく、「湯村温泉会館薬師湯」が総称で、二階建ての建物で、一階が公衆浴場になっている。ひょうたん形の浴槽に熱い湯がはられている。ここも当たり前四年振り。湯は本当に熱い。寿荘の温度とは比較にならない。源泉に近い分九十八度に近いわけだ。同浴の人たちの会話からはドラマにも出てくるような、よもやま話が聞こえてくる。しばらくは眼を瞑りじっと浸り続けていたいと思った。

やはり湯村は名湯であった。いろいろな感慨が交錯はするものの、この熱い湯に同化していると、もういつの間にか“四年間の月日の懸念”は完全に解け去ってしまっていた。
2005 11/09 10:44:58 | none | Comment(0)
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「弘法倶楽部」2号に掲載されました、2004年暮れの記録です。今回はまず餘部編です。
 
長年関東に住む私にとって、いで湯探訪は甲信越から東北方面が殆どで、なかなか近畿以西に足を踏み入れる機会がない。一時期地元が四国の高知ということもあって、年に一回里帰りの途中に山陰に寄り道したことが何度かあったが、ここ数年は機会が見出せずに遠ざかっていた。
この度は「弘法倶楽部」の企画で四年振りの山陰行脚が実現し期待に胸高まる次第だが、実は同時にかすかな不安がないでもないのだ。関金温泉は今回が初めてだが、湯村は二度目である。温泉好きの多くは古い歴史があると同時に、長年変わることなく往来の姿を保っている場所を愛する。自分も同人種である以上その点は同じだ。

四年前訪れた湯村は本当に素晴らしかった。それだけに「すっかり変わってしまっているかもしれない。」という危惧と「相変わらず山陰の(実は兵庫県だが・・)情緒溢れる温泉場であって欲しい。」と言う淡い期待が自分の中で交錯しているのである。四年といえばアッと言う間!と思われるかもしれないが、近年の“四年間の月日”をなめてはいけない。ちかごろの日本は“生み出す”と“滅ぶ”のサイクルが異常に早い。これは温泉文化とて例外ではないと思う。
実際、関東の温泉の中でも二・三年の間でびっくりするほど変貌してしまった所も少なくない。例えば埼玉県の秩父七湯などは、以前は札所巡りの巡礼客や湯治客に親しまれた素朴な鉱泉宿が数多くあったが、今は概ね高級旅館化している。
また栃木県の那須周辺も湯治場としての面影を残しているのはわずかに板室温泉くらいであろう。

壊して新たなものを作るのは易しいが、守り、受け継いで行くことは、絶望的なまでに難しい。特に戦後の温泉文化の推移を俯瞰するとそう感じざるを得ない。
自分が最初に湯村を訪れた時は、「夢千代日記ゆかりの温泉」として既に名を知られるようになっていたので、メインストリートは観光地然として華やいでいたが、「荒湯」で売り物の卵を茹でてるおばちゃんの姿や、共同浴場「薬師の湯」での地元の人たち同士の語らいに、古い温泉文化の息遣いを感じたものだった。
あれから四年を経て今回の湯村はいかに?!また今回初めての来訪となる関金温泉とは?・・。未入湯の温泉に向かう期待感は、「温泉好きの性」といってしまえばそれまでだが、湯村への“再訪の期待と若干の不安”をも孕みつつ、私は冬空の車窓を眺めつつ京都発の特急「きのさき」の客となり、一路山陰へ向かい始めた。


          餘   部

 京都からの「きのさき」は、ほぼ満席。殆どは城崎温泉の客なのだろう、車内も華やいだ雰囲気。四年前の山陰行では、たしか城崎に最初に泊まった。今回は割愛してしまうが、温泉としての規模が結構大きく、なおかつ情緒満点で、自分としては好きな温泉のひとつだ。外湯主体で共同湯が七つもあり、また各々が違った個性をもっている。
川を挟んで両側が温泉街、そして柳や桜並木、架かる石橋もどっしり落ち着いて歴史を感じさせる。いわゆる巨大温泉地でありながら、俗に落ちない品格の様なものもあると思う。湯治場というより、あくまで温泉場なので、物見遊山でぶらぶらするだけでも、ふんわか楽しい温泉情緒が味わえる。何年先になるか分からないが、次回の山陰行があれば、必ず立寄ろうと心にきめる。

 やがて、終点城崎。思った通り乗客の殆どは改札を出てしまい、ホームに残ったのは私と、野菜をどっさり担いだ地元風のおばーさんだけ。「きのさき」の停車しているホームの反対側に、キハ四十系の旧国鉄時代の老兵が待機している。濃いえんじ色の車体からは
「ン・ガ・ガガガ〜」というアイドリング音を響かせ、健在ぶりを誇示しているのが頼もしい。電車特急からこの気動車に乗り換えると、いよいよ山陰本線の本領発揮ということになる。乗り換え時間わずか十分足らずの間で、周りの環境がガラリとかわる。いつ来てもこの変化はかわらないし、また、たまらなく好きだ。
やがて、発車ベル(古メカシイ!)に呼応するように、元気な老兵は一層アイドリング音をパワーアップして重々しく動き始めた。
実は今回湯村へ着くまでにどうしても寄りたいところがある。餘部である。理由は二つ。私は過去三回このルートを訪れているが、いずれも餘部は通過しただけである。餘部鉄橋はそれ以前より是非行きたいところの一つだったが、当時は鉄橋の上からの車窓の眺めだけで結構満足していた部分もあったと思う。自分は山歩きとかも好きなので、特別「高所恐怖症」ではないが、たしかに地上四十一メートルと言う高さからの車窓の眺めは、思わずお腹がキュっと絞られるような感覚だったのを憶えている。

ただ、一年程前だったか、この餘部鉄橋も新橋への架け替え工事の計画が進んでいることを何かの情報で耳にした。早ければ平成二十二年頃の予定だと言う。
考えてみれば、昭和六十一年の列車転落事故(後述するが)など、この鉄橋はある意味味わい深い観光名所であると同時に、痛ましい歴史も数多く孕んでいる。現役の輸送建造物である以上、温泉のように「従来の姿を保って・・」と言う訳にはいかないであろう。六年なんてあっと言う間に過ぎてしまう・・。なんてことを考えているうちに、「今の姿を保っているうちに一度外から眺めておきたい・・。」と勝手に思うようになったのである。

もう一つは、湯村温泉を舞台にした「夢千代日記」(ドラマでは湯の里温泉と称している)と餘部鉄橋との関係。「夢千代日記」は舞台や映画でも取りあげられているが、やはりNHKであしかけ三年・三部作に渡って放映された「ドラマ人間模様・夢千代日記」に尽きるといってよいだろう。
吉永小百合演じる原爆症を患った温泉芸者の主人公と、山陰の温泉地というある種の閉鎖的な空間が生み出す宿命。それに対する主人公の命を掛けたささやかな反発。餘部鉄橋はそのドラマの舞台と“それ以外の地”をつなぐ架け橋というイメージでさりげなく象徴的に描かれていた。
実は去年の三月頃BS放送で、全話が再放送され、約二十年振りに観ることができた。トンネルを抜け餘部鉄橋を渡り“それ以外の地”から“宿命の地”に向かう山陰線の列車をバックにした武満徹のメインテーマが、ドラマに対する二十年振りの懐かしさと、四年前の餘部鉄橋に対する懐かしさを呼び起こし「また行きたいな・・」という気持ちを昂らせたような気がする。
さて、城崎を出た気動車は香住あたりで、いよいよ日本海と出会い、真っ暗なトンネルと、どんよりとした海の景色を交互に見せ始めた。今にも泣き出しそうな空模様。

乗客は私のまわりでは、先ほどの野菜のおばーさんとあと二〜三人程。みな地元の人ばかりであろう。なんとなく旅行者フゼイは私だけか。鎧という無人駅を過ぎいよいよ餘部に差し掛かる。四年前は通り過ぎてしまったが、今回は降りる。そして初めて外から見上げるのだ。なんだかワクワクしてきた。
ドラマのメインテーマどおり、トンネルを抜けいきなり空中に飛び出したような錯覚に陥ると、気動車は餘部鉄橋の上である。真下は餘部集落。少し視線を前に向けると相変わらずどんよりした日本海。餘部(余部でもよいらしい)駅はその鉄橋を渡りきったところにある無人駅である。ホーム上にはトイレ付きの倉庫のような待合室と電話ボックスがあるだけ。結局私以外は誰も降りなかった。

餘部駅の待合室
すごいのは、駅の出口(と呼んでいいのか・・)からいきなり登山道のようになっているのだ。三方が山で残る一方が海という土地。駅から集落へは長い階段と山道を延々と降りてゆかねばならない。集落は谷の下にあるからだ。山陰線はその谷を越え鳥取方面へと伸びてゆく。その谷を越えて架かるのが「餘部鉄橋」なのである。

駅の出口付近には、鉄橋を描いた古びたペンキ絵がある。鉄橋の下を子供が数人歩いている姿が描かれているようにみえる。昭和三十四年地元住民の請願によって実現した駅の建設の様子を描いたものだという。ところどころペンキの剥がれた絵を見つつ当時の情景を思い浮かべたりした。
出口とは別にホームの裏側から、裏山へ上がって行く道があり、興味を憶え上がってみた。三分ほど行くと、なにやら餘部鉄橋を見下ろす展望台のような所に着いた。土はぬかるみ倒木なんかもあって足場はよくない。ただ、改めてそこからの景色に眼を向けると、思わず、ウオォー!! なんとすばらしい眺め!!。斜め下に鉄橋を見下ろし、後ろにトンネルが口をあける山。そしてそれらを露払いにして雄大な日本海が広がる。ここではさすがに“どんより”という形容はあてはまらない。これであの機動車が鉄橋を渡っていたら、鉄ちゃん写真家にとっては絶好のポイントになるだろう。しばし飽かずに眺め入ってしまった。

後ろ髪引かれるように再びホームへもどる。駅を出るとすぐに登山道?は二つに分かれる。案内表示に従うと、手前の道を行くと坂を緩やかに下って餘部集落の外れへ、奥の道を行くと餘部鉄橋の真下へ出るらしい。できれば一泊くらいして隅々まで散策し、餘部を存分に吸収したいが、今日は湯村まで行かねばならない。時間の問題でやむなく奥の道を選ぶ。手擦りつきの遊歩道のような道を下っていくと、ちらちら見える集落が徐々に近くなってきた。こんどは逆に鉄橋を見上げる立場になってきたが、降り切るまでは敢えて眼をそむける。やがて鉄橋の真下、餘部集落の中心部に到着した。駅出口から約七分程かかった。改めて見るとなんだかただの登山口のようで、案内表示がなかったらこの坂道の上に駅があるなんて多分わからないだろう。

周りを見渡すと、餘部の漁村集落がひっそりと佇んでいる。木造平屋建ての家々の間を素朴な潮の香りが吹き抜ける。つげ義春の漫画に出てきそうな風景。夏は磯遊びや釣り人で賑わうらしいが、オフシーズン(冬場)は地元の人だけの静な時間が流れているようだ。

いよいよ鉄橋を見上げる。・・!!!・・。思ったより華奢にできている・・。今の今まで散々頭の中では想像し、想いめぐらしていたが、すぐ言葉になってくれない…。やはり、しばらく呆然として見上げ続けるしかなかった。

餘部鉄橋は明治四十二年起工、三年の歳月をかけ明治四十五年三月に完成。長さ三百十メートル、地上からの高さは当時東洋一だったという。この橋は当時の山陰線全通の最後の難関として、地元の人々の悲願であった。しかし駅ができたのはずっと下って昭和三十四年。駅の工事には小学生も動員された。駅ホームの裏にあった絵の中の子供たちは、その様子として描かれたものだろう。
昭和六十一年。以来地元の人々の支えとなってきた餘部鉄橋に悲劇がおこった。「餘部鉄橋列車転落事故」である。当時の記録を記す。

「昭和六十一年十二月二十八日午後一時二十四分。餘部鉄橋から、回送中のお座敷列車「みやび」の客車七両が折からの突風にあおられ、鉄橋より転落。真下にあったカニ缶詰加工工場を直撃し、工場で働いていた主婦ら五人と最後尾にいた列車車掌の計六人が死亡、六人が重傷を負った。旧国鉄からJRに移行する過渡期に起こった事故で、風速二十五メートルを示す警報装置が作動していたにもかかわらず、規定どうり列車を停止させなかった、人為ミスによるものとみられている。」


駅入り口から少し歩いた所に、最大の犠牲者の出たカニ加工工場の跡地がある。そこには慰霊の観音像が建っており、そばに、線香、ローソクや、事故に関する参考文献、写真が入ったボックスが設けられている。人為ミスとはいえ、それまで血汗を共にし共に歩んできた住民達にとっては痛烈な仕打ちだったに違いない。線香やローソクのある回りがとてもきれいに掃除されているのを見ると、この慰霊碑に対する地元の人達の想いが伝わってくる。
山陰と都市圏をつなぐ架け橋として仁王立ちしてきた餘部鉄橋と、その下に暮らす人々との永年の関係は、とても私の想像の域に収まるものではないが、観音像のおだやかな表情は、そのすべてをやさしく包容しているようであった。「夢千代日記」の原作者である早坂暁のモチーフの原点も、あるいはここにあったのかもしれない。これもあくまで私の想像でしかないが・・・。

しかしこの高さ・・。四十一メートルだから、高層ビルを見慣れている都会人もどきの私にとっては大したことはない筈だが、ここの地形と集落の風景が、なにやら数字に表れない威圧感を助長している。さらに、華奢に見えるのがかえって年々血肉をそぎ落とされながらも、仁王立ちしている老兵のようで、鬼気迫るものを感じさせる。
誕生以来、九十二年に渡って数多の喜怒哀楽を支え続け、また幾人かの命も奪ってきた餘部鉄橋には、私ごときの下種な考察や検証はすべて跳ね返されてしまうだろう。今はただ、噛み締め、見上げ続けるしかない。

しばらくすると、私が乗ってきたのと同じキハ四十系の気動車が鉄橋を渡り始めた。城崎に向かっている。たちまち地鳴りに近い振動が足元まで伝わってきた。重々しく渡っていく気動車と、それを支える鉄橋を見上げながら、私はこんな対話を想像してみた。

気動車  「ワシもそろそろ棺おけ(解体場)行きも近いかもしれんが、まだまだくたばるつもりなーぞ。おみゃーも頑ばらなイケンちゃ。」
鉄 橋  「あたりみゃーやがな・・・・。」

やはり来てよかった・・。もうこれ以上の感想は思いつかなかった‥。
2005 11/08 16:58:55 | none | Comment(0)
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