光あるうちに光りのなかをあゆめ




        神のもとには大きなものも小さなものもありはしません。人生においてもまた、大きなものも小さなものもありはしません。
        あるものはただ、まっすぐなものと曲がったものだけです。                              
                                                                  
                                             トルストイ


            

    当時、私のバイブルになっていた歌。

    ディオールのイニシャル模様のネクタイ、ホワイトアイボリーのスーツ。それまでの私の全てを覆したそのドラマは、私の中の他のものまで変えてしまったのかも知れない。

    この歌は、魔法の歌だった。

    ありえない現象を、うみ、ありえないものを、もたらし、ありえないことを、可能にする。

    当時の私は、22歳。

       「アズマエさんは、カラオケとか行きますか?」

       「うん、行くよ」

       「どんな歌唄うんですか?」

       「ガラス坂かな」

       「えー?そんな歌唄うんですか?」

       「変かなぁ?」

       「変じゃないけど……、今度、連れてってくださいね」

             
             ゆうべは淋しさに 震えて眠って 夢を見た
             もつれた糸のように あなたと私と誰かと
             過ぎ去れば思い出になる 今をちょっと耐えれば
               私は ここに いるわ  いるわ

             終りのない歌を うたっているのは私です
             時には声かすれ 人には聴こえぬ歌です
             でも今が一番好きよすこし曇り空でも
               誰か私を抱いて  抱いて

                                         及川恒平


     これが、社交辞令、とかいう、許された嘘なのだろうと、私は聞き流した。数千足の在庫が立ち並んだ、狭く暗いストックルーム。彼女は、売場いちばんの美人だった。

     数日後の退社時間、店員通用門を抜けると、彼女が誰かを待っていました。恋人だな?と少し焼けたけど、

       「お疲れさま、早番だったでしょ?誰か待ってるの?」

       「うん、待ち人来たらずで、退屈してたの」

       「彼氏だね?ご馳走さま。じゃお先にね」

       「待って!待ってたのはアズマエさんですよ」

       「え?僕?僕なんですか?」

       「そうよ、約束したでしょ?飲みに行こう、って」

       「はい、確かにしましたけど、え?えええ?本気だったの?」

       「ひどいなぁ、忘れてたのね」

       「違うって、社交辞令だと思ってたから」

       「あたし、そんなこと言いませんから。それとも、あたしのこと、嫌い?」

       「まさか、売場のマドンナを嫌いな男なんていません、って」

       「じゃ、嫌いじゃないのね?」

       「はい、嫌いじゃありません」

       「それは、好きってことに取ってもいいのね?」

       「ご随意に」

       「なんか狡いなぁ。あたしとは飲みに行きたくないの?」

       「飲むのが、そもそも、苦手だから」

       「じゃ、あたしが教えてあげる。いいでしょ?」


     よけいなものまで、教えてくれました。

    
       
     無理を承知の行動だった。ふられて筋書き通りに運ぶ筈だったんだ。私は、「終わりのない歌」をひととおり口遊(くちずさ)んで、君を誘いに行った。

     君は、暗くなった店の奥で、日報をつけていた。私は棚卸しが終わったばかり。部下を帰して、私は迷っていたさ。閉店してもう二時間が過ぎている。残業届に記した時間は、あと数分しか残っていない。

     私は、大流行の兆しを見せはじめていた毛皮のコートを広げながら、レジの奥の小さなストックルームの奥、小さな机に向かう君の背中に声をかけた。

        「遅くまで、ご苦労様です」

        「あら、棚卸し終わったの?」
 
        「ええ、なんとか。帰らないのですか?」

        「アズマエさんは、もう帰られるの?」

        「ええ、もう帰ります」

        「お腹空いてませんか?」

        「え?お腹?」

        「帰り、どこかで食事しませんか?」

        「残務処理はもういいのですか?」

        「ええ、あなたを待っていただけですから」

        「え?驚くことをおっしゃいますね」

        「そうですか?私は底なしだけど、アズマエさんって、お酒大丈夫ですよね?」
 
        「いいえ、ダメなほうです。すぐに酔っぱらって、寝ちゃいますから」

        「じゃ、今夜はわたしが介抱しますから、思いきり飲ませてさしあげますわ」

    そう誘った君は、私より先に酔いつぶれて、歩けなくなって、どこにも行けなくなって、君の部屋まで送っていったら、そのまま、部屋に引きずり込まれて、酔ってなんかぜんぜんいなかったんだね、君は着ていた服を脱ぎはじめ、私の服を脱がせた。その時、君の胸の中で、爆発しそうになっていた鼓動を頬で確かめたさ。それは勇気なんかじゃなくって、覚悟だったんだよね。

     

        「アズマエさん、お久し振りね」

        「永井さん?ご無沙汰しておりました」
 
        「阪神にいないから、ここまで来ちゃったじゃん」

        「すみません、ご挨拶もせずに、転勤してしまって」

        「そんなことより、あなた、店長になったんだってね?」

        「はい、おかげさまで。若輩者ですから、苦労してます」

        「何言ってるのよ、自信満々のくせに。わたしも応援するから、出世してね」

        「ありがとうございます、今日は、春物をお探しなのですか?」

        「ええ、それもあるけど、今日はね、この娘を紹介しにきたのよ、あなたに」

        「え?お嬢さんですね?」

        「こら、照れてないで、挨拶なさい。カッコイイでしょう?ママのお気に入りの店長さんよ。年はまだ二十三歳、どう?あなた、気に入った?」

        「やめてよ、ママ」

        「この娘はね、十六歳、7つ違いだけど、お似合いだわ」

        「永井さん、僕は独身じゃありませんよ」

        「分ってるわよ、そんなこと。あなたが独身だったら、わたしがモーションかけてるわ」

        「ご冗談を」

        「だからね、娘を紹介するのよ」

        「すみませんでした。永井さん同様、懇切丁寧に接客させていただきますよ」

        「違うわ、あなた勘違いしてる。紹介はね、文字通り紹介なの、解る?」
  
        「いいえ、全然」

        「ホントにあなたこういうことには、鈍いのね。内の娘と交際してくれ、とおたのみしてるのよ」

        「こんなおキレイなお嬢さんに、私なんか、身分不相応ですよ。それに、そんなこと出来るわけないじゃありませんか」

        「あら、ねぇマリちゃん、あなたこのお兄さん嫌い?」

        「知らない、ママのばか!」

        「ほらね、この娘も、気に入ったようよ。あなた次第だわ、アズマエ店長、ご返事は?」

        「か、考えさせて下さい」

        「きゃぁ、照れちゃって、もう可愛いんだから。これだけは覚えておいてね。わたしはあなたを気に入ってるの。わたしには残念なことに息子が出来なかったけど、あなたなら、息子にしたいと真剣に思っているわ。覚悟しなさい、わたしからは逃げられないわよ」

     この奥さんは、阪神百貨店時代からのお得意様で、外商部から紹介されて、接客したら、なにが気に入ったのか、次から外商部を通さずに、直接売場に来るようになった、最初のお客様でした。

     
     私の迷走は、すくなくともひとつの帰着点に向かって進んでいたことが、最近、分りはじめてきました。 


        このごろわたしは想い出す。
           遠いあの日の、天使のようなあまいろの声。

        このごろわたしは想い出す。
           軟体動物のようなあなたのいやらしい肢体。

        このごろわたしは想い出す。
           再会したときのあなたのたたずまい。

        このごろわたしは想い出す。
           あなたに受けたさまざまな嫌な思い。

        このごろわたしは想い出す。
           あなたの最後の、最後のせいいっぱいのまなざし。

        このごろわたしは想い出す。
           あなたたが最後に、最後に遺した切ない言葉。

        こうしてわたしは想い出す。
           乾燥した胸には、去来するものがなにもないことを。

        こうしてわたしはさらに想い出す。
           想い出すことを想い出している、わたしを想い出す。
           醜いこの身を晒してまでも、自然発火した小さな焔が、
           乾燥した胸を焼け尽くすその時を、
           見逃さぬように、
           ただ、
           待ちわびるように。
2006 07/16 06:19:42 | none | Comment(0)
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