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遂に「零の穴」の入り口を見つけた。何のことはない、それは瞳孔だったのである。
――遂に辿り着いたな。やっとのこと見つけたぞ。
――Eureka ! !
一瞥のもと外界に存在する実体をしかと捉へる眼球は外界の光量によって自在にその大きさを変へる瞳孔無くしては始まらない。瞳孔を境にして外部は実体の世界、内部は虚体の世界である。それが瞳孔が「零の穴」たる所以である。
さて、外界に昼夜があって一日があるやうに個時空たる主体にも個時空特有の昼夜が存在する。それは瞼の一開閉で個時空の昼夜が完結、即ち個時空の一日が終はるのである。つまり、外界の二十四時間といふ一日の中に個時空たる主体固有の一日は瞼の開閉の数だけあるといふことである。しかも個時空たる主体の一日の時間の長さは千差万別で瞼の開閉の間隔と瞼を閉ぢてゐる時間の長さによって、例へば外界で言へば北極圏であったり熱帯であったり春夏秋冬であったりと様々であるといふことである。
ここでは外界の実体世界の話は脇に置き内界の虚体世界の話に絞るが、さて、虚体世界を覗くには先づ瞼を閉ぢなければ始まらない。
瞼裡に浮かぶ表象とか仮象とか夢想とか様々に呼ばれてゐるものは深海に生息する生物の中で自己発光する生物と看做せなくもない。更に集中とか思索とか様々に呼ばれる沈思黙考は内界にSerch Lightを当てて内界の闇に隠れてゐる「陰体」を見つける作業とも言へる。そして「虚の波体」は未だ未出現の形ならざる波体として内界で蠢動してゐる物自体の影絵とでも言へば良いのか、そのやうな「もの」として内界に「在る」のである。
また、余談ではあるが眼球は個時空たる主体のGyroscope(回転儀)と看做せなくもないのである。平衡感覚は三半規管で感知するが個時空たる主体の位置や方向などは全て眼球無くしては把握不可能である。多分、これは単なる憶測に過ぎないが量子力学で言ふ光子はSpinが一であるので網膜がこのSpin 一を感知して個時空たる主体の位置や方向を感知してゐるのかもしれないのである。つまり、Gyroscopeはそれ自体が回転することによってその回転軸に対しての相対的な関係で位置等を把握するが眼球は光子のSpinを逆に利用して恰も眼球自体が回転してゐるかのやうに把握してゐるのかもしれないのである。
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ゆっくりと瞼を閉ぢると左目の瞼裡には時計回りの、右目の瞼裡には反時計回りの勾玉の形をした光の玉が闇の周縁をゆっくりと回るカルマン渦が見えるのであった……。
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