あまり知られていない長野県の南信州、木曽南部のご紹介をします。
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 王関神社より更に下って行き、左手に登りますと、「箒木」と言う村指定の巨木があります。ここも個人所有の土地で、また、入っていく道もちょっとわかりません。村や南信州観光公社のツアーで引率してもらうといいと思います。説明看板によりますと、この木は下條氏が吉岡城を建てた、旧子の神神社の湯立ちの跡だと言うことです。うっそうと茂った周囲の雑木の間にあって異彩を放っています。推定樹齢600年(昭和60年に)とのことです。
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 吉岡城址公園下の「ひさわ」の信号から151号線を更に南下し大きな吉岡城南大橋を越え、トンネルがありこの先が仁王関という所、この地名の由来を下條村史で調べたところ、昔流行病があって、吉岡地区に伝染してこないように仁王の面を境に祭ったところ、伝染を食い止められたとのこと。トンネルを出ると、小さな交差点があり左折れし注意深く左側を見ていくと王関社という神社があります。このお宮も江戸時代からあって、昔は規模も大きかったようですが今はこじんまりしたお宮になっています。地元の人にお聞きしたところ、産土神で特に村の文化財にも指定されていないとのことでしたが、下條村教育委員会作成の「下條歴史の散歩道」というマップにありましたのでご紹介しておきます。なお、ここも駐車場がありませんのでもし見られる場合は、神社前のお家にお断りして駐車してください。 ヤフー地図へ
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 昨日のカヌー乗り場に行く途中、少し入った所に、獅子岩公園となめくりの滝が有ります。カヌーの帰りでも、カヌーとは関係なく回られても良いと思います。説明看板の説明によりますと、このなめくりの滝は、人口の物だそうですが今では自然に溶け込み、大きな滝とのように見えます。この写真を撮った時期が、水田工作の終わった時期でしたので水は流れていませんでしたが、水田工作時期になりますと豪快な滝が見られると思います。1400年代に着手し、1690年代に200年以上かかり作って完成し、300年以上経った今でも大地を潤している重要な川ですが、後世に名を残す統治者は数百年の単位で先を見越して大事業を成す者であるということが実感できます。地層は第三紀層という、昔は海の底であったであろう所が多層になって見られます。獅子岩公園はなめくりの滝より少し下にありますが、獅子鼻の様な形をした大きな岩です。休憩所がありますのでゆっくり休むことができます。 ヤフー地図によるおよその位置下條村商工会ブログに下條歌舞伎大人の部紹介有りました。
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 もうこれからは寒くてできませんが、11月4日ご紹介した地図で、吉岡城址公園下のひさわという信号を飯田方面から来た場合右折れし「カヌーなどで遊ぶ時」という方向に下って行きますと、大きな橋があり、(門島と言う所です)ヤフー地図でおよその位置ですが、180度回って天竜川に下っていく細い道があります。小さな駐車できる場所がありますので、そこに車を置きもう一台は温田という場所まで持って行き、カヌーの回収用に置いておき戻ってカヌーで下ります。または、折りたたみ式のかぬーの場合は、電車で門島まで行き、天竜川まで運び、温田までカヌーで下り、温田からは、電車で戻るということもできます。 このコースは、カナデアンカヌー、カヤック等でのんびり川下りをしたいという場合、お勧めですが、アウトドアーは何があるか分からない世界です。初めての時は、最低三人で下り、一人は指導者級の人が必要です。また、事前にセルフレスキュウできるようになっている必要があります。 実際、私の息子が、カヌーでは有名な某大学のカヌークラブに在籍していた人と下ったのですが、ちょっとバランスを崩した時、沈(転覆すること)してしまい難儀をしたようです。カヌーは天竜川のような所では木の葉のようなものですから、ちょっとしたことでひっくりかえってしまうことがあります。 一番良いのは、都会にはいくらでもある、カヌー教室のメンバーになり、引率してもらうことです。そうして、ダイナミックな自然を十分お楽しみいただきたいと思います。 11月4日地図へ ヤフー地図
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11月23日、下條村商工会様のブログで、下條歌舞伎の宣伝を見ましたので、下條村文化祭の一つである下條歌舞伎を見て来ました。中学生による子供歌舞伎というものをはじめてみました。あどけなさも残っていましたが、今の子供は成長が早いので、結構迫力がありました。今回の演目は、「大功記十段目 尼崎閑居の場」というもので、芝居のはじめに指導者の方から説明があり、脇に大型のOHPで芝居の進むのにあわせて説明が出てくるので、歌舞伎というものに疎い私でも意味をわかりながら楽しむことができました。そして思いましたことは、こういった古典を小さい時から味わっていれば、大きくなっても古典からいろいろのことを吸収する能力も育って、今問題になっているような間違った方向に走ってしまう人間は出にくいのではないかということです。私などは、歌舞伎というものを見たのが20歳も後半で、東京の歌舞伎座に妻のご両親が連れて行ってくれたのですが、訳がわからず居眠りをしてしまいました。飯田に来てからも、近くの麻績(おみ)神社で開かれた歌舞伎を1回見に行ったのですが、意味がわからず帰ってきてしまいました。大鹿村の歌舞伎にしても何故あんなに盛り上がるのかさっぱりわかりませんでしたが、今回のように、詳しく説明付なら私にもわかりました。こういった地芝居を絶やさないということは子供達の成長のためにも必要だと59歳になって初めて気がついたのですが、人がいなければ絶えてしまいます。下條村の場合、24日の下條村商工会のブログで見ましたら、若者向けの専用住宅を建設し、第9棟目建設が始まったそうです。問題は働く場所ですが、お隣の飯田市では最近新工場建設があったり、少しずつですが雇用も増えているようです。若者が定住できて、子育てをし、この地方が元気になっていけるなら言う事はありませんが、やはりこう言う条件が揃った所はそうはあるものではありませんから、とりあえずは面としての観光から入っていくという私の方針も必要なことかなと思い続けていって見ます。 下條村商工会ブログへ なお、第12回 三遠南信ふるさと歌舞伎大鹿大会が27日あります。これも見に行ってみようと思います。皆様もどうぞ。詳細は下記 大鹿村役場ホームページにてご覧ください。 
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 ここは、探すのに苦労しますし、知った人の案内がないと見るのは困難です。はやり、下條村か南信州観光公社のツアーで見に行ってください。私も何回か行ったのですが、ようやく入り口がわかるようになった所です。本当に自然の力強さ、樹齢も判らないくらい太い木です。下條村に住んでこの村の娘さんと結婚した叔父さんでも知らなかった木があります。地元の人でもこんな素晴らしい木が身近にあったとは知らなかったといっていました。近くにはこの木に劣らない檜もありました。 明日は、下條村の文化の日の中学生による下條歌舞伎をご紹介します。
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 このカヤの木は家の敷地内にありますが、道路から見ることが出来ます。間近で見たい場合はお家の人にお断りしてから見てください。今でも採取したカヤの実を灰汁抜きしていました。その昔は戦争で食糧難の時代、貴重な食料だったようです。インストラクターの先生がこれを炒って持って来られ、昔懐かしいお菓子だと頂きましたが、現在のように美味しいお菓子になれている私には大切な物との認識はありましたが余り美味しいものではありませんでした。しかしこれから先、いつ何時また食糧事情が悪くなり、何でも口に入るものは頂かなくてはならない時代が来るかもしれません。そういう時生き残れるのは、昔の食料困窮時代のことを知っている人だけでしょう。強く逞しく生きると言うことは、どんな事態になっても生きるための食料を確保できる知識を持っていることが必要ですが、口先ではどうにでも言えますがこれがなかなか。
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 吉岡城のあった地域には、銘木巨樹がいくつかあります。これからご紹介する樹は皆個人所有のもので、詳しくは樹の傍に寄って見ませんと判らないところが多かったり、ガイドなしではとても歩けない所ですが、一応こう言う所がありますと言うご紹介です。ぜひ、下條村、南信州観光公社等主催のガイド付きのツアーに参加されて、詳しく話を聞きながらまわられることをお勧めします。今日はサルスベリの樹をご紹介します。 天竜峡温泉ホテルHP一部更新しました。(アクセスページとリンクページ追加しました)
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 村の資料によると、戦国時代末期、武田信玄の西上の折、下條氏の旗本原氏が下條氏に代わり東三河の武士達と戦をして城を陥した功績により、武田信玄から下條氏に対し感状が送られ、これにより下條氏はそのお礼として原家に写真の四脚門と、槍一振り、武田信玄の感状を添えて送ったとのことで今も保存されているとのことです。なお、この門も個人所有の家の中にありますので見られる際には、道路からご覧になるか、よく見たいという場合は、家の人にお断りして見てください。 下條村や、南信州観光公社の主催する銘木・巨樹を見る会で一緒に歩きますと門前まで案内して頂けます。 この時代がどうなっているか調べるのには、長野県下伊那地方事務所商工雇用課様によって作成された、伊那谷年表2を見ると戦国時代の末期の様子が良く判ります。もし、この時代、武田信玄が病気で亡くなるということがなければ、この四脚門が立てられたのが1557年、武田信玄が病死したのが1573年、本能寺の変が1582年、下條氏が徳川家康傘下に入り、最終的に滅亡したのが1587年。本能寺の変以前に武田信玄が小田信長を倒していれば歴史は大きく変わっていたかもしれません。その時歴史は動いたと言うことがよく言われますが、一人の英雄の死が歴史を大きく左右した時代。もっとも、そのときの天下人がだれであろうと、家中の掌握がうまく出きていなければ、滅亡に追いやられるのは時間の問題と言うこともありますから、単純に下條氏の歴史が大きく変わっていたかどうかはなんともいえませんが。たいへん勉強になることだと思いました。 長野県下伊那地方事務所商工雇用課様作成 伊那谷年表2 下條村の下條歌舞伎が23日あります。詳細は、 下條村商工会ナビをご覧ください。
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 この近辺はお城の周りと言うこともあり、大きな家が数軒あります。ちょうど通りかかった時家の人が居たのでお断りして撮らせて頂きました。ブログでご紹介することも承諾頂きました。このお家は建て替えられたのか白壁ですが、薄いピンクがかった壁があったり、見て回るだけでも楽しいです。奥には柿が吊るしてあったり、庭先では胡桃を干してあったり農家の風情が伝わってきます。こう言う家並みがきっと観光には役立つのだろうと思いましたが、ここに住んでいる人たちとの関係が一つ問題になることもあり難しいなあなどとぶつぶつ言いながら回って見ました。 静岡県外の日本旅行は南信州へのページを作りました。
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