通説にとらわれない新しい歴史解釈

2011年 05月 の記事 (1件)

 個別に見れば日本の政治家や官僚の中にも有能で誠実な人材が存在することは疑いないが、総体的にはそれらの人材の能力が発揮できるような組織の仕組みになっていない。破滅へと暴走して行った昭和前期の日本と同じである。根拠無き楽観に基づいて、内外の政策において失敗を繰り返して大日本帝国を滅亡せしめた。

 今日の日本の政治のレベルは現在我々が直面している福島原子力発電所の危機を引き起こした経緯だけをみても一目瞭然である。とても憲法改正などという大それたことを手がけるようなレベルではないと思わざるを得ない。「改憲」は恐らく「改悪」となり、深甚な混乱を引き起こし、既に形骸化しつつある日本の民主主義に致命的なダメージを与えることになるのではないかと私は危惧する。

 改憲論者の改憲理由で納得させられるようなものに私はお目にかかったことはない。ほとんどは悪く言えば嘘、デタラメ、曲解、誤解にもとづくものであるように思える。なかには日本を戦争に引きずり込んで自滅させようと企む外国勢力に踊らされている者もいるのではないかと思うことさえある。
九条の条文を作成した当事者やマッカーサー元帥、今日の日本政府も九条は自衛戦争まで否定したものではないと明言しているのに、今更それらの見解に異議を唱えるのは馬鹿馬鹿しいことのように思えてならない。

 現憲法のことを奴隷法とみなす改憲論者もいるようであるが、過労死するほど労働者を酷使することを容認するような労働法こそ奴隷法というべきであろう。
日本は連合国に降伏し、帝国陸海軍においては無条件降伏ー全面的武装解除を受け入れたのである。当時の日本の実態は憲法前文の「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」そのままであり、事実をありのままに述べているに過ぎない。
何ゆえこの箇所のみ捉えて「奴隷憲法」呼ばわりするのか理解に苦しむ。日本国憲法の実体が「奴隷憲法」なるものからいかにかけ離れた存在であるかは以下の四つの条文だけでも明らかである。
第十一条 「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」
第十三条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
第十四条 「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」
第十八条「何人(なんびと)も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」

そもそも、切迫性かつ正当な理由の無い改憲は憲法違反であろう。
第九十九条 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」

 また、この憲法の作成者たちはこの憲法によって保障される基本的人権を保持するためには国民自身の自覚とたゆみない努力が不可欠であることも将来の日本国民に警告した。
第十二条 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない・・・」

すでに、国民の基本的人権を侵す恐れのある法案が「人権擁護法案」のように巧妙にカモフラージュされて出現している。我々国民はおおいに警戒すべきであろう。
2011 05/03 07:54:37 | none | Comment(0)
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