日露戦争開戦の直前、海軍大臣山本権兵衛は竹馬の友であり、戦時には連合艦隊となる常備艦隊の司令長官であった日高壮之丞をクビにして、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したが、その理由の一つは日高が独断専行の傾向があり、他人の意見を聞かない性向があったからだと言われている。私は山本五十六がまさにこの日高と同じタイプであるように思える。山本権兵衛だったら絶対に山本五十六を連合艦隊司令長官にはしなかったであろう。 スタンドプレーを好み、メンツにこだわり、手柄を独り占めにしたいようなタイプは大将の器ではない。
ミッドウェー海戦の勝者スプルーアンス提督は次のように語っている。 「戦争の間、私は常に虚心坦懐に他の者の意見を聞く必要がある、という感じを強く持っていた。私達は教訓を汲み取ろうとして戦史を研究するが、戦史の研究からは必ずしも、将来の問題に対する正しい答えが得られるものと予期するべきではない。同じ状況が二度と起きることは、ほとんどないのであり、状況に応じて解決法を見出すのでなく、あらかじめ解答を考えておいて、これを状況にあてはめるようなことをしたならば危険で、高価な犠牲を払わなければならないことになりがちである。 あらゆる分野において優れた力を発揮することができる者は誰もいない。従って、われわれはこのことを認識し、それぞれの分野における他の人たちの優れた知識と能力を利用することが、われわれの義務である。自分の部下の方が自分よりもよくできるようなことについて、何もかも自ら決定を下そうとしてはならない。 自分が上に立つ組織が大きくなればなるほど、個人としての自分の力を発揮してその組織のために寄与することができる割合は少なくなり、自分の力は部下を指導し、これに指針を与え、そのアイデアを活用することを奨励するのに用いることが重要になってくる。他の者の考えを認めてこれを用いることは、自分の能力が劣っていることになると感じているようなものがいる。このような考え方をする者は、一つの組織の上に立つことには向かない人物である」(「提督・スプルーアンス」 トーマス・B・ブュエル著 小城正訳 読売新聞社) スプルーアンスと山本五十六では大人と子供の違いがあると思うのは私だけだろうか?
スプルーアンスのやり方は「他者の意見に謙虚に耳を傾けて優れた意見であれば積極的に採用する」という極めて常識的で当然のことに過ぎませんが、この当然のことが行われていない組織が世間には満ち溢れているのが実情ではないでしょうか。正論よりリーダー個人のプライドや個人的欲望が組織の利益よりも優先されているところが多いのではないでしょうか。 1997年から1999年のわずか2年間で機能不全に陥っていた駆逐艦ベンフォルドを海軍No.1と評価されるまでに大改革した新米艦長アブラショフ大佐はスプルーアンスの正統な継承者と言えると思います。
「今までのやり方にとらわれることなく部下たちが考えた合理的で、よりよい方法を採用した結果、アブラショフが艦長に就任してから僅か一年間で、リストラなどを一切行わずに、前年の予算の75パーセントですべての任務を遂行した。 装備機器の故障率を、前年の75パーセントから24パーセントにまで減少させたが、その結果、整備費と修理費も予算の25パーセント前後も余らせることができた。 砲撃訓練でも太平洋艦隊で史上最高の得点を上げた。 艦の最も重要な二つの部門における定着率は28パーセントから100パーセントにまで上がった。ベンフォルドの部下の昇進率は海軍の平均以下だったが、翌年には海軍平均の2倍になった。」
アブラショフは部下に「何をするにも必ずもっとよい方法があると考えよ」「きみがしている仕事に、もっとよいやり方はないか?」聞いて回った。その結果、思いもしなかった画期的な回答が出ることもしばしばであった。中には艦長のアブラショフでさえ考えつかないような戦術を考え出す者もおり、アブラショフを驚かせた。 「ほとんどの組織がそうであるように、海軍でも中間管理職を単なる『トップの命令の伝達者』に変えてしまっていた。彼らは上からの命令を’’公布’’ することに慣らされて、下からの提案をこころよく受け入れることに慣れていなかった。しかし、私は、部下が持っている艦の活動を改善するためのアイデアを、すべて集めることこそ自分の仕事だと考えた。ガチガチの管理主義者はこれを邪道だとみなすかもしれないが、実際には、各部門で仕事をしている人々こそが艦を支え、艦長には見えていない現実を知っているのだ」
「最先端のテクノロジーが装備されたベンフォルドのシステムは、信じられないくらい複雑である。消化し、処理し、実行に移すべき情報が大量に生じ、ときにはわずか数秒ですべてを解決しなければならないこともある。したがって、一人の人間があらゆることを掌握し続けることはできない。部下からより多くの能力を引出し、彼らに責任を持つように求めることが必要になる。これはビジネスでも同じだ。私に要求されているのは、突発する問題に対し、的確な状況判断を下し、仕事を進めていくこと、そのために部下の能力を最大限に引き出すことであった。すぐれたリーダーシップを発揮するには、自分のプライドよりもチームの実績を優先させなければならないのだが、それができないリーダーは多い」 ベンフォルドの指揮をとることになったとき、アブラショフ艦長は「埋もれている才能、生かされていないエネルギー、無限の潜在能力を備えた310名の男女からなる部下を預かることになった。私は、彼らにふさわしい艦長になろうと決意した。彼ら一人一人に挑戦の機会を与え、指示を待たず、自分で考えて行動する人材に育てることは自分に課せられた使命だった。私は部下たちを労働者ではなく、パートナーにしたいと真剣に考えていることを声高に示したかったが、言葉だけでは何の影響も与えられない。これまで軍のトップたちは口を揃えて、一番大事なのは人材だと言ってきたが、その言葉を実行する者はほとんどいなかったのだ。」 アブラショフ氏はその後海軍を退役し、現在はコンサルタント会社を経営して海軍で身に着けたノウハウを民間企業で活用する手助けをしているそうです。 (アメリカ海軍に学ぶ「最強チームのつくり方」 マイケル・アブラショフ著 吉越浩一朗訳 三笠書房)
名将児玉源太郎も部下のアイディアを吸い上げる名人だったようである。「児玉は、部下の参謀を駆使する能力とともに、機略、奇策、そして確かな判断力、こうした資質をも遺憾なく発揮した。彼は、冬営中の部下たちを気軽に見舞って回った。その際、必ず「酒、煙草、缶詰など、陣中慰藉の料を携え」そして、こう言ったそうである。「これ総司令官より卿等に贈るところなり」(註:総司令官は大山巌のこと) そして、このときほど、参謀たちの意見を大いに言わせたこともなかったらしい。「故に、参謀幕僚等の会議に列するや、議論沸騰、口角泡をとばして、毫も遺憾なきを期」した。 児玉は、参謀たちに言った。《会議は神聖にして、諸氏の意見は直ちに国家の意見也。しかるに、もし諸君、知って言わず、別に意見を有すと言うものあらば、即ち国家に対する不忠不親切の至りなり》 そして、議事を終わって、ひとたび軍幕の外に出ると、今まで眼を怒らし、耳を赤くして論争していたものと何のこだわりもなく、「親しきこと骨肉もただならざる」を常とした。 松川参謀は、こう言って深く感嘆したという。《大将が人を統轄するのは幾微、学んで遂に得べからざるなり》」 (森山守次、倉辻明義著『児玉源太郎伝』明治四十一年刊/参謀の条件 渡部昇一編 プレジデント社)
淵田美津夫と奥宮正武共著の「ミッドウェー」にはミッドウェーの敗戦は結局、日本人の国民性に拠るところが大きいというようなことが書かれており、私は最初にこれを読んだ時、自分達の失敗を国民のせいにしていると憤りを感じたが、しばらくたってから著者の言わんとしている事が分かってきた。 それは日本人の「リスクはあるけれど多分大丈夫だろう」と自分達に都合よく楽観的な状況判断をするという、危機にたいする救いがたい程の甘さである。 それは今日でも変わっていないように見える。 例をあげれば、大企業で製造した製品に非常に重大な欠陥があった場合、それを明らかにすると責任問題になるため隠蔽して、結局大事故を起こし、隠し切れなくなって会社に大きなダメージをもたらすーということが今日でも繰り返されている。 今日、我々がミッドウェー敗戦の歴史を振り返る意義の一つはここにあるのではないだろうか。
歪んだプライドと硬直した頭脳の持ち主であり実力の伴わない外見だけのエリート集団が帝国陸海軍と政治を牛耳った事が敗戦の大きな原因の一つであろう。 「日本陸軍の体質は現代にあっても残っている。それは各省庁、地方自治体の官僚、役人の体質と一致すると考えるのは著者だけであろうか。規制々々で民間の活力を奪い、許認可を盾にして改革の芽を摘み、海外の動きには目を向けず、広い視野を持とうとしない。加えて弱い立場の民間から甘い汁を吸おうと画策する。もちろん官僚がある程度、戦後のわが国の発展に貢献した実績を認めないわけではないが、すでに時代は変わりつつあるのである・・・現在の役人たちの状況は、日露戦争の後の陸軍軍人に似ている。多くの重大な失敗を辛くも逃れて薄氷の勝利を握った、という真相を短時間に忘れ去り、勝利の栄光だけを声高に叫んでいるのである。日本陸軍ーある意味では海軍もーは、日露戦争後慢心し、本当に精強な軍隊を育成するための努力を怠った。そしてそのツケが太平洋戦争の敗北であったにもかかわらず、その後の社会体制はたいして変わっていない。
今後あらゆる面で例外なく行政改革を推し進めない限り、わが国の将来は決して明るくはなく、国際的地位さえ低下するばかりであろう・・・」 (日本軍兵器の比較研究 三野正洋著 光人社)
フィリピンの日本軍は敗戦後、文字通り「石をもて」追われた。無蓋の貨車やトラックに乗って引き上げる日本軍将兵に対して、原住民は石を投げつけながら、バカヤロー、ドロボー、バタイ、パタイ(死ね!死ね!)などの怒声とともにギリン、ギリン(キチガイ!、キチガイ!)という罵声も浴びせたそうである。そう、真に太平洋戦争時には良く言って科学的思考能力の欠如した、悪く言えば限りなく精神異常に近い高級軍人が少なからず存在した。一例をあげれば、悪名高いインパール作戦の推進者牟田口中将である。「三週間分の食料、弾薬、手榴弾、テント、カッパなどを合わせるとゆうに40キロを超える荷物を背負い、世界でもっとも激しい雨が降るといわれる雨季のアラカン山系を超え、インド国境を越え、英国軍を撃破するというのだ。土台が不可能な作戦である・・・牛に荷を積み運ばせ、到着後は食料にするという牟田口のアイディアも実際には急峻な地形のため、牛の歩みが遅く、牛に合わせると食料が無くなってしまうので、仕方なく放牧した。 インパール作戦はすべてこの調子で現地の地形も、牛の生態も、気候も、現場を無視して進められた・・・牟田口は4月末には作戦の失敗を認識した。6月6日、ビルマ方面軍の川辺正三中将と面会した牟田口は作戦を断念すべき時期であると言いたかったが言えなかった。『佐藤の野郎は食う物が無い、撃つ弾が無い、これでは戦争ができない、というような電報をよこす。日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが神兵だ』と放言したそうである。 このインパール作戦で日本軍十万のうち三万が死亡、傷病兵は四万人にあがった。 結局、失敗すべくして失敗したインパール作戦の責任はだれも取らなかった。 責任を取らないー、責任の所在を曖昧にするー現代の学校、会社、役所など、日本の不祥事の多くはこの事に起因している。 もっとも大きな組織である国に当てはめても同じことが言えるのではないだろうか。日本軍のインパール作戦失敗から何も変わっていない日本の組織。これが日本人集団の特性としたら、あまりにも寂しいが、現実である。私達日本人は、60年以上前の失敗から何も学んでいないのだろうか」(未帰還兵 将口泰浩著 産経新聞社)
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