通説にとらわれない新しい歴史解釈

2008年 02月 の記事 (10件)

日露戦争開戦の直前、海軍大臣山本権兵衛は竹馬の友であり、戦時には連合艦隊となる常備艦隊の司令長官であった日高壮之丞をクビにして、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したが、その理由の一つは日高が独断専行の傾向があり、他人の意見を聞かない性向があったからだと言われている。私は山本五十六がまさにこの日高と同じタイプであるように思える。山本権兵衛だったら絶対に山本五十六を連合艦隊司令長官にはしなかったであろう。
スタンドプレーを好み、メンツにこだわり、手柄を独り占めにしたいようなタイプは大将の器ではない。

 ミッドウェー海戦の勝者スプルーアンス提督は次のように語っている。
「戦争の間、私は常に虚心坦懐に他の者の意見を聞く必要がある、という感じを強く持っていた。私達は教訓を汲み取ろうとして戦史を研究するが、戦史の研究からは必ずしも、将来の問題に対する正しい答えが得られるものと予期するべきではない。同じ状況が二度と起きることは、ほとんどないのであり、状況に応じて解決法を見出すのでなく、あらかじめ解答を考えておいて、これを状況にあてはめるようなことをしたならば危険で、高価な犠牲を払わなければならないことになりがちである。
 あらゆる分野において優れた力を発揮することができる者は誰もいない。従って、われわれはこのことを認識し、それぞれの分野における他の人たちの優れた知識と能力を利用することが、われわれの義務である。自分の部下の方が自分よりもよくできるようなことについて、何もかも自ら決定を下そうとしてはならない。
 自分が上に立つ組織が大きくなればなるほど、個人としての自分の力を発揮してその組織のために寄与することができる割合は少なくなり、自分の力は部下を指導し、これに指針を与え、そのアイデアを活用することを奨励するのに用いることが重要になってくる。他の者の考えを認めてこれを用いることは、自分の能力が劣っていることになると感じているようなものがいる。このような考え方をする者は、一つの組織の上に立つことには向かない人物である」(「提督・スプルーアンス」 トーマス・B・ブュエル著 小城正訳 読売新聞社)
スプルーアンスと山本五十六では大人と子供の違いがあると思うのは私だけだろうか?

 スプルーアンスのやり方は「他者の意見に謙虚に耳を傾けて優れた意見であれば積極的に採用する」という極めて常識的で当然のことに過ぎませんが、この当然のことが行われていない組織が世間には満ち溢れているのが実情ではないでしょうか。正論よりリーダー個人のプライドや個人的欲望が組織の利益よりも優先されているところが多いのではないでしょうか。
1997年から1999年のわずか2年間で機能不全に陥っていた駆逐艦ベンフォルドを海軍No.1と評価されるまでに大改革した新米艦長アブラショフ大佐はスプルーアンスの正統な継承者と言えると思います。

「今までのやり方にとらわれることなく部下たちが考えた合理的で、よりよい方法を採用した結果、アブラショフが艦長に就任してから僅か一年間で、リストラなどを一切行わずに、前年の予算の75パーセントですべての任務を遂行した。
装備機器の故障率を、前年の75パーセントから24パーセントにまで減少させたが、その結果、整備費と修理費も予算の25パーセント前後も余らせることができた。
砲撃訓練でも太平洋艦隊で史上最高の得点を上げた。
艦の最も重要な二つの部門における定着率は28パーセントから100パーセントにまで上がった。ベンフォルドの部下の昇進率は海軍の平均以下だったが、翌年には海軍平均の2倍になった。」

アブラショフは部下に「何をするにも必ずもっとよい方法があると考えよ」「きみがしている仕事に、もっとよいやり方はないか?」聞いて回った。その結果、思いもしなかった画期的な回答が出ることもしばしばであった。中には艦長のアブラショフでさえ考えつかないような戦術を考え出す者もおり、アブラショフを驚かせた。
「ほとんどの組織がそうであるように、海軍でも中間管理職を単なる『トップの命令の伝達者』に変えてしまっていた。彼らは上からの命令を’’公布’’ することに慣らされて、下からの提案をこころよく受け入れることに慣れていなかった。しかし、私は、部下が持っている艦の活動を改善するためのアイデアを、すべて集めることこそ自分の仕事だと考えた。ガチガチの管理主義者はこれを邪道だとみなすかもしれないが、実際には、各部門で仕事をしている人々こそが艦を支え、艦長には見えていない現実を知っているのだ」

「最先端のテクノロジーが装備されたベンフォルドのシステムは、信じられないくらい複雑である。消化し、処理し、実行に移すべき情報が大量に生じ、ときにはわずか数秒ですべてを解決しなければならないこともある。したがって、一人の人間があらゆることを掌握し続けることはできない。部下からより多くの能力を引出し、彼らに責任を持つように求めることが必要になる。これはビジネスでも同じだ。私に要求されているのは、突発する問題に対し、的確な状況判断を下し、仕事を進めていくこと、そのために部下の能力を最大限に引き出すことであった。すぐれたリーダーシップを発揮するには、自分のプライドよりもチームの実績を優先させなければならないのだが、それができないリーダーは多い」
ベンフォルドの指揮をとることになったとき、アブラショフ艦長は「埋もれている才能、生かされていないエネルギー、無限の潜在能力を備えた310名の男女からなる部下を預かることになった。私は、彼らにふさわしい艦長になろうと決意した。彼ら一人一人に挑戦の機会を与え、指示を待たず、自分で考えて行動する人材に育てることは自分に課せられた使命だった。私は部下たちを労働者ではなく、パートナーにしたいと真剣に考えていることを声高に示したかったが、言葉だけでは何の影響も与えられない。これまで軍のトップたちは口を揃えて、一番大事なのは人材だと言ってきたが、その言葉を実行する者はほとんどいなかったのだ。」
アブラショフ氏はその後海軍を退役し、現在はコンサルタント会社を経営して海軍で身に着けたノウハウを民間企業で活用する手助けをしているそうです。
(アメリカ海軍に学ぶ「最強チームのつくり方」 マイケル・アブラショフ著 吉越浩一朗訳  三笠書房)


 名将児玉源太郎も部下のアイディアを吸い上げる名人だったようである。「児玉は、部下の参謀を駆使する能力とともに、機略、奇策、そして確かな判断力、こうした資質をも遺憾なく発揮した。彼は、冬営中の部下たちを気軽に見舞って回った。その際、必ず「酒、煙草、缶詰など、陣中慰藉の料を携え」そして、こう言ったそうである。「これ総司令官より卿等に贈るところなり」(註:総司令官は大山巌のこと)
そして、このときほど、参謀たちの意見を大いに言わせたこともなかったらしい。「故に、参謀幕僚等の会議に列するや、議論沸騰、口角泡をとばして、毫も遺憾なきを期」した。
児玉は、参謀たちに言った。《会議は神聖にして、諸氏の意見は直ちに国家の意見也。しかるに、もし諸君、知って言わず、別に意見を有すと言うものあらば、即ち国家に対する不忠不親切の至りなり》
そして、議事を終わって、ひとたび軍幕の外に出ると、今まで眼を怒らし、耳を赤くして論争していたものと何のこだわりもなく、「親しきこと骨肉もただならざる」を常とした。
松川参謀は、こう言って深く感嘆したという。《大将が人を統轄するのは幾微、学んで遂に得べからざるなり》」
(森山守次、倉辻明義著『児玉源太郎伝』明治四十一年刊/参謀の条件 渡部昇一編 プレジデント社)

 淵田美津夫と奥宮正武共著の「ミッドウェー」にはミッドウェーの敗戦は結局、日本人の国民性に拠るところが大きいというようなことが書かれており、私は最初にこれを読んだ時、自分達の失敗を国民のせいにしていると憤りを感じたが、しばらくたってから著者の言わんとしている事が分かってきた。
それは日本人の「リスクはあるけれど多分大丈夫だろう」と自分達に都合よく楽観的な状況判断をするという、危機にたいする救いがたい程の甘さである。
それは今日でも変わっていないように見える。
例をあげれば、大企業で製造した製品に非常に重大な欠陥があった場合、それを明らかにすると責任問題になるため隠蔽して、結局大事故を起こし、隠し切れなくなって会社に大きなダメージをもたらすーということが今日でも繰り返されている。
今日、我々がミッドウェー敗戦の歴史を振り返る意義の一つはここにあるのではないだろうか。

 歪んだプライドと硬直した頭脳の持ち主であり実力の伴わない外見だけのエリート集団が帝国陸海軍と政治を牛耳った事が敗戦の大きな原因の一つであろう。
「日本陸軍の体質は現代にあっても残っている。それは各省庁、地方自治体の官僚、役人の体質と一致すると考えるのは著者だけであろうか。規制々々で民間の活力を奪い、許認可を盾にして改革の芽を摘み、海外の動きには目を向けず、広い視野を持とうとしない。加えて弱い立場の民間から甘い汁を吸おうと画策する。もちろん官僚がある程度、戦後のわが国の発展に貢献した実績を認めないわけではないが、すでに時代は変わりつつあるのである・・・現在の役人たちの状況は、日露戦争の後の陸軍軍人に似ている。多くの重大な失敗を辛くも逃れて薄氷の勝利を握った、という真相を短時間に忘れ去り、勝利の栄光だけを声高に叫んでいるのである。日本陸軍ーある意味では海軍もーは、日露戦争後慢心し、本当に精強な軍隊を育成するための努力を怠った。そしてそのツケが太平洋戦争の敗北であったにもかかわらず、その後の社会体制はたいして変わっていない。

 今後あらゆる面で例外なく行政改革を推し進めない限り、わが国の将来は決して明るくはなく、国際的地位さえ低下するばかりであろう・・・」  (日本軍兵器の比較研究 三野正洋著 光人社)

 フィリピンの日本軍は敗戦後、文字通り「石をもて」追われた。無蓋の貨車やトラックに乗って引き上げる日本軍将兵に対して、原住民は石を投げつけながら、バカヤロー、ドロボー、バタイ、パタイ(死ね!死ね!)などの怒声とともにギリン、ギリン(キチガイ!、キチガイ!)という罵声も浴びせたそうである。そう、真に太平洋戦争時には良く言って科学的思考能力の欠如した、悪く言えば限りなく精神異常に近い高級軍人が少なからず存在した。一例をあげれば、悪名高いインパール作戦の推進者牟田口中将である。「三週間分の食料、弾薬、手榴弾、テント、カッパなどを合わせるとゆうに40キロを超える荷物を背負い、世界でもっとも激しい雨が降るといわれる雨季のアラカン山系を超え、インド国境を越え、英国軍を撃破するというのだ。土台が不可能な作戦である・・・牛に荷を積み運ばせ、到着後は食料にするという牟田口のアイディアも実際には急峻な地形のため、牛の歩みが遅く、牛に合わせると食料が無くなってしまうので、仕方なく放牧した。
 インパール作戦はすべてこの調子で現地の地形も、牛の生態も、気候も、現場を無視して進められた・・・牟田口は4月末には作戦の失敗を認識した。6月6日、ビルマ方面軍の川辺正三中将と面会した牟田口は作戦を断念すべき時期であると言いたかったが言えなかった。『佐藤の野郎は食う物が無い、撃つ弾が無い、これでは戦争ができない、というような電報をよこす。日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが神兵だ』と放言したそうである。
このインパール作戦で日本軍十万のうち三万が死亡、傷病兵は四万人にあがった。
結局、失敗すべくして失敗したインパール作戦の責任はだれも取らなかった。
 責任を取らないー、責任の所在を曖昧にするー現代の学校、会社、役所など、日本の不祥事の多くはこの事に起因している。
もっとも大きな組織である国に当てはめても同じことが言えるのではないだろうか。日本軍のインパール作戦失敗から何も変わっていない日本の組織。これが日本人集団の特性としたら、あまりにも寂しいが、現実である。私達日本人は、60年以上前の失敗から何も学んでいないのだろうか」(未帰還兵 将口泰浩著 産経新聞社)


2008 02/29 23:44:30 | none | Comment(0)
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次は平家物語より鵯越の急坂を前にして一同が評定に移った場面です。

兵共 
「これは聞こえた悪所である。同じく死ぬにしても、敵にあってならともかく、悪所に落ちては死にたくない。だれかこの山の案内人はないものかのう」
平山季重 
「季重は案内を知っている」
義経 
「お主は東国育ちのものだ。今日はじめて見る西国の山の案内人になろうといっても、どうもまこととも思われない」
平山 
「これはおことばともおぼえない。吉野・泊瀬の花は歌人が知り、敵の立てこもる城の後の案内は、剛の者が知っている道理だ」(みんなあきれかえる)
2008 02/29 23:23:19 | none | Comment(0)
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山本五十六が天下分け目の戦いを指揮する大将としての資質を欠いていたことはミッドウェー海戦の経過を振り返れば明らかである。
準備期間も不十分であり、作戦計画もリスクが大きく色々な矛盾を含んでいたため、連合艦隊司令部の上位機関である、海軍軍令部はもとより、山本五十六の部下からも作戦の成功を危惧する声が大きかった。
例えば、ミッドウェー基地の攻略が成功しても、ここはハワイの米軍基地から近いため日本側が維持することは事実上不可能であったこと、ミッドウェー基地攻撃中に敵機動部隊に襲われたらどう対処するかーという問題にたいして有効な解答が出せなかったことなどである。これらの作戦の前途にたいする多くの不安の声を山本五十六は「確かに危険性のあることは認めるが奇襲攻撃でやればみすみすやられることはないだろう」と作戦を強行してしまった。
2008 02/29 23:05:24 | none | Comment(4)
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 今日から見ると夢のような話であるが太平洋戦争の開戦時には日本の海軍力は米国を上回っていた。
長期戦になったら巨大な米国の生産力に太刀打ちできない日本が必敗することは事前の研究で明らかであったので、短期決戦早期講和しか日本には選択支がなかった。
そのために真珠湾を奇襲した時に打ち漏らした残存する米国の空母を誘き出してこれを葬ることによって一気に勝敗を決しようとしたのが昭和17年(1942年)6月5日から6月7日にかけて行われたミッドウェー作戦であった。
 この海戦において帝国海軍は4隻の空母と多くのベテランパイロットを失い、その後の大日本帝国の運命を決定づける致命的な惨敗を喫したのは戦史の語るところである。
ハワイの手前にあるミッドウェー島基地に対する第二次攻撃のために飛び立とうとするまさにその時に突然上空から40機を越えるドーントレス急降下爆撃機が日本側の3隻の空母に襲いかかった。この奇襲で加賀には4発の命中弾、赤城には2発、蒼龍には3発が命中した。そしてこの9発という数字は実に5月に戦艦大和において行われた図上演習で日本側の空母群が受けた命中弾の数と一致していた。
ミッドウェー基地を攻撃中に敵機動部隊の攻撃を受けた日本側の空母群は9発の命中弾を受けるという図上演習の結果どおりになったわけである。
 敗因については索敵の失敗や運が悪かったというのが日本側の一般的な結論であるし、米側も「ミッドウェーの奇跡」というような言い方をする向きもあるが、これをそのまま受け取るべきではなく戦闘記録を注意深く読めば米側が勝利したのは奇跡でも幸運のためでもなく当然の帰結であったことは明らかである。
最初に立てた作戦がパーフェクトに遂行されたまでの話である。
「フレッチャーとスプルーアンスが最も望んだのは、南雲機動部隊の飛行機が母艦の飛行甲板に並んでいるときに先制攻撃をかけることであった。航空出身の指揮官であっても、このような瞬間的タイミングを決めるのは、至難のことであったであろう。一九四二年出されたレポートで、ニミッツは次のように述べている。『わが空母部隊にとってこれ以上ない微妙なタイミングを必要とするきわめて困難な状況であった』」。(ミッドウェーの奇跡 上巻 ゴードン・W・プランゲ著 千早正隆訳 原書房)

 牧師のような風貌のスプルーアンスと田夫然とした山本五十六とでは見た目も全然違うが頭脳の方も月とすっぽんであった。「敵機動部隊の動静を確認したなら、まずミッドウェー島にある陸上攻撃機を発進させて向かわせる。その攻撃によって敵の注意をあくまでミッドウェー島にひきつけておいて、その間にひそかに近づいて艦載機を飛ばし、敵のミッドウェー島空襲部隊が母艦に帰った直後を叩く」という戦略をスプルーアンスは立てていた。
 参謀長のブラウニングは「ミッドウェー基地の友軍機が、その数とパイロットの技術の面からみて、敵空母部隊と四つに組んではとうてい勝ち目がないことをしっていた。かれはそれを十分に計算に入れたうえで、敵が味方機を撃破した直後の心の隙を衝こうとくわだてたのである。(時間がたてば、敵はふたたび緊張をとりもどすだろう。この機をのがしては、永遠に勝利はつかめまい)」
「私はあの時味方の被害を冷酷に計算していたのである。私は人非人になっていた」(ミッドウェー戦記  亀井宏著 光人社)
 もし、日米がまた戦うと仮定した場合、日本人の国民性からいって、また同じ手をくうだろう。

 スプルーアンスは圧倒的に優勢な日本帝国海軍の機動部隊と戦って勝利を得るには先制攻撃を行うことーそれも日本の空母が甲板上に爆弾を装備した攻撃機を満載している時に攻撃を加えるーそうすればたった一発の爆弾でも致命的な損害を与えることができるーという作戦を立てた。これはスプルーアンスの参謀であったブローニングの発案をスプルーアンスが採用したようだ。
そして結果はこの作戦どおりになった。
米側は先に日本の機動部隊を発見してから常時接触を保ち、8次にわたり攻撃をしかけてきたが日本側はこれらを全滅に近い損害を与えてことごとく撃退した。重い魚雷をぶら下げ、護衛の戦闘機を伴わない米側の雷撃機は次々とゼロ戦の餌食になり打ち落とされて行った。
日本側が「やれやれアメリカのパイロットも勇敢だが技量はたいしたことないわ」とホッと一息ついた時、突然上空から太陽を背にして40機を越える爆撃機が日本の空母に殺到した。
スプルーアンスとブラウニングがあらかじめ立てた作戦はパーフェクトに遂行された。すなわち、日本側を徹底的に油断させるーその為に勇敢だが腕の未熟な雷撃機のパイロットを犠牲にして成算の無い攻撃を繰り返させる。空母の上空を警戒しているゼロ戦を低空に引き寄せ上空をガラ空きにする。そしてゼロ戦のパイロット達が疲労して注意力が低下し銃弾を撃ち尽くした時を狙って一気に上空から攻撃をしかけるーという筋書きだったのだろう。日本側は米側の典型的な陽動作戦に見事にひっかかったのである。
 この日本側を油断させるために犠牲になったパイロット達はおそらく陽動作戦の囮であり捨石であるという自分達の本当の役割に気付いていたことだろう。当時世界最強の戦闘機であったゼロ戦の待ち構えているところに護衛の戦闘機無しで攻撃することがいかに無謀で自殺的行為であるかは子供でもわかる。でも彼等は立派に責任を果たした。敵ながら天晴れというべきであろう。零戦の名パイロット坂井三郎もその著書「零戦の最期」講談社刊の中で「一機の戦闘機の護衛も受けず、重い魚雷を抱いた鈍足の雷撃態が撃墜されることは覚悟の上で日本の空母めがけて殺到し、その大半が零戦隊に叩き落され戦死していったが、彼らは自らが犠牲となって零戦隊を低空に引き付け、SBD(ダグラスSBDドーントレス)急降下爆撃隊の降爆を成功させたのだ。いわば、これはアメリカの特別攻撃隊であった」と語っている。

また坂井三郎が戦後米側から聞いた話ではこの時の米側の雷撃隊の搭乗員全員が「俺たちが犠牲になる」と宣言し、「俺たちが超低空を這ってゼロを全部引きつけるから上空が空っぽになったすきにあの空母四艦を屠ってくれ。ハワイの仇を今討つんだ」と覚悟のほどを述べたそうである。(歴史通 2009 Spring No.1「太平洋戦争は無駄ではなかった」)

 恐らく米側は最初に日本の機動部隊を発見してから常にその位置を見失わないようにして未熟なパイロットを捨石にして(飛行時間が三、四時間しかない者も含まれていたようである)、攻撃隊を横に広く散開させることによって必ず攻撃隊の一部が南雲機動部隊を発見できるようにして発見後は上空で密かに最も効果的な攻撃チャンスをうかがっていたのだろう。だから赤城、加賀、蒼龍の三隻に対する攻撃が僅か一分間ほどーほぼ同時に行われたのだろう。
 亀井宏著の「ミッドウェー戦記」(光人社)には「ちなみに、この時、アメリカ軍は、突撃の体勢に入る15分も前に上空にたどりつき機会をうかがっていたといわれている」という説が紹介されているが(P432)、おそらくこちらの方が真実であろう。次々と発艦しようとする日本側の空母の甲板上の攻撃機のエンジンの轟音は来襲する米側の急降下爆撃機のエンジン音をかき消したことだろう。まことに緻密に計算しつくされた攻撃であった。

 蒼龍の零戦パイロットだった藤田怡与蔵氏は次のように語っている「米軍が戦闘機をつけずに(もっと正確に書けば一刻を争って)攻撃隊をして索敵をかねさせ、いっきょに勝負にでたことが成功をおさめた原因と思います。空母同士の戦闘は、すこしでも彼に先んじて搭載機を発進させて艦を空にし、相手よりも先に飛行甲板をたたくことが原則だったのです」(ミッドウェー戦記 亀井宏 光人社)
2008 02/19 21:54:22 | none | Comment(0)
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同士の中から密告者が出た為に予定を繰り上げて決起した約三百人の大塩一党は「救民」や「天照大神」の幟を掲げて処々に放火しながら東町奉行所を目指し、船場では豪商宅を焼き討ちしたが奉行所側の鉄砲隊の本格的な反撃を受けて半日で壊滅した。
大塩平八郎の野望は実現しなかったが、この事件が徳川幕府に与えた衝撃は大きく備後国三原で大塩門弟を名のる一味八百人が蜂起したのを始め「奉天命誅国賊」の幟を掲げて蜂起した越後の国学者生田万の乱など同様の事件を次々と引き起こし徳川幕府の土台を大きく揺り動かした。
2008 02/04 21:37:34 | none | Comment(0)
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餓死の貧乏人乞食をも敢えて救わず、その身は膏梁(美味な肉と飯)の味とて結構な物を食い、妾宅等へ入り込み、あるいは揚屋、茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑むも同様にいたし、この難渋の時節に絹服をまとい候かわらものを妓女とともに迎ひ、平生同様游楽にふけり候は何等の事哉。紂王長夜の酒盛も同事、其所の奉行諸役人手に握りおり候政をもって、右のものどもを取り締まり、下民を救い候儀もできがたく、日々堂島相場ばかりをいじり事いたし、実に禄盗にて、決して天道聖人の御心に叶いがたく御赦しなき事に候。
2008 02/02 23:50:47 | none | Comment(0)
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是皆、天より深く御誡の有がたき御告げに候えども、一向上たる人々心もつかず、猶小人奸者の輩、大切な政を執り行ない、只下を悩まし金米を取り立てる手段ばかりに打懸り、実にもって小前百姓どもの難儀を、吾等ごとき者草の蔭より常に察し悲しみ候えども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳も無ければ、いたずらに蟄居いたし候処、此節米価いよいよ高値に相成り、大阪の奉行ならびに諸役人共万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、天子御在所の京都へは廻米の世話もいたさざるのみならず、五升一斗位の米を買いに下り候ものどもを召し捕りなどいたし・・・
2008 02/02 23:22:41 | none | Comment(0)
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幕末に元与力であった大塩平八郎が起こした大塩の乱の時に配布された檄文の中で天照大神の時代を理想化し、その時代に復帰することは難しくともせめて神武中興の政道に戻したいという強烈な尊王思想が吐露されている。それは要約すると下記のようなものである。最初の「四海云々」は国民が衰亡すれば国運も尽きるというほどの意味であろう。
「四海(人民)困窮いたし候わば天禄(天佑、天の恵み)長く絶たん。小人に国家をおさめしめば災害並び至ると、昔の聖人深く天下後世人の君、人の臣たる者を御誡置かれ候ゆへ、東照神君(徳川家康)にも、鰥寡孤独(やもめ、ひとりもの)におひてもっともあわれみを加うべくは、是仁政の基と仰せ置かれ候。然るにここ二百四五十年太平の間に、追々上たる人驕奢とておごりをきわめ、大切の政事に携わり候役人ども賄賂を公に授受とて贈貰いたし、奥向き女中の因縁をもって、道徳仁義をもなき拙き身分にて立身重き役に経上がり、一人一家を肥やし候工夫のみに智術をめぐらし、その領分知行の民百姓へ過分の用金を申し付け、是迄年貢諸役の甚だしき苦しむ上へ、右の通り無躰の儀を申し渡し、追々入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成り候に付き、人々上を怨まざるものなき様に成り行き候えども、江戸表より諸国一同右の風儀に落入。
2008 02/02 22:50:06 | none | Comment(0)
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江戸時代における民衆の尊王思想が具体的な行動を伴った例は多く存在する。例えば天明七年(1787年)に全国的な大凶作で米価が高騰し、一揆や打ちこわしが頻発していたとき、京都では御所の築地を巡る「お千度廻り」の示威行動が行われていた。最高1日七万人もの群衆が御所の周りを廻り、南門の前では紫宸殿を遥拝し賽銭を門の中へ投げ入れたという。後桜町上皇は集まった群衆の一人一人にりんごを与えたところ昼までに3万個がなくなったとこともあったという。他に赤飯や握り飯、お茶等が御所に隣接する有栖川宮家や一条家等の公家によってふるまわれた。
大阪から伏見まで淀川を通う淀船の経営者が、通常の半額の運賃で施行船を仕立て千度参りの客を運んだという。(「幕末の天皇」 藤田覚 講談社選書メチエ)−徳川幕府に見切りをつけた大商人や豪農のグループの大規模なバックアップがあったと考えるのが自然であろう。
 光格天皇と後桜町上皇は飢饉により餓死者がたくさんでているということを聞いて非常に不憫に思い、なんとかならないのかとしきりに指図をしたという。この朝廷側からの働きかけによって徳川幕府は千五百石(225トン)の救い米を放出した。(前掲書)
 下って天保十三年(1842年)、天保改革の緊縮財政で西陣の不況が深まったときにも「誰云うと無く、死にたる天神様を祈るよりも、生きたる天神様を祈るべしと云い出て、市中の者共禁裏御所へ千度参りをなして、諸人の難儀をお救ひた給ふ様にとて騒々しき事なるにぞ」(浮世の有様)と伝えられている。
2008 02/02 22:13:45 | none | Comment(0)
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今日見られる形式の雛祭りが出現した時期は江戸時代初期頃のようである。右大臣、左大臣の上席に鎮座する一対の雛人形は内裏雛と呼ばれているが「内裏」とは皇居のことであり、天皇と皇后の別称でもあるから雛祭りとは当然天皇家の婚礼を再現したものであって、その誕生の時点では明らかに皇室繁栄への願いが込められていたのだろう。
2008 02/02 22:00:04 | none | Comment(0)
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