通説にとらわれない新しい歴史解釈

2010年 05月 の記事 (2件)

 芥川龍之介いわく「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、いわゆる光栄を好んだりするのは今更ここに言う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。ことに小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当たることである・・・勲章もーわたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのだろう。(侏儒の言葉):
「勲章なんて人を沢山殺したからもらえたんだろ」と芥川は言いたかったのではないか。

 芥川が「将来に対するボンヤリとした不安」を感じて自殺したのは昭和二年なので芥川は山本五十六も東条英機も知らなかっただろう。それでも既に軍人のレベルの著しい低下に気づいていたようだ。
太平洋戦争の時の軍部が幼稚で常識に欠けていたことは国民に竹やりで米軍を迎え撃つ訓練をさせたことでも明らかである。自分たちだけでは良い知恵もでないくせに国民の自由な言論を徹底的に弾圧した。そもそも明治天皇御即位の時に明らかにされた五箇条の御誓文のなかに「広く会議を起こし万機公論に決すべし」とある。
徳川幕府でさえ黒船来航の国難に際して広く町人からも意見を求めた。太平洋戦争の時の指導者は明治の時よりはもちろん徳川幕府末期の頃よりも劣っていた。結果から判断する限り少なくとも国防という観点から見た場合、帝国大学や陸軍、海軍大学校の教育はほとんど役に立たなかったと思われてもしょうがないだろう。むしろ有害だったかもしれない。私は帝国大学や陸軍、海軍大学校の卒業生が増えるにしたがって日本は衰退していったように思える。少なくとも両者は時系列的には一致している。

 帝国大学を出た井上準之助と帝国大学で学んだことのない高橋是清という二人の大蔵大臣を比較することは良い例であろう。下落していた円の実勢価値を無視し旧平価で金本位制に復帰して金解禁を実行した(円の人為的な切り上げ)井上準之助と、取り付け騒ぎの起きた時に裏面の印刷していない紙幣を大量に印刷させてそれを銀行の窓口に積み上げさせることによって恐慌状態になった預金者を沈静化させた帝国大学をを卒業していない高橋是清という二人の大蔵大臣の能力と功績の差は歴然としている。
井上準之助蔵相は実際には円の価値がドルに対して旧平価の時より下落しているのに新平価を採用することなくーつまり人為的に円高にした。円高は外国の買手からみると日本製品の購入価格が上がることであるから日本の輸出を減少させ輸入を増大させるーつまり日本が保有している金(金、金貨)の国外流出もたらすことは自然の道理である。そして金本位制は基本的に金の保有量に応じて紙幣を発行するものであるからその保有量の減少は必然的に紙幣の流通量の減少をもたらすことになった。輸出を増やすためには輸出価格を下げなければならなかったので一層不景気に拍車がかかった。つまり、井上準之助が予言した金解禁をすれば景気がよくなるというのは嘘だったわけである。金解禁前にこれに気づいた新平価による金解禁論者(円の実勢相場に基づいて円と金の交換比率を決める)を「食うために新平価解禁を唱えている」と口汚く批判した井上準之助が高橋是清より優れているのは学歴のみのようにも思える。
*(金本位制とは通貨の額面と一定量の金(きん)の量を例えば一円=金750mgというように結びつける制度で(法定平価)、この制度のもとで発行される通貨は法律で定められた等価関係に基づいて無制限に金(きん)と兌換する事を中央銀行が保証する制度である。
この法定平価は固定的なもので為替市場の交換レートの変動による影響は受けないため、為替相場はおおむね法定平価の水準に安定する。
故に金本位制を採用するメリットは為替相場の極端な乱高下を防止できるため為替リスクを避ける事ができるということである。
変動為替相場制度のもとでは例えば、一ドル100円のレートの時に一つ10ドルの商品を10個米国から輸入する契約をして、いざドル建てで決済する時に極端な円安となり円の価値が購入契約したときの半分になってしまった場合、十個につき本来は1000円払えばよいものを2000円として計算しなくてはならなくなり利益は吹っ飛んでしまう。
この場合でも、米国側の立場で見れば、あくまでも10ドルという価格はそのままで、金(きん)を基準にして見た場合、契約時とまったく変動はないのであるから日本側としては通貨を金(きん)に変えて輸入代金相当分を現送して決済すれば損害を防げるということになる。但し、実際の金本位制度下においては法定平価と著しくかけ離れた為替相場にはならない。)

 山本五十六、東条英機、井上準之助の三人に共通していることは自分の考えが一番正しいと思い込み、それに反する他人の意見は排除しようとすることであろう。

陸軍少将田中隆吉は米軍の空襲に備えて早急に十分なる防空施設を造営することを東条英機首相に進言したが、東条は「英米空軍がドイツに対して行ったような爆撃を日本に行うことは不可能である。それは貴官の取り越し苦労である」と一蹴されたことで辞表を出して陸軍省の兵務局を去り、昭和二十二年に「敗因を衝く」という著書を上梓した人物である。そのなかで東条の人物を次のように評している。

「私の親友大橋忠一氏は満州以来、よく東条氏を知っている。また第二次近衛内閣では、外務次官として外交問題に関し東条氏と折衝した人である。
氏は『東条氏の頭の中には脳味噌がない。感情ばかりである』という。松井岩根大将は『東条にはどうも私心があって困る』という。私が東条氏の部下として働いたのは、その関東軍参謀長時代に六ヵ月、兵務局長としてニ年弱である。
私の見るところでは、東条氏は非常に愛憎の念が強く偏狭である。自己を信ずる事が厚く、その行うところは独善である。直諫の士を斥けて阿諛佞弁の徒を好む。故に大橋氏の言は当っている。一見しからざるがごとく見えて極めて虚栄心が強い。また立身出世を喜ぶ。その地位を維持せんがためにあらゆる手段を講ずる。ひとたび権勢の地位に立つと、一切の権力を自己の保身に利用する。公よりもまず自己が先である。東条内閣の末期に、氏が行った憲兵警察による恐怖政治はその実証である。私心多しとする松井大将の言は実にこれを指す。事務に堪能である。努力もする。しかしそれは眼前の小事に限る。ある人はかつて、『東条氏は村役場の戸籍吏が一番適任だ』と言った。いかなる小事でも手帳に書く癖があり、書類の整理はその最も得意とするところであるからである。
小事に拘泥して物を大局から判断する能力は零である。経綸のない所以である。従って宇垣大将の言は当る・・・・・東条氏の性格かくのごとしとすれば、これをして誤りなからしむるためには、その周囲には特に剛直にして直諫の士を必要とする。書記官長の星野氏、海軍の嶋田氏、企画院の鈴木氏、大蔵省の賀屋氏、商工の岸氏、文部の橋田氏。司法の岩村氏、厚生の小泉氏ら、ともに上司の命令に忠実なる能吏ではあるが、剛直よく一身の栄辱を度外視して東条氏に対して忠諫をあえてするの気概は微塵といえども認め得ない人々である。いわんやこの中には、さきに述べた東条氏の性格とほとんど相似た性格の持ち主もある。ある人は東条内閣を評して粗製急造内閣と罵った・・・・・

近代戦の特質は航空機の質と量とが、その遂行に重大なる役割を演ずるところにある。
大東亜戦争もまたこの例に洩れることは許されない。したがって、わが日本本土の防空施設のいかんは、戦争の勝敗を左右する大問題である。しかし遺憾ながらこれに対する陸海軍首脳部の関心は、ほとんど絶無に近かった。彼らは口を開けば常に言った。『未だ寡聞にして爆撃によって破れたる国家あるを聞かぬ』と。また曰く『成層圏飛行機の出現を見ざる限り、日本本土の爆撃は絶対に不可能である』と。東条首相は満々たる自信をもって『日本の本土は、たとえ敵の爆撃を受くるも絶対に大丈夫である。それはドイツと異なり、敵の基地が遠隔の地にあるのみならず、日本の建築物は欧州のそれと異なり、平面的にして木造なるが故に、被害はドイツのごとくはなはだしくない』と言った。海軍の平出大佐は、『無敵海軍の存在する限り、わが本土には、一機といえども敵の侵入は許さない。防空演習の実施は、帝国海軍を侮辱するものである』と豪語するを常とした・・・・・」

以上、中公文庫の「敗因を衝く 田中隆吉著」より引用。


 また、終戦後最初の東久邇宮内閣で国務大臣を務めた小畑敏四郎中将は東条について「東条は、連隊長止まりがせいぜいで、師団長にもなれる人物ではない。そんな人物が、この大事な現時局に、一国の総理大臣になったのだから、日本の悲劇は生まれたのだ。東条は、一度、こうと思い込んだら、誰が何といおうとも聞く耳を持たぬ頑固で、無理押しをする面がある・・・・・」と評した。(わが東条英機暗殺計画 津野田忠重著 徳間書店)

 小児に似ていたのは高級軍人だけではなかった。当時の政治家や官僚も似たようなものであった。実際、当時の高級軍人や政治家および官僚の知的精神的幼稚さには驚かされる。その事実を証明するための実例を挙げれば殆んど無限に出てくるであろう。

 昭和天皇が終戦後、まだ少年であった皇太子に敗戦の原因として「科学を軽視したこと、明治の大山巌や山本権兵衛のような常識のある軍人がいなかったこと」を挙げられた。「常識がない」−簡潔ではあるが実に痛烈な批評である。およそどの分野でも常識の無い人間なんて使い物にならないだろう。

 軍人に常識が欠けていた事を認めていた将軍もいる。戦争中フィリピンに報道班員として派遣されていた今日出海(初代文化庁長官で作家の今東光の実弟)は兵団長三上中将から「君から軍人を見るとどうかね。これも変人組か、非常識な?」という質問を受けた。「これは困った質問だ。軍人の居候をしていて、非常識呼ばわりは出来ぬ。けれども確かに常識を持った軍人は少ない。幼年学校、士官学校の教育は世間から隔離し、常識を追放することに努めたようなものだ。『私はここへ来てつくづくアメリカの戦争振りを見ていると、決して特別な攻撃法を用いていないように思うのです。常識と申しますか定石と申しますか、そんな戦争の門外漢の私でも気がつく戦法だと思います。それが独逸(ドイツ)の精鋭を破り、日本をここまで押す力を持っているとすれば軍人にもまた常識が大事なものと考えるのですが・・・・・』『無論大切だね・・・・・日本の軍人もこういうことは戦争が済んでから、ゆっくり考えなけァならんね。しかし常識に非常識が打ち勝つということは原則的にもあり得ない。これァ自明だ』
 中将閣下の温顔が曇ったようだ。軍人も将官まで来れば常識を備え、好々爺になるのだが、佐官までは非常識が武器なのだ。官僚も大学を出て高等文官試験を受けるまでは、雑誌一冊読む暇もなく勉強に追われ難行苦行して一人前の役人になる。二十七、八歳の事務官が石油、石炭、繊維の統制の元締めであり、私と同年の男が文化全体の元締めだ。何も解らぬからやれるので、解ったら手も足も出ぬという不思議な逆説の上に日本がのっているのでは、どんなことをやり出すかどんなことになるか判ったものではない」(山中放浪 今日出海著 中公文庫)

 実際は軍の上層部にも常識を備えた智勇兼備の優れた軍人が少なくなかったことは当時の記録を見ればわかることである。問題はなぜ彼らでなく四流、五流の人材グループが主導権を握ることができて、しかもその体制が事実上日本が壊滅するまで続いたかということである。それはおそらく今日も日本の組織において同様の現象がしばしば見られるのと同じ理由であったろう。

 「幕末、内憂外患交々(こもごも)至るや、憂国の青年武士たちは、地位も名誉も金も命も捨てて救国のために立ち上がり、旧体制幕府を倒して明治維新を成し遂げた。その多くは維新の中途に倒れたが、生き残りの志士たちにより、明治天皇御統率の下、国家体制を確立し、富国強兵以て外患をことごとく突破し、僅か四十五年にして日本を世界の一等国たらしめた。
 これらの人々は、生きた政治・軍事その他を実践と実戦の中に自ら体得したが、指導者たるべき後継者の養成を誤り、地位や名誉を目標とする月給取りの文人や武人を養成して国家の指導に当たらしめたため、それより、わずか三十年そこそこで、日本は未曾有の大敗戦となり、六年八ヵ月におよぶ旧敵国の占領支配を受くるに至った・・・民間の維新運動者たちは、軍に期待したが、実は軍こそが旧体制の最たるものであった。ここでは、実戦の実力などは昇進・栄達には何の関係もなく、平和時の机上学問による点数によって一生の階級が決まるような、たわけた制度だったため、立身出世の有能者、実戦と国家指導の無能者を指導階級たらしめ、ついにこのような結果となったのである」(常岡瀧雄 世界戦略研究所所長 元陸軍大尉 歴史と人物 昭和五十六年二月号)

 「わが海軍は、敗戦壊滅のドタン場まで、ただ精勤、保守的、官僚型、小まわりのきく事務的人材が幅をきかし、上司に苦言を呈したり、型破りの独創的な考えをだしたり、反骨をしめしたりする人物をすてて顧みなかったのである」(自伝的日本海軍始末記  元海軍少将高木惣吉著 光人社NF文庫)

「陸海同額予算時代になると、軍隊はどうしても乱を好むようになる。厚生省は病人が多いほうがうれしいとか、文部省は落ちこぼれが大好きというのと同じである。
本来は、こうした職業にある人ほど、エゴイズムを抑えなければならない。大局的にみて譲り合えるという人物が、国家を背負う本当のエリートである。賢いだけでは務まらない。品格や人格を合わせ持った人でなければいけない。
戦争後半世紀を経た今も、ただ公務員試験にさえ合格すればいいという考えが尾をひいている。国益のためではなく、仲間や自分のエゴを満たすために才知を発揮するような人間ばかりになってしまった。私の友人たちを見れば一目瞭然だ。役人でも正論を言うと出世がストップしてしまうのである。一方、がむしゃらに予算をとったり、先輩の天下り先をつくった人間が出世する。今も同じ事を繰り返しているのである・・・組織は、どうしても上層部に仲間ができてしまう。仲間に入れない人間は、実戦で消耗品にされてしまう。派閥に入っていない人は仲間外れにされ、派閥に入って言い訳がうまければ出世する。仕事そのものではなく、忠誠心を売り物にするわけだが、結局そんな組織は丸ごと沈没する。日本海軍、陸軍、外務省、大銀行、大企業その他」
(組織の興亡  日下公人 三野正洋 ワック出版)

 「今の日本は、官僚主導国家、つまり政治が不在で官僚が国をコントロールしていると言われるが、実は戦前もそうだった。政治が不在で、軍部がコントロールしていた。その結果どうなったかというと、当時の日本、つまり大日本帝国は亡びたのである。同じことが起こらないとどうして言えよう。いや、このままでいけば確実に起こるだろう」

「小室直樹氏は、もし日本が中国と停戦をし、そのことで浮いた予算を全部太平洋戦争のほうに回したら、あるいは勝っていたかもしれないということを言っている。これが当然至極の考え方であって、戦力でも予算でも、特定の目的を達成しようとすれば、一極に集中しなければ勝てない。
簡単に言えば、日米開戦の時点で、陸軍、つまり大日本帝国は、何としてでも中国との停戦を実現するべきだったのだ。
その上でアメリカと戦争状態に入るならば、まだしもリーズナブルな選択と言える。ところが、当時の日本は、日ソ中立条約という形でソ連に手を打っただけで、肝心の戦争状態にある中国との講和は、陸軍自らが潰す形で消し去ってしまった。つまり、幼稚園児でもしないような馬鹿な判断を下し、国を滅ぼしたのが、あの戦争の実態であったのだ。
では、当然の論理的帰結として、その戦争を主導した日本軍、特に陸軍の最高首脳は、馬鹿ばかりだったということになる。これは論理の帰結として、そうならざるを得ない。

 「今、まさに辻政信(*1)のような人間が日本を動かしている。それは、大蔵官僚を中心とするエリート官僚である。本来、官僚はスタッフであるから、国政全体の立場から言えば、国を動かしてはならないはずだ。あくまで政治家の命令、つまりは国民の命令における公僕として動かなければならない。ところが、実際はどうか。ちょうど、国土や国民を守るべき軍隊が暴走して日本を亡ぼしたように、今は国民の忠実な公僕であるべき階層が、国民を苦しめるようなことをやっている・・・かつて、日本の政治家は二流だが官僚は優秀であるという神話があった。実は、昭和十年代も同じことが言われていたのである。『日本の政治家はろくなのがいないが、軍人は優秀である』と。そして、その「優秀」な軍人は、日本のすべてを支配することに成功し、思い通りに国を動かした。その結果、どうなったか。日本は亡びたのである。

*1「参謀本来の職務を逸脱し、独断専行を重ねた人物の典型が辻政信である。辻政信は、陸軍幼年学校を二番、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を三番で卒業した秀才である。彼は昭和十六年(1941年)七月に大本営作戦課の戦力班長という要職に就いたが、戦争中に何度か彼にあったある人物は「私はこの男は間違いなく一種の精神異常者だと考えた」という回想を残している・・・実際、日本陸軍がかつて行った無謀な戦いや市民の虐殺といった恥ずべき行動には、たいてい辻政信の名前が登場する・・・昭和十四年(1939)に関東軍とソ連・モンゴル軍が衝突した「ノモンハン事件」が起こった当時、辻少佐は関東軍の作戦参謀を務めていた。彼はそこでノモンハン方面の作戦担当をしていたが、もともと曖昧だった国境線をめぐる小競り合いが、彼の強硬論によって大規模な軍事衝突に発展した・・・また辻少佐はたびたび前線に乗り込み、現地部隊に介入を繰り返している。
『此の男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也』とは辻の上官であった山下奉文の言である。

(日本軍の教訓 日下公人  PHP)


 元官僚出身の作家・堺屋太一氏も、現在の官僚の問題を次のように指摘している。
第一に先見性がまったくないこと。
第二に情報収集能力がないこと。
第三に事務処理能力が世界最低であること。
第四に自浄能力がまったくないこと。そして最も重要なこととして、「失敗した人がどんどん出世している」と指摘している。これが最も重要なことである。

 官僚というものの本能的遺伝子の中には、「民というのは愚かである」という規定がある。だからこそ、「愚民を優れたわれわれが指導しなければならない」という思い込みから離れられない。そしてその背景には、自分たちはきわめて困難な試験を若いうちに合格したエリートであるという誇りがあるのである。しかし、こんな誇りなどは、まさに塵芥と同じで意味のないものだ。
たかだか二十一、二歳の若者がペーパーテストに受かったというだけのことであり、それを生涯の履歴にすることがおかしいのである。今、生涯の履歴と言ったが、読んで字のごとし、けっして大げさに言っているのではない。たとえば大蔵省などは、今でも国家公務員上級試験の上位一桁の人間を好んで採用し、そしてその好んで採用した人間の中から、さらに主計局へ行くエリートたちを決定する。
そして、官僚同士は、おれはあの時何番だった、お前はあの時何番だったということを最後まで自慢しあうのである。実に子供っぽい話である」(日本を殺す気か 井沢元彦 黄金文庫)

 実際のところ、二十一、二歳の年齢で到達できる知識のレベルなんてたかが知れている。試験では法律や英語の問題が出題されたろうが、その試験に合格したから即弁護士の助手や通訳、翻訳家として生計を立てることのできるレベルであるかどうかは本人に確認するまでもないことである。


2010 05/28 23:09:53 | none | Comment(0)
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 山本五十六の遭難死の裏には山本を見限った陸海の首脳部による陰謀があったのではないかと疑われる状況証拠として次のようなものがある。
撃墜されてから現場近くの日本軍の救助隊が至近距離(直線距離で1キロ以内)の現場に到着するまで丸一日以上かかっており、海軍の最重要人物の捜索としては異常に遅いこと。つまり、一刻も早く不時着した現場に到着して救出しようと努力した形跡が無い。
翌日の午後、最初に現場に到着した捜索隊は道路設営隊の陸軍の一行で、それも海軍から依頼されたわけではなく一式陸攻が撃墜されたのを目撃したため自発的捜索に向ったものである。故に最初は撃墜された機に山本五十六が搭乗していたことも知らなかった。
山本五十六がおそらくまだ生存していた可能性の高い十八日(撃墜当日)の夕方に水上偵察機から地上の陸軍の捜索隊に対して早々に「生存者の見込みなし」という内容の連絡筒が投下されている。このような事故の場合は身動きできなくても生きている場合はありえるのに飛んでいる偵察機から見下ろしただけで近くで確認したわけでもないのに、いかにも不可解な行動である。まして山本五十六は腰掛けたままの姿だったのだから、本当に上空から確認したのなら「生存の見込みなし」などという報告はできなかったはずである。

山本五十六の遺体に残されていた銃痕は米軍の戦闘機の機銃によるものではなく、小口径の拳銃のものであったこと、
すなわち機上戦死という公式の記録は嘘で、最初に検視した軍医(蜷川親博陸軍大尉)のメモ等から判断しても墜落後約24時間は生存していたと思われる山本五十六の救出の遅れの責任を回避するため、機上戦死をデッチあげたと思われること。
 山本五十六の搭乗機の少なくとも尾部の機関砲が取り外されていたか発射できないようになっていた可能性が高い。
生き残った二番機の操縦士林浩二等飛行兵曹も頭上を敵機の放つ曳光弾が山本機目掛けて走っていくのを見ているが反対に山本機から敵機目掛けてのものは目撃しておらず、山本機を撃墜したレックス・バーバー陸軍中尉も「一番機の尾部銃座に銃も人影もなく、一発も反撃されなかった」と証言しているからである。
 最初に墜落現場に到着した陸軍の捜索隊の長であった浜砂盈栄(みつよし)少尉も墜落機(後部)には機関銃は見当たらなかったと証言している。
(参考文献 山本五十六の最期 蜷川親正 光人社/検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会)蜷川親正氏は最初に山本五十六の死体を検死した軍医の実弟でご本人も医師である。 
巡視のスケジュールが訪問予定の各部隊に宛てて暗号を用いて打電されたが、これがもっとも解読されやすい暗号であったため電信員が驚き、間違いではないかと通信参謀に問い合わせたが「そのままでよい」といわれたこと。
山本の巡視予定だった方面は当時、約1ヶ月間で20回の偵察や襲撃を受けており、山本の護衛機が僅か六機であることを知っていた各部隊の司令官が実情を山本一行に伝えて護衛の強化や自分達の方から護衛を申し出なかったことは不自然であること。事実山本に別の機で同行して同様に撃墜されて生き残った宇垣纏長官は「あんな危険なところだとはしらなかった」と述懐している。

 この方面は、山本長官視察前の一ヵ月に二十回、航空偵察や空襲を受けている・・・ブイン方面は、海軍の最高指導者が薄い護衛で視察に行くような状況ではなかった。遭難当日も2機の米軍機が偵察に来ていた。
 特に山本五十六遭難死の前日の四月十七日には最初の着陸予定地ブインにB−17と艦爆計十数機が来襲していた。
「不可解なのは第二六航空戦隊司令部の対応である。司令部はブインにあり、司令官上阪少将は当然同方面が受けている空襲状況を知っていたはずである」・・・

ラバウルからの電文の中には、長官一行の行動予定に加えて「但シ各部隊ハ当日ノ作業ヲ続行ス」というただし書きがあった・・・
 搭乗員編成についても、疑問がある。空戦経験が豊富な人を選んだわけではない。九六式戦闘機から零式戦闘機にかわったばかりの人も入っている。さほど経験を積んでいない飛行兵長が二人入っている・・・何を基準に六人を選んだのか全くわからない」
「計画を立案した連合艦隊司令部、直接携わった南東方面艦隊司令部、司令部がブインにあって視察に関する全航空機を統括・指揮する立場にあった第二六航空戦隊司令部、すべてに大きな責任があった。しかしだれも責任を追及されていない」
(参考文献 検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会) 

 「現地ブイン基地においては、長官巡視の当日、朝五時二十分、六時二十分と相ついでP38の来襲があり、その前日、前々日にも敵機B24の激しい夜間爆撃を受ける等、連日連夜の敵機襲来で滑走路付近等かなりの被害が生じていたことは、当時の守備隊の記録によっても明らかである。かかる現地の状況報告が連合艦隊司令部に届いていなかったとは到底考えられないが、宇垣自身は当時この時期に運悪く病気入院中であったせいか、この事を承知していない。いずれにしろ、幕僚たちが『危険なし』或いは『危険少なし』と判断した根拠はよく分からない」(ブーゲンビリアの花 衣川宏著 原書房)

山本五十六に同行する予定だった吉田一従軍カメラマンが直前に搭乗を強く拒まれていること(証言・私の昭和史)等。
山本五十六の搭乗した一番機は宇垣長官の搭乗した2番機と同じ一式陸攻で2番機には計12名が搭乗していたのに対して1番機は11名だったので吉田カメラマンが搭乗する余裕はあったはずである。これも山本五十六一行が米機によって撃墜されることは確実だったので救ったのではないだろうか。

 宇垣纏が遭難後、「あんな危険なところだとは知らなかった」と言っていたということは山本五十六もそう思っていた可能性が高い。つまり、本当はどれだけ危険なところであるかが故意に山本五十六に伝えられなかったのではないだろうか。すなわち米軍機のしばしば出没する危険地域に山本五十六を将兵の慰問という口実で誘き出して米軍の手によって殺させたのではないだろうか。

 上記の数々の不可解な事も山本五十六の搭乗機を米側の手によって撃墜させる謀略があったと仮定すると納得できるように私には思えるのだが。

 高松宮の当時の日記の記載を見ると山本五十六の化けの皮は既に剥がれていたようである。

「一課長の話  山本長官「い号」作戦ニテ「ラボール」ニ出ルコトハ好マレズ。幕僚室ニ来ラレタ時ナド「ラボールニ出ナクテハナラヌカ」ト二、三度云ワレシ由。主将は軽々シク出カケルモノデハナイトノ考エニテ、愈々ト云フ時ニ陣頭ニ進ムベキダトノコトナリ」

「総長の所見ニテハ、山本長官戦死ハ海軍ノ戦争遂行オ左右スルモノニハアラズ。「ミッドウェー」等ニツイテモ海軍ハ都合悪イコトハ発表セズト世間で云ヒツツアレバ・・・」
(高松宮日記 高松宮宣仁親王 中央公論社)

 今日までのところ、山本五十六の遭難が陸海軍上層部の反山本派による米軍を利用した暗殺であったとの決定的な証拠は発見されていないが、ミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦で致命的な敗戦を喫した作戦の最高責任者であった山本五十六が日本側に暗殺されても不思議ではない状況だったことは確かである。

 要するに大本営発表ではない真実のミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦の敗北の事実と山本の臆病な戦い振りを知っていれば「山本では駄目だ」という結論が出てこないほうがおかしい。戦艦大和に引きこもったまま前線に出て行こうとしない山本五十六をバカにしていたパイロットも少なくなかったようである。

 海上護衛隊参謀として台湾の護衛隊司令部にいた当時陸軍少佐の堀江芳孝は山本五十六戦死のニュースが入って来たとき周囲の護衛隊の将校、下士官、兵が一斉に「ザマ見ヤガレ、馬鹿野郎」と公然と罵るのを目の当たりにして愕然としている。戦争遂行に不可欠な戦略物資輸送のための輸送船団が満足な護衛がつけられないためにみすみす沈められていく現状に彼らの怒りは大きかったのである。
(参照文献 歴史から消された兵士の手記 土井全二郎 光人社)

 不可解というより奇怪とさへ思える当時の海軍の船団護衛方式を当時の記録から知ることができる。ほんの一例をあげると「一九四ニ年五月に入り南方の各占領地域の各種産業の復興のために、日本から大勢の各種業種の専門家が派遣されることになった。そして彼ら大勢は特別に組まれた船団の中の二隻の客船に分乗し、五月七日に門司郊外の六連島泊地を出発した。
この船団は第『109船団』と呼ばれ、客船大洋丸、客船吉野丸そして三隻の貨物船で編成されていた・・・・・
吉野丸と大洋丸の二隻の客船に分乗していた派遣技術者は、石油、セメント、土木建設等の業界の専門技術者、及び占領地域の行政を司るために派遣される政府役人や民間企業の専門事務職員等であった。そして三隻の貨物船と吉野丸には陸軍部隊の補充要員や軍需品、あるいは産業復興工事に必要な機材や材料も大量に積み込まれていた。しかし、出発翌日の五月八日午後七時四十五分、船団の中で最大の大洋丸が米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。
位置は九州西南沖の男女群島の南南西百六十キロメートルであるが、積み荷のカーバイトや工事用爆薬の爆発などによって船体はたちまち火炎に包まれ救助活動は困難を極めた。この時の犠牲者は乗組員と派遣技術者など合計八一七名に達し、日露戦争の時の常陸丸遭難事件以来の最大の輸送船犠牲者となった。

この頃は南方方面を往復する船団であれ、単独航行の商船であれ、護衛艦艇がこれらすべての商船を援護するには絶対数が不足の状態であったため、すべての船団や単独航行商船が護衛をうけられるとは限らなかった。
この時も今後の南方地域の産業の復興と開発を左右しかねない、大勢の専門家や大量の必要物資を輸送する船団にしては護衛艦艇はわずかに一隻だけであった。しかもその護衛艦
は中国航路用の二〇〇〇総トン級の貨物船を徴用し、四門の大砲と一〇発程度の爆雷を装備しただけの特設砲艦であった。そして十分な性能の潜水艦探索装置も装備されていなかったこの護衛艦の護衛では、とうてい潜水艦の攻撃に対処てきるものではなかった」
 「悲劇の輸送船 大内建二著 光人社)

 「八月十五日、山本長官は新たにガダルカナル救援部隊の編成を命じ、田中頼三少将と第二水雷戦隊をこの任務に選んだ。第二戦隊はトラック島で物資を補給していた。田中少将はすでにトラック島へ到着していた一木支隊の九○○人の兵隊を乗せて、ガダルカナルへ運ぶよう命じられた。田中少将は初めから憤慨していた。どうして連合艦隊司令部は重火器を持たず、小銃だけの一、○○○人以下の兵士でやれると思っているのか理解できなかった。田中少将は「竹槍作戦」と呼んだ。(ガダルカナルの戦い エドウィン P ホワイト著 井原裕司訳 元就出版社P66)

 山本五十六は愛人の河合千代子にはしばしば「日本が勝てるとはさらさら思っていない」と言っていたそうである。(山本五十六の恋文 望月良夫 考古堂)
冷静に考えればそのとおりで中国大陸において中国兵を相手の戦争でも日本は四苦八苦して点と線の確保しかできないでいるのに、その中国軍に数倍する強敵である米軍を北米大陸に追い詰めて屈服させることなんてできるはずがないことは子供でも理解できる。

 だから私は山本五十六は長期戦になって日本の被害が致命的にならないうちにどうせ負けるなら早めに負けようと考えてあのような戦い方をしたのではないかと本気で思うこともある。それくらい山本五十六の作戦はおかしい。
真珠湾奇襲にしても本来なら失敗するはずであった。第一次攻撃隊の接近をハワイの基地のレーダー監視員が30分以上前に発見していたからだ。監視員が上司に報告したところこの上司が到着予定になっている味方の編隊だと誤解し放置されたので一応奇襲の形になっただけである。小型潜航艇の一隻も真珠湾奇襲の一時間以上前に米側に発見されて撃沈されている。もしこの時日本軍の襲来だと気がついていたら、米側では十分な迎撃体制を整えることができ、日本の機動部隊は飛んで火にいる夏の虫という結果になったことだろう。
 この奇襲に対して、アメリカ海軍は在泊大小の艦船九十四隻に備えられていた八四三門から二十八万四千四百六十九発を放って応戦したという。
(図説 秘話で読む太平洋戦争 森山康平 河出書房新社 )

 一応の成功としても日本側の戦死者は64人、未帰還機29機、損傷ー74機の被害は奇襲にしては決して少なくはない。一時間しか航続能力のなかった小型特殊潜航艇5隻も全て帰還することはできなかった。もし米側が待ち構えているところに突入したらこの数倍の被害がでて奇襲は失敗となったことだろう。

「1941年1月、南米ペルーの駐日公使はジョゼフ・グルー米大使にある情報を伝えた。最近公使館に複数の話がもたらされたという。『日本軍がハワイ真珠湾に大規模な攻撃を計画している』『航空機の編隊で米艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける』という。公使はグルーに至急本国に通報するよう促した。しかし国務省は真剣に受け取らず攻撃を許してしまう」(1945日本占領 徳本栄一郎著  新潮社)

真珠湾奇襲計画は事前に何者かによって入念に漏洩されていたのである。
2010 05/07 22:01:27 | none | Comment(0)
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