2006年 07月 の記事 (10件)



  交渉事に必携なのはたたみかける事だと私は思います。相手に、判断の暇を与えない。このことは、諸事全般に通じます。たとえば、プロポーズ。男性諸君は、許婚の後に、時を与えてしまってはいないだろうか?与えた時が、彼女の心をどう左右するか、一喜一憂し、永劫の焦燥に身を焼きながら、あらぬ妄想に、挫けそうになってはいまいか?

  決断を、熟考させてはなりません。大切な事であればあるほど、熟考させてはなりません。一瞬の判断と、時間をたっぷりかけて導き出した決断と、実は、ほとんど変わらないものです。多少の誤差はあるかもしれませんが、そんなものは、時計が0.001秒遅れる程度の小事に過ぎません。

  プロポーズされたとき、考えさせてくれと、三人に頼んだ私に断言できる資格があるのかどうか疑わしいのですが、そこは、大目にみてもらって、話を続けます。

  女性の長考はほとんどの場合、好結果に結びつきません。何故なら、女性自身がその決断に絶対の自信をよせっこないからです。女性は、いつも、理性と現実を懐に忍ばせています。いつでもその切り札を出せる状況でないと、安心して、夢にひたれないのです。男のように、三歳児でもヒキそうな感情任せの行動は性的にも出来なくなっているのです。

  そこを、つく、のです。

  安心なさって下さい。女性は確かに好悪の区別が激しいですが、「悪」の認識さえされていなければ、案外、何にも考えていませんし、警戒もしていません。つまり、嫌われていない限り、この方法は必ず通用する筈です。

  16歳の春の夜でした。私は友人と二人、彼の家の近所の電話ボックスから、彼の調べた女生徒の電話番号をダイヤルしました。顔ぐらいは、同級生ですから、まさか知らないことはない、という程度の関係でした。話した事はなく、視線を合わせたこともありません。
  友人は、この告白の失敗を99%確信していたでしょう。上手くいくわけがないのです。私は留年している不良です。姿形も、不良だったでしょう。好印象を与えているとはとても思えません。対する女生徒は、世俗の垢とは全く無縁で育ったような、謂わば、深窓の令嬢、でした。男女交際なんて破廉恥なことは、耳にするだに穢れた心地がするでしょう。

  「どう言うつもりや」

  友人は作戦を尋ねます。いいえ、作戦なんてありません。出たとこ勝負、感性のままに、当たって砕けてみようと私は、決意らしい決意としてそんな曖昧なものしかもっていませんでした。

  家人が出て、同級生である由を前置き、彼女を呼び出してもらいました。若い声でしたから、姉か母親だったのでしょう、私は幸運でした。父親だったら、用件を根掘り葉掘り聞き出されていたでしょう。彼女の足音が響き、

  「はい、博子です」こういう声だったのか、この無謀な男は、この時初めて彼女の声を聴いたのです。

  「Sやけど、今晩は」

  「今晩は。何?急にびっくりしたやん」

  どっちの胸が高鳴っていたか、それは、神のみぞ知る領域でしょう。たかが人間の私は、覚悟を決めなければなりません。今ならば、まだ、引き返せる。

  「お願いがあるんやけど、聞いてくれるかな?」

  「お願い?何?聞いてみないと、分からない」そりゃ、そうだろう。彼女も、私の声を初めて聴いているのだろうから。

  「俺と付き合ってくれへんかな?」

  「え?」

  「真剣やから、笑わんといてな。冗談やないから」

  「分かってる…」これが、彼女の弱みになりました。

  「俺と付き合ってくれへんか?」

  「S君、わたしのこと好きなの?」大胆な事を訊いてくる娘だ。普通は交際申し込む相手に確認する事ではあるまい。

  「判らへん。嫌いではないと思う」

  「何それ、好きかどうかわかるらへんのに、付き合って欲しいの?変やん、そんなの」

  「いいや、全然、変な事ないぞ。付き合って欲しい、と思っているのは本心や。そやから、返答してくれへんか?」

  「え、分かった…」

  この瞬間です。この瞬間を逃してはなりません。たたみかける好機は、この瞬間をおいて他にはありません。

  「考える、っていうのは無しやで。今、すぐに、返事してくれ。今判断したって、数日判断したって、答え、なんて変わらへんもんや。今、すぐ、判断して欲しい。断っても、安心して、気まずいことにはなれへんから。君の事、これまで通り、いいや、今夜を境に、ちゃんと、級友として扱うから、保証する。断ったあとのことは、本当に、心配いらへんからな。さぁ、どうする?付き合うか、付き合わへんか」

  少しの沈黙。真面目な彼女のことだ、真剣に考えているのだろう。この思考も、破らなければならない。

  「正直に言うわな。君の事が好きかどうか、判らへんって言うたやろ。他に気になる娘もいっぱいいてる。君でなければ駄目だ、って自信もない。他の娘と付き合ったほうが仕合わせになるかもしれへん。君を好きになれるかどうかも自信がない。好きになれへんかもしれへんし、無茶苦茶、好きになるかもしれへん。そんな先の事は判れへんやろ?ただ、俺は、君に付きあって欲しいと頼んでる。何としても付き合って欲しいと思ってる。断られたら恥ずかしいからと違うで。決めたからや。今、このとき、君に決めたからや。もう一度言うけど、君を好きになれるかどうかは判らへん。でも、決めたんや。そやから、今はもう迷わへん。さぁ、どっちや?返事は」

  「付き合う」

  友人の信じられない顔が、傍らにありました。信じられないのは、私も同じでした。まさか、上手くゆくなんて、想像もしていませんでしたから、そのあとの言葉が見つからなくなっていました。無難に「ありがとう」でいいのか、「本当に、いいのか?」などと、不審がる心のままに訊き直すわけにもいかないでしょう。

    薮をつついて出てきたのは……。

  その後、私達は交際を始めました。クラスの誰もが訝る関係だったでしょう。富士に月見草は似合うのかもしれませんが、私にIはどう贔屓目に見ても、似合いません。不純と純、垢と無垢、聖水と汚水、彼女が堕ちてゆくと誰もが、声に出さないまでも、噂していたでしょう。

  恋人同士は、お互いに似てくる、ってよく言いますよね。私は言われた事がありません。

  私は、煙草は吸うし酒は飲む、エスケープはするしズル休みもする、エロ雑誌は定期購読しているし麻雀だってする。朝方まで夜更かしするのはしょっちゅうだし、予習復習、ついでに宿題なんてしたことがありません。

  私は、少しずつ、少しずつ、変化させられていたことを、知らされます。

  彼女は、vampでした。別名bloodsucker。血を搾取する者。そう、バンパイヤ。ただし、彼女が搾取するのは、血ではなく、毒でした。

  妖婦の条件は色々あるでしょう。ですが、その正反対の清純無垢な魂にも、vampは存在します。つまり、清冽という、魔の伝染病です。毒をもって毒を制す、その毒は、なにも劇薬であるとは限りません。

  疑うことを知らず、盲目的に信頼を寄せる相手を、それでも騙し続けられる男なんて、いるのでしょうか。彼女は、私の漏らしたたった一言に希望を見出していました。君を好きになるかも知れない。これはあながち嘘とは言えないけれども、可能性の問題を語ったまでで、確率の程は低いことを彼女も承知していたでしょう。

  彼女は私達に慣れるのではなく、私達を彼女に馴れさせようとしていました。言葉でも行動でもなく、私達の情操に訴えかけるように。自分を自分のままに保つ事がまるでどうでもいいかのように無償の心で。

  長くなりそうなので、本日はこの辺にしておきます。さてさて、私は何が書きたいのだか。

  最初の妻に待ってもらった時間は1時間、2番目の妻は、1週間、現在の妻は、半年待ってもらいました。結局、1時間も半年も、答えは同じだったわけです。私の夢は、一瞬で夢へいざなうような、プロポーズだったのですが、どうやら、一生、使えないようです。
2006 07/29 10:31:49 | none | Comment(0)
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   一番大切なひとは誰ですか?

   この質問に、素直に答えられる人がいるのだろうか。

  私は、きっと、迷う。そして誰かを選ぶだろう。だけど、それは、嘘だ、と思う。何故ならば、ひとりにきめられる筋合いのものではないからだ。

  そんなタイトルをもってきたこのドラマ、結構、奥が深い。

  誘拐、監禁されたコナミちゃん。

  救いを求めたのは、自分を捨てた、大嫌いな父親でした。

  発見した父親の洩らした言葉、「だめだ、コナミ、俺、こいつ殺すわ」そして、「お父さんのことはもう忘れろ」

  駄目な男だけど、最低の父親だけれど、救いようのない父親だけど、吐き出す言葉は、きらめいている。

  「父親だからって、いつも優しいと思うなよ」

  三宅裕司の劇団出身だとは、信じられない、透明な存在感をもった役者だ。台詞に臭みがなく、演技に粘着感がない。

  あげくの果てに、娘に告げる。

  「逃げよう、二人でどこかに逃げよう」

   男は、娘の望むままに、八丈島へ。

  娘は、ブスッとして、まともに口をきいてくれないし、父娘の会話は、まんま、漫才だ。

  そう、逃げようとして、逃げられることなんて出来はしない。

  どこにも、逃げる場所なんてないのだから。

  逃げるのは、捨てる事だ。捨てられないのだから、逃げられる筈がない。

  私には、蒸発者の気持ちが、よく分からない。その思いを浮かべる事は誰にでもあるし、私にもある。

  満員電車に揉みくちゃになりながら、眺めた、反対方向へ擦れ違うガラガラの電車。あれに乗れば、この日常から、飛び出せる。そう、次の駅で降りて、反対のホームに移ってしまうだけで、劇的な変化がおきるかもしれない。

  しかし、そこには、見えない敷居がある。それを越えるのは簡単なのだが、足が上がらない。上がらないから、つんのめる。つんのめると、倒れてしまう。倒れたら、痛いだろう。血だって出るかもしれない。血が出たら、情けない。情けないのならば、やめようか。やめたら、このままだ。このままが嫌だから、情けなくなりたいのか?いいや、そうじゃない。越えるには、それだけの、理由が必要なのだ。それは、絶望だとか、挫折だとかいった、暗いものじゃ駄目だ。

  明るい絶望が、この世にあるのだろうか。明るい挫折。明るい悲しさ。それがもしあるのならば、その時が、越える機会なのだ。

  明るい、とは、希望と置き換える事ができるだろう。希望ある絶望。希望に充ちた挫折。希望に抱きしめられた悲しみ。

  それは、どういう時なのだろうか。

  考えて、考えて、考えあぐねて、結局、分からない。

  分からないから、今日も、満員電車に揺られる。揉みくちゃになって、OLが胸に頬を寄せるのを我慢する。女子高生が、背中に顔を埋めても、貝になっていよう。服に化粧がついてしまう。背中に少女の髪の匂いが染みつく。毎晩、服を直す妻は、どう思うのだろう。夜までに消えるだろうか。

  10時間の我慢だ。10時間経てば、我が家で、可愛い子供たちが、とびっきりの笑顔で迎えてくれる。湯気の立ち上る温かいご飯が待っている。

  だけども、その湯気が、疎ましくなることだって、ある。それが、魔の忍び寄る瞬間だ。そうしたとき、私は、夢を見る。夢は、魔でも、冒せない。

  男は、そうして、交番の前を、いつも同じ時刻に通り過ぎる女子大生にある時、気づく。男の楽しみは、終業してからの居酒屋。

  その居酒屋でその女子大生はバイトしていた。話した事はないけれども、居酒屋で会釈して、交番前で会釈する。

  半年も続けば、どんな鈍感な男だって、気付く。これは、変だ、と。毎日、同じ時刻に、同じように通り過ぎて会釈する女子大生。そして、どんなに遅くなっても居酒屋にいた女子大生。

  これは、無言の告白だったのだ。あなたが好きです。声ではなく、視線でもなく、態度でもなく、ただ、偶然を意識的に積み重ねてゆく、という、告白だった。

  その女子大生が、再婚相手の牧瀬里穂だ。男は、自分の気持ちに向き合った。そうだった、俺は、この娘に、癒されていたんだ、と。

  一番大切な人は誰ですか?

  男には、答えられない。きっと、答えられない。でも、私なら、男の一番大切な人が誰か、分かる気がする。それは、傍観者の特権ではなく、同じ思いを抱いていた想い出が、その答えを明らかにしてくれるからだ。

  張りつめていたものが、少しずつ、少しずつ、剥がれ落ちてゆく。それらは、ささやかな緊張と、深い思い遣りと、溜息が出そうなくらいに際立った誠意によって、不安定なバランスをようやくのことで保っていられたのだろう。

  娘と逃げた父親が戻った家には、宮沢りえ演じる元妻と妻が、いた。

  奇妙な晩餐が始まり、細い今にも裂けそうな絆が、複雑に縺れあい、解けなくなってゆく。

  娘は、大好きなお姉さん(妻)と大好きな母が笑顔を交す場面を素直に、そう、屈託なく、平穏を思えたのだろうか。

  笑顔を交すたびに、傷つけあう事だってあることを、少女は理解出来ない。見たまま、感情のままに、直感に左右されてしまう年代にありがちな、狭視野。

  見えるものだけが真実ではないことを、少女は知らない。

  母は、傷ついていた。数億もの絶望の刃に胸を切り刻まれて、立っている事さえ忘れていただろう。

  お姉さんも、傷ついていた。数億にはほんの少しだけ足りない絶望の斧を脳裏に振り下ろされて、過去と現在の区別が判別出来なくなっていただろう。

  しかし、父親はどうだったのだろうか。大好きな娘とふたり、娘の望んだ佐渡へ旅し、娘との10年あまりの溝が埋まったことを、素直に悦んでいられたのだろうか。

  溝は埋まるものなのだろうか。裂け目が、どうしたって、元に戻せない傷跡を残すように、溝だって、埋まったつもりで、醜く盛り上がった傷跡を残すものではないのかしら。

  直感ままの本能を受け止められるだけの寛さが、ある筈がないのだから。

  仕合わせな結末が、本当に、仕合わせな結末だったのか、それは、これからの展開に依るだろう。

  いいドラマでした。胸が詰まってしまう。
2006 07/25 10:22:56 | none | Comment(0)
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            狂いの少ない時計

     狂いの少ない時計のネジ巻いている。
     永遠に、永遠に巻き続けている。
   
      もし時が現し世ならば、
      女は分針で、男は秒針だろう。

      女は10億9百15万2000回、
      嘘を装い、
      男はその2.34375倍、
      嘘に惹かれる。

      敷き詰められた罠に、
      しみこんだ芳香、
      朝と夜も識別できず、
      行き止まりを選ぶ岐路。
      
      折り畳まれ折り重なった歯車が、
      刻みつける
      容赦ない流れの中、
       
      乾燥した夜に、
      季節がないように、

      細い帯状の光を目指して、
      歩き続ける孤独と希望のように、

      色変わりした
      かの世の乙女達が、

      くる日も、くる日も、
      気炎を上げては嘆き、
      嘆いては痛飲し詩を謳う。

      あのなまめかしい野戦址は
      凝縮された空に思念となって漂う。

       やがて雨となり地に落ちてくる。
       その滴は、思念です。
       乙女達の、愛や葛藤や挫折や絶望の溶けた思念です。
       
     
      狂いの少ない時計が狂う時、
      地は裂け、天は咆哮し、
      海は巨大な波を立ち上げる。

      西に起こった地の揺れは、
      東に針路を変えて襲い来る。
      東の地の揺れは、北へ転じ、
      南へ来たる。

      光とともに産まれしものは
      分裂を繰り返し、
      ひとつの結晶となってゆきます。

     狂いの少ない時計に性別はありません。

      父もなく、母もない。
      兄も姉も弟も妹もいない。

      狂うように狂わぬ定めを背負いしこの存在は、
      狂うように過たない時を刻んでゆきました。

      この存在の正体をそろそろ明かしましょうか?

      それは、

          デオキシリボ核酸。
          「n」で表される、ゲノムです。

    人間どもは、心がけずに、
    これからもずっと、

    狂いの少ない時計のネジを巻いている。

                 1976年 より (改稿)

    
   当時私は、大阪府吹田市山手町にて、ひとつ年上のOLと同棲していました。僅かな学生時代。

   変な詩を書く、小生意気で、はにかみ屋の年下の男を、彼女は、いつも黙って見守っていた。

   出来上がった作品を彼女に見せると、

   ”わたしには、判らない” と決まって困った表情で、申し訳なさそうに謝ってばかり。

   理解してもらえなかった彼女を、一作だけ、泣かせた小品がありました。

   捨てられていなければ、今も、それは、彼女が保管しているでしょう。

   ”これだけ、ねぇ、おねがい、これだけわたしにください”

   彼女が私に甘えた最初で最後のおねだりでした。

   「紫陽花」という短編小説だったっけ。
2006 07/24 14:09:24 | none | Comment(0)
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 人形(ひとがた)の妖し
           

           おいで、

           ここまでおいで、

           手は鳴らさない、

           声だけで、

           ぼくを探してね。

           ほら、

           そこじゃないよ、

           あぁ、そこでもない、

           ぼくが欲しいかい?

           盲いたニンフ、

           不完全変態をする昆虫の幼虫と

           同じ名の

           人形の妖し、

           僕のなにが欲しいんだい?


               
               血塊?

               肉片?

               さきみたま?

               生魄?

               え?涙?

               悔恨?

               懺悔?

               正気?

               宿業?

           
           たくさん欲しいんだね、

           さぁ、

           捕まえてごらん、

           鬼さんこちら、

           あぁ、おめでとう、

           それはぼくの尻尾だよ、

           捕まえたね、

           観念するよ、

           君の好きにするがいい、

           かわいいかわいい、

           ニンフを形どる妖し、

           またの名を、「恋患い」

           抵抗は、無意味だよね。

           記念にぼくの名前をおしえてあげよう。

           ぼくはね、

           エンビアウスって、

           呼ばれているよ。




        真夏の夜の夢物語、

        これからもつづきますれば、

        皆々様には、

        ご機嫌麗しゅう、

        暑中お見舞申し上げます。

   ☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆



                     まずは御礼まで、
                     
                     敬白。
2006 07/22 10:03:18 | none | Comment(0)
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お好み焼き屋のお話しをひとつ。

   三年前まで住んでいたマンションの近くに、不思議なおかみさんがいるお好み焼き屋がありました。

   年のころは、どうでしょうか、私よりきっと年上だとは思うのだけども、自信がないのは、女性の年が解り辛いってことのせいなんだけど、ひょっとしたら年下かもしれないし、とにかく、美人のおかみさんです。ご主人のお姿をお見受けしないから、もしかしたら、そういう事情にある方かもしれません。

   最初、迷いこんだ猫のように、怪訝な表情隠しもしなかった私に、おかみさんは、

      ”いらっしゃいませ” と迎えてくれました。

   そして、明石焼やらミックス焼きやらをたいらげて、満腹、仕合わせいっぱいで清算すると、

      ”おにいさん、また来て下さいね”って送り出してくれました。

   ここまでは、普通のお店と同じ。

   次に行ったのが、一ヶ月後くらいでしょうか。明石焼が無性に食べたくなって、駅の近くまで、歩いて、その店を見つけた私のおなかは、背中にくっつきそうなくらい、あの通りの状態でしたから、ソースの焦げる匂いが鼻腔をくすぐってたまりませんでした。

      ”お帰りなさい”

   そう、おかみさんは私を迎えてくれました。変でしょう?

   で、ですね、そんな挨拶交すほど、話していたわけではないのです。瓶ビール頼んだら、グラスに最初の一杯だけ、お酌してくれるのですが、それも、観察する限り、私だけにではなくて、それが彼女の、サービスなのだと思い直したりする程度で、あとは、焼き方だとか、店と客との普通の会話しかしていないのです。

  そうだからといって、この日も、おかみさんがほかの客(男性ですね、人気があるようだから)のように、世間話に花を咲かせることもなく、ひたすら、胃袋を満たした私が清算を済ませると、

      ”いってらっしゃい’

  と送り出すのです。これは、かなり変ですよね。

  これも常連客(私は二回目だからその部類には入らないでしょうけど)への、お決まりのサービスなのかというと、そうでないのだから、ややこしくなるのです。

  世間話や、もう少しつっこんだお話しを、聞こえよがしに話し合っている常連と思われるお客さんに、彼女はけっして、「お帰り」も「いってらっしゃい」も言わないのですよ。

  で、ですね、もうひとつ驚いたのが、マヨネーズとか辛しとかケチャップ(この店はこれもかけるから)の量を必ず彼女は、常連客に対しても焼く前に尋ねるのですが、この日の彼女は、何も訊かずに、イカ豚玉焼きを私の前に私の好みの量を再現して並べてくれました。お酌は最初の一杯だけ。ほかの常連客には、何度も、お酌しているのだけれども、私は、やっぱり、一杯だけ。

  おにいちゃん、って呼ばれるのが癪にさわるから、三度目は、ヒゲ剃らずに、行ったのです。ですが、やっぱり、「お帰りなさい」で、「おにいちゃん、何する?」

  白髪、けっこうあるし、ヒゲにも、白いのがまじってるから、まさか本気でおにいちゃんなんて思っていないのだろうけれども、またまた、癪に触ってしまったまま、

     ”いってらっしゃい”

  と、送り出されてしまうのです。

  四度目は、

    ”お帰りなさい、あ、お疲れさま”

  と、私の様子に気付いて言い添えてくれました。

    ”いってらっしゃい、気をつけてね”
  
  これが送る言葉。

  そうして、月日が過ぎてゆき、

  ある日、Zを連れて、食べに行ったのです。

    ”おかえりなさい、あ、あ、彼女なの?お似合いね”

  って言うから、

  「違います、娘です」って言いかけたら、

  「そうですよ、似合ってますか?わたしたち」

  とZが先に応えてしまって、随分バツが悪いことになってしまいました。どうみたって、そんな関係に見える筈がないのに、なにを勘違いするのだろうかなどと、心中、ぶつぶつぼやきながら彼女を窺うと、

  またね、不思議な表情をしているのです。

  おかみさんはもともと無表情に近い、能面のようなお顔をなさっていて、まぁ、美人なんだけど、どこか寂しげな陰のある雰囲気で、しっかりせい!!っていつも元気づけてあげたくなってしまうのだけれども(したことないですけどね)、このときはね、

  母親のような、慈愛に満ちたまなざしをくれたのですよ。

  そして、私がミックスモダン、Zがミックス焼きそばと明石焼ととん平焼きをたいらげる (@_@ のを待って、お勘定すませると、おかみさん、

    ”いってらっしゃい、早く帰ってきてね”

  表情が変わったZが、私を恐い眼で射ぬく。

  なんてことをあなたは、とおかみさんを観ると、

  小さな舌をぺろっと出していたのです。

  しばらく、行ってないけど、元気なのかなぁ、と思い返すわけであります。

  そして、もうきっと帰らない、こまっしゃくれた日々、

  暖簾をくぐって、店に入ると、

     ”おかえりなさい”  の、
  
  華やいだ声が聞こえてきそうで、少しだけかなしくなるのです。
2006 07/20 18:26:05 | none | Comment(0)
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 ゲノム

   ある生物がその生物として生きてゆくために必要な一組のDNA(遺伝情報)のセットを“ゲノム”とよぶ。ゲノムの大きさ(長さ)は原則として進化の進んだ生物ほど大きいとされている。例えば大腸菌ゲノムは470万塩基対、実長1ミリメートル。ショウジョウバエでは1億7000万塩基対、実長1センチメートル、ヒトの核ゲノムでは30億塩基対、実長1メートルと見積もられている。これは24種類の長さの異なるDNA分子に分かれ、それぞれが別の染色体をつくっている。しかし、この原則に合わない生物もあり、例えば植物のユリはヒトのほぼ30倍、1000億塩基対という巨大なゲノムをもっている。大腸菌など原核生物ではゲノムDNAの上に、遺伝子がほとんど隙間なく並んでいるが、ヒトを含む哺乳動物では遺伝子として働いているDNA部分は全体の数パーセント程度で、それ以外の大部分のDNAについてはなお不明な点が多い。遺伝子=DNAとはいえても、DNA=遺伝子とはいえないことになる。



   
    その頃は、ベッドじゃなくって、まだ、布団に眠っていた。

   嫌だった丸坊主にも慣れた。人がどう見ようが、そんなことは、どうだってよかった。自分さえ、耐えられたら、それで、よかったのだ。そうかといって、私は、冷淡な少年じゃなかったと思う。どこからか迷いこんできた小さな黒猫を、ちゃんと可愛がって、育てていたし、叔父から譲ってもらった、梅の盆栽も、大事にしていた。

   西田からもらったチョコレートもまだ、食べきれずに、机の上に、無造作にほったらかしてあるが、これは、甘すぎて、虫歯に悪いからで、けっして、食べたくなかったからじゃない。気持ち、って、あのオトコ女は洒落たこと形容してたけど、それじゃ尚更、意地でも食べてやるものかとは思うのだが、そうできないところにも、そんな私の性格が出ていたろう。

  週に3回、店の奥にある座敷で、母が琉球舞踊を弟子に教えていた。6人のお弟子さんは、皆、10代で、ひとり、16歳のお姉さんがいた。明美姉ちゃんだ。高校の授業が終わってから、習いにくるので、いつも、恐縮しながら、座敷に上がってくる。

  舞踊というものは、徹底的に、才能を競う世界、である。才能のないものには、習得は適っても習熟は永劫適わない。それは、手の表情、腰と背の入り方、足の運び、顔の位置、そんな細かいからだの全てに、如実に現れてくる。おかしなことに、美を創造しながらもこの才能は、容姿の美醜に拘わらない。痩肥、小顔大顔、背高低、腕脚長短に、左右されない。もうひとつやっかいなことに、聡明さにも拘らない。いくら完璧に模倣できても、美の世界を構築できるわけではないのだ。これほどまでに、記憶が実践されない虚しい世界は、芸能に不可欠の要素なのだろうが、その基幹となるの感性であるが、こいつは、もうひとつ身体の感性という天賦のものが必要になる。敏捷で、切れが良く、肉体に宇宙を描き出さなければならない。しなやかであり、軽く、そして、なによりも、止め、に於ける、静寂の比喩が、その宇宙を銀河系からアルファ宇宙域を飛び出し、ベータ宇宙域まで拡大させなければならない。
  才能のある者が集まり、そのなかで抜きん出るためには、並大抵の努力を強いられるのは勿論、そこもまた、才能の量によって順列が生まれてくる。巨大な才能の持ち主が、選ばれた地位にもっとも近い者となる。だが、現実に、トップの者が、才能ナンバー1かというと、これは、免状をもつもの全てが一堂に会して競わない限り、証明は出来ないだろう。
  スランプ、というものもあるだろう。体調の善し悪しもあるだろう。だが、巨大な才能の持ち主には、そういう言訳は通用しないし、また、そうなることは考えられない。

  6人のお弟子さんの内、明美ねえちゃんは、ひとり抜けていた。砂に水を撒くように、吸収して、蒸発する。ただし、蒸発するときの、蜃気楼は、ちゃんと残っている。そんな弟子だったそうだ。教え甲斐があると、母は、異常なほどの執着を見せる。片時も離れずに傍に控えさせて自分のもつ全てを教え込み、啓発する。あげく、時には、スナックを手伝わせたりしていたようだ。いけないことだけど、女子高生には、結構なアルバイトだったのかもしれない。明美ねえちゃんも師というよりも、もっと近しいものとして母を慕い、その息子である私も、及ばないだろうけど相応に気にかけてくれていたようだ。週末には、そのまま泊まって行くこともあった。

  部屋は、余っているけれども、布団は、一組しかなかった。つまり、私の布団だ。14歳の中学生と16歳の女子高生が、ひとつの布団に眠る。私が眠る横に、服を脱ぎ、下着姿の明美姉ちゃんが滑り込んでくる。私は熟睡してるから、その状況を見たことがないけれども、明美ねえちゃんの話によると、私は、まるで、起きているかのように、寝言を言うのだそうだ。膝を立てるな、ちゃんと、服を脱げ、などと、え?って私の寝顔を確かめるくらい。

  私は毎晩、どういう夢を見ていたのだろうか。明美ねぇちゃんへの、秘めやかな思慕も、夢に反映していたのだろうか。

  私は、片思いしい、だった。恋というものをしらないのだから、仕方がないだろう。好き、という気持ちが、きっと、こういうことをいうのだ、という、今から思い返したら、著しい錯誤をしていたのかもしれないが、含羞が薄らぐわけでもないのだから、どうしようもない。そんなことどうでもいい、そう、おおらかで、底なしに明るく、少し、切ない恋心。抱く相手は、日替わり状態だった。気が多いのか?と悩んでしまうくらい、私は、色々な異性を好きになった。

  小柳ルミ子に一目惚れしたり、いしだあゆみも素敵だなんてため息つきながら、中村晃子もいいなぁ、などと、定義を知らない、ただ、玩具を弄ぶように、片思いしていたのかも知れない。

  学校で1人、教室で1人、そして、近所で1人、家で1人。4人は、片思いする。片思いする相手がいてこそ、私は、この世界に棲んでいられた。従順なままに。それは、きっと、今でも何ら変わらない。偏執する気質は、どうやら、親譲りのようだし、気が多いのも、そうなのかもしれない。

  いつものように明美ねえちゃんは、二階に昇ってくる。階段板が軋む音が、break the still of the night 。黙(しじま)は、畳を踏みしめる圧縮音に掻き消される。抜き足、差し足、忍び足。優しい明美ねえちゃんは、電気もつけずに、そのまま、服を脱ぎはじめる。

  私は、闇に慣れた目で、ずっとその動作を見ていた。下着姿でも格好良い明美姉ちゃんは、掛け布団を持ち上げて、身体を横たえた。

  「コウチャン、起きてるんでしょう?」

  「うん」

  「どうしたの?眠れないの?」

  「うん」

  明美姉ちゃんは、僕の首を抱いた。そして、その首に、向き合うように、潜り落ちてきた。そして、

  「コウチャン、キス、したことある?」

  「あるよ」

  「本当に?」

  「うん」

  嘘かもしれないし、真実かも知れない。ファーストキスなんて、どれを差すのだか、私はいまだに探し出せない。

  「じゃ、お姉ちゃんとしてみたい?」

  言うなり、明美姉ちゃんは、くちづけてきた。触れ合う唇、カサカサに乾燥していた姉ちゃんの唇から、舌が私の口腔にねじ込まれてきた。

     たとえば私が恋を、恋をするなら、
      四つのお願いきいて、きいてほしいの♪

  窓から聴こえてくる歌謡曲、ネオンの赤や青、緑に黄色、オレンジにピンク、様々な色が、硝子を照らし出す。

  お姉ちゃんは、眼を閉じていた。私は、驚きながらも、その舌の動きに、従っていた。からむ、もつれる、押す、擦れる、目紛しくって、ついてゆけているのか分からなかったけれども、私の全身は汗ばんでいた。

  気が遠のきそうな時間が流れた。

  お姉ちゃんは私のシャツを脱がす。そして、布団を被ったままパジャマの下も脱がした。ズボンを傍らに投げると、私の上に馬乗りになりながら、背中に両腕をまわして、胸を露にした。長い髪が、こぶりの乳房を隠しているけれども、私は、そうしたことを、ネオンがもたらせる僅かな光りを頼りに、つぶさに、眺めていた。

  お姉ちゃんは、私の横に寝ると、下を脱ぎはじめた。脱がせる手が、私の腿に触れたままで落ちる。裸になったんだ。

  「まさか、これはないよね、コウチャン」

  訊かれた内容がよく飲み込めなかった私は、訊き返すことをためらっていた。何故だかは、答えたくない。そんな経験が、ある筈ないのだから。

  だけど、私も、返事の替わりにブリーフを脱いだ。その瞬間だった、

  「わたしも初めてだから、上手くできないかも知れないよ」と途切れ途切れに呟きながら、お姉ちゃんが私の上に被さってきた。

    私はその夜、初めて女を知った。

  
   「お寝坊さん、まだ起きないの?」

  目覚めた私は、背中に朝日をいっぱい浴びて覗き込んでいる明美姉ちゃんの顔を、薄目で見上げていた。いつもの顔が、そこにあった。少しだけ、照れ臭そうに、はにかんだ頬が、紅潮していた。お姉ちゃんは、もう服を着ていた。裸のお姉ちゃんとの違いが、私には不思議に思えていた。別人だったんだ。そう、思えてならなかったのは、お姉ちゃんの裏を、初めて知ったからなのだろうか。表裏一体、だれでもそうなのだろうけれど、私には、まだ、そういう含みや、ややこしい虚飾なんかは、よく理解できていなかった。それよりも、

  逆光のただ中のお姉ちゃんが、ただ、まぶしかったんだ。

  勘定できないくらい同衾した私とお姉ちゃんの別れは、それから、半年後、お姉ちゃんが、晴れて免状を授与されたおめでたい日だった。恐らく、母の弟子の中でも、五本の指に入るだろうその舞いは、研究発表会を催した、会館の舞台でも、充分発揮されていた。小宇宙を体現するお姉ちゃんの力量は、観衆の誰の目にも、明らかだった。底なしの才能の息吹、そして、女としての艶美の萌芽、視線の動きひとつにも、それは、描写しきれていた。私は、呆気にとられたかのように、魅了されていた。

  お姉ちゃんとは、十四歳のその日を最後に、会っていない。どちらが避けていたのかは、お互い様だったのかもしれないけれども、お互いの動向がずっと気掛かりだったことは、母から伝え聞く話では、確かなようだ。

  会いたくて会いたくて仕方がないのに、会わないで叶う恋もあるのだと、私は、教えられた。

  今でもときどき想い出すことは、もし、母がふたりの関係を知っていたら、赦してくれただだろうか、ってことなんだけど、その可能性は、少なかっただろう。なにしろ母は、どんな彼女を紹介しても、「ヤナカーギー」と裁定するのが癖だったから。「嫌な景」っていう意味で、つまり、美しくはない、ってこと。

  今のカミサンなんか、十七歳の時に会っているけれども(キスしている場面に出くわしたんだ)、ため息交じりに、お前の趣味が解らん、とひどく嘆いていたものだ。母は八十を過ぎてはいるが、世界中の80代の全女性の中で、イチバンの美貌を維持している、と怪気炎をあげている。見たくはないけれど、80代インターナショナルコンテスト、なんてもし開催されたら、文句なしに、母は、十七歳の時にそうだったように、女王の座を射止めてしまうだろう。

  母は、いつも、言う。美は、もたらされるものではなくて、積み上げてゆくものだ、と。基礎を固めて、積み上げて、練り上げ、塗り上げてゆく最後に、出現するものなのだ、と。
2006 07/16 21:41:20 | none | Comment(0)
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 光あるうちに光りのなかをあゆめ




        神のもとには大きなものも小さなものもありはしません。人生においてもまた、大きなものも小さなものもありはしません。
        あるものはただ、まっすぐなものと曲がったものだけです。                              
                                                                  
                                             トルストイ


            

    当時、私のバイブルになっていた歌。

    ディオールのイニシャル模様のネクタイ、ホワイトアイボリーのスーツ。それまでの私の全てを覆したそのドラマは、私の中の他のものまで変えてしまったのかも知れない。

    この歌は、魔法の歌だった。

    ありえない現象を、うみ、ありえないものを、もたらし、ありえないことを、可能にする。

    当時の私は、22歳。

       「アズマエさんは、カラオケとか行きますか?」

       「うん、行くよ」

       「どんな歌唄うんですか?」

       「ガラス坂かな」

       「えー?そんな歌唄うんですか?」

       「変かなぁ?」

       「変じゃないけど……、今度、連れてってくださいね」

             
             ゆうべは淋しさに 震えて眠って 夢を見た
             もつれた糸のように あなたと私と誰かと
             過ぎ去れば思い出になる 今をちょっと耐えれば
               私は ここに いるわ  いるわ

             終りのない歌を うたっているのは私です
             時には声かすれ 人には聴こえぬ歌です
             でも今が一番好きよすこし曇り空でも
               誰か私を抱いて  抱いて

                                         及川恒平


     これが、社交辞令、とかいう、許された嘘なのだろうと、私は聞き流した。数千足の在庫が立ち並んだ、狭く暗いストックルーム。彼女は、売場いちばんの美人だった。

     数日後の退社時間、店員通用門を抜けると、彼女が誰かを待っていました。恋人だな?と少し焼けたけど、

       「お疲れさま、早番だったでしょ?誰か待ってるの?」

       「うん、待ち人来たらずで、退屈してたの」

       「彼氏だね?ご馳走さま。じゃお先にね」

       「待って!待ってたのはアズマエさんですよ」

       「え?僕?僕なんですか?」

       「そうよ、約束したでしょ?飲みに行こう、って」

       「はい、確かにしましたけど、え?えええ?本気だったの?」

       「ひどいなぁ、忘れてたのね」

       「違うって、社交辞令だと思ってたから」

       「あたし、そんなこと言いませんから。それとも、あたしのこと、嫌い?」

       「まさか、売場のマドンナを嫌いな男なんていません、って」

       「じゃ、嫌いじゃないのね?」

       「はい、嫌いじゃありません」

       「それは、好きってことに取ってもいいのね?」

       「ご随意に」

       「なんか狡いなぁ。あたしとは飲みに行きたくないの?」

       「飲むのが、そもそも、苦手だから」

       「じゃ、あたしが教えてあげる。いいでしょ?」


     よけいなものまで、教えてくれました。

    
       
     無理を承知の行動だった。ふられて筋書き通りに運ぶ筈だったんだ。私は、「終わりのない歌」をひととおり口遊(くちずさ)んで、君を誘いに行った。

     君は、暗くなった店の奥で、日報をつけていた。私は棚卸しが終わったばかり。部下を帰して、私は迷っていたさ。閉店してもう二時間が過ぎている。残業届に記した時間は、あと数分しか残っていない。

     私は、大流行の兆しを見せはじめていた毛皮のコートを広げながら、レジの奥の小さなストックルームの奥、小さな机に向かう君の背中に声をかけた。

        「遅くまで、ご苦労様です」

        「あら、棚卸し終わったの?」
 
        「ええ、なんとか。帰らないのですか?」

        「アズマエさんは、もう帰られるの?」

        「ええ、もう帰ります」

        「お腹空いてませんか?」

        「え?お腹?」

        「帰り、どこかで食事しませんか?」

        「残務処理はもういいのですか?」

        「ええ、あなたを待っていただけですから」

        「え?驚くことをおっしゃいますね」

        「そうですか?私は底なしだけど、アズマエさんって、お酒大丈夫ですよね?」
 
        「いいえ、ダメなほうです。すぐに酔っぱらって、寝ちゃいますから」

        「じゃ、今夜はわたしが介抱しますから、思いきり飲ませてさしあげますわ」

    そう誘った君は、私より先に酔いつぶれて、歩けなくなって、どこにも行けなくなって、君の部屋まで送っていったら、そのまま、部屋に引きずり込まれて、酔ってなんかぜんぜんいなかったんだね、君は着ていた服を脱ぎはじめ、私の服を脱がせた。その時、君の胸の中で、爆発しそうになっていた鼓動を頬で確かめたさ。それは勇気なんかじゃなくって、覚悟だったんだよね。

     

        「アズマエさん、お久し振りね」

        「永井さん?ご無沙汰しておりました」
 
        「阪神にいないから、ここまで来ちゃったじゃん」

        「すみません、ご挨拶もせずに、転勤してしまって」

        「そんなことより、あなた、店長になったんだってね?」

        「はい、おかげさまで。若輩者ですから、苦労してます」

        「何言ってるのよ、自信満々のくせに。わたしも応援するから、出世してね」

        「ありがとうございます、今日は、春物をお探しなのですか?」

        「ええ、それもあるけど、今日はね、この娘を紹介しにきたのよ、あなたに」

        「え?お嬢さんですね?」

        「こら、照れてないで、挨拶なさい。カッコイイでしょう?ママのお気に入りの店長さんよ。年はまだ二十三歳、どう?あなた、気に入った?」

        「やめてよ、ママ」

        「この娘はね、十六歳、7つ違いだけど、お似合いだわ」

        「永井さん、僕は独身じゃありませんよ」

        「分ってるわよ、そんなこと。あなたが独身だったら、わたしがモーションかけてるわ」

        「ご冗談を」

        「だからね、娘を紹介するのよ」

        「すみませんでした。永井さん同様、懇切丁寧に接客させていただきますよ」

        「違うわ、あなた勘違いしてる。紹介はね、文字通り紹介なの、解る?」
  
        「いいえ、全然」

        「ホントにあなたこういうことには、鈍いのね。内の娘と交際してくれ、とおたのみしてるのよ」

        「こんなおキレイなお嬢さんに、私なんか、身分不相応ですよ。それに、そんなこと出来るわけないじゃありませんか」

        「あら、ねぇマリちゃん、あなたこのお兄さん嫌い?」

        「知らない、ママのばか!」

        「ほらね、この娘も、気に入ったようよ。あなた次第だわ、アズマエ店長、ご返事は?」

        「か、考えさせて下さい」

        「きゃぁ、照れちゃって、もう可愛いんだから。これだけは覚えておいてね。わたしはあなたを気に入ってるの。わたしには残念なことに息子が出来なかったけど、あなたなら、息子にしたいと真剣に思っているわ。覚悟しなさい、わたしからは逃げられないわよ」

     この奥さんは、阪神百貨店時代からのお得意様で、外商部から紹介されて、接客したら、なにが気に入ったのか、次から外商部を通さずに、直接売場に来るようになった、最初のお客様でした。

     
     私の迷走は、すくなくともひとつの帰着点に向かって進んでいたことが、最近、分りはじめてきました。 


        このごろわたしは想い出す。
           遠いあの日の、天使のようなあまいろの声。

        このごろわたしは想い出す。
           軟体動物のようなあなたのいやらしい肢体。

        このごろわたしは想い出す。
           再会したときのあなたのたたずまい。

        このごろわたしは想い出す。
           あなたに受けたさまざまな嫌な思い。

        このごろわたしは想い出す。
           あなたの最後の、最後のせいいっぱいのまなざし。

        このごろわたしは想い出す。
           あなたたが最後に、最後に遺した切ない言葉。

        こうしてわたしは想い出す。
           乾燥した胸には、去来するものがなにもないことを。

        こうしてわたしはさらに想い出す。
           想い出すことを想い出している、わたしを想い出す。
           醜いこの身を晒してまでも、自然発火した小さな焔が、
           乾燥した胸を焼け尽くすその時を、
           見逃さぬように、
           ただ、
           待ちわびるように。
2006 07/16 06:19:42 | none | Comment(0)
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あめあめ ふれふれ、かぁさんが、
       
      じゃのめでお迎えうれしいな。

      ぴちぴち ちゃぷちゃぷ らんらんらん。

  私は、昼から雨になるのを知っていても、傘を持たずにいつも登校していました。雨が好きだったためでもありますが、いちども母親に迎えにきてもらったことがないからでもありました。

  近所に住んでいた同級生で書店の娘でしたYという女の子がいました。当時は、まだ少年ジャンプやチャンピオンは創刊されておらず、サンデー、マガジンが主流でした。サンデーには「伊賀の影丸」。マガジンには「サスケ」。貸本屋がどこの街にも一件あり、月刊誌花盛りの時代、「少年」、「少年ブック」、「冒険王」、「ぼくら」、「少年画報」など、少年たちを魅了していましたから、書店は夢の宝庫だったのです。

  その日、昼から降り始めた雨は、放課後になってもやみません。傘をもたない私は、校舎から駆け出して、全身に雨を浴びます。顔を濡らす雨が気持ちいい季節だったのでしょう。濡れてゆく衣服、髪、したたりおちる滴が飴色に透けてゆっくりと、大粒に膨れながら落ちてゆく。ぬかるみだした大地も、やわらかく靴を包んくれました。

  思い遣りは、どこからやってくるのでしょうか。神の国からかもしれませんね。

  「Sく〜ん」

  雨音にまぎれて喚ぶ声が聞こえました。振り返ると、Yでした。

  立ち止まった私に追いついた彼女は、私に傘を差しかけます。

  何か云っていたでしょう。傘も持たずにとかなんとか、女の子は小学校2年生のこの頃から、もう説教が得意だったようです。お爺ちゃんを叱るどこかの愛くるしい孫のように。

  「じいたん、しょんなことをしては、ダメでちょ」

  「スマン、(6 ̄  ̄)ポリポリ、もうしませんから許して下さい」 孫に謝るのは、少し、気持ちがいい。

  悪いことをしたら叱られる。いいことをしたら、褒められる。2極端ならば、この世はなんて潔いことだろうか。でも、そうはいきません。よくても悪いことや、悪くてもいいことが、たくさんあります。凄く悪いことやちょっとだけ悪いこともあります。叱るのは、直感に左右されるでしょう。叱咤を受けるのは、感情ではなく、理性になっている今の私には、この幼い直感が、いとおしくてなりません。

  相合い傘、色っぽいこの言葉を、当時の私は知りませんでした。男と女、どうして分けられるのか、どこが違うのか、視覚できても、その意味までは理解できていなかったのでしょう。同類です。同じ生けるもの。同じ言葉を話し、同じ熱をもつ。パンツがすぐに見えそうなスカート穿いていても、チンチンがついていなくっても、風合いていどの違いしか私には、認識出来できませんでした。

  「今日も、家に来る?」

  「行く、少年サンデー今日発売やろ?」

  「うん、置いてあるよ、S君のために」

  転校生だった私に、最初に話しかけてくれたのが彼女だったのです。家が近い所為もあって、誘われるままに、彼女の家に行くと、廊下に山のような雑誌が積み上げられていて、一角に宝の山がありました。読んでいいか?って訊くと、好きなだけ、と応えてくれ、居間のソファーへ座り漫画の世界に没頭していると、これ食べよう、とオヤツを持ってきてくれます。一人分を、仲良く二人で食べる。ビスケットとかクッキーとか煎餅や饅頭の類いだったでしょう。

  嫌だったのは、ママゴトの相手をさせられることでした。お父さん役、仕事から疲れて返ってきた夕飯の風景、お父さんを知らない私にこなせるわけがないのに、そこはそうしなければいけない、と、演技指導。言われるままにこなすと、彼女は若妻役。私は、お母さんもしらないのに、何をすればいいのかが判らず、固まっていると、お帰りなさいあなた、と抱擁。暑苦しいなぁ、と閉口しながらも、我慢。漫画の為だ、と言い聞かせ、ツバメのような気分を味わいます。

  それだけで済めば、まだいいのですが、挨拶替わりのチュウしなければいけないんだよ、と、強要されると、閉口の度合いが頂点に達してしまいます。子供ができたら、どうするんだ?それだけは、困るだろう。7歳で父親なんか、やってられないぞ。心配は、頬への口付で解消されて、ほっ、ひと安心。

  他の女の子と遊ばないのか?と疑問をもつが、この子は、平気だったようだ。私は、ベッタンやビー玉遊びをしたかったのに、来日も来日も、ママゴトばかり。こんなののどこが面白いんだか、さっぱり判らん気持ちは、心にしまい、私は、ツバメを続けました。

  ママゴトから開放されてほっとすると、今度は、トランプ、歌留多。ゲームが嫌いな私には、地獄だったでしょう。ばば抜き、どこが面白いんだ?七並べ、どこに面白みがあるんだ?

  「わくわく、するね」

  おまえの神経は、だいじょうぶか?本気で疑うこともありました。
  
  雨が降っています。

  傘の中で、仲のいい男の子と女の子は、肩を寄せ合うように、歩いていました。女の子はオママゴトを想像し、男の子は漫画のつづきを空想していました。

  「やーい、男と女が抱き合ってるぞ」背中に、下品な哄笑が起きました。

  抱き合ってる?目、見えないのか?これが抱き合ってるのなら、バスや市電や電車の中は、抱擁だらけじゃないか。冷静になれば、そう切り返せた年に私はなっていました。だけども、先に、感情が泡立ってしまいます。みるみるうちに膨れ上がった泡は、胸の中の全てを支配してしまいました。

  ”もういっぺん、言うてみぃ!!”

  私は、冷やかした男の胸ぐらを掴み、殴りました。「S君、やめて!!」彼女の悲鳴も聞こえません。倒れた同級生の上に馬乗りになり、更に殴りました。相手は泣き出します。こんどは、呆然と佇む残りの同級生達に、掴みかかりました。

  ”S君、やめて!!”

  彼女が背中にしがみつきます。邪魔でした。動きを封じられたら、反対にやられてしまうじゃないか。私は、彼女を突き飛ばし、残りの敵にバチキ(頭突き)を入れました。泣けば、決着はついてしまうのです。

  雨が降りしきっていました。

  泣きながらランドセルを手に逃げてゆく同級生達を見据えながら、私は、傍らにいる彼女をふと見てしまいました。彼女は、泥だらけの道に座り込み、泣いていました。傘は何処へやったのでしょうか。

  雨は容赦なく二人を濡らしてゆきます。

  彼女の記憶は、ここで消えてしまいました。近くに住みながら、私は、その後、彼女と一言も口をきかなかったのです。彼女は、いつも、私を恨めしそうに見つめていましたが、私は、無視し続けました。愧じていたのでしょうか?ケンカを邪魔されたからなのでしょうか?

  いいえ、違うと想います。私は、照れ臭かったのです。男と女は、やっぱり違うんだ、って、初めて自覚してしまったのです。彼女が嫌いじゃなかったし、好きでもなかったけど、無視するような気持ちは抱いていませんでした。ただ、もう二度と一緒に、遊べない、そういう年になったのだ、と自分に言い聞かせていたのだろうと想います。

  15センチも背の低いチビの転校生のことを、彼女は、覚えているでしょうか。その想い出の中の私は、優しく笑っていますか?
2006 07/14 22:11:44 | none | Comment(0)
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眞白の月

    

      君が誰とましろの月を観たかなんて、野暮な事は訊かないよ。    
      
      刃渡り2寸の小さなナイフ、
      君はなんども、なんどもこの胸を刺した。
      おなじところを、おなじちからで刺した。
      
      血は出ぬその小さな傷跡に、
      いつかしら咲いた黒い花、
      摘んで君に捧げるとしたら、
      それは君にどう見える?
      
      君はニベも無くこう言うよ、
      そんなきみわるい花、要らないわ、って。
      
      君が刺した傷跡に咲いた黒い花、
      ぼくはそれを胸にかくしたまま、
      君の無邪気な想い出に相づちを打っている。
      
      ぐさり、ぐさりと、
      脂だらけの肉が裂ける沈んだ音を耳にしながら。

      夜空には、
      ましろの月が、
      映えかえる。

      あぁ、うつくしの夜や。
2006 07/13 22:33:06 | none | Comment(0)
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 狂いの少ない時計

     狂いの少ない時計のネジ巻いている。
     永遠に、永遠に巻き続けている。
   
      もし時が現し世ならば、
      女は分針で、男は秒針だろう。

      女は10億9百15万2000回、
      嘘を装い、
      男はその2.34375倍、
      嘘に惹かれる。

      敷き詰められた罠に、
      しみこんだ芳香、
      朝と夜も識別できず、
      行き止まりを選ぶ岐路。
      
      折り畳まれ折り重なった歯車が、
      刻みつける
      容赦ない流れの中、
       
      乾燥した夜に、
      季節がないように、

      細い帯状の光を目指して、
      歩き続ける孤独と希望のように、

      色変わりした
      かの世の乙女達が、

      くる日も、くる日も、
      気炎を上げては嘆き、
      嘆いては痛飲し詩を謳う。

      あのなまめかしい野戦址は
      凝縮された空に思念となって漂う。

       やがて雨となり地に落ちてくる。
       その滴は、思念です。
       乙女達の、愛や葛藤や挫折や絶望の溶けた思念です。
       
     
      狂いの少ない時計が狂う時、
      地は裂け、天は咆哮し、
      海は巨大な波を立ち上げる。

      西に起こった地の揺れは、
      東に針路を変えて襲い来る。
      東の地の揺れは、北へ転じ、
      南へ来たる。

      光とともに産まれしものは
      分裂を繰り返し、
      ひとつの結晶となってゆきます。

     狂いの少ない時計に性別はありません。

      父もなく、母もない。
      兄も姉も弟も妹もいない。

      狂うように狂わぬ定めを背負いしこの存在は、
      狂うように過たない時を刻んでゆきました。

      この存在の正体をそろそろ明かしましょうか?

      それは、

          デオキシリボ核酸。
          「n」で表される、ゲノムです。

    人間どもは、心がけずに、
    これからもずっと、

    狂いの少ない時計のネジを巻いている。

                 1976年 より (改稿)

    
   当時私は、大阪府吹田市山手町にて、ひとつ年上のOLと同棲していました。僅かな学生時代。

   変な詩を書く、小生意気で、はにかみ屋の年下の男を、彼女は、いつも黙って見守っていた。

   出来上がった作品を彼女に見せると、

   ”わたしには、判らない” と決まって困った表情で、申し訳なさそうに謝ってばかり。

   理解してもらえなかった彼女を、一作だけ、泣かせた小品がありました。

   捨てられていなければ、今も、それは、彼女が保管しているでしょう。

   ”これだけ、ねぇ、おねがい、これだけわたしにください”

   彼女が私に甘えた最初で最後のおねだりでした。

   「紫陽花」という短編小説だったっけ。
2006 07/10 22:04:00 | none | Comment(0)
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