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――断罪せよ。
例へば澱んだ溝川(どぶがわ)の底に堆積した微生物の死骸等のへどろが腐敗して其処からMethane Gas(メタン・ガス)等がぷくりぷくりと水面に浮いてくるやうに私の頭蓋内の深奥からぷくりぷくりと浮き上がっては私の胸奥で呟く者がゐたのは君もご存知の通りだ。
――お前自身をお前の手で断罪せよ。
これが其奴の口癖だった。
多分、私が思ひ描いた私自身の《吾》といふ表象が時々刻々と次々に私自身が脱皮するが如くに死んで行き、その表象の死屍累々たる遺骸が深海に降る海雪(Marine snow)のやうに私の頭蓋内の深奥に降り積もり、それがへどろとなって腐敗Gasを発生させ、その気泡の如きものが私の意識内に浮かび上がっては破裂し
――断罪せよ。
となると私は勝手に考へてゐたが、雪との出会ひが私をしてそれを実行する時が直ぐ其処に迫ってゐることを自覚しないわけにはいかなかったのだ。今にして思へば雪との出会ひは私が私自身を断罪するその《触媒》であったのだらうとしか思へないのだった……。
勿論、私の頭蓋内の深奥には深海生物の如き妄想の権化と化したGrotesque(グロテスク)な異形の《吾》達がうようよと棲息してゐた筈だが、其奴等も私が余りにも私自身の表象を創っては壊しを繰り返すので意識下に沈んで来た《私》の表象どもの遺骸を喰らふのに倦み疲れ果てて仕舞ってゐたのは間違ひない……。
多分、其の時の私の頭蓋内の深奥には私が創った表象の死骸が堆く積み上がる一方だったのだ。
――断罪せよ。
…………
…………
さて、私はSalonで読書会がもう始まってゐるので画集専門の古本屋に寄ってSalonに行かうと雪に言付けして其の古本屋を出やうとすると、雪が
――一寸待ってて。二三冊所望の本を買ってくるから。
と言ったので私は軽く頷き其の古本屋の出口で待つことにしたのであった。
外はAsphaltとConcreteから発散する熱と人いきれの不快な暑気に満ちてゐて、其の中、淡い黄色を帯びた優しい白色の満月の月光が降り注ぐ、何とも名状し難い胸騒ぎを誘ふ摩訶不思議な世界へと変貌してゐた。東の夜空を見上げると美麗な満月がゆるりと昇って、満月は、暑気による陽炎に揺れてゐたが、私は『今夜は何人の人が誕生し、そして何人の人が亡くなるのか』等とぼんやりと生死について思ひを巡らせずにはゐられなかったのである。満月の夜は必ずさうであった。私にとって月は生物の生死の間を揺れ動く弥次郎兵衛のやうな存在で、且、生物の生死を司るある種創造と破壊の神、シヴァ神のやうな存在に思へたのである。
と、其の時ぽんと私の左肩を軽く叩き
――お待たせ。
と、雪が声を掛けたのであった。私は左を向いて雪の瞳を一瞥して不意に歩き出した途端、雪は私の右手首を今度は軽く握って
――もう、待ってよ、うふ。
と私に純真無垢な微笑を送って寄越したのであった。しかし、私は其のまま歩を進めたのである。
――もう、うふ。
と、雪は私の右側にぴたりと並んで歩き出したのであった。
(以降に続く)
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