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  4月、眉月のある夜、

  男はとどいていた手紙の封を切った。

  そこには爛れ果てた情事が描かれていた。

  非の打ちどころのない造形が、潰崩するきわのうめきは、

  半分が皮肉(シニカル)だ。

  煙草に火をつけありきりまで吸いこむ。

  吐き出された紫煙が、たまたま掩蔽が隠れて現れた紫の輪を

  いそがずに包んだ。

  おののくようにさだまらぬ手で、いまいちど、読みかえす。

  花羞じらいて月閉じる、

  魚沈みて雁落ちる、

  美貌の喩えを、ふと思い出した男は、苦く顔を破った。

  男には、この瞬間が見えていた。

  こういった虫の知らせを、

  男は単なる『勘』だと信じていた。

  妄想を真実だと悟ったとき、

  ひとはどうするのだろう。

  だいじょうぶ、冷静だ。

  終わりの鐘はまだ鳴り響いてはいなかったが、

  けたたましく空気をよどませる前触れはひしひしと

  暗い部屋を迷いあるいている。

  せせりさがしては、ならない、

  漂失する浮標を憑けてはならない。

  モノローグは闇を手まねく。

  桶の内側をけずりあげる鉋をうちぜんと呼ぶが、

  けずりおとされるのが、よごれたものだけとは、

  かぎらない。

  意識を集中しなければ、のみこまれてしまう。

  男は、そのまま、心が悲鳴をあげるまで、

  考え得るあらゆるものを想起した。

  思椎に限界はない。

  愉快なおとこたち、

  最高だったおんなたち、

  逢ったこともない親爺とお袋、

  やがて、
  
  鳩尾の辺りから鎮まってゆくような風の途が通る。

  男は、みずからに問うた。

  それでいい、

  みじかく返事して、

  ある場所へ向かった。

  まだ、桜が散らないある処へ。



  2章


  蜻蛉獲りだと噂された。

  ひとっところに居を構えたことはないせいかもしれない。

  あみかごは、見えないが、しっかりゆんでに握られている。

  男が追い求めるのは、季節にこだわらない蜻蛉だった。

  春夏秋冬、その生に終わりはない。

  存在には、自然的・物的なものと、意識的なもの、

  さらに超自然的で非感覚的なものとがあるだろう。

  超自然的で非感覚的な物象とは

  そこにあっても、なくても、存在すると信じている限り、

  あるものを指す。

  そんなだれもが聞いただけでややこしくなるものを

  かれはずっと追い続けてきた。

  その仕上げが今度の旅になるだろう。


  桜はもう散っていた。

  遅かったのだ。

  
  蜻蛉はまたもや彼の傍から逃げた。

  移り香だけを残して。

  どこへゆけば見つけられるのだ、

  男に初めて焦りがあった。

  焦の字は、火と鳥でできている。

  夢のある火の鳥ではない、火で鳥をあぶる意だ。

  自信があぶられる、そんな気分を彼は味わっていた。

  彼が追うものを、人々はこう言う、

  未練、と。

  桜は散った。

  だが、彼の、「未練」は、いまだ散らない。

  夜の宿の心配よりも、

  行方を探さなければならない。

  必ず見つけ出す、

  男はそう決意して雑踏に消えた。


 3章


  夢は、その全てを人に語り伝えることは出来ない。

  しかし、われわれは、その夢のすべてを知っている。

  あるいは、忘れ、或いは、説明する表現を知らない、

  あるいは、筋道立てられない。

  しかし、われわれは、それでも、その夢の全てを見た。

  男は、南へ下った。

  金沢城から石川護国神社の参道を抜け、

  聖ヨハネ教会をのぼりおえた高台にその病院はある。

  精神科、神経内科、心療内科、内科、歯科があり、

  金曜日の午前9時、奴は外来を担当している筈だ。

  診療時間が終わる午後一時まで、

  男は時間を潰す。

  厚生年金会館の前を通って小立野通りに出るところに見事な桜と木蓮の樹が並んでいる。

  この道を、男は、浪人時代、この坂をのぼったことがある。

  ここだったのだ、ここから、おれの旅ははじまったんだ。

  午後1時の鐘の音が鳴り響いた。

  受付に呼び出しを頼む。

  院内放送が流れ、待合室で男は待っていた。

  麻倉さんは?

  精神科医山根さとるが現れた。

  男は立ち上がり、彼を捜す山根とすれ違いざま、なにごとかを、告げた。

  山根の顔色が変わった。

  石引有料駐車場まで、男は振り返らずに歩いた。

  山根は、黙ってあとに続いた。

  泥だらけの白いRVの前で、男は振り返った。

  来られると思っていました、山根医師が観念するかのような、

  低い声で会話の口火を切った。

  どこにいる?いっしょにいるのか?

  男は、山根の目を見据えながら問うた。

  その前にお伺いしたい、あなたは、彼女のどういう知り合いなのですか―?

  言い終えぬ内に、彼の頬桁(ほおげた)が燃え、陥没した。

  話し合う気は無い、黙って案内しろ、

  男はさらに低い声で強要した。

  おまえの自宅になんか案内するんじゃねえぞ、

  高尾2丁目だったよな、そこに嫁も娘もいる。

  電話番号は、076ー×××ー××××。

  山根の顔色が一層蒼くなった。

  どこにも逃げられないんだよ、もう、おまえは。


 4章

  臨済宗南禅寺派の修業道場である京都円光寺は、紅葉が見事なのだそうだ。

  同じ地名をもつ町をさらに南へ下ると、

  山科という聞き慣れた町に着いた。

  ここか?

  蜻蛉獲りは頬を腫らした山根がうなずいた。

  ひところ流行った2階建ての鉄骨モルタル造りのハイツだった。

  1フロアに6室、全部で12部屋の扉がふたりに向いていた。

  どの部屋だ?

  2階の右端の部屋です。

  視線で確認し、

  建物の両脇にある階段の左側からのぼる。

  訝しげな山根の表情に、

  男は小声で応えた。

  足跡で、気づかれるだろうが。

  部屋の前、阿藤という木彫りの表札がかけられている。

  あいつが彫ったやつだ。

  チャイムを2度鳴らし、数秒後に、もう一回鳴らす。

  それが合図なんだろう、

  しゃらくせえやつらだ。

  男は声に出さず、扉の吊り元側、右に移動した。

  ドアチェーンをはずしていないのだろう、10度の角度しか開かない。

  まぁどうしたのその顔!!

  なつかしい声がした。

  夢にまで見た声がした。

  この扉の向こうにその声の持ち主がいる。
 
  とうとう見つけた。

  せきまえに閉じられた扉が今度は90度に開いた。

  まーちゃんごめん、

  山根が女に告げた。

  女は山根の傍らに立つ男に視線を奪われて、膠着していた。

  あ、麻倉さん・・・・・・。


  
 5章

  相変わらず分量の目利きが下手な女のたてた

  どろどろの珈琲が、座卓に運ばれた。

  卓の中央に濃紫・黄・白の斑をばらまいた三色スミレが萩焼の花瓶に挿され、

  ふたりとひとりをわけていた。

  窓から西日が差し込んで、視界が暗い。

  
  阿藤真砂子、

  45になるのにまだその美しさに陰りがない。

  目元の隈が所帯の辛さを浮き彫りにしているようだが、

  白磁器のような肌は健在だった。

  男が彼女と知り合ったのは、

  1年前の大阪だった。

  大學進学する娘の部屋を探しにきたついでだったろう。

  伊勢丹の進出に合わせて大改装を行ったJR京都駅、

  贅沢過ぎるほどの空間をおしげもなく使い果たしたような、

  長い長いエスカレーターに乗ると、

  空に浮かんでゆくような錯覚に陥る。

  昇りきった屋上に、

  女が立っていた。

  麻倉さん、少女のようだ、と男は女の声を

  眩しい印象を繊細に上書きされた。

  
  そうちゃんは気丈に暮しているよ、

  男がはじめて声をかけた。

  元気にしてる?あの娘、料理なんかできないから。

  元気だ、ときどき、電話が来る。

  鎖骨が目立つほど痩せた。

  青みがかるほど白いその顔は、

  陽を背にうけながらなおも白い。

  男は、目のやり場に困るように、

  壁の傷跡を見つけた。

  数ヶ所、右上から左下に3本の深い引掻き傷。

  床のフローリングにも、同じ傷があった。

  爪か?

  そのときだった、

  沈黙してうなだれていた山根の様子が気味悪く笑い出した。

  ひっひっひっひっひ・・・・・。

  肩が震え出す。

  細かく左右に揺れたかと思うと、

  激しく上下に振動しはじめた。

  麻倉さん、帰って下さい!!

  女が叫んだ。

  少女の叫びだ、しかし、その音色は、

  真摯さにまみれている。

  まーちゃん、どうしたの・・・・・、

  二の句を継ぐ瞬間だった、

  山根が急に立ち上がった。

  だが、その背丈は山根じゃない。

  その影も、山根じゃなかった。

  逃げて!!!!

  女が叫ぶのと同時だった、

  山根の影はさらに膨らんだ。


 6章

  個人にはプライバシーがあります。

  交際する男女にも、共有して守らなければいけないプライバシーがあるんじゃないのですか?

  それを公開されたら、

  死にたくなります。

  配る方は着衣姿で、配られた方は下着だ。

  それで並んだ姿なんだ。

  
  そんなことしないよ。

  どうしてそんなことしなければいけないの?

  
  山根さとるって誰ですか?

  どういうお知り合いなのですか?

  
  相談に乗ってもらったお医者さんです。

  助けてもらってたけど、

  もう連絡してないですよ、

  あなたとお会いしてお付き合いはじまってからは。


  変ですね、あなたがそのひとに出したメールが、

  自分のところに着てるんですよ。

  
  そんなばかなことあるわけないじゃない。


  そんなばかなことが起きたんですよ。

  転送してさしあげますよ。

  彼誕生日なんですかもうすぐ?

  そんな内容でしたよ。


  ひどい、だれがこんなことしたの!!

  ひとのメールぬすむのはんざいですよ!!!


  待って下さい、自分は山根さとるなる人物を、

  このメールで初めて知りました。

  このアドレス、

  やっぱりあなたのだったんですね?


  むすめのアドレスなの。

  ぜんぜんつかってないのよ。

  どうしてアタシだとおもったの?

  
  115って半角数字、あなたの誕生日じゃないですか。


  こないのわかってるから、だしたの。

  へんじのない一方通行のてがみ。


  抒情的ですね。

  ひろびろとした丘の上で桜がさみしく散ってゆくようだ。


  かくしてなんかいないわ。

  いわなかっただけよ。


  

  学会?

  彼がここに来るのですか?


  しょうかいしてあげるね。


  結構です。

  それよりも、その連絡は?


  メールがきたの。


  そうですかメールがね。


  あ、かんちがいしないでね。

  ひさしぶりにあうだけだから、

  あなたもいっしょよ。

  
  逢いませんから、あなただけ、お会いください。

  自信がないです、自分を抑えられるかどうか。


  へんなの、じゃあわないわ。


  いいえ、あなたはお会いになる、必ず。


  あわないわよ、あなたがかなしむもの。


  おすきになさってください。


  しんじてね、あわないから。


  
  会いに行ったんですね?

  あれほど会わないって言ってたくせに。

  そこまでして会いたかったのですか?

  そこまでこだわらなければならない友人なんですか?

  メル友っていうのは

  それいがいの全てを犠牲にしても、

  だいじなひとなのですか?

  電話、出てくれませんね。

  このメールにも返事はないでしょう。

  山根さんてひとから、メールが来ていました。

  ここ数日のあなたと交わしたメールやメッセが貼付されていましたよ。

  説明してもらいたかったけど、

  返事もしてもらえませんからね、

  誤解されたままで平気なあなたが自分は羨ましいです。

  今夜、また会うのですね。

  身辺は潔くありたいと、

  自分は決めています。

  これがあなたの別れの言葉と受け取ります。

  ありがとう、いままで、あなたを好きでした。



  麻倉が呼ばれたのはトシオが失踪する前の晩だった。

  数年ぶりに会う彼は、憔悴しきっていた。

  心が病むと、肌も病む。

  肌が病むと、外見が変貌する。

  別人のようだった。

  トシオの依頼を麻倉はこころよく承諾して、

  安心して行ってこい、骨はひろってやる、

  細くなった背中を押した。


 7章

  世阿弥の能にも記された妖かしがいた。

  源頼政が紫宸殿上で討ち取った、

  頭は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似た妖かしも、

  同じ、

  鵺(ぬえ)と謂う。

  妖かしとはいえ、ひどい描写だ。

  ひとではない形相に、ひとではない体躯、

  ひとは変化(へんげ)しないと信じられているうえでの剪定(せんてい)だろう。

  きつねつきの女の形相を観たことがあるだろうか。

  ヒステリーの一種だと解説されても、にわかに信じられないほどの変貌ぶりだ。

  その顔は、きつねそのものだからだ。

  情に偏執した顔は、どうだろうか。

  憤怒の顔、それも、違うのだろうか。

  ひとは、心の顔をごまかせない。

  感情が激すれば、なおさらだ。

  純粋な意味で、ポーカーフェイスなどありえない。

  心の起伏は、その肌にまで現れるし、

  吐息にまでこもる。


  
  訥々怪事。


  ひっひっひっひっひ、

  山根の呼吸補助筋の強直性痙攣(つまり、しゃっくり)めいた声が止まった。

  やりたい放題、やってくれたよな。

  その声は、山根の声ではない。

  さとるちゃんやめて!!!

  女が絶叫する。

  麻倉は、異様な圧迫を山根の影から受けていた。

  影をとりまく大気が圧縮されて飲み込まれるような、

  異様、と形容したい緊迫だった。

  がちゃり、がちゃり、と重厚な金属音が2度響いた。

  影の形容が変わっている。

  手だった部分が、鋭い鉤爪をはやした熊手のようだった。

  こいつはいったいなんだ、

  麻倉は瞬時に攻撃を予感した。

  あいつもはじめは威勢がよかったぜ。

  おまえトシオに何かしたんだな?

  おなじところへ送ってやるよ、感謝しな。

  殺したのか?

  まーちゃん、そうなのか!!

  逃げて麻倉さん!!

  一瞬男の気がそれた。

  虚の間は、容易に危機をさそう。

  影の爪が右から飛んできた。

  寸前でよけた、つもりだった。

  だが、爪は男の衣服と胸の肉片を奪い去っていた。

  あの鉤爪は、のびるらしい。

  まいった、避けようがない。

  かっと熱くなる胸にを抑えると濡れている。

  血が噴き出ているらしい、それを確認するひまはなかった。

  じわじわと、死を予感させられる間合いがつめられる。

  あの手の内側に飛び込まない限り、勝機はない、

  覚悟を決めた男は、左に跳んだ。

  影がそれを追う。

  男は跳ぶと同時に、右に跳躍した。

  影に肩をぶつけ、その頭部を両手でわしづかみ、

  頭突きを鼻らしき箇所に3度いれた。

  ぐしゃり、と骨のつぶれる音がする。

  そのまま襟らしき箇所を両手でにぎり、
 
  背中を胸に合わせ、しゃがむように、腰に乗せた。

  背負い投げ。

  影が鈍い轟音をたてて床にたたきつけられた。

  受け身は取らせない。

  たたきつけたのだ。

  しかし、投げられながら影は、腕を一閃させて男の腿を裂いていた。

  ひるまぬ男は、顔面に蹴りをいれ、

  めまいをこらえながら肘打ちをつづけて落とした。

  抵抗されては、負ける。

  男は、2度、3度と、肘内を入れる。

  どこにいれているか、感覚がない。

  勝てるかも知れない、そう思った瞬間だった、

  後頭部を衝撃が貫いた。

  がしゃん、ばらばらと、砕けこぼれる鈍器の音が衝撃を押した。

  ま、まーちゃんなにするんだ・・・・・・

  ふりかえった男の目に、泣きながら佇む女が見えた。


 8章
  
  懈怠(けたい)の内に巣くうものは、

  どこからやって来たのだろうか。

  女は、幸せではなかったのかもしれない。

  夫と娘たちがいて、家があり、親族がいた。

  魔が差したのだ、とは、とても思えないくらい、

  その熱波は衝撃だった。

  量子力学で、空間の中に有限の拡がりをもつ波動関数のことを、

  波束(はそく)とよぶ。

  この波動関数が代表する粒子は、空間のその有限の部分でだけ存在の確率を有し、

  粒子のおおよその位置がこの部分の中にあることを示す。

  われわれは、有限の世界で生きている。

  そう、

  なにげないひとことから、

  すべては、はじまった。

  女が山根と知り合ったのは6年前だった。

  衝撃は直線でやってこない。

  波である。

  波動を少しづつ受けて、

  やがて、堰が切れるように、

  心を一変させるほどのつみかさねた事実をつきつける。

  どの時点が波の頂点で、どの時点が底部なのかは、さぐれない。

  事実、つまり、「愛情」を自覚する時点が、

  最後の最後の、瞬間だ。

  面白いものだ、最後の瞬間が、同時に愛情の発露の瞬間なのだ。

  女は、山根に逢った。

  逢い、抱かれ、なにもかも忘れて、

  磁気嵐のような情感に身をまかせた。

  この時間があれば、自分は、生きてゆける、

  とまで、確信する。

  家に帰れば現実が待っている。

  ならば、これは、夢実なのだと確信する。

  それから6年、

  女と山根の不倫は続いた。

  

  過酷な現実への代償が必要だった。

  身近で即応できるほど好ましい。

  男はごまんといる。

  だれでもいいわけではないが、

  女の嗜好はうるさくない。

  優しい、それだけでもいいくらいだった。

  そのひとりが、倉木俊男だった。

  麻倉と倉木は、高校生時代からつるんでいた。

  傍若無人と敬遠されていた麻倉は、

  倉木と知り合い、友好を深めるに従って変わった。

  蜻蛉は追うが、地に足をつけられるようになった、と、

  倉木を通じて増えていった友人達の眼の鱗を落とさせた。

  麻倉は、人がましく、なった。

  俊男が女を紹介したのは、

  自慢したいだけではなかったろう。

  女は、麻倉の携帯電話の番号を知り、

  ふたりで逢おうと、連絡してきた。

  少女の声だった。

  このまま年老いて、こんな声だいじょうぶなのか?

  要らぬ節介やきたくなるくらいだった。

  女は麻倉と違い、人見知りしなかった。

  麻倉のことを知りたがり、

  麻倉の警戒心は溶けた。

  だからといって、興味を抱いたわけではない。

  麻倉の感情はそれほど短絡ではない。

  女には、そうなるためのなにかが、欠けているように思えた。

  俊男も同じことを感じているのか聞いていなかったが、

  一筋縄じゃいかない印象を強めた。

  腹蔵のない女は、こういった接近を好まない。

  窒息、糜爛(びらん)、血液ガスに襲われたような即効性はないが、

  覚醒剤などの麻薬系でもない、

  しかし、染まれば、必ず身を滅ぼすであろう危険な匂いがした。

  少女が、みずからを少女と思わないように、

  悪女は、自分を、悪女だとは思わない。

  俊男は、からめ捕られるように、街から消えた。

  ふたたび連絡が来た時、

  声の変わりように驚いたものだ。

  なにかが起こる、

  麻倉はそれを危惧していた。

  こういう予感は、いやなことに、よく当たる。


  俊男から最後の電話が来た時、

  麻倉は彼を止めなかった。

  ひとりで行ってこい、

  そう背中を押してあげたつもりだった。

  そうしなければならないし、そうしなければいられない筈だから。

  だが、

  俊男は、消息を絶った。

  消えた女を追うように、俊男も消えた。

  女の家族に会い、

  女の友人達を軒並み訪問して得た情報をまとめると

  山根、という名前が浮かび上がる。

  俊男からは、女の過去を聞かされていた。

  普通の恋は、不倫に負けた。

  現実が夢に敗れたのだ。

  それを俊男に言ってやりたかった。

  選ばれなかった恋は、紙屑以下だ。

  拠所になりはしない。

  それまで築いた全てをおまえは喪失したのだと。

  だが、激昂もせず、話をつけるてくる、

  そうしなければならなくなった、と、

  決意の程を聞かされて、麻倉は何も言えなくなった。

  恋愛に騙し騙されたはないと、人は言う。

  だが、麻倉は傍観者の立場に立っている。

  彼にとっては、敵か、味方か、そのふたつがあるだけだ。

  一歩でも敵の陣地にいるものは、敵とみなす。

  ややこしいのはごめんだから、揉事はシンプルにしなくちゃいかん。

  やるかやらないか、我慢できるかできないか、

  それだけでいい。

  麻倉は、動いた。

  山根が、この失踪の中心にいることは分っている。

  だが、動機が解明できなかった。

  山根にも家族がある。

  俊男から女を奪ったとしても、女を家族以上に愛せはしないのだ。

  山根にとっては、適度の距離を保っていた、

  それまでの関係が、都合いい。

  逢いたいとメールに書けば、女は会いにくる。

  抱きたいと書いただけで、女は抱かれにくる。

  それで、良かったはずだ。

  だから6年も続けられたはずなのだ。

  女の気持ちなんて、分りたくはない。

  どろどろした情念なんぞごめんだ。

  山根の意図はどこにあったのだ?

  どういうつもりで女に接近したのか、

  あるいは、どうして女が山根を選らばなければならなくさせることができたのか、

  麻倉は、それを確かめたかった。


 9章


  北陸鉄道石川線どうほうじ駅と県道157号線に挟まれた

  安養寺に不当たりを出して閉鎖された小さな町工場があった。

  債権者たちによって、機械は運び去られ、

  残されたものは、

  塵埃(じんあい)と、錆びた螺子(ネジ)、

  年代物の薄いモルタル床の亀裂の錆色と、埃だらけのスレート壁だけだった。

  人のいない建造物は、老いる。

  まるで、吸収する人間がいないために、

  自由自在に立ちこめる澱んだ気が、

  異臭とともに内部を侵食していくかのようだ。

  スレートの留め金具の隙間から、

  陽光が差しこみ、モノクロの埃を映しだす。

  気がつくと、後ろ手に縛られていることを知った。

  麻倉は、ここに運び込まれた記憶がなかった。

  身動きしようにも、

  ご丁寧に、両足まで縛っている。

  誰もいない。

  少なくとも、一晩はここにいたのだろう。

  後頭部に激痛が走った。

  女がどうしてあんなことをしたのか、

  それほどまでに山根を庇いたいのは、

  失踪された理由に基づくのだろうか。

  考える時間はたっぷりありそうだ。

  意識に霞がかかり遠のくさなかに、

  麻倉は女の顔を見た。

  俊男もこの顔を見ただろう。

  裏切る顔は、醜い。

  愛するものの裏切る顔は、まして、醜悪だ。

  俊男はその顔に絶望しただろう。

  女の目尻の隈が、その顔を決定づけた。

  悪女とは思わない。

  これがもしかしたら女と言う種族の「素」なのだ。

  俊男は知り合った頃から女にもてた。

  少しだけワルで、たまらないほど優しい接し方に、

  容貌が加味されて、女達は夢中になった。

  その俊男をしても、女を御しきれなかったのだ。

  山根がそれほどいいのか、

  6年と言う歳月は、それほどの価値をもつのか、

  女にも答えられないだろう。

  車が停車する音がして、エンジン音がやんだ。

  がちゃがちゃと、鍵だろうか、施錠を解く音が響いた。

  音にも、埃たちは、反応する。

  こころなしか、咳を誘発された。

  開け放たれた通用口に、人が立っていた。

  逆行でシルエットから女だと認められる。

  影が近づいてきた。

  どうして麻倉さんが来るの?

  来ちゃいけなかったのよ。

  あなたまで犠牲にしたくなかった。

  女が抑揚のない声でしゃべった。

  俊男をどうした?

  知らない方がいいわ。

  生きているんだろうな?

  それも知らない方がいいわ。

  君も共犯なのか?

  変な訊き方ね、共犯?まるであたしたち犯罪者みたいじゃん。

  じゃ、俊男は生きているんだな?

  あなたにも同じところへ行ってもらうわ。

  どこだ?

  そんなに知りたい?

  ああ、教えてくれ。

  女は白衣を着ていた。

  ナース服だ。

  右のポケットから注射器をとり出した。

  麻倉さんは、なにもない世界って好き?

  なんのことだ?

  いまから案内してあげるわね。


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2006 05/06 00:44:57 | none | Comment(0)
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