思索に耽る苦行の軌跡

――Soliton(ソリトン)? 





――Solitonの如き孤立波さ。





――それが永劫に消えぬと? 





――ああ。





――それを《魂》と呼んでも構はぬか? 





――呼びたいやうに呼んだらいいさ。





――Solitonね……ふはっはっはっはっ。





――ちぇっ。





――まあよい。よれよりもだ、するとSolitonの如き孤立波となりし《魂》は、永劫に、ある種の波動体として存在することを、それは意味してゐるのか? 





――さうさ。永劫、それを《無限》と言ひ換へても構はぬが、Solitonの如き孤立波として存在する《魂》は「吾、然り」と《吾》たる存在を全肯定するのさ。





――それは全否定ではないのかね? 





――ふっふっふっふっ。詰まる所、同じ事さ。





――えっ、全肯定も全否定も同じだと――。





――ああ。《主体》を解脱せし《吾》は相転移を見事成し遂げて新=存在体、略して《新体》へと変化する。





――へっへっ、今度は《新体》の登場か。それは詰まる所娑婆で生きる衆生には《新体》は永劫に訪れないといふ事と全く同じ事ではないではないのか?  





――否、あの《存在》の深き深き深き《深淵》を《自由落下》する《意識》においては必ず《実体》と《反体》の対消滅の果てに相転移を成し遂げ、《新体》へと解脱するその臨界点が存在する筈さ。





――それは……彼の世の事ではないのかね? 





――ああ、《主体》にへばり付いてゐる《生者》にとっては彼の世の事に違ひない。しかし、《主体》であることを《断念》した《生者》にとっては娑婆が即ち《新体》が存在する世界に成り得る可能性がある。





――可能性があるだと? 蓋然性で済む問題か?  





――……一つ尋ねるが、お前は狂人として生きる覚悟はあるかい? 





――何を藪から棒に。それと《新体》と何の関係があるのかね? 





――つまり、《新体》は衆生にとっては狂人としか思へぬ存在形態だからさ。





――やはり狂気の沙汰か……。





――《主体》が《主体》であることを《断念》するのだから、それは衆生にとっては狂気の沙汰にしか見えぬが、しかし、衆生たる《主体》はその深き深き深き《深淵》の底の底の底にある《彼岸》へともんどりうって飛び込む外に、へっ、哀しい哉、《主体》が《生者》たる存在体として生き残る術は最早残されてゐないのさ。





――端的に言ふが、それは《主体》の自慰行為に過ぎないのじゃないかね? 





――ふっふっふっふっ、その通り《新体》への変化は《主体》の自慰行為に過ぎぬ。そして、《主体》はその自慰行為に耽溺するのさ。





――そして自滅すると? 





――ふっ、さう、《新体》に解脱せぬ限り何処までもその深き深き深き《深淵》を《自由落下》して、最後は自滅だ……。





――《主体》は如何あっても《新体》に解脱するか《主体》が《主体》たるといふその自慰行為に耽るかのどちらかしかないと? 





――ああ、《主体》が《世界》の王たる《主体天国》は疾うに終はりを告げたのさ。





――ところが、哀しい哉、それでも《主体》は生き恥を曝して生き続ける筈だ。





――やはり何処までも醜いかね、《主体》といふ生き物は? 





――ああ、愚劣極まりないのさ、《主体》といふ生き物は。





――すると《新体》の到来はあり得ぬと? 





――《新体》に成りたい奴が成ればいいのさ。





――へっ、これからが《主体》のその愚劣極まりない醜態を否が応でも目にする外ない地獄変の世界が訪れるのだ! 





(廿の篇終はり)





自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。<br />
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp









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2009 02/16 04:02:23 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ふっふっふっ、神は神であることに懊悩してゐると思ふかい? 





――勿論、神だって神であることに懊悩してゐる。神すらも《存在》からは遁れやしない! 





――すると、神もまた底無しの《存在》の《深淵》を覗き込んでゐると? 





――へっ、神は神なる故にその《深淵》の底の底の底に棲んでゐるのさ。





――はっはっはっはっ。





 それにしても《そいつ》の笑顔は悍(おぞ)ましい限りである。つまり、私といふ《存在》がそもそも悍ましいものであったのだ。





 《そいつ》は更にその鋭き眼光を光らせ私の瞼裡で私をぎろりと睨み付けるのであった。





――ならば、神は神なるが故に《永劫の懊悩》を背負ってゐるといふのか? 





――勿論さ。神たるもの《永劫の懊悩》を背負へなくて如何する? 





――つまり、神ならば《永劫の懊悩》を背負へ切れると? 





――へっ、背負ひ切れなくて如何する? 《永劫の懊悩》で滅ぶやうな神ならば《存在》しない方がまだましさ。





――つまり、神はその《存在自体》がそもそも《存在》に呪はれてゐると? 





――ああ、神は《存在》しちまったその時点で既に呪はれてゐるのさ、その《存在自体》にな。くっくっくっくっ。





 いやらしい嘲笑であった。《そいつ》は何といやらしい嗤ひ方をするのであらうか。





――つまりだ。神は自ら《存在》することで生じる《矛盾》を全て引き受けた上でも泰然として、そして《存在》の《象徴》として《自然》に君臨するのさ。





――自然に君臨するだと? 逆じゃないのか? 《自然》が神共に君臨するんじゃないのかね? 





――《自然》もまた神だとすると? 





――へっ、八百万の神か――。





――哀しい哉、人間は生(なま)の《自然》を憎悪してゐる。更に言へば、人間は《自然》を一時も目にしたくないのさ、本音のところでは。しかし、《現実》に絶えずその身を曝さざるを得ぬ。くっくっくっくっ。ざまあ見ろだ、ちぇっ。





 《そいつ》が舌打ちした時の顔といったら、それ以上に悍ましいものはないのである。虫唾が走ると言ったらよいのか、私は思はずぶるっと身震ひをせずにはゐられなかったのである。





――すると、《存在》とは常に《現実逃避》を望む《もの》だと、つまり、《存在》とは常に《現実》にその《存在》を脅かされ、へっ、そしてそれが《存在》を《変容》させる根本原因だといふのか? 





――さうさ。だから《存在》は全て《夢》を見る。





――神もまた《夢》を見ると? 





――ああ、勿論。





――《夢》を見ることが生理的な現象なのは勿論だが、それ以上に物理的な現象の一様相なのか? 





――当然だらう。





――つまり、《夢》を見ることでその前後の《夢見るもの》の、例へば質量は変化すると? 





――ああ、多分な。しかし、その変化はほんのほんのほんの僅かしか変化しない為に測定は不可能さ。人間が《光》を《物質》に還元する術を手にした時、初めて人間は《夢》の質量を測定出来る筈だ。





――《夢見る神》の《夢》の質量もかね? 





――その時点で《無限》を手懐けてゐれば、当然測定可能だ。





――やはり神の問題には《無限》は付いて回ざるを得ないのか――。





――ふん、《無限》に恋焦がれてゐるのに、これまた如何した? 





――本当のところ、《無限》を渇仰してゐるのに、いざ《無限》を前にすると、へっ、哀しい哉、《無限》に対して何やら不気味な何かを、多分、それは《不安》と名指されるべきものに違ひないが、その《不安》を感じて足が竦み慄いてしまふのさ。





――それは当然至極のことさ。《無限》を恐れ慄くのは《存在》にとっては《自然》なことだ。





――《自然》なこと? 





――ああ、《存在》は《自然》に《無限》の面影を見出してしまふ習性があるからな。





――つまり、《存在》は《自然》に絶えず追ひ詰められてゐると? 





――ああ、《存在》は《変容》することを《現実》といふ《自然》に強要されてゐる。





――《存在》の逃げ道は? 





――無い。





――へっ、これっぽっちも無いのかね? 





(三の篇終はり)







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2009 02/14 03:55:30 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――そもそも《反体》は生に対する死と同類のものではないのか? 





――違ふ……そんな気がする……。





――違ふか……。





――…………。





――…………。





――多分……《反体》は《実体》の死を誘発する何かさ。





――死を誘発する何かだとすると《反体》は死とは別の何かだな……それが《主体》内部に潜んでゐるとなると……これは《主体》にとって大事じゃないかね? 





――さうさ。《主体》は既に狂乱状態じゃないか? それにも拘らず今まで誰も《反体》を《反体》と名指さずにやり過ごさうと躍起になってゐたが、最早それが限界に達した……。つまり、《実体》たる《主体》はちょっとした事が切っ掛けで爆発してしまふ臨界状態にある。





――それを鎮めるのが、つまり《反体》か? 





――いや、《反体》は寧ろ《主体》の臨界状態を破り《主体》を爆発させる誘発剤になってしまふ筈さ。





――へっ、つまり《主体》の相転移か? 





――さう――。《主体》は一度滅んで相転移をする外に最早《主体》が存続する余地はこれっぽっちも残されてゐない。





――《主体》が相転移するには《反体》が必須といふことか――。





――つまり、《主体》は《主体》を後生大事にしてきたそのつけが今の《主体》に回って来たのさ。





――所詮、《主体》は《主体》に過ぎぬといふ事か……。





――そして《主体》は《主体》でしかない為に自壊してしまった……。その時になってやっと《主体》は《反体》と共存してゐることに気付いたのだ。全く、時既に遅しだ。





――すると《主体》内部は《反体》の天下か? 





――さういふ事さ、へっ。





――ふっふっふっ、さうすると《主体》はその身を矛盾に捩じりに捩じられ息も絶え絶えにやっとその存在を維持してゐるに過ぎぬといふことか……。





――へっへっへっ、《主体》の滅び方程みっともないものはないぜ。





――そんなに醜態かね、《主体》の滅び方は? 





――ああ、見るに堪へないね。滅ぶならもっと潔く滅んだ方が《主体》剿滅後に出現する新たな《何か》の為だよ。





――さて、《主体》は剿滅すると思ふかい? 





――ああ、如何あっても滅んでもらはないといけない。





――ちぇっ、結局《主体》は《主体》であることを持ち切れずに邯鄲の夢を見てゐるに過ぎぬのか――。





――さうさ。そんな奴等はさっさと此の世から退場するのが筋だ。





――《主体》が此の世から退場したとして、その後存在は自身を何と名指すのだらうか? 





――へっ、《実体》と《反体》の対消滅によって新生する《何か》が存在自体に君臨する筈さ。





――新しき《何か》が対消滅によって新生すると思ふかい? 俺は如何もさうは思へぬのだが……。





――つまり、相変はらず《主体》は生き恥を曝し続けると? 





――ああ、《主体》はとことんその生き恥を曝し続けるに違ひない。





――それでも《実体》と《反体》の対消滅は起こり、《主体》は此の世ならぬ《光》となって此の世から消え去る……。





――それでもその対消滅の残滓は残るさ。





――残ると思ふかい? つまり、《実体》と《反体》は等価ではないと? 





――等価であっても《実体》と《反体》による対消滅の衝撃はSoliton(ソリトン)の如く、つまり永劫に消えぬ孤立波となって此の世に残るのさ。





(十九の篇終はり)







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2009 02/09 04:08:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さうだだと? 《己》が地獄の綽名だといふのか?  





――じゃあ、お前は《己》を何だと思ってゐたのだ? へっ、つまり、お前は《己》を何と名指すのだ? 





――そもそもだ、《己》が《己》であってはいけないないのか? 





――いや、そんな事はないがね、しかし、《己》は《己》と名指される事を最も嫌悪する《存在》じゃないかね? 





――ちぇっ。





――だから、《存在》する《もの》全てはこの地獄でざわめき呻吟せざるを得ないのさ。





――えっ、地獄での呻吟だと? 先程このざわめきは《己》が《己》を呑み込んだ《げっぷ》と言った筈だが、それがこのざわめきの正体ではないのかい? 





――その《げっぷ》が四方八方至る所で起こってゐるとしたならば、お前は何とする? 





――何とするも何もなからう。無駄な抵抗に過ぎぬ事は火を見るよりも明らかだがね……、唯、耳を塞ぐしかない。まあ、それはさておき、これは愚門に違ひないが、そもそも《己》は《己》を呑み込まなければ一時も《存在》出来ぬ《存在》なのかね? 





――さうさ。《己》は《己》になる為にも《己》を絶えず呑み込み続ける外ないのさ。





――それは詭弁ではないのか? 





――詭弁? 





――さうさ。《己》は《己》なんぞ呑み込まなくても《己》として既に《存在》してゐる……違ふかね? 





――つまり、お前は《存在》すれば即《己》といふ《意識》が《自然》に芽生えると考へてゐるといふことか……。





――さうだ。





――ふっ、よくそんな能天気な考へに縋れるね。ところで、お前はお前であることが《悦楽》なのかい? 





――《悦楽》? ははあ、成程、自同律のことだな。





――さう、自同律のことさ。詰まる所、お前は自同律を《悦楽》をもって自認出来るかね? 





――ふっ、自同律が不快とばかりは決められないんじゃないかね? 自同律が《悦楽》であってもいい筈だ。





――じゃあ、この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 





――もしかすると地獄たる《己》といふ《存在》共が「吾、見つけたり。Eurika!」と快哉を上げてゐるのかもしれないぜ。





――ふはっはっはっ。冗談も大概にしろよ。





――冗談? 《己》が《己》であることがそんなにおかしなことなのかい? 





――《己》が《己》であることの哀しさをお前は知らないといふのか。《己》が《己》であることの底無しの哀しさを。





――馬鹿が――。知らない訳がなからうが。詰まる所お前は「俺」なのだからな、へっ。





――ならば尚更この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 





――ふむ。ひと言で言へば、このざわめきから遁れることは未来永劫不可能だ。つまり、お前が此の世に存在する限り、そして、お前が彼の世へ行ってもこのざわめきから遁れられないのさ。





――へっ、だからこのざわめきを何とする? 





――ちぇっ、お手上げと言ってゐるだらう。率直に言って、この《存在》が《存在》してしまふ哀しさによるこの耳障り極まりないざわめきに対しては何にも出来やしないといふことさ。





――それじゃ、このざわめきを受け入れろと? 





――ふん、現にお前はお前であることを受け入れてゐるじゃないか! 仮令《存在》の《深淵》を覗き込んでゐようがな。





――くぃぃぃぃぃぃぃぃぃんんんんんん〜〜。





――ふっ、また何処ぞの《己》が《己》に対してHowlingを起こしてゐやがる。何処かで何ものかが《存在》の《げっぷ》をしたぜ、ちぇっ。





――ふむ。……いや……もしかするとこれは《げっぷ》じゃなくて《存在》の《溜息》じゃないのかね? 《存在》が《存在》してしまふことの哀しき《溜息》……。





――へっへっ、その両方さ。





――ちぇっ、随分、都合がいいんだな。それじゃ何でもありじゃないか? 





――《存在》を相手にしてゐるんだから何でもありは当たり前だろ。





――当たり前? 





――さう、当たり前だ。ところで一つ尋ねるが、これまで全宇宙史を通して《自存》した《存在》は出現したかい? 





――藪から棒に何だね、まあ良い。それは《自律》じゃなくて《自存》か? 





――さう、《自存》だ。つまり、この宇宙と全く無関係に《自存》した《存在》は全宇宙史を通して現はれたことがあるかね? 





――ふむ……無いに違ひないが……しかし……この宇宙は実のところそんな《存在》が出現することを秘かに渇望してゐるんじゃないのかな……。





――それがこの宇宙の剿滅を誘はうとも? 





――さうだ。この宇宙がそもそも剿滅を望んでゐる。





――何故さうむ思ふ? 





――何となくそんな気がするだけさ。





(三 終はり)





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2009 02/07 04:13:15 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――これも夢想に過ぎぬかもしれぬが、《反体》が此の世に仮初にも出現したならば、《実体》は震へ慄く筈だと思うが……如何かね? 





――ああ、《実体》にとって《反体》の出現は恐慌以外の何ものでもない。





――にも拘らず、存在する《もの》全てはその内部に特異点を隠し持ち、其処で《実体》と《反体》を共存させてゐるといふ不思議を、《魂》を持ち出すことで取り繕ってはみたが、しかし、そもそも何故《反体》なんぞでっち上げなければこの存在が語れなくなってしまったのだ? 





――へっ、簡単なことだよ。《主体》そのものが行き詰まって、どん詰まりの処に追ひ込まれてしまったからさ。





――つまり、《主体》自らが《主体》の首を絞めてゐるといふことか? 





――さうさ。





――では何故《主体》は自ら《主体》の首を絞めざるを得なくなってしまったのだ? 





――へっ、《主体》に《自由》は持ち切れないからさ。





――《自由》が持ち切れない? その《自由》とは《無限》と同義語かね? 





――ああ、もっと端的に言へば、時間もまた《無限》の《自由度》を持つといふことさ。





――時間の《無限》の《自由度》とは、つまり、《渾沌》のことかね? 





――さうさ。つまり、時間はそもそも《渾沌》としたものに違ひないのだ。





――しかし、時間に《秩序》を与へた科学的なる思考法、或ひは世界認識の仕方は大成功だったのじゃないかね? 





――ふっ、さう思へるのかい、本当のところは?





――むむ……。 





――詰まる所、お前は既に現状の世界認識の仕方では《世界自体》が逃げ果せてしまふ思考の《裂け目》を見てしまったのじゃないのかね? 





――それは特異点のことかね? 





――へっ、何と呼んでも構はないが、お前は《パスカルの深淵》を覗き込んでゐる内に、その《深淵》にもんどりうって飛び込んでしまった――違ふかね? 





――つまり、それが《反体》の素顔だと? 





――ふっ、《パスカルの深淵》を《自由落下》する《意識》において、《実体》と《反体》は対消滅を繰り返しては「吾は此処なり!」といふ断末魔の閃光を煌めかてゐる……さう思はないかね? 





――《主体》たる《客体》に圧し潰され……追ひ詰められた《主体》は最早《パスカルの深淵》に飛び込まざるを得なかった……さうには違ひないが……《主体》はそもそも《実体》と《反体》の対消滅に堪へ得ると思ふかい? 





――へっ、堪へるしかないのさ、生き残るには。





――本当に《主体》は其処まで追ひ詰められてしまったのであらうか? 





――ああ、時既に遅しさ。ハイデガーは優しく《投企》若しくは《企投》と言ったが、《主体》は《世界》に《投身自殺》しなければ最早生き残ることが不可能なまでにその存在根拠を剥ぎ取られてしまったのさ。





――何に存在根拠を剥ぎ取られたといふのか? 





――《主体》自らに決まっておらうが! 





――それで《反体》の登場かね? ふっ、可笑しくて仕様がない! 





――可笑しいかね? ならば嗤ふがいいさ。ふっ、顔色が真っ青だぜ。





と、不意に彼の闇の視界にぼんやりと輝く人玉の如きものが飛び込んで、くるくると反時計回りに旋回をし始めたのであった。





 彼にはそれが死んだもの達の魂の残滓に思へ、死者達もまたこの彼の頭蓋内の闇で繰り広げられてゐる自問自答の行く末に聞き耳を立ててゐると感じずにはゐられなかったのであった……。





(十八の篇終はり)





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2009 02/02 03:15:44 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 何がそんなに可笑しかったのかてんで合点のいかぬことであったが、私は眠りながら《吾》を嗤ってゐた自身を覚醒する意識と共に確信した刹那、ぎょっとしたのであった。





――嗤ってゐる! 





 その時私は夢を見てをらず、唯、《吾》といふ言葉を嗤ってゐたのであった。





――《吾》だと、わっはっはっはっ。





 頭蓋内の闇を、唯、《吾》といふ言葉が文字と音節とに離合集散を繰り返しながら旋回してゐたのであった。





――《吾》といふ言葉に嗤ってゐやがる。





 眠りながら嗤ふ吾を見出したのはその時が多分初めてではないかと思ふのであったが、しかし、《吾》といふ言葉が闇しか形象してゐないこの状態をどう受け止めて良いのか皆目解からず、私は暫く呆然としてゐる外なかったのであった。それでも暫く経ってから





――俺は夢を見てゐなかったのじゃなくて、《吾》が表象する《闇の夢》を見て嗤ってゐたのだ! 





との思ひに至ると、何故か私は、私が眠りながら嗤ってゐたその状況を不思議と納得する私自身を其処に発見し、そして、これまた不思議ではあるが自分に何の疑問も呈さず納得するばかりのその私自身を自然に受け入れてゐたのであった。





――《闇》の《吾》……否、《吾》が《闇》なのだ! 





 私はたまにではあるが《闇の夢》を見ることがある。それを夢と呼んで良いのかは解からぬが、《闇の夢》を見てゐる私は夢を見てゐることをぼんやりと自覚してをり、その《闇の夢》を見てゐる私は只管(ひたすら)闇が何かに化けるのを、若しくは何かが闇から出現するのをじっと待つ、そんな奇妙な夢なのであった。





 多分、その日の嗤ってゐた《吾》を見出した《闇の夢》は、《闇》から一向に《吾》が出現しない様が可笑しくて仕様がなかったのであらうとは推測できることではあった。





 それは何とも無様な《吾》の姿に違ひなかったのである。夢とはいへ、闇の中から出現した《吾》が《闇》でしかないといふことは嗤ひ話でしかなかったのである。しかし、《闇》から出現する《吾》がまた《闇》でしかないといふことは言ひ得て妙で、而も、私にとってはある種の恐慌状態でもあったのだ――。





――《闇》=《吾》! 





 私にとって《吾》は未だ私ならざる《闇》のまま、未出現の形象すら出来ない曖昧模糊とした、否、私は《闇》そのものでしかなかったのである。





 しかし、これは一方で容易ならざる緊急事態に外ならず、《吾》が《闇》でしかないこの無様な《吾》を私は嗤へない、否、嗤ふどころか、わなわなと震へるばかりであった筈である。それにも拘らず《吾》は《闇の吾》を見て嗤ってゐたのである。そもそも《闇の吾》を嗤へる私とは何ものであらうか? 不図そんな疑念が湧くこともなくはなかったが、それ以上に予測はしてゐたとは言ひ条、《吾》が《闇》であることに唯々驚く外なかったのであった。





――《闇》から何も出現しない! 何故だ! 





 夢見中の私はさう《闇の夢》に向かって叫ぶべきであった筈である。しかし、実際はさうはせずに只管《闇の夢》を見てゐる《吾》を嗤ってゐたのであった。





――何故嗤へたのであらうか? 





 もしかすると私は《闇の吾》に《無限》を見出したのかもしれなかったのだ。否、多分、私は《闇の吾》を嗤ひながら、《無限》なる《もの》と戯れ遊んでゐたのであらう。いやそれも否、私は唯《闇》なる《吾》に翻弄される《吾》を嗤ってゐたのであらう。それは《闇》といふ《無限》を前にあたふたと何も出来ずに唯呆然とする外術のないこの矮小な《吾》の無様さを嗤はずにはゐられなかった筈である……。





――ぶはっはっはっ、《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





 《闇》以外何も表象しない《吾》を見て、その《闇の吾》を《吾》と名指ししてしまふことの可笑しさが其処にはあった筈である。そもそも《吾》を《吾》と名指し出来てしまふ私なる存在こその可笑しさが其処には潜んでゐたが、しかし、《吾》を《吾》としか名指し出来ないこともまた一つの厳然たる事実であって、その厳然とした事実を私は未だに受け入れることが出来ずにゐる証左として、私は《闇の吾》の夢を何度となく見てゐるのかもしれなかったのである。





 それにしても《闇》しか表象しない《吾》を夢で見ながら嗤ってゐることは、私にとってはむしろある種の痛快至極なことでもあったのである。





――《闇》=《吾》! 





(一の篇終はり)





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2009 01/31 04:06:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――一つ尋ねるが、その此の世ならざる《光》となりし《吾》はひと度「吾此処にあり!」と念ずれば《吾》は《吾》となって此の世に出現するのかね? 





――ふっふっふっ、これは異なことを言ふ……。まあ良い、それはそれとして、多分《吾》といふ幻影を見て「吾此処にあり!」と感嘆するだらうよ。





――つまり、全ては泡沫の夢といふことかね? 





――違ふかね? 





――「違ふかね?」といふことは、お前は少なくともさう考えてゐるといふことだね? 





――いいや。俺は端から《夢》なるものに全く興味を感じない! 唯、象徴的に言へば時間が最早一次元のやうな振る舞ひをするものと看做すことは禁忌だ。するとだ、時間が無限の相を持った此の世とは、仕方がないが今のところ夢見と同類の何かとしか記述若しくは表象出来ないのさ。





――つまり、一次元の枠から解放された時間の相に存在する《存在》は夢の如く現はれるといふことだね? 





――しかし、その《夢の如く》の《夢》が問題なんだ。





――つまり、それは夢現の境がなくなるといふことだね? 





――いいや、《吾》といふ意識が存在する以上、《夢》を見ることは最早叶はぬ《夢》となり果て、その上《吾》といふ、此の世ならざる《光》となりし《主体》は、絶えず覚醒し続け現のみを凝視するしか生き残る道はないのだが、しかし、《主体》たる《吾》にはそれが《現》であるといふ証左がこれっぽっちも無い。唯、摩訶不思議な《もの》を《見る》外ないのさ。つまり、其処には絶えず《存在の不安》が横たはってゐる……。





――はて、その摩訶不思議な《もの》とは何かね? 





――つまり……《物自体》の位相のことさ。





――《物自体》の位相だと? 





――《実体》と《反体》の対消滅によって生じし此の世ならざる《光》となりし《吾》は、その時、《物自体》の前へ抛り出される。





――それは世界が《物自体》といふことかね。





――ああ、《物自体》の筈さ。全てが《物自体》の位相の下に置かれるのさ。勿論、此の世ならざる《光》となりし《吾》もまた《物自体》の位相に相転移する。





――へっへっ、それはお前の単なる夢想に過ぎないのじゃないかね? 





――ああ、勿論、俺の夢想に過ぎない。





――あっさりと認めるんだね、夢想に過ぎないと。





――夢想としか表象出来ないからさ。





――すると《実体》と《反体》の対消滅がそもそも夢想に過ぎないといふことかね? 





――ふっ、夢想で結構じゃないか。





――つまり、夢想においてのみ世界が《新世界》へと相転移し、《存在》がこれまで体験したことのない未知の様相を呈すとお前は考へてゐるといふことだね? 





――へっ、さうさ。存在するもの全てが《夢》見ずして何処に《変容》する余地が残ってゐるといふのか? 





――つまり、《物自体》が一つの夢想に過ぎないと? 





――ちぇっ。……一つ尋ねるが、お前が現に今見てゐる世界が夢でないといふ証左は何処にあるのかね? 





――だが、夢であるといふ証左もない。





――ふっ、また堂々巡りの始まりだな。





――はっはっはっ。





と、その刹那、彼の視界の闇に流れ星の如き閃光が一瞬煌めいて消えたのであった。彼は不意に眼球をゆっくりと上向きに据ゑ、その闇に潜むであらう存在の秘密を凝視するかの如く、或ひは闇といふものの《影》を見据ゑるが如く、眼前の闇を睨み付けたのであった。





(十七の篇終はり)





自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 01/26 03:56:12 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 家に帰っても未だ興奮冷めやらぬ筈であったであらう私は、家に帰り着くや否や直ぐに昆虫図鑑を取り出して今さっき出遭ったばかりの未知なる生き物が何であるのかを調べ始め、さうして、遂にあの未知なる生き物が何と蟻地獄と名付けられてゐるのを昆虫図鑑の中に見つけた刹那、「あっ」と胸奥の何処かで叫び声を上げたに違ひないのである。





――蟻地獄――。





 私の大好きな昆虫の一つであった蟻の而も地獄! 何といふ名前であらうか。多分、幼少の私は何度も何度も蟻地獄といふ名を胸奥で反芻してゐた筈である。





――蟻地獄――。





 その名は様々な想念を掻き立てるに十分な名のであった。蟻地獄といふ名は今考えても何やら此の世ならぬ妖怪の名のやうな奇怪な名なのであった。名は体を表わすと言へばそれまでなのであるが、それにしても蟻の地獄とは何としたことであらうか。幼児の私はその名すらも知らなかった《虚無》若しくは《虚空》といふ言葉が持つ《魔力》と同じやうなものを、それとは名状し難いとはいへ、直感的に、または感覚的に蟻地獄と名付けられたその生き物に感じ取ってしまった筈である。幼少とはいへ、私は茫洋とだが直感的には掴み得る蟻地獄といふ名に秘められた此の世にぽっかりと空いたあの《深淵》の形象をそれとは微塵も知らずに蟻地獄という言葉に見出してしまった筈であった……。





――蟻地獄――。





 それは此の世と彼の世を繋ぐ呪文の如く突如として私の眼前に現われたのであった。





――蟻地獄――。





 幼児の私は既に地獄とは何か知ってゐた筈である。さうでなければこれ程までに蟻地獄に執着する筈はなかったに違ひないのである。それは例へば親が深夜の寝室で性交してゐる情景を目にしたかの如く、何やら見てはいけないものを見てしまった含羞をも併せ持った言葉として幼児の私に刻印されたのであった。





――蟻地獄――。





 それは此の世では秘められたままでなければならぬ宿命を持った存在として幼児の私には感じ取られたのかもしれなかった。それ程までに《蟻地獄》といふ言葉は何とも不思議な《魔力》を持った言葉なのである。その後何年も経なければ知りやうもなかった《深淵》といふ言葉が、蟻地獄のそれと気付いたのはパスカルの「パンセ」を読んだ時であったが、幼児の私は、《深淵》といふ言葉を知る遥か以前に《深淵》に対するある種くっきりとした《形象》を、蟻地獄を知ったことで既知のものとして言葉以前に直感的なる《概念》――それを《概念》と呼んでよいのかどうかは解からぬが――、しかし、《概念》若しくは《表象》若しくは《形象》等としか表現できないものとして私の脳裡の奥底にその居場所を与へられることになったのであった。





――蟻地獄――。





 蟻やダンゴ虫等、地を這ふ生き物を餌としてゐた蟻地獄の生態を知るにつけ、成程、蟻地獄を捕まへるべく蟻地獄の巣ごと手で掴み取った時に、蟻やダンゴ虫の死骸も一緒に掌の上にあったのも合点のいくことであった。それにしても蟻地獄の生態は奇妙なものであった。何故蜘蛛の如く罠を仕掛けてじっと餌があの小さな小さな小さな擂鉢状の罠に落ちるのを待ち続ける生き方を選んだのか、幼児の私は知る由もなかったが、しかし、その生き方にある種の《断念》の姿を、もっと態よく言へば《他力本願》の姿を見たのかもしれなかった。





 《自力》で餌を追ふことを《断念》し、只管(ひたすら)あんなちっぽけな擂鉢状の穴凹に蟻等が落ちて来るのを待つ《他力》に自らの生死を全的に任せてしまったその蟻地獄の生き方に、餓死することも覚悟した上での《他力本願》の一つの成就した姿を、幼児の私は親鸞を知る遥か以前に知ってしまったのかもしれず、その蟻地獄の、一方である種潔い生き方は、尚更、蟻地獄を興味深き《正覚》した生き物として、しかし、当の私本人はそれとは露知らずに脳裡に焼き付けることになったのかもしれなかった。





――蟻地獄――。





 蟻地獄にとって餓死は普通にある当たり前のことであることが解かると、私にとって蟻地獄はそれだけで既に餓鬼道を生きる愛おしい生き物に成り果せたのであった。





――蟻地獄――。





 この愛しき生き物の生き方は幼少の私にとって特別な衝撃を与へ、その衝撃の影響の大きさはずっと私の脳裡に留まり続けたまま、後年はっきりと言葉で知ることになった《他力本願》を此の世で実践して見せる《正覚者》として、また、蟻地獄は他の生き物と比べて別格の生き物として、私に記憶されることになったのであった……。





(二の篇終はり)





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2009 01/24 04:00:59 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――実際基督教の《神》は滅んだかい? 





――いや……、厳然として今も存在してゐる。





――ふっ、それじゃあ、宗教から派生した筈の科学は《霊魂》や《神》の存在を全否定出来たかい? 





――いや……。





――そりゃ当然さ。元々科学は宗教から派生したものだからな。つまり《神》が創り給ふたこの世界を証明することが科学の究極の目標なんだから、科学に《霊魂》や《神》を否定出来る筈がない! 





――それでも《主体》の《気分》で物事を決定するのは余りにも危険過ぎやしないかね? 





――当然危険極まりない! しかし、先程も言ったやうに残念ながら《主体》は一度《世界》に《溺死》しなければならぬ宿命を最早背負ってしまってゐる……。さうしなければ《主体》は《主体》ならざる《存在者》として《開眼》出来やしない! その為にも《主体》は己の《気分》に忠実に従はなければ《世界》に《溺死》するにも《主体》は浮かばれやしない。それに《気分》に重きを置いた先人にハイデガーがゐるじゃないか! 





――成程……。ハイデガーも《死》に対する《不安》といふ《気分》に重きを置いた何処かしら東洋的な匂ひの漂ふ先人には違ひない。しかし、《世界》に《溺死》するとまではハイデガーは言ってやしないぜ! 





――事此処に至っては《主体》は《世界》に《溺死》する外ない処まで既に追ひ込まれてしまってゐる……。それ故に《世界》に《溺死》する様を次世代にまざまざと見せつけて《主体》の存在の在り方の一つとして後世にその成否の判断を仰ぐしかない。吾々の世代は先づ《世界》に《溺死》して見せることがその存在理由になっちまったのさ、ちぇっ。さうして生き恥を曝すのさ。





――進退此処に谷(きは)まれり――か。





――ふっ、武田泰淳か……。





――何時の時代も《死》が付いて回る。ブレイクじゃないけれども《不死》は必然的に滅びる運命にある。《生》が泡沫の夢ならば《不死》も泡沫の夢さ。ならば《主体》は見事に《世界》に《溺死》しなければならぬ宿命を元来負ってゐる……。何故と言って《主体》の死滅後も《世界》は相変はらず依然として存在するからな。





――《主体》第一主義、即ち実存主義等はもう幕引きの時か――。





――その為にも《主体》は《世界》に《入水(じゅすい)》して、見事に《溺死》しなければならぬ存在体としてしか、皮肉なことだが、もう此の世で生き残る術はないのさ。





――生き残る? 





――ああ、さうさ。生き残るだ。





――《溺死》するのじゃないのかい? 





――勿論《世界》に《入水》して《溺死》するのさ、《主体》は。しかし、《主体》は《溺死》するが《主体》以外の《もの》として《主体》は新生するのさ。





――新生と言へば聞こえはいいが、しかしそれは結局のところ、《主体》の《存在》といふ《厄》を払ふ禊(みそぎ)に過ぎないのじゃないかい? 





――ふっ、その通り、《主体》の単なる禊に過ぎぬが、しかし、この《存在》に呪はれた《主体》は《世界》に《入水》して禊を行はなければ、最早一時も《存在》出来やしないのさ、哀しいことにな。





――その《入水》時、へっ、《実体》と《反体》は《溺死》する中で遂に対消滅が起こる。つまり、此の世ならぬ《光》を見る、否、なるといふことだね? 





――ふっふっふっ。対消滅しても《吾》といふ意識は残るぜ。此の世ならぬ《光》となってもね。





――へっへっ、その時、時間は一次元の殻を破ってゆっくりと渦を巻く無限の相の時空間となって《吾》を包み込み《吾》の現前に拡がる……ちぇっ、下らない夢想だ! 





――下らないかね? 俺には面白さうに思へて仕方ないぜ。此の世ならぬ《光》となりし《吾》を想像し給へ。へっへっへっ、これ以上面白さうな事があるかい? 





(十六の篇終はり)





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2009 01/19 03:31:41 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――無と無限の間だぜ。





――《杳体》が牙を剥いてゐると言った筈だぜ。つまり、《杳体》は奈落の底へと自由落下する中で《重ね合はせ》が起きてゐるのさ。





――《重ね合はせ》? それは《杳体》と《主体》が渾然一体となってゐるといふ意味かね? 





――一言で言へば《渾沌》さ。





――へっ、《渾沌》ね。それは逃げ口上ではないのかい? つまり、何でも《渾沌》に《収斂》させればいいってもんじゃないだらう。





――ぷふぃ。《渾沌》に《収斂》するだと? そんな言ひ種はないだらう! それを言ふんだったら《渾沌》に《発散》させてゐるだらう? 





――其処さ。《発散》する外ない《渾沌》に主体は堪へ得るのだらうか? 





――ふっ、だから《重ね合はせ》といってゐるのさ。





――ちぇっ、それじゃ無へと収斂し、無限へと引き伸ばされる《杳体》なる《もの》とは、それでも《存在》の類なのか? 





――それは《有限》なる《もの》の先入見でしかない! 《無》へ《収斂》するといふ、また《無限》へ《引き伸ばされる》といふ保証は何処にもありはしないぜ。





――ちぇっ、結局は特異点の問題か――。





――先づ、特異点が此の世の至る所に存在することを認めるんだな。つまり、《地獄》は此の世の何処にも存在する。





――へっ、特異点は《地獄》の別称なのかい? 特異点は《浄土》かもしれないぜ。





――その通りだ。特異点は《地獄》かもしれず、さもなくば《浄土》かもしれない。へっ、それは《杳体》に《重ね合ふ》《主体》次第といふことだな。





――ふっ、無と無限の間を揺れ動く……か……。





――其処には、物質に反物質があるやうに、存在体にも反存在体、略して《反体》と呼ぶが、その《反体》の位相も含まれてゐるのか? 





――勿論、含まれてゐなければならない。





――ならば対消滅はしないのか? 物質と反物質が出遭ふと《光》といふEnergie(エネルギー)へと変容して此の世から消滅するやうに、《杳体》と《重なり合ふ》《主体》は《反体》と出遭ふその刹那、対消滅はしないのかい? 





――ふっ、勿論、対消滅は起こるだらう。しかし、それでも尚《主体》は《杳体》と《重なり合った》まま無と無限の間を揺れ動くのだ。そもそも無と無限の間を揺れ動くのに《光》が怖くてどうする? 《光》もまた《杳体》の位相の一つに過ぎない。





――《光》ね。さて、《光》なる吾とは一体どんな感じなのだらうか? 





――《杳体》に《重なり合へ》ば、全ては明らかになるさ。





――無と無限の間を揺れ動くんだからそれは当然といへば当然だな。それにしても《光》となったら、それは、多分、壮観だらうな。





――何故さう思ふ? 





――唯何となくそんな気がするだけさ。だってさうだらう。質量のないEnergie体へ変化するんだぜ。





――でも重力からは解放されない! 





――それでも吾は《光》となって《発散》し、そして此の世から消えられるんだぜ。その上、吾は《私》であり続ける不思議。その時吾は宇宙全体に偏在してゐるのか、はたまた特異点の《地獄》の中を彷徨してゐるのか? 





――自己の消滅がそんなに待ち遠しいのか? ふっ、しかし、それでもお前は《私》であり続けるか、へっ。さうに違ひないが、さて、お前はその時何処に行くのだらうか?  





――多分、此岸と彼岸の間(あはひ)を彷徨してゐるのかもしれぬ。





――否! お前は一気に死の領域へ踏み込んでゐる筈さ。さうでなければ、お前が《私》として存在する意味がない! 





(二 終はり)





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2009 01/17 03:47:32 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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