思索に耽る苦行の軌跡

ねえ、君。人間とは《存在》といふ魔物に囚はれる虜囚たる事を宿命付けられた哀れな生き物だね。もし仮に正もせずに《存在》に無頓着なそれこそ能天気な輩がゐたら、さういふ輩には哀れな微笑みを送ってやるしかないね。何故って、さういふ輩は既に自身を馬鹿者として積極的に肯定した阿呆に違ひないからさ。先づ、自身の存在を全肯定出来る事自体が馬鹿の証さ。そいつ等の話を聞いて御覧。薄っぺらな内容に終始して、そのくせ小心者ときたならば、もう目も当てられないね。そういふ輩は愚劣極まりなく醜悪さ。私はそいつ等の放つ悪臭――勿論、これは幻臭だがね――に堪へられず、いつも反吐を吐いてゐたがね。



ねえ、君、そもそも《存在》とは何ぞや。いつ何時も、さう、睡眠中に夢を見てゐる時さへ、自身の《存在》に懐疑の眼を向けざるを得ない《私》といふ《存在》はそもそも何ぞや。吾と己に《ずれ》が生じる故に《生存》といふ変容に身を置ける原動力になってゐるのは当然として、さて、其処に介在する《時間》といふこれまた魔物の流れに取り残され絶えず《現在》に身を置かざるを得ないこの《私》とはそもそも何ぞや。つまりは、身体の細胞Levelで考へてみると、身体を形成してゐる数十兆もの細胞群は分裂、増殖、そしてApoptosis(アポトーシス)を繰り返して何とか《私》を存続させてゐるが、この絶えず変容する《私》は過去の《私》に未練たらたらで現在の変容する未完の《私》をどうあっても《私》として受け入れなければならない宿命を背負ってゐて、もしもそれを拒否したならば《私》は死ねない細胞たる癌化するしかない哀れな《存在》でしかない……。するとだ、生物は絶えず不死たる癌細胞への憧憬を抱いてゐて、不死たる《私》でありたいと心奥では渇望してゐるに違ひないのさ。つまりは神。近代までは人間はそんな傲岸不遜な考へを断念しひた隠して来たが、現代に至ってはその恥知らずな神たらうとする邪悪な欲望を隠しもしない侮蔑すべき《存在》に成り下がってしまったが、しかし、それが《存在》の癌化に過ぎない事が次第に明らかになるにつれ、人間は現在無明の真っ只中に放り出されて、唯漫然と生きてゐる――それでも「私は懸命に生きてゐる」と猛り狂う輩もゐらうが、それは馬鹿のする事さ――結果、現世利益が至上命題の如く欲望の赴くままに生き、そして漫然と死すのみの無機物――ねえ、君、無機物さへも己の消滅にじっと堪へながら自身を我慢しながら存在してゐるのさ――以下の生き物でしかない……。その挙句が過去への憧憬となって未来は全く人間の思考の埒外に置かれる事になってしまったが、さて、そこで現在がどん詰まりに気付いて慌てて未来に思いを馳せてみると人類は絶滅するしかないことが闡明になってゐて、さてさて、現在、人類は滅亡に恐れをなして右往左往してゐるのが現状さ。



自同律の不快。人類は先づ生の根源たるこの自同律の不快に立ち戻ってパスカルの言ふ通り激烈なる自己憎悪から出直さなければならないと思ふが、君はどう思ふ? 倒木更新。未だ出現せざる未来人を出現させるためにも現在生きてゐる者は必ず死ななければならない事を自覚して倹しく生きるのが当然だらう。へっ。文明の進歩なんぞ糞喰らへ、だ。人類は人力以上の力で作られたものは全て人の手に負えぬまやかし物である事に早く気付くべきさ……。へっ。ねえ、君。一例だが、科学技術が現在のやうに発展した現代最高の文明の粋を結集して、茅葺屋根の古民家以上に自然に馴染んだ家を、つまり、朽ちるにつれてきちんと自然に帰る家が作れると思ふかい? 無理だらう……へっ。





《眼球体》と化した私の意識は中有の中に飛び出し私の瞼裡に仄かに輝き浮かぶ誰とも知れぬ赤の他人の彼の人の顔貌をまじまじと凝視したが、すると彼の人は消え入りさうな自身の横たはる身体を私の眼前に現はしたのであった……。



(以降に続く)













2007 12/16 09:39:35 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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