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梨地の型板硝子が嵌め込められた東の窓から満月の皓皓と、しかし、散乱する月光が視界に入ってしまふともうどう仕様もない。これは中学時代に梶井基次郎の「Kの昇天」を読んでしまったことが原因なのだ。
私はいつものやうに或る小さな川の橋上で影踏みをする為に満月の月光の下、家を出たのであった。
満月の月光による影は「Kの昇天」で記されてゐるやうに最早影ではなく「生物」若しくは「見えるもの」である……。
その影踏みはいつもこんな風である。「Kの昇天」にあるやうに影踏みは満月が南中する時刻、つまり影が一番短い時刻に限るのである。それまでの間は私は川面に映る満月をじっと視続けながら《時間》といふものに思ひを馳せるのが常であった。
――川は流れ……水鏡に映る満月は流れず……。私もまたこの水鏡に映る満月のやうに《時間》の流れに乗れずに絶えず《時間》に置いて行かれる宿命か……。《存在》する以上《時間》の流れに乗れないのは、さて、《自然の摂理》なのか……。
…………
――物理量としての《時間》、そこには勿論、itcと表はされる《虚時間》も含めてdtとして微分可能なものとして現はれる物理量としての《時間》は、さて、一次元構造ではなく……もしかすると∞次元として表はされるべき《物理量》ではないのか……すると、ふっ、物理学は最早物理学ではなくなってしまふか……。
…………
――《時間》の流れに見事乗りおおせた《もの》は恒常に《現在》、つまり、《永遠》を掌中にするのだらうか……。つまり、《瞬間》を《無限》に引き伸ばしたものが《永遠》ではなく……恒常に《現在》であることが《永遠》の定義ではないのか……。しかし……恒常に《現在》であるものにも《個時空》は存在し……《永遠》を目にする前に《自己崩壊》する《運命》なのか……。
等と湧いては不意に消え行く思念の数々。この思念の湧くがままの《時間》こそ私の至福の《時間》なのであった。
さて、満月が南中に達する頃、私は手には必ず小石を持って徐に立ち上がる。そして、橋上の真ん中に位置すると私は私の影を暫くじっと凝視し影が《影》なくなる瞬間に手にした小石をその《影》の顔目掛けて投げつけるのであった。
これが影踏みを始めるにあたっての私流の儀式なのである。石礫を私に投げつけられた《私》の胸中に湧いてくる何とも名状し難い哀しい感情のまま、私は右足から影踏みを始めるのである。その《時間》は哀しい自己問答の時間で、「Kの昇天」のやうな陶酔の《時間》では決してなかったが、私は今もって満月下の影踏みは止められないのである。
――《吾》、何者ぞ、否、《何》が《吾》か。
――ふっ、豈図らんや、そもそも《吾》、夢幻なりや……
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