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この極東の日本では神が御旅所等へ渡御する途中に一時的に鎮まる輿を《神輿》と名付けてゐて、それは人間、特に氏子が《担ぐ》ことで《神》は《神》として《在る》のである。
例へば一例であるが西欧ではMarionette(マリオネット)、つまり糸操り人形があるが、これは《人間》が上部で下部の《人形》を糸で《操る》のである。
これだけでもこの極東の日本と西欧では《神》の居場所が全く異なり、つまり、その世界観の《秩序》が全く異なってゐるのである。
西欧などの一神教の世界観では《神》は天上の玉座から一歩なりとも動かず、まるで《糸》を地上に垂らして《人間》をその《糸》で《操る》が如くであるのに対して、この極東の日本では《神》はこの地上に舞ひ降りて《人間》と《対等》の《位置》に鎮座ましまするのである。
さて、神輿によく見られる左三つ巴の紋様は《渦》紋様の一つであるが、仮に此の世が右手系であるならば右螺旋(ねじ)の法則の如く天から、或ひは森羅万象から注がれる《神力》が左三つ巴紋を通して神輿に《輻輳》し神輿の担ぎ手並びに此の世の衆生全てにその《輻輳》した《神力》が遍く振り撒かれることになるのである。
即ち、この極東の日本では《神々》は衆生の中に何時でも《居られる》のである。
三位一体。西欧などの一神教の三位一体は《父と子と聖霊》といふ、其処にはどうしても抗ひ切れない《縦関係》が見て取れてしまひ、それが一神教における《絶対》の《秩序》であるが、この極東の日本で三位一体と言へば文楽の太夫、三味線、そして人形遣ひの《三業》による三位一体が思ひ起こされるが、さて、ここで文楽の人形を《神》に見立てるとこの極東の日本の世界観が俄に瞭然となるのである。
ところで、出来映えこの上ない極上の文楽を観賞してゐると太棹の三味線の音色若しくは響きと太夫の浄瑠璃語りと人形遣ひの妙技による人形の動きが見事に《統一》若しくは《統合》された《完璧》この上ない《宇宙》が浄瑠璃の舞台に現れるのである。勿論、観客も《一体》となったその《宇宙》は《極楽》に違ひないのである。
それはまさしく漣一つない水面に一滴の雫が落ち、誠に美しい《波紋》がその水面に拡がるが如しの唯一無二の完璧な《宇宙》が此の世に出現するのである。それはそれは見事この上ない世界である。
さて、ここで忘れてならないのが《翁》であるが、これは別の機会に譲る。
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