「花岡ジッ太、14歳、5月13日生まれ、B型、独身、何故か子供がふたり」

  中学1年の春、
 初めての生徒会立候補立ち会い演説会は、
 春光ふりそそぐ運動場で、
 3学年36クラスのべ1620名の生徒の前、
 壇上にのぼった2年生の第一声がこれでした。
 失笑と痙笑が揺れながら波状に伝染し、
 絶笑へと変ずるのに、
 数秒も要しませんでした。
 立候補者はそれから公約らしきものを論じたと推測しますが、
 記憶にのこっていません。
 彼は、勇躍、当選し、
 2年生にして生徒会長に選出されました。

 翌年、再び彼は生徒会選挙に立候補しました。
 昨年同様生徒会長候補でした。
 2年生になっていた私もふくめ全生徒は、
 恍惚とした期待にふるえていたでしょう。

 「花岡ジッ太です、ぼくの持ち時間は5分です。諸君、隣同士で私語雑談してください、
  僕は何もしゃべりません」

 彼は宣言どおりまったくなにも喋りません。
 最初の1分は、
 多量の溜息が広い運動場に湧き、
 大気を歪めるうめき声となりました。
 次の1分以後、
 彼の目的に気付いた生徒たちが目笑に感嘆を帯びさせ、
 絶笑にはぜました。
 冗談やない、立候補してなにも喋らんとはなにごとか、
 そう注意する教師もいず、
 陶然とした笑いをうかべる始末で、
 ながい3分間、
 3300の瞳が彼を見守っていました。
 彼は記録的票数を得て再選しました。

 漫画のように思えるでしょうけど、
 実際に起こった風景です。
 彼がどのように生徒会長を2年つとめたのか、
 覚えていません。
 ソツのない無難な所業ほど、
 印象に残らないものですから、
 彼は申し分のない生徒会運営をつづけたのでしょう。

 今思い出せば、
 彼の風貌は小泉元首相に似ていました。
 そう、
 あの系統の顔は、
 こういう人の度肝を抜くような発想に秀でているのでしょう。

 何かやってくれる、
 何か驚かせてくれる、
 そういう期待は、
 政治に関係なく
 私たちの日常的な内からふくらんでくるものです。

 さて、3年の春、
 彼のいない生徒会選挙が行われました。
 開票後、
 選挙管理委員会から36名の担任教師に
 緊急の文書が渡されます。
 「今回の選挙は無効となりました。
 無効票の数が1000を超えています。
 立候補者の名前をきちんと筆記するよう宜しくご指導下さい。」
 中学校創設以来、
 未曾有のできごとでした。
 学校側としても座視できず、
 指導者としての能力が試されているかのようでもありました。

 教壇に仁王立ちする担任は私たちに下問しました。
 「『バットで頭を殴るのは危険だ』これ書いたん誰や!?」
 「僕です」
 ひとりの生徒が立ち上がりました。
 「『すけべえと変態は違う』これ書いたん誰や?」
 「僕です」
 「『ジュリー』これ書いたん誰や?」
 「わたしです」

 この調子で、担任はクラスの無効票の筆記者を特定していきます。
 私も立ち上がり、
 ジロリの一瞥をいただきました。
 人の怒気というものは、
 その表情から読み取り伝わるのか、
 表情を読んだあとの内なる状況分析によって生じるのか、
 そのころの私には解っていませんでしたが、
 一瞥から投げつけられた余韻は重く冷たいものでした。
 私が投票用紙に書いたのは「なし」です。
 選ぶ候補がいないから、なし、と書きました。
 興味深いことに、
 白紙の無効票はほとんどなかったようです。
 要するに、
 皆、投票用紙を無駄にはしなかった、
 何かを書いて意識的に無効票としたのでした。

 45名中、38人の無効票の投票者を特定し終えた担任の憤りは、
 南東に面した教室の窓ガラスをふるわせるくらいでした。
 「先生、どうして無効票がいけないのでしょうか?」
 こういう素直な疑問を呈せなかった私は、
 他の生徒同様に不服ながら、
 担任の説教をだまって聴きました。

 1週間後、投票がやり直されます。
 今度の無効票は300。
 有効票が過半数を超えたという判断が選管でなされ、
 生徒会長と生徒会役員が選出されました。

 生徒である以上、投票するのは義務である。
 拒否は許されない。
 無効票を投ずる事は校則違反である。

 そこらじゅうで今も耳にする理論ですね。
 本当にそうなのでしょうか?
 腑に落ちなかった私は生徒手帳にある校則をくまなく探しました。
 ですが、無効票を投じてはならない、という規定はありません。

 花岡ジッ太が立候補していれば、
 このような椿事は起こらなかったでしょう。
 彼がいるのといないとのどこが違うのか。
 それは生徒たちがいかに彼に魅力を感じたかによるでしょう。

 真面目が悪いのではありません。
 公約が悪いわけでもありません。
 では何が悪いのか?
 魅力がないことが罪だったのです。

 小泉が安倍に首相の座を譲り、
 福田を経て麻生が総理大臣となりました。
 さて、
 皆様、
 14歳の私が感じた空虚な飽和感を感じませんでしたかここ数年?
 私は感じているのです。
 魅力のない者を選出するのは辛い事です。
 小泉の政策が悪いとか、
 どこそこがいけない、
 とかの批判は簡単です。
 文句があるのなら、自民党に投票しなければいい。
 投票しなければ、
 自民党がしでかす数々の失政失策に責任を感じることはありません。

 投票という行為は、
 責任を持つということを自覚し、覚悟しなければならない、
 と私はつねづね考えています。
 国政に参加するという行為は、
 投票する行為だけで果たされるものではなく、
 選出した政党や政治家に対しても責任を持つということでなければなりません。
 
 国民の義務だからという、
 しかつめらしい優しい論理に耳を貸さないでくださいね。
 そう言う人たちは憲法を理解してはいません。
 それこそ、
 国は国民によって成り立っているという絶対的論理を
 ねじ曲げて解釈する佞論です。
 投票する政党も議員候補もいないのに、
 無理に意中ではない者に投票する行為を、
 国民の義務だと平気でのたまう頭脳構造を信じないようにしましょう。

 選ぶべき人がいないのだから投票しない。
 それは、
 当然の権利であるべきであり、
 何と言われようが誤ったことではありません。
 絶対的真理は、
 いかなる利便や事情に左右されてはならぬものです。

 投票率が50%に満たない選挙は無効です。
 しかし、
 現実はそれでも当選者が出ている。
 過半数の国民が選出しなかった候補者に、
 国民代表の任を与えるわけにはいきますまい。

 選挙で議員が選ばれないと、
 国会が成り立たなく、
 緊急の立法が行えない、
 と発言する議員がいました。

 そうでしょうか?

 一度も選挙が無効になった経験のないあなたに、
 どうしてそうなると断言できるのでしょうか?

 私は一度は、このような未曾有の混乱があってもいいと考えています。
 そうしなければ、
 日本の政治は変わりはしないとずっと思案していました。

 しかし、今回の選挙でも、
 無効票や投票しなかった有権者の意思は無視されるでしょう。
 そして投票した有権者たちも、
 撰んだ議員に責任をもちはしないでしょう。

 何故、責任をもとうとしないのか、
 何事かを選るという行為には、
 何度でも書きます、
 大変な責任が生じます。
 責任が嫌なら、撰ばなければいいのです。
 撰んでしまった以上、
 選んだ人には、重い責任を担わなければなりません。
 それが国政参加であり、
 屁理屈論者が謂うところの、
 国家への意識でしょう。

 以前、私は「大義の春」という作品を書きました。
 そこで成田紛争のことについて色々と私見をのべました。
 福田内閣下に於て行われた恥ずべき強制執行には、
 福田総理をはじめ自民党に投票したすべての有権者にも責任はあるのです。
 それを自覚できないからこそ、
 選んだ人が悪政をおこなっても陰で批判するしか出来ない事になってしまう。
 では、自民党を選んだ全ての有権者に成田における数々の残虐行為を
 正当であったと賛同しないまでも反対しない旗幟の鮮明さがあるのなら、
 私は何も言いません。
 あの残虐行為は、自民党を選んだ全ての有権者の意思であったのですから。

 撰んだ者への諌言は必要ですし、欠かすことの出来ない自浄機能です。
 しかし、選らなかった者たちへの懺悔も忘れて欲しくはありません。
 なぜなら、そういった責任転嫁や責任回避こそが、
 現在の政治の腐敗を招いているのですから。

 小泉純一郎、
 わくわくさせてくれる政治家でしたね。
 しかし、
 私は小泉以前も小泉以後も、
 それどころか、この33年間、
 自民党議員に一票を投じたことはありません。
 自民党政権を許せないからです。
 
 あるいは政権奪取を成し遂げるかもしれない民主党も嫌いです。
 鳩山、管、小沢、執行部は元自民党員ばかりだからです。

 私は騙されません。

 花岡ジッ太のような、一般庶民が気軽に立候補できるような、
 そんな国にならないものでしょうかね。

  満面に笑を、トゥース!
  
 
2009 08/09 23:00:50 | none
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