思索に耽る苦行の軌跡
私は幼少時から昆虫を異常な程偏愛してゐるが、中でも黒蟻と蟷螂への偏愛は特別である。黒蟻はその巣の出入り口を一日中でも見続けてゐられる程であるが、黒蟻についてはまたの機会に譲る。

蟷螂は冬に芒等の枯れた茎に蟷螂の卵鞘(らんせう)を見つけるとそれを茎ごと家に持ち帰って日一日とその卵鞘から蟷螂の幼虫がうようよ出てくるのを待つのが楽しみであった。

また、初秋以外は自然の中にゐる蟷螂をじっと見続けてゐるだけで何とも言へない幸福感に包まれるのであった。

さて、問題は産卵期が近づいた初秋の蟷螂で、私は蟷螂を見つけると雄雌区別なく竹製の籠――Plastic(プラスティック)は幼少時から嫌いである。それはある日風呂に入るとそれまで木製だった桶等が全てPlastic製品に変はってゐてそのPlastic製品を手にした瞬間の嫌悪感が未だに克服できないのである――に入れ空かさず蟋蟀等の蟷螂の餌を捕まへて蟷螂に喰はせるのである。その様をずっと見てゐるのがこれまた名状し難い幸福な時間なのである。

蟷螂は蟋蟀を鎌で確りと掴み先づ蟋蟀の腹に喰らひ付く。その喰ひっぷりがこれまた何とも名状し難い程素晴らしいのである。今思ふとそれは後年『生』と『死』について思索するといふ陥穽へと陥ることになる予兆であったのかもしれない……。

それはそれとして、蟷螂が見事な喰ひっぷりで蟋蟀を一匹喰ひ終はると二匹目を蟷螂に喰はせ蟷螂が満腹になって喰ひ残した蟋蟀を鎌から放り投げるまで続けるのであった。そして、満腹になった蟷螂を捕まへた場所に戻し、私は名状し難い幸福感に包まれて其の日を終へるのであった。何も私は死体嗜好者ではないが蟷螂だけは別物なのである。

さて、それは或る秋の日のことであった。不意に道端に繁茂する雑草に目を向けると雄と雌の蟷螂が交尾してゐるのを目撃してしまったのである。最早私は蟷螂の交尾を凝視し続けるしかないのである。

それは不意に起こったのである。雌蟷螂が突然雄蟷螂の首を噛み切り首を落としたのである。依然として交尾は続いてゐた。そして、交尾が終はると雌蟷螂は雄の腹に喰ひつきその首がなく唯痙攣したやうに反射運動をしてゐるだけの、不自然に脚をばたつかせてゐた雄蟷螂を一匹丸々喰らったのであった……。

一方、首を落とされた雄蟷螂は想像するに、多分、恍惚の中に陶酔したまま彼の世に逝った筈である。生物史を見れば『性』と『死』は表裏一体の切っても切れない仲なのは明白で、雄蟷螂の死は『自然』の『慈悲』が最も良く具現化された『極楽』に思へてならないのである……。

さて、これは多分私だけの現象に違ひないが、快楽のみを求めて無用な性行為をしてゐる人間の男女は異様な瘴気を放ってゐて、私はそれを幻臭と名付けてゐるが、彼等は『死臭』若しくは『腐乱臭』の幻臭を放ってゐるのである。当然のこと、私が彼らの傍らを通り過ぎると幻臭に襲われ嘔吐するのである。そして、彼等は総じて老けるのが早く『醜悪』極まりないのである。

ランボーだったかボードレールだったかマラルメだったか忘れてしまったが、フランスの詩人のギロチンをMotifにした詩を読んだ記憶があるが、私が思ふにギロチンで死に逝く者は幸福なのかもしれないと、蟷螂が教へてゐるやうな気がしてならないのである。ギロチンが落とされ斬首された首の持ち主は、消え行く意識の中、多分、首は自由落下してゐるので『天上』へ向かって飛翔してゐる『錯覚』と『陶酔』の中で死んで逝ってゐる筈である……
2007 09/03 06:05:31 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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