栓抜きと林檎


荒城の月

  天守をもたぬ城跡に
  女連れで行ったのさ
  石垣だけのはだか城
  小高い丘は見晴らしがよくってさ
  デートコースになっていた
  S女学園の女の子
  髪はマッチャでハスッパだけど
  変な色気がどこからくるのか
  匂いじゃないし
  からだつきでもないんだけど
  なぜか妙に鼻先くすぐられてた
  ひっかけたのは
  国鉄環状線玉造駅
  ひとりで電車に揺られていると、
  後ろの車両からやって来て
  目の前に座った二人組
  ひそひそ内緒話にちらりちらりと
  こちらをうかがう仕草はシナだらけ
  無視していたら
  がらがらなのにひとりが立って
  横に座った
  まばたきしない視線が頬に
  やけつくような痛みがするのは
  その気があったからだろう
  そうして荒城の月
  観ようとこの街へきたのは
  3日後だった
  彼がいるって自慢してたくせに
  自分から誘ってくるなんて
  ふてぇアマだと舌打するが
  悪い気しないからはずかしい
  腕組み黄昏に影が重なる
  そのままベンチにへたりこみ
  夜空を見上げていたさ
  紅葉の赤がオレンジ色になずんでゆくさま
  恍惚と
  みとれている女の横顔を
  しげしげ視てると
  抱きたくなった
  肩に腕まわすと
  そっちもその気かよ
  ひかれるままに胸が胸にあずけられ
  しずしずかしげた顔に夕陽がさして
  閉じた瞳はかすかにふるえ
  唇が真っ蒼だった
  傑作なのは
  女が言ったこのことば
  彼もすきだけど
  あなたもすきなの
  嘘つくなよな
  独白は胸の内
  外に出してはなるまいぞ
  それがルールというやつらしい
  恋に素直ということは
  こういうことだと
  虚しさをまぎらわし
  性慾まみれの
  女を脱がす
  こころの中まで
  脱がしてやろう
  やらせたいだけなのだと
  教えてやろう

              秋陣營の霜の色
              鳴き行く雁の数見せて
              植うる劔に照りそひし
              昔の光いまいづこ
 
              今荒城のよはの月
              替わらぬ光たがためぞ
              垣に殘るはただかつら
              松に歌ふはただあらし
 
              天上影は替らねど
              榮枯は移る世の姿
              寫さんとてか今もなほ
              鳴呼荒城のよはの月

                        土井晩翠

1章

林檎が嫌いな男がいました。
あの甘い汁と、あの噛み心地が、
たまらなく、いやらしいと、男は云います。
女は、悩みました。
たくさん林檎を買ってしまったものだから、
どうにか、男に食べさせてやりたいと。
ミキサーもない殺風景な男の部屋の台所は、
申し訳程度の設備しかなく、小さな冷蔵庫と、
電子レンジだけしかありません。
何年も研いでいないような包丁はありますが、
果物ナイフはなさそうです。
皿だって、二枚しかなく、
何故だか、お箸だけが10対もありました。
ふと、窓に取り付けられた換気扇の傍に、
栓抜きを見つけました。
昔ながらの栓を抜く機能しかないシンプルなものでした。
林檎と栓抜き。
これでどうにかできないものか?
女はけんめいに考えました。
唯一男の趣味であるノートパソコンを借りて、
検索します。
栓抜きと林檎。
するとどうでしょう、
ヒットしました、1件。
さっそくクリックしてみると、
なーんだ、ただの画像じゃん、
でも、女は画像を凝視します。
写されているのは、
林檎と、CDと、裸電球(透明のやつ)と、ワイン用の栓抜き、鴨?
そうか、
女はあることを閃きました。
CDとか、余分なのある?
男に訊くと、あるよ、と返事。
借りて、さて、ここからです。
イマジネーションが女の脳裏をひだだてます。
CDと長い縄、
切れなさそうな包丁と、
栓抜き。



 2章

いやらしいことは
世の中たくさんありますね。
なかでもとびっきりにいやらしいものを
思い浮かべてみて下さい。
心理テストじゃありませんから
安心して最初に浮かんできたものを教えて下さい。
などといわれても
おいそれと浮かんでくるほど
自分の想像力がたくましくないことを
女は知っていました。
格好良い答えを造っていたら
”想像を選んではいけません
いやらしいもの
キーワードから発想されるものだけを
お応え下さい”
読まれているようだった。
アンティーク調の揺りイスに座らされて、
氏名、年齢、生年月日、住所、血液型、家族構成、職業
基本的なデータは惜しまないが
初潮年齢、生理周期、化粧品目、
おまけに
男性遍歴まで何故必要なのか
過剰だろうとは抵抗する気持ちが芽生えなかったわけではないが
相手は感情を表情に表わさない
人間なのか?サイボーグじゃないのか?
なんて男に対していると
答えることが義務なのではないか
などと思い直してしまうから不思議だ。
プロとはこういうものなのだろうか。
最初に?なんだったっけ
あそうだ
あたし、です
あなたご自身がとびっきりいやらしいのですか?
しっくいの壁のような顔に変化が看てとれた。
はい
あなたのどういう面にそう思えるのですか?
そんなことまで言わないといけないのか
男性遍歴まで訊くわけだ。
この男は聞き上手なのかしら
ままよ
出し惜しみはすまい、
洗いざらい告白した。
ひけよ
封印解いたのはあんただ
その責任をどうとるのか
見物だわ
函の底に残る「希望」とかいう
子供だましの解釈があなたにできるかしら?
希望はね、残っていた、のではないの、
飛びだせずに、かくれていただけよ。


  3章

こんな女がいていいのか?
男はそのような思考形態を
はなからもちあわせていないかのように
鼓動の高鳴りを抑え込みながら
女の話に相槌を打ち続けた。
栓抜きがあるとする。
そこに、1個の林檎が転がっている。
林檎をむくには、果物ナイフが必要だ。
女に問う、
ナイフを使わずに林檎をむく方法が解りますか?
女は即答した。
はい、やったことあります。
やはり、か。
男は嘆息した。
この女の精神鑑定を依頼された時から
いやな予感があった。
女の子宮的思考回路が
直感と副次感
2種類あるとしたら
この女は疑いなく
直感で動くタイプだろう。
理屈をこねないかわりに
反省もしない。
言い訳はすべてが虚偽で
とどのつまりに好きなようにしてよと居直る。
言行不一致をものともしない
精神力はみかけと異なるケースがおもだ。
実生活では苦手なタイプだが
逃げてはいられない。
男は女に手の平を表にして額にかざしてくださいと
命じました。
もういちど伺います
あなたは林檎を栓抜きでどうむいたのですか?
女は
今度も即答しました。
人差し指と中指でわっかをにぎり、
握るところを林檎に突き刺してねじりこむように押し込む。
林檎にいびつな穴が開く。
ほとばしる汁が
甘い匂いをただよわせるわ。
匂いに包まれながら
手首を右、左と
交互にひねり、穴を更におおきくしてゆく。
貫通したら
縄の先を穴に通す。
中程まで通したら
CDの穴を縄に通す。
30センチほど通したら、
縄の先をひっくり返して、
林檎の穴に戻す。
仕上げは、切れなそうな包丁。
栓抜きのわっかに包丁の先端を通して、
折る。
力が足りないから
右手で持ったまま栓抜きのそばに全体重をかける。
刀の構造は、横からの力に脆い。
名刀はたゆみやねじれについてゆくが
安物の鋼は
ねばりけがないものだ。
折れた刃先を林檎の頭に刺してCDの腹で押さえつける。
刃先は頭にのめり込んで
かくれる。
穴は残るがかまわない
隠せるからだ。
説明する女の目が光ったように見えた。
林檎の果肉は
きれいなピンク色だったわ、
紅や碧のフリルをつけて。

4章

あの女と出逢った日は
いつものように下痢して最悪の体調だったぜ。
5年前になるだろう。
よしゃいいのにすすめられるまま
パソコン買込んじまってよ
キーボード覚えるにゃここに入会して
とにかくキーボードになれろなんてぬかしゃーがる。
入ったのはメーリングリストとかいう、
出会い系なら興味あったけど
出会わない系とかいう信じられないとこだった。
そこは指定されたアドレスにメールを送ると
会員全部に出したメールが配信されるシステムらしい。
自己紹介をかねたメールを7日以内に出さなきゃならない、
でなければ退会処分にするとかなんとか
脅迫まがいだ注意事項だらけの規約を読んでる内に
眠くなってくらぁ。
短かったがなんとか作成できて出したら、
驚いたことに
ものの数分で返事がきた。
まさか読む奴なんかいやしめぇって高を括ってたら、
来たのさ。
女だ。
好意的なのは文面でわかった。
続いて男からも2通来た。
どっちも、先輩風ふかせたイヤミな文体だった。
返事をかかなきゃならねぇって、
面倒臭いかなと思ってたら
案外そうでもないようだ。
女相手なら書けるんだなぁ、これが。
何度か会員全員に読まれるメールを女と交していると、
あるとき、女がブログを書いているから読んでね、
とまたまた訳のわからないことを書いていた。
ブログ?なんだそれ。
どうすりゃそこへ行けるのか、
苦労したぜ、まだコピー&ペーストも知らなかったしな。
行ってみると、
なるほど、日記のようなものだということが
判ってきた。
コメントを入れると、すぐに返信してくる。
またコメント入れ直すと、即座に返信される。
そのうちに、女が、コメント欄にメールアドレス入れるとこがあるでしょ?
たしかにある、ここに、アドレスをうちこみゃーいいんだな、
コメント入れたら、今度は、なかなか、返信されない。
変だな、って待っていたら、やっと着た。
メールを確認してくれと。
メール?
確認したら、北吉佐和子という女からの新着メールだった。
だれだ?
開いてみると、女だった。
おまけに、Yahoo!とかMNSとか、goo?ライブドア?
自宅の電話番号から携帯電話の番号にメールアドレス、
この女いったいいくつアドレスもっていやがんだ
っていうくれぇいくつも並んでいやがった。
誰にも教えていないからメル友になろう、
メル友?メール友達ってことか?
歳もわかんねぇし、住んでる地域は郵便番号から解るんだろうが、
怪しい女だ、とは思ったが、
寄せてくる感心の深さには、
妙な迫力がある。
こうしてしばらく
女との個人メールのやりとりがひんぱんに続いた。
習慣ってのは
おかしなもので、
あるものがちゃんとありつづけるだけで
なくてはならないものになってしまうようだ。
そうなると現金なもので
夜がとても待ち遠しくなってくる。
夕方になると、
あともう少しでメールがくる、
なんて、年甲斐も無くわくわくしたりしてよ、
がきじゃーあるめぇーし、
こんなとこ誰にもみせられねぇな。
メッセンジャーとかいうチャット?みてぇなのもダウンロードさせられて、
まるでもう、電話で話してるような感じだった。
キーボードにもそろそろ慣れてきたころだろうか。
女が電話してもいいか?って書いてきた。
毎晩、メッセンジャーで話てんのに、どうして電話なのか、
よくわかんねぇけど、ああ、って返事したら、
番号教えて、いつかければいい?
すぐでもよかったが、
賎しいような気がして、
明日の午後4時でいかがですか?
女は快諾した。
電話、思えば、これが間違いのはじまりだった。

 5章

その男の存在に気づいたのはいつだったろうか。
課長に昇進して
すぐくらいだったろうか。
娘たちは受験前でぴりぴりしていたが
家庭は順調だ。
妻はまだ充分に若々しく
近頃ますます綺麗になったような気がするのは、
口に出しては言えないが
心底惚れているからだろう。
可もなく不可もない、
ひとは中庸こそが指針足る。
安定こそが順調を継続させる。
そう、信じていた頃が
遠い昔のようだ。
離婚はしない、
なにがあろうと、
しない。
裏切られたことを知った時、
ひとはどうするのだろうか。
憤りのあまり相手を打擲するか?
悲しみのあまりにその場に泣き崩れるか?
何も考えられなくなるほど茫然自失するか?
それとも
死ぬか生きるかの選択をおもいうかべるか?
いいや
復讐を誓うものだ、
自分自身の穢されたものに、固く。
非は
認める、ないとは言いはしない。
だが、そのことだけで、
家庭を壊す権利が妻にあるのか?
ともに維持するという義務を誓い合って結婚したのではないのか?
高校生時代好きだった泉谷しげるの「春夏秋冬」の歌詞は、
若かった自分のバイブルだったが、
よくそのことで友人に笑われた。
隣を横目でのぞきじぶんの道を確かめる
またひとつ狡くなった
とうぶん照れ笑いがつづく
汚いところですが暇があったら寄ってみて下さい
ほんのついででいいんです
いちど寄ってみてください
おまえどうしてこんな投げやりな歌詞に共鳴できるんだ?
そう友人は批判する。
彼らにはこの歌詞の意味を理解できていない
そう
その頃の自分は鼻持ちならないくらい高慢だった。
だが
本当の意味でそれを理解していなかったことに気づかされたのは
変わり果てたと嘆く自分自身だった。
投げやりを虚無と勘違いし
あこがれた自分は
刺激を欲していた。
欲しても手に入らぬものは
いつしか憧れでなくなり
少年の気負いだったのだと気恥ずかしさを覚える歳に達した。
急進的だった筈の少年は
見るも無残な保守的中年になりさがっていた。
虚無?
今の自分にはなんと縁遠い言葉だろうか。
ひとはつつましやかに
やましいことことなど考えず
つかねばならぬ嘘を方便と思い
妻と子を愛し
家庭を守ってゆくことこそが
人としての勤めであり定めであり
最高の幸福なのだと
いつしか
信じていた。
だが
信じていたのは、
自分だけだったらしいことを
自分はよりにもよって
大切な家庭のパートナーに知らされた。
はたと気づいたのだ、
自分があこがれたのは、
退廃なのではなく、
ましてつつましやかな幸福などでもなく、
ぼろぼろにすり切れるまで心身を病むような
剥落の境遇だったことに。

 6章

電話の声は若い女を想像させた。
若い筈がねぇ、
オレより年下だが少しの差でしかない。
1時間の長電話なんて久し振りだった。
何を話そうか決めてはいなかったとはいえ
よくもこれだけ話せたものだと述懐しきりだ。
電話を切ると、女からメールが来た。

どう返事していいか
分らずにしばらく考え込んでしまった。
出会わない系じゃなかったのかあのメーリングリストは?
たしか規約に会員間の単独メールを禁ずる、とかなんとか
あったんじゃねぇのか?
ってことはバレたらクビかよ。
あの女の度胸はただものじゃねぇ
そうただものじゃねぇんだ
そのときどうしてそう思えなかったんだろうか
なさけねぇけど仕方ねぇことかもしんねぇな
オレはそんときもう女に惹かれていたからよ
言葉と声だけだぜ
信じれるか?
だれに言ったって信じてもらえねぇよ
こんな世迷い事。
それからも毎晩、女とはメッセンジャーしまくって
メールは合間合間、おまけに携帯メールまで来だしてさ
もうオレの日常は女と離れていながら同棲しているようなもんだった。
女の手練手管はたとえばこうだ。
メールの中に必ず一文だけ気持ちを投影させやがる。
乗っちゃなんねぇから
冷静を装って普通に返すと
返事にゃ二文入ってるんだ、これが。
たまらずに本音を書けばよ
返ってくるのは気持ちのこもってねぇメールだぜ。
まいるよなぁ。
上げたり下げたり
女の思うままさ。
女は人妻だった。
旦那と娘がふたり。
受験前ってぇから、20歳まえだよな。
人妻ってのは暇があるのかね
それとも無理して作っているのかね
女のメールは機関銃のようにオレの
胸を蜂の巣にした。
痛くないんだ、これがまた。
むしろキモチイイくらいだからな
変になっても仕方あんめぇよ。
女が逢いたいって言い出したのは
半年後だったろうか。
写メとかいうよ
そのころ急激に流行りだした携帯電話の機能に写メールってのが出来てさ
それ送ってくるんだよ
おりゃ驚いたよ
聞いてた歳にとてもじゃねぇが見えねぇ
おれの女房とえらい違いさね。
女房ときたら女より年下のくせしやがって
まるっきしトドじゃねぇか。
喰っちゃ寝喰っちゃ寝してたら
だれだってぶくぶく肥るってもんだ。
おまけに化粧はおろか
着るものだってジャージにスェットばっかしさ。
抱く気になんかなれるわけがねえ。
だがな
娘は可愛くて仕方ねえんだよ。
一緒にお風呂入ってくれるしよ
オレなんかをパパって呼んでくれるんだぜ。
毎晩オレが女とメッセンジャーで話してる時
娘はオレの膝で眠ってるのさ。
頬撫でたり、髪の毛指で梳かしたりしてさ。
かつての面影のかけらものこってねえ女房と
愛くるしい娘
おれはきっと幸せだったんだ。
女に出逢うまでは。

7章

妻がパソコンを習いたいなどと言い出したのは
なにかの殻を破りたかったのだろうか。
それはつまり
飽きた、ってことだろう。
固定した日々の営みを
どうして飽きるなんてことが出来るのだろうか。
妻の言い分は理解できた。
娘たちも手が離れ
暇ができた
このまま老いてゆくのに
堪えられなかったのだろう。
妻は若い。
そしてきれいだ。
なにもしなくてもいいよ
君はそのままで充分きれいだよ
そう言ってやりたかったが
照れ臭くって言えない。
娘たちも私に似ないで妻に似たおかげで
美少女だ、親の贔屓目じゃない。
自慢の妻と娘。
私は幸せだった。
妻と老後をどう過すか
そんなささやかな夢に
悦に入ったものだった。
私は甘い亭主じゃないつもりだが
厳しい亭主でもないつもりだった。
妻は
あなたはあたしに関心がなくなってるのよ
などといじけるが
私は妻への関心をなくしたことなんかいちどもないと
神にだって誓える。
パソコンを買った妻は
予想に反して教室にまで通い始め
ローマ字入力とかいう方法でキーボードを毎晩たたきはじめた。
娘たちの手前、
寝室にはベッドをふたつ入れてあるが
私が帰宅する午前0時前でも
妻は私のベッドには入ってこなかった。
自分のベッドの上
電気スタンドの下でかたかた無機質な音を立てている。
いいかげんにしろ
言わない私はどうかしていたのだろうか。
物分かりのいい男になろうと思わなかった私は
消えていた。
私は老いを感じはじめていた。
もっと仕事を
もっともっと仕事を
もっともっともっと刺激を
私は求めた。
そうしてその日がやって来た。
いつも寝室でパソコンにつきっきりの妻が
その夜はダイニングで私を待っていた。
食事は?
済ませてきた。
風呂になさる?
うん。
風呂場で私は疑心暗鬼にとらわれてはいなかった。
いつになく優しい妻の対応に少々面食らいはしたが
なんかの記念日かなと思い出そうと努めるが
思い出せるわけがない
無駄だと諦める。
今夜は久し振りに抱いてやろうかな
などと普段より念入りに全身を洗った。
バスロープを羽織って
ダイニングに戻ると
妻が珍しく化粧をしていることを発見した。
この時間肌に悪いからと必ず化粧を落としてたくせに今夜に限って
どうしてだろう。
かすかになにかが狂っているぞと
私は警鐘を鳴らす不安に駆られていた。

8章

女と最初に逢ったのは
やっぱり腹の具合が悪い時だった。
女は
写真よりもずっと綺麗だった。
人妻だなんてとても思えない容姿に
惹かれない男なんているかよ。
オレは一発で惚れてしまった。
物にしなけりゃ
本能がうずいた。
女は何時間もかけてオレの住む街までやって来た。
カミさんにばれたらことだから
隣町にしようと説得したのだが
オレの住む街がみたい
だなんてさ
また殺し文句吐きゃーがって
げてぃげってぃややーひー
立ちくらみしそうなくらい
愛おしくなっちまった。
げてょげてぃややーやーやーや
うぃあれでぃままれーど
耳鳴りがしてきやがった。
女はメールと同じで
積極的だった。
どこかつれてってって言われてよ
とりあえず喫茶店にって誘ったら
嫌いとぬかしゃーがる。
じゃ映画でも観る?
って聞くと
疲れるからいやだ。
わがままもほどほどにしやーがれ
って言えりゃいいんだが
言えっこないよな。
惚れたが負けさ。
女はまだひとことも
オレを好きだとは言っていない。
オレだって言ってやしないが
どうみてもオレのほうが分が悪そーだ。
高校生じゃあるめーし、
明治維新の廃藩置県だとかで
天守閣を取り壊した城跡の公園に女を誘った。
あのS女学園の女とデートしたとこだ
やなこと思い出しちゃったぜ。
あれからトラウマになってしまってよ
オレは一度もきたこたねーんだ。
なのに女は城跡がいい
だなんてガイドブックでも調べてきたのか
オレを先導するいきおいだった。
ここだ
ここであの女を脱がしたんだ。
脱がしてさんざん弄んで
ゴムつけなかったな
どーなったんだろーかあの女
まぁ妊娠してりゃなんか言ってきたはずだろーから
それもないってことぉぁ
できてないってことだって解釈したけどよ
オレも悪だったな。
さいてーじゃねぇか。
あの女、泣いてたっけ。
こんどいつ会う?
って余韻にひたってるの邪魔されてよ
かっとなって
おまえみたいなパンパンにどと逢うかよ!
そーいったら
ぴーぴー泣きゃーがって
まいったぜ。
言い過ぎたな
ごめん、ってひとことが
あんとき、どーしても言えなかったなぁ。
ほんとうはよ、だきしめてやるだけでもよかったって
なんど思ったか、あの女に教えてあげてぇよ。
まぁ、いいさ。
もうとっくに時効だぜ。
とやかく後ろ指さされることだってねえ。
いけないいけない
そんな回顧してる場合じゃねぇ。
しかしこの女
どーしてこんなとこがいいんだ?
おいおいそのベンチはやめよーぜ
管理局はなにしてやがんだ
昔のまんまじゃねーか。
あたしにはね
姉がいたの。
女がひとりごとでもするかのように
空に向かってつぶやいた。
おねぇさん?
うんとっても意地悪だったけど
とっても大好きだった。
そっか、おねぇさん今どうしてるの?
あそこにいるよ。
え?どこに?
女の視線は空を見つめたままだった。

 
 9章

済みませんがもう一度ゆっくり説明していただけますか?
林檎を栓抜きでむく
そんなことは可能なことではない。
矛盾律の原理だ。
栓抜きは果物ナイフでも果物ナイフでないものでもない。
従って林檎をむくために必要なものは
果物ナイフを用意するか、むくのを諦めるかだ。
むけるわけがないのだ。
切れない包丁があるのに
無理すればむけなくもなかろうに
何故女はそれができると即答したのだろうか。
その説明たる難解きわまりなく
ゆっくり説明されても
とても理解できるような方法とは思えなかった。
切れない包丁、縄、そしてCD
画像に並べておきウェブ上で公開し
検索でヒットさせる。
1件しかヒットしないように確認済みだ。
形式論理学の基本法則には
同一原理・矛盾原理・排中原理・充足理由の原理の4つがある。
排中原理とは
一般的には「AはBでも非Bでもないものではない」という形式をもち
Bと非Bとの間には中間の第三者はありえない
ということで
矛盾原理を補足するものである。
未来事象に関する命題については真でも偽でもない
第三の可能性を認めざるをえず
ここから
記号論理学では多価論理学の特色として
排中原理を認めない場合があるそうだが。
同一原理とは、「AはAである」の形式で表されるもので
概念は
その思考過程において同一の意味を保持しなければならないということ。
つまり矛盾原理は
「Aは非Aでない」
または「SはPであると同時に非Pであることはできない」
という形式で表す。
この原理は
一定の論述や討論において概念の内容を変えてはならないことを意味し
同一原理の反面を提示する。
最後の充足理由とは
事物の存在や真なる判断はそれを根拠づける十分な理由を要求するという
正しい思考の守るべき原理である。
思考の法則は多岐にわたっているが
難解なことはなにひとつない。
だれにでも理解できるから法則なのであり
原理たりうるのだ。
しかるにこの女は
原理を根底から崩しかねない理論で武装しているのか?
女は説明を始めた。

 10章

もっともあわれな女はどんな女かな?
女が妙なことを訊く。
なんか聴いたことあったな
だれだっけ
そうそう加川良だったっけ
たしか病気の女より死んだ女より
もっとあわれなのは
なんだったっけ
ちきしょう、おもいだせねーや。
死んだ女より、そぅだ
忘れられた女だ。
そう答えると女は
唇を横にひくようにして微笑んだ。
正解かよ、どーなんだ?
待てど暮せど黙り込んじまって
相も変わらずなにがいいんだか
空ばっか観てやがる。
もういいかげんにしろよ
っていわなきゃって思ったら
様子に気づいたのか
ねぇあたしを好き?
っておいおい、ストレートだね。
うん、好きだよ。
答えると女は破顔した。
アタシもあなたが好きよ。
よくもまぁ照れずにここまではっきり言いやがるぜ。
林檎好き?
嫌いだよ。
どうして?
あの甘い汁が嫌いなんだ、君は?
大好きよ。
小さい頃おかぁさんがよくすってくれたの。
ぼくもだよ
ただし
風邪ひいたときだけだったけどね
なんせビンボーだったから。
それには返事せず女が話題をさっと変えたが
それがまたとんでもない話題だった。
ねぇ、アタシをどっかつれてってくれるんでしょ?
え?
喫茶店も映画も嫌だって言いやがったじゃねぇか。
食事する?
おなかすいたの?
いいやすいてないけどきみは?
アタシは胸がいっぱいでおなかすいてないよ。
じゃどーすんだよ
いくあてなんか
こんなおっさんにわかるかよ。
何年デートしてねぇって思ってるんだ?
オレはこーみえても真面目なんさ。
所帯もってよ
あんなトドみてぇーな嫁でも
愛してるんさ。
だからよ
浮気なんてしたことねぇぜ。
そりゃ何回かふーぞくは行ったけどよ
ありゃつき合いで仕方なしに
ってやつだから浮気にゃなんねーだろ。
その証拠に
オレの胸に手あててみろよ
どれだけドキドキしてるって思っていやがるんだ。
ね、あそこに連れてって。
女が指さした先には大きな河があり
川縁にラブホテルが並んでいる。
ホテル?
はぁ?
どぅ言うつもりだ?
あそこでゆっくりしよーよ。
なんて女でぇ、女にホテル誘われたのって生まれて初めてだぜ。
なんでぇ、格好つけてたって、
おめぇもやりたいだけかい。
人妻ってこんなに尻軽いのか?
ちょろいもんだぜ。
いいのか?って気後れが
年取ったってぇことだろーなぁ
かまうもんか
やられたいんだからやっちまえば。
女は顔色ひとつ変えず返事を待っていた。
綺麗だった。


 11章

あなたごめんなさい
あなたを嫌いになったわけじゃないの
いまも好きなの
でもね
怒らないでね
他に好きなひとができたの
ううん、あなただけよ
大好きなのは
でも
あなたには黙ってたけど
もう何年もそのひとと会ってたの
ゆるせないでしょ?
ううん、許して欲しくってこんなこと告白してるんじゃないの。
アタシはけじめをつけなきゃいけないの
罰はうけるわ
なんでもあなたのいうとおりにします
ですから
離婚してください。

薮から棒になにいってるんだ
本気か?冗談だろ?
嘘だろ
本気かよ
どうして
どうしてそうなるんだ
なんでなんで不倫なんかしたんだ
何故
黙っててくれなかったんだ?
教えさえしなければ
これからも夫婦でいれたじゃないか。
おまえは残酷だな。
私がおまえの不倫に気付かなかったと想ってるのか?
知ってたよ。
旅行嫌いのおまえが
どうしてちょこちょこ同窓会やら
研修会なんかに行くのか
バレっこないとバカにしてたのか?
私はおまえの亭主だぞ?
何年一緒に暮してたと想ってるんだ?

ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
アタシは最低な女です。

娘たちは知ってるのか?
まさか知ってるんじゃないだろうな?

ええ、知っているわ。
ママ恋してるの、だめよね
訊いたら
パパにばれちゃ絶対ダメだって
応援されたわ。
怒らないでね
娘たちはアタシとあなたがずっと仲良しでいてくれたら
それだけでいいのよ。
あなたがいてアタシがいる
それだけでいいのよ。

おまえたちは
おまえたちは
どうすればいいんだ私は?

離婚してください。

いいやそれはできん。

いいえ、離婚して下さい。
あなたのために。

私のため?
私のためなら
その男と別れてくれ。
許すから。

許されなくっていいわ。
あなた我慢なさらないでいいのよ。
叩きたかったら叩いていいのよ。
好きになさってください。
でも
離婚はしてください。


そんなにその男がいいのか?
私よりその男がいいのか?

ええ。

残忍なんだなおまえは。
そんなにはっきり肯定しなくてもいいじゃないか。
な、 娘たちのために
やり直そう。

いいえ、
娘たちにもがまんさせます。

何言ってるんだ
気は確かか?

はい。
意志は変わらないわ。
お願いします離婚して下さい。
ここに、印鑑押して下さい朱肉も用意しています。

こ、これいつ取ってきたんだ
離婚届じゃないか。
本気なんだな?

ええ、本気です。
お願いします
慰謝料が欲しければ
一生かかっても支払います。
アタシはなにもいりません。
身ひとつでいいの
あなたと暮したこの家を出れれば。

女はすがる夫と娘たちを振りきって家を出た。


 12章

林檎どうして嫌いなの?

え?何言ってるんだよ、説明したじゃんか。

そーだった?忘れたわ。

じゃそれでいいじゃんか。

アタシがききたいのはほんとうの理由。

なんだいそれは?

アタシが知らないとでも思ってたの?

なんだよ、それ、変だぞきみ。

家を出た女は男の街へ移り住んだ。
離婚しない男の家から
歩いて数分の距離だったから
男は猛反対したが
女は応じず強硬に賃貸マンションを借りて
住みはじめた。
時々でいーの
奥さん愛していいのよ
アタシは時々でいぃの
お料理作って
毎晩あなたを待っているわ。
思い出したら来てね。
そしてたくさんセックスしてね。
男は応えられない。
近所の目がある。
いくら注意深くしていても
どこかでだれかが見ているものだ。
いつか必ずばれる。
そうなれば地獄だ。
どうーしてなんだ
どーしてこの女はこんなとこまで来やがったんだ?
度胸どころか行動力まで人並み以上じゃねぇか。

アタシのおねぇさんね
お空の上から毎日あたしに微笑んでくれるの。
いいでしょ?
そしてねこう言ってるの
恋は林檎よ
甘い果汁にくらくらするけど
芯はすごくにがいって。
林檎の皮は食べられるけど
食べなくてもいいものなのね
どっちでもいいんだけど
食べるか食べないかで
その恋は決まってしまうのよ。

おいおいなんだよそれ、
そんなものひきずって。

あなたは皮食べないよね。
おいしいとこだけ食べるよね。
アタシもそうなの。
ほら
苺ショートケーキ
アタシは真っ先に苺をほおばるわ。
あなたもそうでしょ?
それってね
積極的なんだってさ
なんかに載ってたわ。
セックスのことよ。
大胆なセックスを強要するんだって、
そう思う?

なんだそれ?
林檎だろそれ?
変だな傘かぶってるのか?
あ、CDじゃんか、ひどいなぁ
もう聴けなくなるじゃないか。

いっぱいしたね
アタシたち。
気持ちよかったよ。
ありがとね。
忘れないからね
アタシあなたのこと絶対に忘れないからね。
だから

これ食べてくれる?
うん
あなたのためにアタシフラレテあげる。
怖いでしょアタシが?
わかってたよ
うまくいきっこないって
かなしいね。

ごめんね
大好きだよ。
でもぼくは別れられないよ
きみとずっとこうしていたかった
ごめんね
その林檎食べるよ。
でもどーして縄通ってるの?
変だな。

ごめんね
ごめんね
ごめんね
大好きだったよ
ほんとうに大好きだったのよ
一生にいちどの恋だって信じてた。
こうしてあなたと一緒に暮せるなんて
夢がかなったの。
だからアタシはもう後悔なんかしない。
あなたの想い出だけ抱いて
帰ります。
丸かじりしてね
食べにくいでしょうけど
そのほうがあなたらしくていいわ。
あなたの食べる姿も好きだったなぁ。
大好き。

仕方ねぇな
最後に頼みきいてやろぉーか。
しかし林檎なんてな
なんてぇ皮肉でぇ。
あの女の匂いじゃねぇか。
どーしてだろぅな
あんとき
あの女の涙は林檎の匂いがした。
ぐすんぐすん泣きゃーがって
だれにでもやらせるくせに
どーして泣くんだ
オレだけ特別ってか?
まさかな
あの女のことだ
すぐにまた男ひっかけて
やりまくってたろな。
あと2〜3回くらい
やってやったらよかったなぁ
惜しいことしたぜ。
でも、う
気持ち悪いぜ
この匂いなんとかならねぇーもんか
吐き気がしてたまんねぇーぜ
このCDどけてもいいかい?

だめよ
食べにくいでしょうけど
最後のお願い
そのまま下から食べて。

かぶりついた男の首に女が縄を巻き付けた。
好きだなぁ
男はそれを訝りもせず
いつもの愛撫をしてやろうと
あれこれ考えた。
女は更に縄を巻き付けて引っ張る。
閉まる。
林檎を半ば食べ了えた男の上あごが燃えた。
おびただしい血が口からほとばしる。
しかし首に巻かれた縄と一体となった林檎は口から離れない。
女が後方で男を見下ろしている。
両手で大きな石をかかえていた。
石垣のがれきだった。
あの城跡の。


栓抜きは?それじゃ林檎をむいたことにはならないでしょう?

いいえ、ちゃんとむけましたわ。

そこがねよくわからないんですよ、あなたの説明だと。

利口そうなのに、鈍感なのね。
栓抜きを男の割れた後頭部に押しつけるのよ
ぐりぐり
これでもかと。
そしたら窒息しそうな男の歯で
ちゃんと林檎はむけるのよ。

最終章

妻は罪を犯しました。
それでも私は離婚しません。
田舎に健在な両親に説教くらいました。
娘たちも受験前だというのに
可哀想なことをしてしまいました。
社内で噂になっていることも知っています。
上層部で私の処遇を判断されているでしょう。
転勤は間違いないでしょう。
隣近所のママさんたちの井戸端会議の格好の
ネタをていきょうしてしまったようですね
この家にもうすめません。
がらがらと崩れた私の社会的地位
しかし
それがどうした?
と言ってまわりたい気分なんです。
わかっては貰えないでしょうね。
私はまだ妻を愛しています。
ばかだとか情けないとか
なんとでもおっしゃってくださって結構です。
浮気された妻を心の底から許してあげる夫がいても
いいじゃありませんか。
あいつは私のつれあいなんです。
妻が私にこう訊いた事をこのごろよく思い出します。
結婚の先にはなにがあるの?
あのころの私には答えられませんでした。
妻の愛を盲目的に信じきっていたからでしょうか
いいえ
違うかも知れません。
私には信じるとか信じないとかいう言葉すら
必要ないくらいそれはありきたりなことだったのでしょう。
妻の姉は女子高生の卒業を前にしてこの世を去りました。
書き置きが見つからなかったために
自殺かどうか審議されたでしょう
結局事故として扱われ
姉のすべての苦悩は荼毘に付されました。
苦悩とはなんだったのか
私は妻のこの犯行でようやく思いついたことがあるのです。
姉は妊娠していたそうです。
その相手はだれなのか
推察の域をでませんが
妻の不倫相手である事件の被害者ではなかったのか
姉からなんらかのキーワードを
授かっていたのではないかと推察しました。
まだ幼かった妻にとって
姉の死は衝撃的だったでしょう。
死ということをまだ出来ていない少女の
生前様子の違う姉からもれ聴いた
途切れ途切れの単語達は
妻になにかをすりこんでいったでしょう。
妻は林檎が好きでした。
幼い頃から好きだったと聞いています。
他の果物にはない異常なほどの執着をみせる林檎
これが姉の遺した核心だったのでしょうか。
運命は皮肉だなどと申しますが
私はそうは思えません。
偶然か必然かなども
私は思ってみたこともありません。
結果をどう論じたところで
過去は変わらない。
未来を変えたいのなら

しかないのです。
今をどうすごしてゆくか
それが私達にとって重要なことなのではないでしょうか。
パソコンにはまってゆく妻は
オフ会とかいう
ネット仲間の懇親会のようなものに出掛けるようになりました。
友達同士、
初めて逢う恐怖なんて妻にはなかったようです。
私の知らない一面を看るようでした。
メールと言うひとつの連絡手段が
これほど発達し全国津々浦々の男女の距離を
一瞬にしてなくしてしまうと
いったい誰が予測したでしょうか。
妻はオフ会で出逢った男達との関係を深めていきました。
何人かと肉体関係をもったかもしれません。
まるで読んで下さいとばかりに
無神経に残された
妻の日記や手帳には
予定と結果だけが記されてありますので
想像するしかないのですが
妻とは別人の手記を読むような気になってしまい
胸が切なくなりました。
切ない
いいえこれも違うかも知れません。
嫉妬と言うありてえな独占欲は
どうやら風化するもののようです。
愛情の量に比例するとかいう輩もいるでしょうが
私はそうは思いません。
愛情のバランスによって
妬心とは重さを変えてゆくのではないかと思います。
寝耳に水で離婚を切り出され
有無を言わせず家をでた妻は
離婚届の用紙を残したままでした。
その狼狽を私は
そうまでこの家をでたいのか
と沸騰する脳裏で舌打しましたが
その憤りの正体は
離婚という眼前の事実ではなく
妬心という忘れかけていた感情なのではなかったでしょうか。
安定していると信じて疑わなかった愛情に
これほどの妬心は毫も芽生えたことはありません。
釣り合わない荷重の変化に
私はついてはいけませんでした。
立ちすくんでいただけなのです。
三ヶ月が過ぎ
半年を経て
一年があっという間に経ちました。
冷静を取り戻せたかどうかは
自信がありませんが
妻のいない娘たちとの生活は
もう破綻していました。
妻から不倫を打ち明けられたと言う
どうしようも腹立たしい事実を
私は消化しきれませんでした。
ぼろぼろです。
私は生きる気力さえ失いかけていました。
それでも毎朝
決まった時間に目が覚めて仕事に出掛けなくてはなりません。
家に寄りつかなくなった娘たちのいない
真っ暗な家に帰宅。
それまでもこれからもこうして
同じ毎日を続けてゆくのは
苦痛でしかないでしょうか?
戻らない日々を思いながら酒量が増えてゆきました。
飲まなければ眠れないのです。
私は脳髄に鉄槌をくらったくらい
悟るのですはっきりと。
何を?
心を、です。
まじりっけのない
純粋な心を、です。
私は愛しているのです。
こうなっても
こうされても
まだ妻を愛しているのです。
叫びだしたほど会いたくて仕方がないのです。
私は妻の行方を追いました。
手がかりは残されたパソコンのメールボックスや
メッセンジャーとかいうものの会話履歴でした。
妻と不倫相手との
会話の歴史は恐ろしいほどの量でした。
別人のような妻の愛の囁きを
私は心を押し殺して読みました。
歯茎から血が出るほど何かを噛みしめながら。
どこかを触ってしまったのでしょう
何かが画面に立ち上がり
歌がながれました。
モー娘。?
それくらいは知っています。
どんな笑顔見せても
こころのなかが読まれそう
おとなぶった下手な笑顔じゃ
こころかくせない
あなたのうでに飛び込めなくて
すねたり泣いたりして
くちびる見つめないで
心の中が読まれそう。
男の住所が判明します。
その近くに妻はいるのでしょうか。
もう一年です。
男は離婚したのでしょうか。
有給休暇をまとめて取って
妻のいると思しき男の町へ行く前日でした。
1本の電話が入ります。
事件の報せ。
妻が男を殺害したと告げられても
にわかに信じられず
なんども問い返しました。
本当に妻なのか?妻が殺人を犯したのか?
どうしてだ
愛し合っていたのではないのか?
愛し合っていればこそ
私と娘と全てを投げ捨てて
男の元へ行ったのではなかったのか?
妻がひとをあやめる
あのおとなしい妻にそんなことが可能なのでしょうか?
私は信じられませんでした。
裁判がはじまり
依頼した弁護士から犯行の動機がどうしても
わからない
なにかを奥さんはかくしていらっしゃるはず
心当たりはないかと訊かれました。
わかりません。
私が妻に不倫された私なんかに
妻のなにがわかるというのでしょうか?
こんな恥さらしの木偶の坊に訊いてもむだですよ。
投げやりにならないで下さい
奥さんには明確な動機があって被害者を殺害しました。
それさえ判明すれば奥さんの罪は重罪にはなりません。
調べて下さい、奥さんのためではなく
あなたご自身のためにも。
そう言う弁護士には何かを
既に嗅ぎつけているような節がみられます。
動機?
愛情のもつれじゃないのか?
たんなる痴話喧嘩の果ての衝動殺人ではないのか?
用意周到に計算された犯行だって?
あの妻が?
私は完全に妻を見損なっていたようです。
妻の日記や手記
メールの写しや電話の履歴
そのほかあらゆるものを弁護士に手渡しました。
そして尋ねてみました。
君はなにかもう知っているのではないか?
妻がどうしてあんな残酷な殺人を犯したのか?
弁護士は答えませんでした。
ですが、沈黙しても、
肯定するかのように、
くちもとに笑を浮かべました。
なにかがあるのだ。
私には嗅ぎだせなかった何かが。
弁護士は敏腕でした。
私でさえ知りえなかった事実が
次々に明らかにされてゆきます。
精神鑑定も有利に働いたのでしょう
妻は驚くほど軽い罪で裁かれました。
ひとを殺しておいてたったの5年か!!
傍聴席で叫ぶ男の妻を妻は振り返りませんでした。
退席する中途
妻は私を見つめ
首をすこしだけかしげて
かなしい微笑を浮かべます。
ごめんなさいあなた愛しているわ
まるでそう言うかのように
悪びれもせず。

私一人で面会に訪れた時のことでした。
思いきって妻に問いました。
どうして林檎を復讐に使ったんだ?
復讐じゃないのよ、あれは。
じゃなんだ?
愛情の先にあるものは
林檎なのよ。
林檎?
あなた林檎いまでも好き?
うん好きだよ。
おねぇちゃんも好きだった。
あたしも好き。
でもねあの男は嫌いだったの。
でもね、ごめんなさい
気を悪くなさらないでね
あたしはいまでも男を愛していたわ。
おねぇちゃんの替わりなんかじゃなくて
ほんとうに心底愛していたの。
私よりもか?
それには応えたくないわ
分らないんだもの。
分っているくせに、私はそう思ったが
口には出さなかった。
林檎の果汁はね
十波羅蜜の味なの。
布施・持戒・忍辱にんにく・精進・禅定ぜんじよう・智慧。六度
の六波羅蜜に
方便・願・力・智の
四波羅蜜をくわえたもの、菩薩の修業ね。
すべての業が混ざり合い影響し合って
最後には透明な甘い汁になるのよ。
男の果汁は真っ赤だったわ。
床に流れ出した血の海にただよう甘酸っぱい
十波羅蜜のかおり。
あたしたちは来たのねここまで
男の背中に抱きついて
そう言ってあげたの。
愛していたんだね。
うん愛していたわ。
これからどうする気だい?
言っとくけど離婚はしないぞ。
本当?ほんとうなら嬉しいわ。

席を立った私に妻が声をかけた。

「ねぇあなた、結婚の先にあるもの判る?」
「判るよ、今ならね。結婚の先にあるもの、それはね
愛憎を乗り越えた無心だよ」
「無心ってなんだい?」
「そのうちに解るわ、あなたなら」
「気持ち悪いなぁ、はっきり教えてくれよ」
「いいえ、その時まで、楽しみにしてて」
「分ったよ、なぁ、おまえアイツのこと本当に愛していたのか?」
「どう答えて欲しいの?」
「そうじゃなくって、本当のことを言ってくれよ」
「じゃ、正直に言うわね。ええ、愛していたわ、あなたよりずっとずっと、ね。このひとだって予感、あなたには感じなかった。ごめんね。あのひとには、感じたの」
「そうか、でも離婚しないぞ」
「うん、あなたは最高の夫よ、ありがとうね」

一月後、妻は自殺しました。







































































2006 05/06 05:39:45 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー

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