思索に耽る苦行の軌跡
このBlogの「瞼考?――過去にたゆたひ未来にたゆたふ」等を参照にすれば外界に於ける「過去」と「未来」が《主体》次第で何時でも転換可能だといふ事、つまり、此の世は《個時空》といふ《渦時空》、例へば《主体》の《個時空》や《地球》の《個時空》や《太陽系》の《個時空》や《天の川銀河》の《個時空》等々のそれぞれの《渦時空》が各々相互作用しながらも個々に存在してゐると考へられるのである。去来現(こらいげん)、つまり、過去・現在・未来は私見であるが全て《渾沌》の中で《渦》を巻いてゐるのである。

更に妄想を肥大させるともしかすると此の世には渦状の《螺旋》を形作る《宿命次元》若しくは《運命次元》が《個時空》各々に存在し、その《宿命次元》若しくは《運命次元》が《主体》それぞれを貫いてゐるやうに思ふのである。生物について言へばその《宿命次元》若しくは《運命次元》は《主体》の二重螺旋のDNAと相互作用を及ぼし合ひながら《主体》の生老病死を決定してゐるやうに思へてならないのである。

例へば交通事故で死す人々を思ふと此の世の無情の《不合理》に怒りすら覚へ、『何故あの人が……』と死への疑問を覚へながらも、其の反面、胸奥では『これがあの人の《運命》だ……』と何処かである種の諦念にも似た思ひを抱き変に納得してゐる自分がゐるのであるが、不思議なものであるが《宿命次元》若しくは《運命次元》が確かに存在すると考へれば尚更納得出来てしまふのである。

多分、《宿命次元》若しくは《運命次元》は確かに存在する……

例へば、各々の《主体》の《宿命次元》若しくは《運命次元》が縄を捩るやうに互いに巻き付けばそれは《仲間》やら《友人》やら《恋人》やら《伴侶》やら《家族》やらになる筈で、一方互いの《宿命次元》若しくは《運命次元》が《垂直》に互いの次元をぶった切るやうに交はればそれは交通事故死のやうに《死》を齎すに違ひないと思はれる……

さて、The Concrete Jungle(コンクリートジャングル)と異名を持つ都市の景色を見渡すと、先づ、《地球》の《個時空》の《現在》たる地肌をAsphalt(アスファルト)やConcreteで蔽ひ此の世を《過去》へ無理矢理に追い遣って《現在》から遁走してゐるのである。つまり、《主体》は《地球》の《過去》の世界で敢へて《現在》を《永劫》に追い求める《仮象》の中で生きる《倒錯》の中に存在してゐるやうに思へてならないのである。つまり、都市に住む現代人は全て《現実逃避》の中で生きるといふ無責任極まりない生き方をしてゐるのである。そもそも《現実》は不便なもので《便利》とは、即ち《現実逃避》の別名である。そこで、もし自然が今直ぐにでも憤怒の鉄槌を人類に下して人類の数を半減させなければ今の自然環境は打ち壊れ、多分、昆虫と人類以外の殆どの生物は絶滅する筈である。

すると、人類は食料確保の為に《人間狩り》を始め《共食い地獄》に堕ちる筈である。武田泰淳の「ひかりごけ」や大岡昇平の「野火」の地獄を見るに違ひないのである。今のままでは必ず人類は《共食い地獄》に堕ちるしかない――。

さて、《宿命次元》若しくは《運命次元》が重力と深い関係にあると仮定するならば地肌をAsphaltやConcreteで蔽った都市世界は、もしかすると《宿命次元》若しくは《運命次元》の《力》がAsphaltやConcreteでぶった切られて羸弱してゐるに違ひないのである。

――さあ、剥がせ ! !、剥がせ ! ! AsphaltもConcreteも剥がすのだ ! ! でなければ……人類は地獄行きだ ! ! さあ、地の上に直に立たう ! ! でなければ人類は死滅するのみ ! !
2007 09/17 09:47:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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