大原心中(一)


            ジュリーの危険なふたりが大ヒットして、レコード大賞は間違いない(不可思議な審査で結局獲れなかったんだけどね)、っていう年、僕の周辺は相当に騒々しい事になっていました。

    まず、16歳だったんだけど、高2の1学期末テストが終わって試験休み(一週間くらいあったかな)中に、インター杯にむけて尻に火がついたようなサッカー部の猛練習中に腰を痛めて、休学に追い込まれてしまったことがある。80キロもあるもっと痩せろよ男を肩車して、立ったり坐ったり屈伸運動するのだけど、まさか、ぎっくり腰になるなんて思いもせず、始めは調子よかったんだけど(これでも腰のバネは天性って褒められてたんだ)、途中突如痛みが背中を下から上に走ったんだ。経験ないことだからそのまま病院に行かずに帰宅して何事もないように寝たら翌朝、下半身が動かない。ぴくりとも動かない。こりゃ大変だってんで、両腕使って、とにかく起き上がって坐ったら、激痛が背中の上から下へ駆け降りた。こりゃいかんと、母の肩を借りて、病院へ。腰が動かないと、下半身は汗かくだけのやっかいものにすぎず、やることったら、小説でも読むか、漫画かテレビかステレオかラジオか、皆受け身。精神的にも、どんより鬱屈してくる。鬱屈になれていない僕は、もう何をするのも嫌になって、何を見ても嫌悪ばかりで、テレビのお笑いなんかも疎ましくって仕方がなくなってきてしまった。2週間くらい治療して、ようやく痛みが和らぎ、歩行できるようには回復したんだけど、休み癖っていうのか、学校行かないってことに慣れきっちゃって、医者も最低ひと月は安静にしてなさい、などと嬉しいこと診断してくれるものだから、ついつい、そのデンでひと月、怠惰な生活をくりかえしてしまった。こうなったらかんたんに後にはもどれないんだよね。挙句に、中途半端がいちばんいかん、男やったら潔くリセットせんかい、と屁理屈こね繰り回す始末。
  で、出した結論が、休学。正直なところ、居心地よくないとはいえない倦怠病にまだまだ浸っていたかったのだろう。
  
  次に、田舎から、従妹がある暗い事情を抱えてやって来たんだ。14歳だった従妹にとっては、それはすごく切実な問題だったから、ここには記せないけど、母親とともに、昔から可愛がってくれたらしいうちの母を頼って上阪して来たんだ。それでとりあえず、店の2階、余っていた部屋に逗留することになったこと。僕の部屋は二部屋あって、一部屋しか使っていなかったんだ。

  三番目は、母が営むスナックの常連客だった港湾労働夫の奥さんが、赤ん坊抱えながら遊びに来はじめたこと。母親同士友達だったらしく、彼女の親から宜しくなんて頼まれたんだろうか、遊びに来なさいって母の方から声かけて、尋ねてきたらしい。住まいも近かったんだ。奥さんは、僕にとっては充分大人だったけど、まだ22歳の若さだった。初めにやって来た時、三人とも人見知りしない性分だったようで、調度田舎から来たばかりの陽子(従妹)やキミヨ(従妹の母親)さんとすぐに意気投合し、楽しかったのかな、毎日遊びに来るようになって、静かだった部屋がにわかに賑やかになったんだ。奥さん、田舎で見合い結婚して、すぐに大阪に出て来て、友達も親戚も親もいず、夫も朝早く出掛けて夜も遅いんだから、心底、心細かったのかもしれない。

  四番目が、担任の好意で休学届けが受理されてからしばらくのち、それどころじゃなかったのに、毎日が休日ってのは、なに思いつくのか、おびただしい数の手紙(ラブレターとは、素直に読む限り、絶対に感づかれないように比喩の限りを尽くたつもりだった)をクラスの女の子たちに出したのさ。返事が戻った中に、告白を読み抜いた女生徒が何人かいて、そのまま文通に発展してしまったこと。手紙毎日書くって、大変なんだよ、実際。相手もどういうつもりか、
まめに返事くれるから、こっちも応えなきゃならないだろう?そしたらさ、手紙の中にも、もうひとつ、世界が誕生したような気になってくるんだ。こりゃ、結構きついんだよ、現実と違うんだからね。しかもさ、複数相手だから、返事書く前に、それまでのやり取りを復習しなきゃいけない。あ、それ前にも訊いたよ、なんて指摘されたりしたら困っちゃうじゃん。

  5番目、これが最もきつかったんだけど、ある飲み屋界で、しようもないことでケンカをして、逆上した相手に、腹を刺されてしまい、入院しなくてはならなくなったこと。相手には、将来を誓い合った彼女がいて、その彼女が、事件を警察沙汰にしないで下さいと、なんと泊まり込みで看護してくれたんだけどさ、見た目はスケバン(古い?)だったけど、意外に気立てがよくって、細かいところにも配慮が行き届くみたいな、存外可愛らしい女性(2歳年上でした)でさ、個室でもないのに、補助ベッドを病院に借りて(有料だよもちろん)かたわらに設置、明け方まで、寝汗を拭ったり、咽の渇きを気遣ってくれたんだ。純粋かそうでないか、そんなこと疑う余地もないくらい、彼女の奉仕は徹底してた。もし仮にそれが嘘だとしても、信じきって完全に演じ切れば、それは、真実を超えることだってあるんだ。


             今日までふたりは、恋という名の
             旅をしていたと、言えるあなたは、年上の人、美しすぎる♪

  変な歌流行ったものだからまいっちゃうよね、世の年上女は、すわ!って浮き立ったのでもなかろうに、女、女、女の五つの要素がこの歌と混じり合って僕を雁字搦めにしてゆく。今でも、この歌聴くと、想い出してしまうくらいだよ。

       
  アンコと呼ばれたその職業は、港に着いた積荷を、文字通り担いで倉庫や運搬車まで運ぶ。肉体作業のなかでも、これほどキツイ職業はないかもしれない。疲れた身体は酒でしか癒せない。いつの時代も、男の行動パターンはコンサバさ。痛かった腰の痛みが、飲んだら、嘘みたいに消える。こんな魔法を、太古の祖先たちですら、麻薬とは認識していなかった。食うために、肉体を極限まで痛みつける。走り、投げ、担いで、歩きまわる。ウンテンさんは、中背で筋肉隆々、日に焼けて、端正なマスクをしていたから、飲み屋の女の子に騒がれていただろうに、梯子の最後には、必ず、母のスナックで締めるんだ。母に、それだけの魅力があるというよりも、酔えば郷愁の念がやまなくなるからなのかな。料理の下手な母のつき出し料理に舌鼓を打つウンテンさんは、いい男でした。
  毎晩、ウンテンさんの若妻は赤児とふたりっきり。無聊は、心に隙を生み、もうひとりの自分を誘い込む。誰でもそうだとは言わないけれども、その人の置かれた状況次第のところはあるけど、必ず、もうひとりの自分を認識しはじめちゃう。信じたくなくても、これが人間なんだ。従妹が母親と逗留するようになると、特にこの14と22の女ふたり、馬が合ったんだね、100年の知己を得たように、べったり、になっちゃった。

  慕われてはいないけど、嫌われてはいない僕を挟んで、なんとも奇妙な日々が続いた。朝9時になると、若妻は赤児をおんぶして、お弁当提げて従妹を起こす。なにせ、三人とも夜中の2時、3時に就寝するのだから、朝、目覚めるわけがない。若妻の活力はいったいどこから湧いてくるのだろうか。

  「こうちゃん、お弁当食べて、お腹空いたでしょ?よっちゃんも(陽子のあだ名)食べてね、たくさん作ってきたから」

  旦那に持たせるお弁当を作る間に、三人のお弁当も作ってしまうのだそうだ。面倒じゃないって謙遜するけど、手際の良さには、彼女の良妻ぶりを見るような気がした。ただし、家事全般がそつなくこなせたとしても、一番肝心なものが彼女には欠けていたんだけどね。

  クロンボとのハーフでちりぢり頭のヨシ坊(ひとつ上の従兄)が、田舎から少し前に出て来てて、叔母さんのスナックのバーテンをしてた。ヨシ坊も時々来るから、部屋は、男女が入り乱れた状態になったんだ。ヨシ坊は、嘗ての面影など微塵もなく、180センチを楽に超える身長と、黒い肌、当時流行りはじめていたアフロヘアー(パーマわざわざかけなくても、まんまアフロだからね)で、おまけに若いから、飲み屋の若いホステス達に受けがよかった。彼に、私と別れた13年間で何があったのかつまびらかにはしませんが、別人を見るようだった。昔日のおどおどした面は一切見せず、自信に満ちあふれた眼光と、怪力を備えた厚い胸板、腹が立つほど長い脚、しかもまだ十七歳、彼が声を掛ければ、きっとどんなホステスもついてくる。

  僕、従妹、ヨシ坊、若妻、赤児、日替わりの10代ホステス、6人で6畳、狭いよね、呼吸困難になりそうさ。

  毎日どんな話をしていたのか覚えていないんだけど、性ホルモン分泌過多の男女が集まっているのです、当然、そこには、浮いたはれたののっぴきならないものが絡みつく。

  触れる肩、短いスカートから見える下着、腿が震え、胸が波うつ。ヨシ坊は、した相手しか連れて来なかったから、もう、重油のようにへばりつくケバイ女達。僕は、右に従妹、左に赤児抱いた若妻を侍らせてる。変になってくるよ。露骨な会話は、露骨な発想を喚呼するんだから。

  「こうちゃん、こいつの胸でかいやろ?揉んでみるか?」ヨシ坊が訊いてきます。

  「いやや、なに言うのん、ヨシ坊のいけず!」ホステスA子が、媚(なまめ)かしくもない、いやんいやんしながら、ヨシ坊にしなだれかかる。手は、彼の股にある。

  「こうちゃんに見せたれや、おまえのオッパイ」

  「見せてもええの?妬けへん?」

  「阿呆か、なんで妬くねん、はよう、見せたれや」

  横で表情を曇らせている従妹のきつい視線なんか気にしない、脳味噌空っぽA子が、黄色いブラウスを脱ぎ、やがて、ブラジャーまでとる。大きな乳輪がふたつ、露出した。恥ずかしくないのか、この女は。歳は、まだ18だという。

  「こうちゃん、触ってみ、柔らかいんやで、マシュマロみたいに」

  「阿呆、触れるかいな、はずかしいやろ、君も、はよ下着つけや」

  「あたしが揉む」と従妹が彼女の胸に手を伸ばした。「ホント、柔らかい。いいな、あたしこんなに大きくないもの」

  十四に癖に、マセタやつだ。

  「こうちゃんは、あんな大きな胸が好き?」と若妻が訊く。

  「なんで、そんなこと訊くん?」

  「あたし、小さいから」

  「嫌いや、あんなでかいのは」
     
  「ほんと?」

  「ほんまやて、変なこと言うなや」

  「こうちゃんは、小さいオッパイが好きなの?」

  「ノーコメントや」

  「だって、じっと見てたもん。触りたかったら、あたしの触ってね」

  「何言うてんのん、そんなん出来るわけないやんか」

  「どうして?人妻は、ええって言うよ」

  「それ変やろ。そんな奥さんは、旦那に嫌われるで」

  「それも、そうね、あははは」彼女は、薄い唇を少し左右に引いて、白い歯が僅かにのぞかせて笑った。羞じらいのないA子のがははは、という下品な笑いとは次元が違うとでも、誇示するように、それは控えめだった。
         

  そうした、下品で、猥雑で、不潔なんだけど悪臭がするほどでもなく、知的ではないけれども痴的すぎるってこともない、奇妙に調和した日々は、お決まりどおり、長くは継続しない。


   ある夜更けのことだった。ベッドで眠っている僕は、誰かとキスしている夢を見ていた。舌をからめて、吸い合い、頬や、唇を舐めあう。女の両腕は僕の首にまとわりつき、僕の右腕は、彼女の股間に沈んでいた。

  「こうちゃん、好き、もっと、抱いて」

  リアルな夢だ。名前を呼んでいるのは?あまりの快さに、ふと眼が醒めた。

  「ひ、久子さん?え?どうしたん」

  「しゃべっちゃだめ、抱いて」

  「ちょ、ちょっと待ってって、どないしたん、こんなことしたらあかんやん」

  「したくないの?こうちゃんは童貞なの?ちがうでしょ?」

  「そんなこと関係ないやん、こういう行為が許されへん、言うてるんや」

  「あたしのことなら、気にしないで。ばれない自信あるんだ。ほら、胸触って」

  彼女は全裸だった。私も、彼女に脱がされていたのだろう、気づくと、何も着ていなかった。その裸の腕から滑り降りて手を握った彼女はゆっくりと、彼女のこぶりな胸に導いた。

  「待ってって言うてるやろ、どうしてそんなことするん?」

  「あたし、人妻も恋をして構わないと思ってるわ。旦那だって、毎晩ホステスといい事してるんだから、女だけ我慢するなんて狡いよ。そうでしょ?こうちゃんもそう思うでしょ?」

  「思わへん。そんなの間違ってるやん。旦那のこと、好きなんやろ?好きやから結婚したん違うん?」

  「見合いよ、恋愛結婚じゃないわ。親戚に紹介されて、両親が賛成するから、仕方なしに結婚してあげたの。結構いい男だったし、優しかったから。でも、こうちゃんは違うよ。こうちゃんは好き。たまらないくらい好きなの。こうちゃんがあたしを嫌いでもいいのよ。でも、こうちゃん男だから、したいでしょ?したい年ごろだものね。あたしが、させてあげる。好きなだけさせてあげるから、ねぇ、キスして、抱いて」

  「嫌やて、そんなんできへん、ウンテンさんに悪いやないか」

  「旦那のことは忘れてよ。絶対にバレないから。もしバレても、相手がこうちゃんだなんて絶対に言わないよ」

  「そういう話やないやろが。そもそも、そういうことがあかん、言うてんねん」

  「まぁ、お堅いこうちゃんだこと。こっちは、ずっと正直よ」

  と彼女はもう一つの手で握っていた物を、刺激した。そして、それに付随するかのように、悩ましくささやく頭を、下へ移した。

  驚いた僕は意志にひるんで彼女の肩をつかみ、力いっぱい引き揚げた。

  「何、すんねん!」
   
  「こんなことしたことある?」

  「ない」

  「教えてあげるわ」

  「要らん、そんなん、要らんって」私は、ベッドから抜け出して、脱がされた下着を探した。

  「抱きたくないの?あたしのこと、嫌いなんだ・・・」

  「違う、嫌いやったら、この部屋に入れへんよ。でも、こういうことは、あかん、って」

  僕は彼女を振り返らずに、パジャマの下を穿いた。

         

       十六歳の忘れられなくなる一年の幕開けだった。


(二)


   「来年、4月8日、必ず登校しろよ、アズマエ。いいか、その日は、おまえにとって試金石になるからな? 」


  「はい、必ず、登校します」
   休学に関する診断書やら休学届けやその他の書類を携えて、担任だった向田先生は、帰っていった。午前中だから、母はいない。替わりに、久子さんが冷たい飲み物を出し、陽子が冷たい果物を出した。
   甲斐甲斐しい二人を見て(向田先生は40代だったろうか)、先生は怪訝そうな表情を浮かべていたけど、同時に危ぶむような顔をなさっていらっしゃったのが印象的だった。先生は不安だったろう、どうして親ではなく、若い(ひとりは若過ぎるけど、妹じゃないし)女二人が、まるで同棲しているかのように、そこに同席するのか理解に苦しんだだろう。それは、最後まで彼女達の素性を問わない態度に、よく表れていた。
   季節は、ちょうど今頃だったかな。雨の印象が薄いってことは、きっと、16歳のこの年も、空梅雨だったのだろうか。毎日が、狂うように暑い、初夏だった。
   
   未遂に終わりながらも、久子さんは、臆せず毎朝、やって来た。お弁当抱えて、赤ん坊を背負って。大概、僕はダブルベッドで熟睡しているから、寝かしつけた赤ん坊を僕の横に寝かせ、ちゃっかり自分も、服を脱いで、下着姿のまま、寝て、何してるんだろうか、ごそごそしてるのは、覚えてるんだけれども、こういう時って、眠りを妨げるような行為以外は、無視できちゃうものなのかしら、僕は、無視して、そのまま眠り込んでしまう。
   二人が目覚めるのは、お昼前、陽子が、隣室から起きてきた時だ。キミヨ(陽子の母親)さんは、大阪に本腰いれて住む決意を固めたようで、母に借金して、僕の隣の部屋を借りた。今じゃ消防法にひっかかってしまうに違いない違法建築のアパートだった。二軒の店舗つき賃貸住宅(2階建て)の間に狭い路地があり、入ると左手に階段がある。そこを上ると、裏の陽の当たらないアパートが十二部屋左右に6部屋づつ向かい合っている。母のスナックは向かって右でその2階が僕の部屋。その隣が調度空室だったから、キミヨさんは母のスナックに勤めるのも便利だからと即決したんだ。ご亭主からの連絡は、あった筈なのに、彼女は断固として帰るつもりがないらしい。それくらいの、何かが、二人の身に起こっていたのだろうか。
   「ちょっと、久子さん、あなた図々しいと思わないの?その格好はなによ。恥ずかしくないの?こうちゃんも平気なの?変だ、ふたり」
   毎朝、この苛立たしげな声に、目覚める。下着姿になるのは、暑いからだと、久子さんは悪びれずに弁解しているが言い訳にもならないのだけれど、一方の僕は、無実なんだし(でもないね)、弁解なんかしない。しかし、陽子の目には、二人一緒に仲良く同じ分量の汗を肌に浮かせている情況そのものが、許せなかったのだろう、日増しに、批難は排斥へと昂じてゆくのも、仕方ないことかも知れない。
   ある日、私は陽子に訊いてみた。
   「おまえ、誰か好きなヤツいてるんか?」
   「いるよ」
   「誰や?言うてみぃ」
   「テツノリ」ヨシ坊の本名だ。アガリエ家の男は、ほとんど「哲」の字が名前につけられる。祖父の好みだったのだろうか。だったら何故、一番可愛がってくれたはずの私は、「ツネヨシ」なのだろうか、母もその訳は知らないらしい。
   それどころじゃない僕はどもりながら、
   「あ、あいつが好きなのか?」
   「うん、格好良いもん」
   「そうかぁ、そうやったんか、知らなんだわ、まさか、ヨシ坊とはな」
   「あ〜、ちょっと妬いてる?」
   「阿呆か、妬くわけないやろが。おまえまだ14やぞ。中学生、分ってるか?ガキ相手、誰がすんねん
   「妬いてる、妬いてる、わー、こうちゃん怒ってるもん、わーい、こうちゃんは、ようちゃんが大好きなのでした〜」
   正直に書こう。私は、こいつを好きになりはじめていた。だからだったろう、私は、その気持ちが望む展開ではなく、正反対の地獄を選んでしまった。
   「ヨシ坊に、言うといたろか?陽子と付き合ったれって」
   「うん」

    僕の微笑は曇っていただろうか。

     ヨシ坊に伝えると、喜んで付き合いたい、と即答した。真面目に交際する、と訊かぬのに宣言し、実際、彼は、真面目に陽子との交際を始めた。17と14の男と女、それだけのことだ、と僕は吐き捨てるように、彼らが交愛する想像をすぐにしてしまい、ハラワタがぐつぐつ煮えたぎってくるのを、どうしようもなったんだ。

    これは、凄く失礼なことなんだけど、十六歳のガキが精一杯大人ぶって思考していたことだから、大目に見てやって下さい。

    いつも傍にあるもの、いつでも触れて、いつでも甘えて、いつでも抱きしめられる、近しきものが、ある日突然なくなってしまう。それは、僕のものなのに。それは、これからもずっと僕のものである筈なのに。空虚なまでの喪失感を、僕はこの時、自覚していないまでも、悟りはじめていたのだろうか。
    これは、嫉妬だったのだろうかと、私は、あの夏を想い出すたびに、胃がきりりと痛む。こめかみを締めつけるようなあの感情を、私は、どうやって凌(しの)いでいたのだろうか。
    数日後のことだった。
   「こうちゃん、毎日何してるの?」と、危ないままの久子さんと赤ん坊と三人で、テレビを呆然と見ていた僕に、久し振りに上がり込んできた(私はこの当時、部屋の鍵をかけたことがない)陽子が訊いた。
   「なんでやねん?」
   「観たい映画があるの、連れてってくれる?」
   「いつ?」
   「明日、だめ?」
   「ええぞ、梅田?ナンバ?どっち行きたい?」
   「こうちゃんと一緒ならどっちでもいい」
   これなのだ。この一言が、この14のマセタ少女の手練手管なのだ。こいつは僕が嫉妬しているのを感づいている。いいや、絶対に知っている。知っているから、こういう一言で、僕を繋ぎ止めようとしているのだ。何のために?と冷静に考察できる余裕は僕にはないのだから、もう、降参するしかない状況なのだろうよ。
   翌朝、6時に目覚めた僕は、隣の部屋の扉をゆっくりとノックして、陽子を呼んだ。返事がない。眠っているのだろうか。ドアノブを回してみると、回った。鍵はかかっていない。不用心だな、と、暗闇のなかを、進んで、台所の隣の部屋の闇に眼をこらした。そこに、陽子が、眠っている筈だった、ひとりで。
   しかし、闇に浮かんだ人型は、ふたつ。長躯のヨシ坊の腕枕で、胸に寄りかかった陽子の眠る白い横顔が、茫と開いた。上半身は、裸で、腰はシーツに隠れていたが、剥き出しの、健康そうな二本の脚が、ヨシ坊の毛むくじゃらの汚い脚によって別けられていた。

    僕は、逃げ出した。そう、逃げた。その光景から、その衝撃から、一刻も早く、離れたかった。走った。懸命に走った。階段を一気に駆け降りて、通路を抜けて、大通りに出た。朝だ。まだ人も少ない。車も少ない。中央大通りを僕はそのまま弁天町まで走った。息が切れても、苦しくっても、ばかみたいに、どきどきしながら、恐怖に追われるように、痙攣しはじめた腱よ断つなら絶て、と、念じ、祈りながら、それでも、走った。考えるな、想い出すな、忘れろ、忘れるんだツネヨシ、叱咤しながら、胸をいっぱいに浸しはじめた切なさを、手で抑えるかのように、胸に手をあてて、走った。50メートル6秒フラットの速さで。障害物は、走り幅跳び6メートル40の跳躍力で飛び越えて。風が僕をなぶり、抜けたスカイブルーの青空が嘲笑い、鳩や烏や雀がからかい、心が、死にそうだった。

    国鉄環状線弁天町駅を左に折れて、友人の家に行く。理由はない。ないし、あるわけがないし、あってもらっては、救われない。救われる?僕は救われに走っているのか?逃げているのか?いいや、想い出すまい、それに拘っては、必ず、もっと、もっと、ひどいことになってしまうんだ。とにかく友人だ。彼に会わなくては。会って何を話すかなんて、この際、たいした問題じゃない。友人の顔だ、そうだ、アイツの、特徴が皆無な、のんべんだらりとした、能面を見るんだ。注視するんだ。そこに、そこに、そこに、僕は逃げ込みに来たんだ。

   どうやって時間が過ぎたのか、想い出せない事って、あるよね。時の流れはいつもいつも残酷ばかり、ひとに投げかけて、せせら嗤(わら)う。僕は、義妹の洋子を必死で思い出そうとしていた。黄昏時、沖縄のどこかの街の、どこかの軒先で、僕は、黒いビロードのワンピースを着た、髪が真っ赤っかの2歳の女の子の手を引いていた。小さな赤いエナメルの靴が、かちゃかちゃ、鳴っていた。女の子の名前は洋子。

         ”おまえの妹だよ”

   誰かのしっとりした声がした。妹?僕に妹がいたの?そんなこと感じただろうか、僕は、女の子をしげしげと見つめた。女の子は、白人種のように、真っ白な肌をしていた。なんか、なんか、なんか、こいつ、気色悪いぞ、笑ってやがる、なんでだ?僕がおかしいのか?あったまきたぞ、いじめてやる。僕は、女の子の手を引いて、物陰に連れてゆき、真っ赤っかの髪を思いきり強く引っ張った。女の子は、ギャーと、凄い悲鳴をあげて、泣き出した。ざまぁみろ、気色悪いやつめ。

   違うんだ。分ってたよ。気色悪くなんてなかったんだ。洋子はあの時から、際立っていたんだ。見たこともないような美を前にした、ひねくれた幼児は、それを素直に受け入れられなかったんだ。美なら、僕の方が上さ。自負のめばえもあっただろう。

   去年、僕は洋子に再会した。あいつの美しさはもう手がつけられないくらいだった。小学生だというのに、僕は一目惚れしたよ。変だろ?妹だぜ?義理とはいえ、父親は同じなんだ。その時、陽子にも逢った。親族会だかなんだか知らないけれども、盆だったから、一族の親戚が一堂に会したようだった。陽子の両親も来ていた。陽子と洋子は同い年で、顔は大違いだったけど、雰囲気は、同じ名前だからかな、よく似ていた。挨拶して、そのまま、洋子と縁側に出て、庭を臨みながらくっついて坐った。クッツキ虫だった洋子は、会ってから、最後まで、僕からは離れなかった。いじめられた記憶はないのかい?そう訊けない僕は、仲良く肩を並べて、どんなことを話しただろうか。

   その光景を、後ろから、陽子はじっと見つめていたんだ。どんな顔色してたか、僕には想い出せない。

   足取りが重いってのは、こういうことを言うんだ、って感心しながら、僕は帰宅した。何故、帰宅したのだろうか。1週間、連絡せずに部屋に戻らなくても、母は、心配もしない。つまりは、一日くらい帰らなくても、全然構わないわけだ。なのに、僕の口は、友人に別れを告げ、ご馳走になった友人の母親にお礼を言い、脚は、家路を急いでいた。そうさ、急いでいたよ。恐怖から逃げたくせに、その恐怖に戻ろうとしたんだ。どうしてだか、分るかい?そのときの僕には応えられないよ。でも今の私なら答えてあげられる。僕はね、確かめたかったんだ、その恐怖の正体を。

  正体は、椅子に座って待っていた。

  「どこいってたのよ」頬に涙の跡が数条。

  「どうしたんや?」

  「映画連れてくって、約束忘れたの?」

  「いや、忘れてへん」

  「じゃ、どうして、誘ってくれなかったの?ひとりで観に行ったの?アタシはずっと待ってたんだよ」机に俯して、嗚咽が洩れる。

  「朝、呼びに行った、6時過ぎだったかな」

  「……」

  「鍵かかってなかったから、中にはいった」

  「……」肩が揺れた。

  「観た、お前の、裸を」

  「見たの?」振り返った陽子の顔は、眉も睫毛も、なみだでぐしょぐしょだった。

  「決定的やったな。おまえ、14やろ?もうそこまでしてたんやな」

  「違う、そんなことしてないよ!」必死な嘘だ。

  「嘘つくな。あんなん観て、何もしてへんて、誰が信じるんや。たとえなぁ、全世界の男が信用したって、俺ひとりだけは、信じへん」

  「本当よ、本当なの、最後までは嫌だって、抵抗したの。テツノリも分ってくれたよ。大切にしたいから、しない、って約束したんだから、嘘じゃないんだって信じて!」

  もっと必死な嘘だ。

  「言い訳すんな。聞きたくない。テツノリとうまくいって良かったな。祝福するわ。おめでとう。二度と、この部屋に入ってくるな!!」

  「こうちゃん!!」

  「出てけ!!おまえなんか、二度と口きくかぁ!!」

  「こうちゃん、こうちゃん、こうちゃん!好きなの」

  「はぁ?」

  「好きなのよ、こうちゃんが。分らないの?ずっと好きだったのよ。去年から、忘れられなくって、恋しくって、切なくって、会いたくって」

  「また、嘘か」

  「嘘じゃないわ、あたしは嘘なんか言いません。嘘つきはこうちゃんじゃない!」

  「とにかく、出てけ、話もうせえへん」

  「こうちゃん、好きなの、ほんとよ、好きなの、おねがい、信じて」

  私の臓腑は、もう溶けていた。だらしなく、微笑ながら、嬉しさに、恐怖も、吐き気も、死んじゃった心も、溶けて、ごちゃまぜになって、冷えて、ガラスになった。壊れやすい、薄くてもろい、ガラスになった。

  「本当か?」

  「本当よ、信じて」いいながら、陽子は私に抱きついてきた。僕は、もう負けていた。恋愛が勝負なら、僕は全敗だよ。こうして、負けることが、ちっとも苦にならないのだから。

  激しい口づけを交し、僕は陽子を押し倒した。押し倒された陽子は、両腕を僕の首にまわして、腰を意識させた。

  「して」か細い声が、耳を震わせた。



           線香花火がほしいんです
           海へ行こうと想います
           誰か線香花火をください
           ひとりぼっちのわたしに

           風が吹いていました
           ひとりで歩いていました
           死に忘れた蜻蛉が一匹
           石ころにつまづきました

           なんでもないのに、

           泣きました。


                      古沢信子
           
(三)

    

    どろどろの底なし沼のようだった。

   毎日が、朝も夜もなく、僕らは、ベッドの中で過した。時間はゆるみ、脳髄の底から、嬉戯と愉絶にただれた。

  いつもの時間にいつものように赤子を抱いてやって来る久子さんが、悲しい目をしながら裸で眠っている陽子に気遣いながら云った。

  「こうちゃん、若い娘のほうがいいの?この娘はだめよ、知らないんでしょ?教えてあげるわ。この娘は淫乱よ。男だったら、きっと誰でもいいんだよ。こうちゃんが相手にするような娘じゃないよ。昨日だって、ヨシ坊といちゃいちゃしてたよ。わたしが見てるのに、これみよがしにキスしてた。平気なのこうちゃんは?」

  「平気じゃないよ、平気な訳ないだろう?」

  「だったらどうして、こんなことしてるの?そんなにこの娘上手なの?14だよ?フタマタはよくて、不倫はだめなの?どうしてわたしを抱いてくれないの?」

  赤子がむずがる。抱っこを嫌がっているのだろうか、それとも、母親の胸の内がぴったり寄せていた頬から伝わったのだろうか。母の血と肉と心を、二百八十日間、影響されつづけていたんだ、どんなささいな事柄でも、赤子にはかくせはしないだろう。切れ長の目が凛々しい。ウンテンさんに似て、この子は男前になるだろう。

  「まだ、そんなこと言ってるんだ。久子さんはこれ見て、平気なの?それこそ訊きたいよ」

  「わたしは平気だよ。嫉妬しないもん。私にだって亭主いるし、愛してもらってる。こうちゃんが誰とえっちしても、焼く権利ないもん。たまにでいいの、本当よ、たまにでいいの、わたしを愛してくれたら、それだけでいいの。わたしは上手だよ、陽子ちゃんなんか足下にも及ばないくらい。ねぇ、拘らないで。亭主のことは忘れてよ。こうちゃんと、わたし、それでいいじゃない」

  「だめだって、そんなことはできへんよ。ほら、赤ん坊、泣いてるやん、お乳じゃないよね、ママの嫌なところに反応してるんや」

  
        『そう、君は、神にもならぶ、生命の創造主なんだ、そのことを忘れちゃいけない』

  
  
   ヨシ坊は、ピタリとやってこなくなった。なにか含みがあるのだろうか。僕と陽子の関係を知らないはずがない。なにかが、そのうちに起こる、よくないことが、きっと起こる、予感が拭えなかった。なんにしろ、備えなくてはなるまい。

  その夏は、猛暑だった。道をゆらす陽炎がたつ中を、僕は、いつもひとりで歩いていた。めまいしながら、ためいきをくりかえし、ギラギラ燃える太陽を見上げては、この身を焼き尽くしてくれと、祈っていた。

  大宰は、「生まれてすみません」って云った。生まれてきたために、犠牲になったひとがいる以上、僕に、泉谷が叫ぶ「生まれたくて生まれたんじゃない」なんて言葉は使えない。

       命は、あきれかえるくらいに軽いってことを、僕は知っていただろうか。

    会いたかった。あのオマセな小学生に会いたかった。陽子と同い年だ。日が暮れて、夕暮れどきになると、ひとは切なくなるものらしい。手紙は出さないから、返事も来ない。かわいい、かわいい妹、オマセで、生意気で、小憎らしいったらないくせに、甘えん坊で、くっつき虫で、石英のように透明なあの笑顔を、僕は、いつも想い出していた。会えなくても、話せなくても、この想いあるかぎり、ふたりは、けっして、はなれない。

   切なければ、胸に景色がうかんでくる。かなしいものなのか、たのしいものなのか、そんなことどうだっていい景色が、おもむろに、左右たゆたいながら、結ばれて、象形されてゆくその刹那の痺れ、僕は、次第に魅されていった。それは、いつも、予期するいとまもなく現れる。僕は、お気に入りのプラチナの万年筆を手に取り、大學ノートに文字を連ねた。

      きらきら星のざわめきが

      もし空から落ちてきたら、

      手にすくえそうもないから

      眼をとじて、

      まなじりをただす。

      夢のはじめは慄えるばかり。

      なのに、

      夢の終わりは、

      眠くなるほど、しあわせだ。

   ざわめきだらけのただ中で、僕は、笑っているのだろうか。

  

    連れとスナックに、ある時、行った。未成年だけど、断られはしない。カウンター席に男二人座り、ビールで乾杯。

  しこたま酔って、店を後にする。女の子がひとり店の外までついてきた。

  「また、来て下さい、こうちゃん」

  「あれ?君、誰?」

  「覚えてませんよね、徳ちゃん、私覚えてない?」

  友人は、しげしげと彼女をすわった眼光で確かめる。

  「覚えてへんなぁ、アズマエ覚えてるか?」

  「俺も覚えてないんや、可愛い子やったら忘れるわけないのになぁ」

  その時だった。

  そのスナックは、八幡という飲み屋街にあって、夕凪と変わらぬくらい猥雑な空間だった。酔っているのか、ラリっているのか、人は背筋を曲げて歩く、麻薬や暴力や売春が、珍しくもなんともない最下層の街だった。

  通りの向こう、白いスカイラインが止まっていた。マフラーをいじっているのだろう、地を震わせるような低い音を、誇らしげにアイドリングさせていた。

  四人だったろうか、僕らと同年代、崩れアイビーの服装、敵意丸出しの視線を僕らに送っていた。見知らぬ顔、それだけで、喧嘩には充分過ぎる条件だ。

  僕と徳は、睨み返した。地べたに座り込んでいた彼らは立ち上がり、さらに激しく睨み返してきた。

  低能児のような睨み合いが数秒続く。僕らは睨み返したまま、心配げな知り合いらしいお店の女の子に別れを告げて、帰りはじめた。数歩歩いたろうか、友人が鈍い音とともに突然倒れた。ブロックが背中にぶつけられたのだ。飛んできた方向を観ると、メンチ切りあった連中の方角、大声あげてげらげら笑っていた。

  ブロック。後頭部に当たれば、死ぬことだってあるだろう。そうか、殺意があったんだな。これはもう喧嘩じゃない。僕は、友人を置き去り、彼らの元へ走った。驚く顔と、迎える顔、怯む様子はない。

  手前でジャンプして、ご自慢のスカイラインのボンネットに飛び移り、近くの男の顔を蹴り上げた。集団がばらけた。ばらけ方が、規則正しい。包囲するつもりだろう。喧嘩慣れしているに違いない。僕は、もう覚悟を決めていた。

   ”お母さん、ごめんなさい、僕は今夜、殺人者になるかもしれない”

  もうひとりの顔面を蹴り上げた時、僕は脚をつかまれて、引きずり下ろされた。五人いる。寝転がってしまった僕を彼らは蹴った。腹、背中、腰、腿、あらゆるところに激痛が走る。何度も蹴る脚を両手でつかんだ。それを支えに立ち上がり、バチキをそいつにたたき込む。生半可な頭突きはしない。鼻梁と両目の間、そこを狙う。ヘッディングと同じだ。肝心なのは、一発でやめないことだ。連続させて、勢威をそいでしまわなければならない。

  「こらー!!!」徳が復活したようだ。5対2、多勢に無勢に変わりはない状況だが、暴れてやろう。

  どれくらいの時間が過ぎたのだろうか、僕は、病院のベッドの上に寝かされていた。腹が、燃えるように熱い。

  「強運だったね、君、あと1センチでも中に入っていたら、内臓に達していた、そしたら、命、危険だったな」

  僕を覗き込んでいる医師が云った。

  ナイフで刺されていたんだ。徳が連絡したのだろう、母と陽子と久子さんの顔が、閉めていない手術室の向こうにのぞいた。

  「こうちゃん!死んじゃ駄目!!」

  そう叫ぶ陽子を、母がジロリと睨んだ。

  
         


                三つのマッチを一つ一つ擦る夜のなか
                はじめは君の顔を一度きり見るため 
                つぎのは君の目を見るため
                最後のは君の唇を見るため
                残りの暗闇は今の全てを思い出すため
                君を抱きしめながら
 
                               ジャック・プレヴェール
(四)



     「なんでそんなにビンを振るんや?」

     「こうしたら、炭酸が抜けて、美味しくなるの」

     「コーラって、炭酸が命やで?」

     「よく云うよ、これ教えてくれたのこうちゃんだよ」

     「俺が?いつ?」

     「ホントに忘れたのね、信じらんない。テルヤ(沖縄県糸満市字照屋)で、そうやって飲んで見せてくれたじゃない。あたしが、コーラなんて大嫌い、って文句言ったら、洋子ちゃんも同調してさ、そしたら、こうちゃん、ビン、思いっきり振って、こうしたら、美味しい大人の味になるよ、って云ってくれたの、覚えてないの?」

     「知らない、忘れたよ」


      病院には、夕暮れになると決まって陽子がやってきた。告げ口の好きな久子さんによると、ヨシ坊とのデートの後に、来るのだそうだ。陽ちゃんはきっと手のつけられない淫乱になるわよ、と、意地悪そうに陽子の将来を予言する久子さんもまた、毎朝、赤児はどこに預けるのだろうか、ひとりでお弁当を持ってきてくれる。病院の食事はマズイ、と決めつけて、朝の早い、亭主のウンテンさんを送り出した後、亭主のお弁当とは違うオカズを作ってるのだそうだ。

      「わたしは、こうちゃんが大好き。ホントだよ。ウンテンさんよりも、ずっと好き。こうちゃんが受け入れれてくれるまで、あきらめないからね。はい、あ〜んして、卵焼き、美味しい?でしょう?わたし自信あるんだ。何が食べたい?なんでも作ってあげるよ。こうちゃんが食べたいものなら、どんなことしてでも作るんだ」

      病室は個室じゃなかった。六人部屋で、窓側のひとつのベッド以外は、全部埋まっている。四人とも男だ。だから、入れ替わり立ち替わり、女しか見舞いに来ない私を、どこか敬遠している節があり、四日目だというのに、未だ会釈程度の関係しか築けていなかった。毎日、談合でもしているかのように、かち合わずにやってくる五人の女。母、叔母、陽子、久子さん、それにもうひとり。

      久子さんは、看護婦に毎度叱られるのに、わざわざカーテンを閉め個室状態にして、私のベッドにもぐりこんでくる。抜糸が済んでいないから、身体をよじると、腹に痛みが走る。だから、僕はずっと仰向け、無防備なままだったから、久子さんにとっては、しめしめ、なのだろう、抱きついてきてキスしたり、胸や腿をさする。帰着点は解り切っているから、私の両手は、下半身のそこをガードしている。すると、久子さんは、首筋にキスしはじめて、こそばゆいからやめろと、小声で注意すると、シーツに隠れた下半身を両手に押し付けてくる。あ、っと、反射的に、両手を放してしまったら、もう、最期だから、いくらずりずり押し付けられても、死守しなくてはいけない。なんてスケベな女なんだって思うのだが、どうしても、きつく叱れないのは、それなりの気持ちを僕が抱きはじめていたからなのだろうか。

     驚くことに彼女は、長いプリーツスカートをたくりあげて、下着を押し付けている。ガリガリに痩せているからだからは想像もつかないふくよかな感触に、鼓動は最大電力で電磁をまき散らす。

     「こうちゃん、触って、ほら、なにしてるの?パンティのなかに手入れなさい」

     「え?なんで笑ってるの?可笑しいの?変なこうちゃん。わたしもう濡れてるよ」

     僕が笑ったのは、その頃知ったちょっとエッチな小話を思い出したからだ。

           ある幼稚園の先生の家に、幼稚園児が泊まることになって、その夜、

           ひとつの布団の中に、寝た。

           ごそごそしている幼稚園児に、先生は訊いた。

           「なにしてるの?眠れないの?先生がちゃんと抱いててあげますから、しずかにおねむりなさい」

           抱きしめられた幼稚園児がこう返事した。

           「先生、先生のおへそ、指で触ってもいい?」

           「うん、いいわよ」

           しばらくして、

           「あらあら、そこはおへそじゃないわよ、もっと上にあるんだよおへそは」

           「うん、知ってるよ、ぼくもこれ、ゆびじゃないんだ」

      ツボに入ってしまって、爆笑してしまった私に怪訝そうな顔色を見せている久子さんに教えると、彼女も、腹を抱えて大笑いした。

      「その園児、おチンチンで、先生のあそこを触っていたのね?」

      「うん、そうだよね、そうモロに云わないところが、粋なとこかな」

      「こうちゃん、月並みなもの、大嫌いだものね、わたしは平凡過ぎるから、嫌なんでしょ?」

      「何いってるの、久子さん、もし本当に平凡なら、凄いことだよ。平凡なひとなんてね、この世にはひとりもいてへんよ。どれくらい凄いことか、判る?完全無欠の合理主義者ってことなんや。感情を完全に統御しなきゃ、無理やもんね、それは。だからこそ、突き抜けて、凄いんや」

      「じゃ、わたしも月並みじゃない?」

      「うん、エッチなとこは、群を抜いてる」

      「云ったでしょ、わたしはエッチだって。人妻だもん。なんでもありよ。どう、試してみる気になった?」

      「ならん、って。彼女もちゃんと出来たし」

      「陽ちゃん?あんな娘だめよ、淫乱だもん。こうちゃん、騙されないでね。あの娘ね、ヨシ坊とも毎日セックスしてるの知ってるの?セックスしたあとに、こうちゃんのとこに来るんだよ、風呂にも入らずに、そのまま、こうちゃんに抱かれようなんて、最低じゃない」

      相変わらず、パンツを手の甲におしつけながら、久子さんが毒づいた。そこは、薄切れ一枚だけど、体温どころじゃない熱さだった。

      「見たの?してるとこ」右手で、頬杖つきながら、訊くと、

      「ううん、ヨシ坊が自慢気に吹聴してるの聞いたの。柄の悪い取り巻きに、胸がこうだとか、こうしたらよがり声あげるとか、しまりがいいだとか、聴くに堪えない内容なの。ヨシ坊の取り巻きもね、きっと陽ちゃん狙ってるよ」

      いきなり、パジャマの下に手を入れながら、久子さんが更に毒づいた。手を、大きくなったそれにそえている。久子さんが眼をつぶりながら、それをさすっている。

      「ふ〜ん、ヨシ坊がそんなこと吹聴してるんだ」暗い陰が、胸を心地よさの裏をかすめて、なにかに沈んだ。

      「こうちゃん、動けないんでしょ?わたしが口でしたげるよ、気持ちいいんだよ、旦那も大好きだもん、わたしの口」

      「ばかなこと、云っちゃ駄目やん久子さん。同じこと何度も云わせんといてや。俺は、そういうの嫌いなの、まだ解れへんの?」

      「怒っちゃいや、幼稚園の先生役、したげるから、こうちゃんは園児ね、いい?」

      「ばかだなぁ、俺はおへそしか触らないよ、指で」

      「いや〜ん、ちゃんと触って、興味津々?指じゃなくっても、怒らないから」

      などという、破廉恥極まりない、個室とは名ばかりの木綿のカーテンの中、睦まじくもないふたりの興奮は、二時間続き、看護婦に、「なにしてるんですか!!」と怒鳴られる羽目に陥る。

       昼一に母と、叔母が入れ替わるように見舞うと、もう夕暮れだ。陽が沈む頃、

      「こうちゃん、元気?」と目の下に隈が出来た陽子がやってくる。そして、決まって、

      「疲れてるから、少し横にならせてね」と、ベッドに潜り込み、寝息をあっという間に立てる。久子さんの告げ口は、
褒貶(ほうへん)ではないのかもしれない。

      短いスカートのなかに、手を滑り込ませる。陽子もそれに応えるように、窮屈そうに両腕を僕の首にまわした。

      「する?」そう眼をつぶりながら、囁く声が、酔うくらい、なまめかしいんだ。  


       面会時間が終わり、就寝を看護婦から告げられると、消灯、同室の4人は、それぞれ、身の回りを片付けて、眠りについてしまう。だけど、彼らは、知っている。だから、きっと、寝た振りしながら、聞き耳を立てているだろう。夜な夜なくりひろげられる、法悦な享楽を。 

      午前零時。足音を殺すように、彼女がやってくる。お寿司やら、お弁当やら、たこ焼きやら、オミヤゲ携えて。

      「先輩、お腹空いたでしょ?これ食べて下さいね」

      「毎晩、来なくてもいいんだぞ、もう怒ってないから、安心しいや」

      「いいえ、どれだけ謝っても、先輩の身体に傷ついたのは、消えません。先輩がお嫌じゃなかったら、アタシ、一生面倒観ます。一生懸命稼いで、先輩を養いますから」

      15歳の少女の言葉だと、年を聞けば誰も信じないだろう。彼女は、僕を刺した男の彼女で、あのいまいましいスナックで出逢った後輩だ。中学卒業して、すぐに、水商売に入った。家の事情もあるのだろうが、勉強なんかしたくない、っていう彼女の理由を信じている奴はいないだろう。15歳の少女にとって、恋とは、一生を賭けられるだけの価値があるのだろうか。僕にはよく分らなかった。

      陽子に対する気持ち、或いは、久子さんに感じている気持ち、この少女に観る気持ち、そして、いつまでも消えない記憶のなかにすくんだように怯える幻影への苦しさ。それら全部が恋なのだろうか?僕は多情なのだろうか?いいや、そんなわけがない、ってことに、その頃の僕はもう気付いていた。

      異性を恋する時、多数を同時に同じだけ同じ思慕を抱けるなんてことは、出来るはずがない。出来る、なんて自慢する奴は大嘘つきだ。嫌いじゃない人を好きだと勘違いするように、大好きな人が誰なのかを、探しだせないだけだろう。恋しくって、どうしようもなく、切ないためいきしかつけない相手は、ひとりしかいないんだ。

      それが分ったのは、嫉妬しているからだった。陽子が、本当に毎日ヨシ坊とセックスして、僕に抱かれに来ているのか、そんな突拍子もないことを、陽子はどんなつもりでバランスとっているのか、いいや、そうじゃない、僕が嫉妬したのは、ヨシ坊にじゃない。その相手は、彼女の処女を奪い、彼女の日常まで奪ってしまった、殺してやりたくなるくらい、残虐な男だ。13歳の夏、陽子は男を知った。いちばん身近の、いちばん親しい相手によって、人の本能を知らされた。

      初めて陽子を抱いた後、僕は彼女が処女でないことを知った。思いやりのかけらもない言葉を、それから、かけてしまったんだ。

      「すっと、入ったよね、痛くなかったの?」

      陽子はあわてたように、

      「今、痛くなってきた、どうしよう…」

      そんなわけがないことを、僕が判っていることさえ、察せないくらい、周章(しゅうしょう)していたんだ。

      一度だけで終わらなかった悪夢は、毎晩も続いたそうだ。陽子はそのことを、ひたすら隠し通したが、ある時、母親に知られてしまった。彼女の横で眠っていた小さな妹が獣のような交歓を見てしまったからだ。獣、そうだね、獣だよね、陽子。セックスは、愛の確認なんかじゃなくて、どんなときも、獣じみて、さもしい慾に駆り立てられた、男と女の、汚い行為だよね。どれだけ愛しあっていても、どれだけ想いあっていても、それは、寒い冬の朝のように、峻烈で、心がかじかんでいるよね。解っているよ、おまえがどんな気持ちで、ヨシ坊に抱かれて、僕に抱かれているのか。こんなもの、どうだっていいんだよね。ただ、気持ちよければ、それだけでいいんだよね。その瞬間だけは、獣に帰れる、忘却の狭間に、とどまっていられるんだよね。

      母と彼女の母が、ひそひそ話すのを、聞いてしまった僕は、後悔していたよ。そんなこと、知りたくなかった。でも、知ってしまった今は、知ってしまって良かったって、思い直しているよ。

      僕は燃え上がる妬心を、ひた隠しにしながら、陽子に対した。ヨシ坊なんてどうでもいい。退院したら、殴ってやる。半殺しにして、陽子と別れさせる。もう誰にも触れさせない。僕だけのものにする。陽子の抱えた全てを、受けてやるよ。正面から、ちゃんと、受け取って、こなごなにしてあげるよ、全部、残らず、陽子おまえもね。

      「先輩?どうかしたの?」

      「先輩はいいって、こうちゃんでいいよ」

      「服、脱ぐね」

      少女は、派手な真黄色のワンピースを脱ぎ、ベッドに潜り込んでくる。

      

                        
                 彼らにとって絶対に必要なものはお互いだけで、
                 お互いだけが、
                 彼らにはまた充分であった。            
                 彼らは山の中にいる心を抱いて、          
                 都会に住んでいた。               
                                    夏目漱石「門」より
(五)  Sprout

 

              人間は不安の中に浮かんでいる。その不安が時として言葉を黙させる。
              そして沈黙と同時にいっさいの存在物が遠ざかり、かわって無が立ち現れる。
              その薄気味悪い無の虚ろな静けさ。
              それに耐えられず、人々は、ただとりとめもないおしゃべりで
              その静けさを破ろうとするのだ。
                  
                    ハイデッガー


   救急病棟のベッドの空きは、その頃も少なかった。1972年頃の話だ。抜糸が済んだ軽症患者をいつまでも置いてはくれないのも、仕方がないだろう。僕は、二週間後、病院を追い出されるように退院した。

   機は熟している。女との約束を破るつもりはないが、腹の虫がおさまらない。目には目、歯には歯、鉄則を忘れたら、僕はとっくに、精神を病んでいただろう。抗うのだ、そうしてこそ、自分なのだと、僕はいつも信じていた。対象は変遷しても、基本は変わりはしない。存在意義を見出すための闘いだってあるだろう。

     男は女と同棲している。毎晩遅く帰ってくる女を、男は信じていられるのだろうか。何してきたのか、疑いもしないのだろうか。僕なんかには、理解できないそうしたことを凌駕しうるような間柄なのだろうか。女は、きっちりと14日間、毎晩、僕のベッドに一糸纏わぬ姿で潜り込み、僕を慰めた。事が終わると、身支度をそっとはじめて、何も語らず帰ってゆく。最初から最後まで、話す言葉は、傷の治り具合を、遠慮がちに尋ねるだけだ。女に、どうこうしようとかいう目論見なんて、きっとなかっただろう。人間なんて、想う通りに、感情を捩じ曲げることなんてできる筈がない。感情は、いつでも正直だ。説明なんか必要ない。建前は、思考で導き出せるが、情操だけは、思考でさえ制御できはしない。生の想い、とでも言おうか。からだが、欲するまま、本能だとか生理だとか、そういう言葉でさえそれを括(くく)れはしない。つまり、生だ。純粋とも、謂えるかもしれない。理性的な者ほど、実は、この生の想いに引き摺られて、とんでもない行動を起こしてしまう。理性を働かせれば働かせるだけ、相乗効果のように、それは増幅し、四肢を縛りつけ、意志とは裏腹の行為を強要する。愚鈍なものは、抵抗しない。しないから、従順であろうとする。従順な思考は、それをまったく妨げない。だから、生の想いのまま、屈託も無く、行為に勤しむことができるのだ。

   いったいに、女は、この「生の想い」に、敏感ではない。かといって、鈍感でもないのだが、男と違って、矛盾にはならない。それも本当だし、これも本当だ、という、不思議な思考回路が、瞬時に構築されて、虚偽も真実に換えてしまい、嘘も誠にすり替えてしまう。それでいて、後悔など揮毫(きごう)もしない。拘(こだ)わりがないのだ。拘泥という言葉がある。泥にこだわる、という、虚しいまでの執念を彷彿させる意味が含まれるが、その執念という一点に絞って鑑みれば、女は、執着という観念も、どうやら、自在に操れるものらしい。

   陽子は、同時に二人を愛していると、錯覚している。僕を愛し、ヨシ坊を同じくらい愛している、と嘯(うそぶ)く。だが、そんなことは、理論上も、感情上も、あり得ない。物事はいざ知らず、我々の心には、無意識に煩雑な他への重要度を分ける機能がある。順列を、自然にしてしまうのだ。同じ想いなどあるわけがない。一方を愛している瞬間、他を同時に愛するなんて不可能なのだ。他を忘れて、一方を愛し、また、他と相対する場合は、一方を忘れている。忘れなければ、愛せはしない。片時も忘れたことなんてない、っていう弁解も、嘘ではないが、真実ではない。

   女もまた、この狭間にいただろう。同棲している男に、隠れて私に抱かれる。そこに、犠牲の精神など、あるのだろうか。女はただ単に、犠牲という大義名分をかざしながら、浮気しているに他ならないのではないか。もし、心底、男を好きならば、どんなことがあろうとも、私に抱かれはすまい。女の中の順列機能が、かまびすしいくらい、作用しているだろう。僕に抱かれる時は、男を忘れ、男に抱かれる時は、僕を忘れる。陽子と違うのは、犠牲という、名分のあるなしだけで、実質はなにも変わらない。

   「なぜ、こんなことをするんや?」

   「赦してもらうためです」

   「君に責任はない、だから、そこまですることなんか、あれへんやろ?」

   「いいえ、傷ついた先輩の体を癒してあげるのは、償いです」

   女は、平気で嘘をつく。自らの「生の想い」を糊塗するかのように、都合よく何かに置き換えて、不義ではない、昇華させた言葉を、真実と捉えてけっして疑いはしない。女にとって、それはつまり、もう嘘ではなく、徹頭徹尾、真実なのだ。怖いほどの純粋さが、そこには宿っているだろう。

   女は、快楽の声を洩らす。腿を痙攣させ、胸を波うたせるほど、背を隆起させ、髪振り乱して、唇を噛みしめる。しかるに、償い、という、尊い奉仕の気持ちは、その享楽と矛盾してはいない。享楽は、単に結果で、名分は、最後まで、自らを包み、「生の想い」を騙しつづけているのだ。暗示、とも謂えるだろうか。自己暗示に於て、男は、女の比ではない。女は見事に、酔う。完璧に酔う。仕方がなかろう。それが、子供を産むために培(つちか)われた、種としての能力なのだから。

   徳を僕は誘わなかった。単独でやろうと、決めていた。自信はあった。僕は、刺された。殺意をもって、刺された。カッとなって、心神喪失状態だった、なんていうまやかしに、僕は耳を貸さない。あいつは、私を殺そうとした。その手段として、僕をナイフで刺したに過ぎない。他の武器があれば、ためらわずにそれを用いただろう。どうしたって、あいつは、僕の息の根を止めようとしただろう。

   女の家は、分っていた。女がスナックに出ている時間、その数時間で、事は決行されなければならない。あいつの無聊を突く。安心し切った、自らの安全地帯を急襲する。母親の体内を、男はいくつになっても恋う。それが家庭であり、家族であることは言うまでもあるまい。母親の体内、命は無防備で、無抵抗だ。どうしてやろうか、僕は、戦術を立てなかった。僕は恨みを長続きさせられない、損な性格をしていた。時が経てば、どんな口惜しさも、諦めてしまう性癖だったのだ。我慢、ということぐらい、僕が幼い頃から強請されたことはなかったからなのだろうか。この恨みが薄くならないうちに、一刻も早くやってしまわなければならなかった。卑怯か?自問は捩じ伏せた。

   退院した次の日の夜、僕は、その家を襲った。ドアをノックする。男の声がした。用件を告げた。男は無防備に、汗疹(あせも)でも不衛生な環境でこさえてでもいたのだろう、背中を掻きながら、ドアを無造作に開けた。僕の顔を覚えていただろうか。瞬間、虚につかれた表情を浮かべた。僕は、バチキをその鼻梁に入れた。骨の折れる音が、額に響く。手で抑える暇など与えはしない。続けて、眉間にバチキを入れて、抑えた手ごと、三発目を入れた。男の両手は、目と鼻を抑えている。鮮血が、ぼたぼた、その手の隙間から滴(したた)り落ちた。男の股間を蹴り上げる。爪先で蹴るのでは、力が半減する。足の甲で、蹴る。睾丸など、潰してやるつもりだった。背中を丸めて呻く男の、左耳をつかんで、部屋の外に引きずり出す。その耳をはなして、俯いている後頭部に、バチキを入れた。脳震盪を起こさせるためだったが、男は、不運だったのだろう、気絶せずに、呻きつづけ、血の海に膝を屈した。私は、その顔を蹴り上げた。何度も、何度も、蹴り上げた。首を蹴り、胸を蹴り、背中を蹴った。突っ伏して、攻撃に堪えていた男は、抵抗しない。屈折した男のアキレス腱を痛打する。これは爪先がいい。断裂させるためだ。横たわる男の傍に、ブロックがあった。掴みあげ、男の膝に落とした。先ず、右膝、次に左膝。悲鳴をあげる。とんでもない声だった。隣の家に達しただろう。だが、確かめてある、この階の住人は、この時間ひとりもいない。

  僕に殺意はない。だが、男を肉の塊にしてやるつもりだった。二度とまともに社会生活出来ない体にしてやる。それだけが、目的だった。だから、これだけでは、まだ、足りない。僕は、砕けている筈の膝を尚もブロックで砕いた。数え切れないくらい蹴り、そして、バチキを入れた。私は、冷静だった。男の一挙手一投足まで観察しながら、攻撃の手をゆるめなかった。中途半端はいけない。徹底的にやらなければいけない。喧嘩とは、そういうものだからだ。恐怖させ、死を意識させ、トラウマになるくらいの衝撃をその傷と心に刻みつけなければ、復讐心が必ず芽生える。これで終わりにしなければいけない。

  「これで終わると思うなよ、入院したら、見舞にいってまた殴ったるからな、おまえが自殺するまで、何遍でも襲ったる、ええか、おまえを殺しはしない、そやけど、不具にして、死ぬまでいたぶったる。俺を殺そうとしたな。それだけの覚悟があったんやろ。そやから、おれも覚悟を決めてる、警察に垂れ込むんなら垂れ込め。俺は、脱獄してでも、おまえを探し出して、おまえを完全に消してやろう。それが無理なら、一生涯、お前は怯えて暮さなあかんで、俺は、何十年もお前を追いかけまくったる。俺に親兄弟はおれへん。おまえみたいに、甘ちょろい家庭なんかあれへんからな、誰に遠慮することもない。ええか、人を殺そうとしたら、殺されるのはあたりまえなんや、それを肝に銘じとけよ」

  男の潰れた耳に囁いて、僕は、再び、何度も、何度も、その顔を蹴った。永遠という時間の観念は、心が生みだした幻だ。幻は、時に、現実を遥かに凌駕する。男が、動かなくなったのを確かめて、私はようやく帰路についた。

  次は、ヨシ坊だった。恋敵だ。情けないことに、僕は陽子を好きだった。何故、そんなことになってしまったのか、理由なんて、理解できなかった。浮気女だ。中学生のくせに、男を弄んで、何を考えているのか、悪魔のような少女だった、だが、僕は、もう、逃げられない。好きになるということは、その対象から、離れられなくなるということだろう。理性は離れたがっている。懸命に私に警告を発している。やめろ、あの女はやめろ、大変なことになるぞ。

  胡散臭い船員や労務者たちが、ヨッパライながら、店から店へはしごしている。着飾った厚化粧のお化けのような女達が、嬌声まじりに、彼らを誘う。尻を撫でられ、胸をもまれ、嬉しそうに鼻をならしながら、男の背に腕を回して、店へいざなう。ここは、そんな街なのだ。恋の街、そうさ、疑似恋愛、仮想の宴が、夜を徹して、憚ることなくおおっぴらに繰り広げられる、本能の街に、僕は育ち、埋もれてゆく。それでいい。それがお似合いだ。僕なんて、この街から一歩も外へは出られない。たくさんの友人がいた。徳もそうだ。皆、恋の街には、育たなかった。普通の街で生まれ、育ち、その精神を養われた奴らだ。私とは違うのだ。私には家庭はなく、親もいない。こうして生きているのさえ、奇跡なほどだ。羨むまい。妬むまい。それが、それぞれの、こなさなければならない、業なのだから。色とりどりのネオンが映え、流行歌が重なって、夜はまだはじまったばかりだ。さぁ、男共、性欲の限りを尽くして、女に群がれ。争いながら、女を食い尽くせ。それが、私達、この恋の街に起居する者の役割なのだ。売春、覚醒剤、非行に暴力、なんでもござれ。ここは、仮想天国、恋の街、夕凪新地。

  部屋に戻ると、いつものように、寝かしつけたばかりの赤ん坊を胸に抱いて、ベッドを背に坐っている久子さんがいた。

  「お帰りなさい、どこ行ってたの?あら、大変、こうちゃん、血がついてるよ、どうしたの?」

  「なんでもない、怪我してへん」

  「なんでもないことないやん、見せて、ほら、顔、血だらけじゃない、ちょっと待ってね、えーと、ハンカチは…」

  「いいって、ほんまに大丈夫やから」

  「どうしたの?怪我はしてないみたいやけど、どうしてこんなに血浴びてるの?」

  「なんでもないよ、心配せんといて。それより、家帰らなあかんやろ?」

  「ううん、いいの。陽子ちゃんは来ないよ。ヨシ坊とどっか行ったから、さっき」

  「………」

  「正直やなぁこうちゃんって。顔に書いてるよ、心配や、って」

  「別に、気にしてへん」

  「嘘ばっかり、なんであんな浮気女がいいの?二股かけられて、口惜しくないの?」

  「久子さんも、これ不倫やで、そう思わへんか?」

  「ううん、これは不倫やないよ。あたしはこうちゃんのことほんまに好きやもん。旦那よりも、ずっと好き。旦那は家族やけど、好きな人と違う」

  「変な理屈やな。なら、離婚すればいいやん」

  「それは出来ないの。だって、この子のために、旦那とはずっと家族でいなきゃいけないやん」

  「それが分れへんねん。旦那のこと、ほんまに好きなことないんか?好きでもないやつと、ずっと一緒にいれるんか?」

  「いれるよ、子供のためならね。でも、こうちゃんが一緒になってくれるなら、別れるよ。あたし、こうちゃん大好きやから」

  「それが本音やろ?つまり、俺次第、ってことやろ?それ、もろ不倫やんか」

  「違うよ、本気やよ。不倫なんかと違う。真剣なんよ、これだけ言っても信じてくれないの?」

  「人のもん盗ったら、人に盗られるって、知ってる?」

  「何、それ?そんなの分らない。あたしは、こうちゃんに抱いてもらいたいの、それだけでいいの、他に望みなんてないわ」

  いつの間にか、久子さんは、スリップ姿になっていた。赤ん坊は、座布団の上ですやすや寝息を心地よさげに立てている。

  「ね、一度で良いの、抱いて。陽子ちゃんだって浮気してるよ。こうちゃんだって楽しまなきゃ、ね、抱いて」

  「それはできへん、って言ってるやろ。ウンテンさん、可哀想やんか」

  「旦那のことなんか、忘れてよ。ふたりだけやん、あたしとこうちゃん、向かい合って、抱きあって、えっちする、それだけやんか」

  「いいや、俺はそんなことできへん。久子さん抱いたら、俺はもう終わりや。よりどころがなくなってまう。これは俺自身の問題やからな、気悪くせんといてや。俺は、人間であることを捨てとうはないんや。久子さん、正直に云うわな。俺は久子さんが好きやで。好きやけど、どうにもならへん。好き同志でも、これはしちゃいかんことやねん。不倫はいかんって。久子さんが独身で、俺に妻がいてたら、久子さん抱くかもしれん。でも、久子さんにはご主人も、子供もいてる。そんな相手、どれだけ好きでも、抱けない。抱いたら、畜生や。なんでもありなんて、俺は御免や。俺は、人間でありたい。手当たり次第、好きになったらする、なんて、どこに意志がある?本能のまま、やんか。へ理屈でもなんでもいいよ、俺はね、畜生にはなりたくない。旦那がいてる奥さん抱くなんて、いいか?最低のことやで?男として、絶対にやってはいかんことや。やってしもたら、人間やめなあかんようになる」

  「もう、理屈っポイんやから。そんなとこも好きよ、こうちゃん」

  久子さんは、もう、裸になっていた。その日も、私は、久子さんを抱きはしなかった。性欲はある。異常なくらい、私はそれが自覚できるくらい旺盛だった。自認しているからこそ、それがよけいに疎(うと)ましかった。性欲は、理性で左右したい。不可能でもなんでも、制御したい。そうでなければ、私は、私自身を必ず見失う気がしていた。

  僕は、久子さんに嘘をついた。分っていたんだ、もう、どうしようもないくらい、陽子を好きになっていた。どうしようもないってことは、他へは眼も行かないってことなんだ。僕は、いくつも恋をこなせるほど、器用じゃない。不器用さ、そんなことは、解っていた。僕には、ドンファンなんかにゃなれないってことを。性欲だけで女を抱くなんて、出来っこないってことを。陽子を想い、陽子を独占したい、それだけが、望みで、他のことなんか、考えるだけのユトリなんてなかったんだ。陽子に、そうさ、陽子に明日、訊こう。僕とヨシ坊と、どっちを選ぶのか?って。

  翌朝、日曜だった。あの頃の僕に曜日はなかった。毎日が日曜だった。確か、雨がふっていたっけ。夏の雨は、激しく、薄い。ギラギラぎらついた陽射しを背負いながら、滝のような雨を降らせる。後にたちこめる陽炎は、夢のように儚げだ。いつもなら、陽子が来ている筈の時間だった。だが、陽子は来ない。痺れを切らして、陽子の部屋を覗こうと、ドアを開くと、ウンテンさんが、気まずそうな表情を浮かべて、立っていた。後ろに、赤ん坊を抱いた久子さんがいた。申し訳なさそうに、よほど泣いたのだろう、眼が赤く腫れ上がっていた。

  なにかが、音を立てるように、崩れはじめた。そう、僕は、この日を境に、奈落の底まで、一気に、堕ちて行く羽目に陥ることになる。



                                          
           
 
2006 05/06 21:33:26 | none | Comment(0)
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