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雪の目から恐怖の色がすうっと消えたと思った瞬間、私は眩暈に襲われたのだ。
――どさっ。
あの時、先づ、目の前の全てが真っ白な霧の中に消え入るやうに世界は白一色になり、私は腰が抜けたやうにその場に倒れたね。意識は終始はっきりしてゐた。君と雪が突然の出来事に驚いて私に駆け寄ったが、私は軽く左手を挙げて
――大丈夫
といふ合図を送ったので君と雪は私が回復するするまでその場で見守り続けてくれたが、あの時は私の身体に一切触れずにゐて見守ってくれて有難う。私が他人に身体を勝手に触られるのを一番嫌ってゐる事は君は知ってゐる筈だから………。
あの時の芝の青臭い匂ひと熊蝉の鳴き声は今でも忘れない。
私が眩暈で倒れた時に感覚が異常に研ぎ澄まされた感じは今思ひ返しても不思議だな……。私は私の身に何が起きてゐるのか明瞭過ぎるほどはっきりとあの時の事を憶えてゐるよ。
それでも眼前が、世界全体が、濃霧に包まれたやうに真っ白になったのは一瞬で、直ぐに深い深い漆黒の闇が世界を蔽ったのだ。つまり、最早私はその時外界は見えなくなってゐたのだ。
するとだ、漆黒の闇の中に金色(こんじき)の釈迦如来像が現はれるとともに深い深い漆黒の闇に蔽はれた私の視界の周縁に勾玉の形をした光雲が現はれ、左目は時計回りに、右目は反時計回りにその光雲がぐるぐると周り出したのだ。
そして、その金色の釈迦如来像がちらりと微笑むと不意と消え世界は一瞬にして透明の世界に変化(へんげ)した……。
その薄ら寒い透明な世界に目を凝らしてゐると突然業火が眼前に出現した。それは正に血の色をした業火だった。
その間中、例の光雲は視界の周縁をずっと廻り続けてゐたよ。
私が悟ったのはその時だ。自分の死をそれ以前は未だ何処となく他人事のやうに感じてもゐたのだらう、まだ己の死に対して覚悟は正直言って出来てゐなかった、が、私が渇望してゐた『死』が直ぐ其処まで来ているなんて……私はその時何とも名状しがたい『幸福』――未だ嘗て多分私は幸福を経験したことがないと思ふ――に包まれたのだ。
――くっくっくっ。
私は眩暈で芝の上にぶっ倒れてゐる間『幸福』に包まれて内心、哄笑してゐたのだ。
しかし、業火は私が眩暈から醒め立ち上がっても目の奥に張り付いて……今も見えてしまうのだ。
さう、時間にしてそれは一分位の事だったよね。私は不図眩暈から醒め何事もなかったかのやうに立ち上がったのは。君と雪は何だかほっとしたのか笑ってゐたね。その時君は初めて雪と目が合った筈だが、君の目には雪はどのやうに映ったんだい?
私には雪はその時既に尼僧に見えたのだ……
(以降続く)
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