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ゲノム
ある生物がその生物として生きてゆくために必要な一組のDNA(遺伝情報)のセットを“ゲノム”とよぶ。ゲノムの大きさ(長さ)は原則として進化の進んだ生物ほど大きいとされている。例えば大腸菌ゲノムは470万塩基対、実長1ミリメートル。ショウジョウバエでは1億7000万塩基対、実長1センチメートル、ヒトの核ゲノムでは30億塩基対、実長1メートルと見積もられている。これは24種類の長さの異なるDNA分子に分かれ、それぞれが別の染色体をつくっている。しかし、この原則に合わない生物もあり、例えば植物のユリはヒトのほぼ30倍、1000億塩基対という巨大なゲノムをもっている。大腸菌など原核生物ではゲノムDNAの上に、遺伝子がほとんど隙間なく並んでいるが、ヒトを含む哺乳動物では遺伝子として働いているDNA部分は全体の数パーセント程度で、それ以外の大部分のDNAについてはなお不明な点が多い。遺伝子=DNAとはいえても、DNA=遺伝子とはいえないことになる。
その頃は、ベッドじゃなくって、まだ、布団に眠っていた。
嫌だった丸坊主にも慣れた。人がどう見ようが、そんなことは、どうだってよかった。自分さえ、耐えられたら、それで、よかったのだ。そうかといって、私は、冷淡な少年じゃなかったと思う。どこからか迷いこんできた小さな黒猫を、ちゃんと可愛がって、育てていたし、叔父から譲ってもらった、梅の盆栽も、大事にしていた。
西田からもらったチョコレートもまだ、食べきれずに、机の上に、無造作にほったらかしてあるが、これは、甘すぎて、虫歯に悪いからで、けっして、食べたくなかったからじゃない。気持ち、って、あのオトコ女は洒落たこと形容してたけど、それじゃ尚更、意地でも食べてやるものかとは思うのだが、そうできないところにも、そんな私の性格が出ていたろう。
週に3回、店の奥にある座敷で、母が琉球舞踊を弟子に教えていた。6人のお弟子さんは、皆、10代で、ひとり、16歳のお姉さんがいた。明美姉ちゃんだ。高校の授業が終わってから、習いにくるので、いつも、恐縮しながら、座敷に上がってくる。
舞踊というものは、徹底的に、才能を競う世界、である。才能のないものには、習得は適っても習熟は永劫適わない。それは、手の表情、腰と背の入り方、足の運び、顔の位置、そんな細かいからだの全てに、如実に現れてくる。おかしなことに、美を創造しながらもこの才能は、容姿の美醜に拘わらない。痩肥、小顔大顔、背高低、腕脚長短に、左右されない。もうひとつやっかいなことに、聡明さにも拘らない。いくら完璧に模倣できても、美の世界を構築できるわけではないのだ。これほどまでに、記憶が実践されない虚しい世界は、芸能に不可欠の要素なのだろうが、その基幹となるの感性であるが、こいつは、もうひとつ身体の感性という天賦のものが必要になる。敏捷で、切れが良く、肉体に宇宙を描き出さなければならない。しなやかであり、軽く、そして、なによりも、止め、に於ける、静寂の比喩が、その宇宙を銀河系からアルファ宇宙域を飛び出し、ベータ宇宙域まで拡大させなければならない。 才能のある者が集まり、そのなかで抜きん出るためには、並大抵の努力を強いられるのは勿論、そこもまた、才能の量によって順列が生まれてくる。巨大な才能の持ち主が、選ばれた地位にもっとも近い者となる。だが、現実に、トップの者が、才能ナンバー1かというと、これは、免状をもつもの全てが一堂に会して競わない限り、証明は出来ないだろう。 スランプ、というものもあるだろう。体調の善し悪しもあるだろう。だが、巨大な才能の持ち主には、そういう言訳は通用しないし、また、そうなることは考えられない。
6人のお弟子さんの内、明美ねえちゃんは、ひとり抜けていた。砂に水を撒くように、吸収して、蒸発する。ただし、蒸発するときの、蜃気楼は、ちゃんと残っている。そんな弟子だったそうだ。教え甲斐があると、母は、異常なほどの執着を見せる。片時も離れずに傍に控えさせて自分のもつ全てを教え込み、啓発する。あげく、時には、スナックを手伝わせたりしていたようだ。いけないことだけど、女子高生には、結構なアルバイトだったのかもしれない。明美ねえちゃんも師というよりも、もっと近しいものとして母を慕い、その息子である私も、及ばないだろうけど相応に気にかけてくれていたようだ。週末には、そのまま泊まって行くこともあった。
部屋は、余っているけれども、布団は、一組しかなかった。つまり、私の布団だ。14歳の中学生と16歳の女子高生が、ひとつの布団に眠る。私が眠る横に、服を脱ぎ、下着姿の明美姉ちゃんが滑り込んでくる。私は熟睡してるから、その状況を見たことがないけれども、明美ねえちゃんの話によると、私は、まるで、起きているかのように、寝言を言うのだそうだ。膝を立てるな、ちゃんと、服を脱げ、などと、え?って私の寝顔を確かめるくらい。
私は毎晩、どういう夢を見ていたのだろうか。明美ねぇちゃんへの、秘めやかな思慕も、夢に反映していたのだろうか。
私は、片思いしい、だった。恋というものをしらないのだから、仕方がないだろう。好き、という気持ちが、きっと、こういうことをいうのだ、という、今から思い返したら、著しい錯誤をしていたのかもしれないが、含羞が薄らぐわけでもないのだから、どうしようもない。そんなことどうでもいい、そう、おおらかで、底なしに明るく、少し、切ない恋心。抱く相手は、日替わり状態だった。気が多いのか?と悩んでしまうくらい、私は、色々な異性を好きになった。
小柳ルミ子に一目惚れしたり、いしだあゆみも素敵だなんてため息つきながら、中村晃子もいいなぁ、などと、定義を知らない、ただ、玩具を弄ぶように、片思いしていたのかも知れない。
学校で1人、教室で1人、そして、近所で1人、家で1人。4人は、片思いする。片思いする相手がいてこそ、私は、この世界に棲んでいられた。従順なままに。それは、きっと、今でも何ら変わらない。偏執する気質は、どうやら、親譲りのようだし、気が多いのも、そうなのかもしれない。
いつものように明美ねえちゃんは、二階に昇ってくる。階段板が軋む音が、break the still of the night 。黙(しじま)は、畳を踏みしめる圧縮音に掻き消される。抜き足、差し足、忍び足。優しい明美ねえちゃんは、電気もつけずに、そのまま、服を脱ぎはじめる。
私は、闇に慣れた目で、ずっとその動作を見ていた。下着姿でも格好良い明美姉ちゃんは、掛け布団を持ち上げて、身体を横たえた。
「コウチャン、起きてるんでしょう?」
「うん」
「どうしたの?眠れないの?」
「うん」
明美姉ちゃんは、僕の首を抱いた。そして、その首に、向き合うように、潜り落ちてきた。そして、
「コウチャン、キス、したことある?」
「あるよ」
「本当に?」
「うん」
嘘かもしれないし、真実かも知れない。ファーストキスなんて、どれを差すのだか、私はいまだに探し出せない。
「じゃ、お姉ちゃんとしてみたい?」
言うなり、明美姉ちゃんは、くちづけてきた。触れ合う唇、カサカサに乾燥していた姉ちゃんの唇から、舌が私の口腔にねじ込まれてきた。
たとえば私が恋を、恋をするなら、 四つのお願いきいて、きいてほしいの♪
窓から聴こえてくる歌謡曲、ネオンの赤や青、緑に黄色、オレンジにピンク、様々な色が、硝子を照らし出す。
お姉ちゃんは、眼を閉じていた。私は、驚きながらも、その舌の動きに、従っていた。からむ、もつれる、押す、擦れる、目紛しくって、ついてゆけているのか分からなかったけれども、私の全身は汗ばんでいた。
気が遠のきそうな時間が流れた。
お姉ちゃんは私のシャツを脱がす。そして、布団を被ったままパジャマの下も脱がした。ズボンを傍らに投げると、私の上に馬乗りになりながら、背中に両腕をまわして、胸を露にした。長い髪が、こぶりの乳房を隠しているけれども、私は、そうしたことを、ネオンがもたらせる僅かな光りを頼りに、つぶさに、眺めていた。
お姉ちゃんは、私の横に寝ると、下を脱ぎはじめた。脱がせる手が、私の腿に触れたままで落ちる。裸になったんだ。
「まさか、これはないよね、コウチャン」
訊かれた内容がよく飲み込めなかった私は、訊き返すことをためらっていた。何故だかは、答えたくない。そんな経験が、ある筈ないのだから。
だけど、私も、返事の替わりにブリーフを脱いだ。その瞬間だった、
「わたしも初めてだから、上手くできないかも知れないよ」と途切れ途切れに呟きながら、お姉ちゃんが私の上に被さってきた。
私はその夜、初めて女を知った。
「お寝坊さん、まだ起きないの?」
目覚めた私は、背中に朝日をいっぱい浴びて覗き込んでいる明美姉ちゃんの顔を、薄目で見上げていた。いつもの顔が、そこにあった。少しだけ、照れ臭そうに、はにかんだ頬が、紅潮していた。お姉ちゃんは、もう服を着ていた。裸のお姉ちゃんとの違いが、私には不思議に思えていた。別人だったんだ。そう、思えてならなかったのは、お姉ちゃんの裏を、初めて知ったからなのだろうか。表裏一体、だれでもそうなのだろうけれど、私には、まだ、そういう含みや、ややこしい虚飾なんかは、よく理解できていなかった。それよりも、
逆光のただ中のお姉ちゃんが、ただ、まぶしかったんだ。
勘定できないくらい同衾した私とお姉ちゃんの別れは、それから、半年後、お姉ちゃんが、晴れて免状を授与されたおめでたい日だった。恐らく、母の弟子の中でも、五本の指に入るだろうその舞いは、研究発表会を催した、会館の舞台でも、充分発揮されていた。小宇宙を体現するお姉ちゃんの力量は、観衆の誰の目にも、明らかだった。底なしの才能の息吹、そして、女としての艶美の萌芽、視線の動きひとつにも、それは、描写しきれていた。私は、呆気にとられたかのように、魅了されていた。
お姉ちゃんとは、十四歳のその日を最後に、会っていない。どちらが避けていたのかは、お互い様だったのかもしれないけれども、お互いの動向がずっと気掛かりだったことは、母から伝え聞く話では、確かなようだ。
会いたくて会いたくて仕方がないのに、会わないで叶う恋もあるのだと、私は、教えられた。
今でもときどき想い出すことは、もし、母がふたりの関係を知っていたら、赦してくれただだろうか、ってことなんだけど、その可能性は、少なかっただろう。なにしろ母は、どんな彼女を紹介しても、「ヤナカーギー」と裁定するのが癖だったから。「嫌な景」っていう意味で、つまり、美しくはない、ってこと。
今のカミサンなんか、十七歳の時に会っているけれども(キスしている場面に出くわしたんだ)、ため息交じりに、お前の趣味が解らん、とひどく嘆いていたものだ。母は八十を過ぎてはいるが、世界中の80代の全女性の中で、イチバンの美貌を維持している、と怪気炎をあげている。見たくはないけれど、80代インターナショナルコンテスト、なんてもし開催されたら、文句なしに、母は、十七歳の時にそうだったように、女王の座を射止めてしまうだろう。
母は、いつも、言う。美は、もたらされるものではなくて、積み上げてゆくものだ、と。基礎を固めて、積み上げて、練り上げ、塗り上げてゆく最後に、出現するものなのだ、と。
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