昨日は北の湖理事長の協会御挨拶のことを書きました。
それもあまりいいことではなかったけれど・・・。
でも北の湖の1976年の大相撲九州場所はある転機となった場所なのだ。
それまで北の湖は、まあある程度は強かったが、優勝決定戦で負けたり、ここ一番で弱くライバル達の引き立て役を務めていた。
いつも言われていた北の湖の人気のなさはこの辺りではなかっただろうか・・・。
「強すぎるから・・・」ということよりも、強さが中途半端であったからではないだろうか。
あの阪急ブレーブスがあまり人気が出なかったのも、日本一になかなかなれなかったからではないかということのように。
そのうえ稽古も嫌いで、多くても20番程度しかやらなかったそうである。
そしてこの1976年の九州場所も最初はもたついた。
だが後半調子をあげてきた。
そして千秋楽に宿敵輪島と相星決戦となったのである。
それでもトクタサツオは
「どうせまた輪島の勝ちだろう」などと思っていたし、ほとんどのファンもマスコミ関係者もそう考えていただろう。
ところがこの日は違ったのである。
輪島の強いおっつけと、絞りまた左からの投げを耐えに耐えて大相撲となった。
こうなると、若い(年齢差は五歳、学年は六年違う)北の湖が有利となる。
だんだんと輪島を追い込みついに、勝ち、七回目の優勝に輝いたのである。
これはかなり意義があった。
どちらかといえば、先行逃げ切りタイプだったのだが、追い込んで勝った。
ここ一番で勝った。
そのうえ確か地方場所では初の優勝。
これから北の湖は稽古熱心になる。
一番やらなかった男が一番やるようになった。
多くて二十番であったのが、少なくても三十番、多いときは五十番とも六十番とも聞いた。
それほどこの優勝は大きかったと思う。
これはたぶん勝つことの楽しさ、うれしさを知ったからであろう。
これから大横綱への道を歩き始めたのであった。