通説にとらわれない新しい歴史解釈

2009年 07月 18日 の記事 (1件)


 当時の政党政治が今と違って(?)信頼されていなかったことは今日我々が想像する以上のものがあったようである。非常にリベラルな思想の持ち主であった東大工学部教授の冨塚清や市川房江がメンバーであった「言論報国会」においてさえ日本を保つための必要条件の中に『政党を作ることは禁止』が掲げられた(他に天皇親政の実行、軍需生産を国営とする、陸海軍を一体とする、言論の暢達)ほどである(「ある科学者の戦中日記」冨塚清著 中公新書)

大川周明も宇垣一成に宛てた手紙の中で「既成政党の徹底して信を天下に失い、国民口々に議会政治を呪詛するに至れり」と書き送っている。(宇垣一成 悲運の将軍  棟田博著 光人社)

 軍人勅諭で禁止されていた軍人の政治への介入の道筋は十分にできていたのである。
 昭和九年十月十日、統制派の永田軍務局長と林陸相の決裁を得て、陸軍省新聞班は「戦いは創造の父、文化の母である」という書き出しで始まる「国防の本義とその強化への提唱」というパンフレットを発行し、高度な戦時体制を構築するために国民を洗脳しようとした。
 しかし、特に戦争の犠牲者からみれば「戦争は創造の父であり、文化の母である」というような言い草は怒りの対象となって当然であろう。美濃部達吉博士が「好戦的である」と批判したのももっともなことである。

この永田と対支戦略を巡って対立したのが皇道派の重鎮小畑敏四郎中将であったが、小畑の薫陶を受けた一人、三吉義隆元大佐は小畑の戦略を次のように要約している。(須山幸雄『作戦の鬼 小畑敏四郎』/日本陸海軍名将 名参謀総覧 別冊歴史読本 新人物往来社)

「昭和初期のわが国の仮想敵国は唯一つ、それはソ連、戦場は満州、作戦方式は内線作戦、つまり侵略した敵に対して中心的位置から放射線的に作戦行動して撃破する。
わが方からは絶対にシベリアに侵攻しない。その要領は一言で言えば、速戦即決で、機動力を使い、大兵力を集結して包囲懺滅する。つまり、皆殺し作戦だ。こうすればソ連は一度で懲りて二度と侵そうとはしないだろう。もちろんわが国からソ連に戦争をしかける意図は毛頭ない。しかし、ソ連の軍備は日を追うて激増しつつある現状からして、ソ連の準備がまだ充分でない時、討つとすれば早い方がよいに決まっている。しかし、わが国から戦争をしかけるのは得策ではない。まず満州での作戦を有利に遂行できるよう整備は急がねばならぬ。
このためには支那を味方にし、友邦国として手をつなぐことが絶対の前提条件である。
いま内乱続きだからと支那に手をだせば、支那に利権を有する英米ニ大国を刺激し、悪くすればこのニ大国とは敵対関係になる。これはわが国としては最も戒めなければならぬ点だ」、小畑敏四郎中将は二・二六事件の青年将校達が崇拝していた荒木貞夫大将に信頼され、かつ重用されていた人物なので、小畑中将の対支、対ソ戦略はそのまま青年将校たちのそれと一致していたとみて間違いはないだろう。

 谷田勇元陸軍中将は次のように語っている「2・26事件後、若干名なりとも和親を以って中国を包容せんとする皇道派将官、又はその同調者が省部に残留し、支那事変勃発に際し、石原少将の如き不拡大主義者が陸軍を支配していたなれば、支那事変は短月日に片が付き、従って太平洋戦争も回避し得たのではないかと著者は思うものである。しかしながら時の流れは人力では如何ともなしえなかったかもしれない。(「龍虎の争い 日本陸軍派閥抗争史」 紀尾井書房)

 では、もし2・26事件を引き起こした青年将校に代表される皇道派が陸軍から統制派を駆逐し天下を取ったら、5年後の日米開戦は避けられたであろうか? 私は極めて困難というか限りなく不可能に近かったと思う。その理由はルーズベルト政権がヨーロッパの戦争に介入するきっかけとして日本との戦争を望んでいたからである。しかし、それでも当時の軍部や政府、官僚、民間人の優秀な人材の英知をルーズベルトの罠に陥らないようにすることと、石油を確保することに結集することができたなら、米英との戦争を回避することは0パーセントであったとは思えない。例えば、油田地帯にだけ侵攻して相場より10パーセントほど高い価格で石油を強制的に購入するようにしたら、少なくとも世界の世論を敵に回すことは避けられたのではないだろうか。

 「1939年(昭和14年)9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって第二次大戦が始まったが、英も仏も、ポーランドの支援はしても、ヒットラーとの戦争には消極的であった。ルーズベルトはヒットラーやムッソリーニを激昂させるような要求をする一方、英・仏・ポーランドに対しては『ポーランドが攻撃された場合、ポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英・仏を援助しない。英・仏が即時対独宣戦布告すれば、英・仏はアメリカから一切の援助を期待しうる』と英・仏・ポーランドを対独戦へと威圧し、煽動脅迫を加えた。ヒットラーはもちろん、英・仏と戦うことを望まず、目指すものはあくまでもソ連であった。英・仏もまたドイツに宣戦することを欲していなかった。イギリスにしてもフランスにしても、ルーズベルトから絶え間なくつつかれることがなかったら、ポーランドのために宣戦することはなかった。チェンバレンは『イギリスに戦争を強いたのは、アメリカと世界のユダヤ人であった』と言ったということである」(アメリカ謀略秘史 上村健二著 泰流社)

 「当時ルーズベルト大統領の財務長官には、ヘンリー・モーゲンソーが就任していた。またモーゲンソーを支えていた財務次官にはハリー・デクスターホワイトがその任にあたっていた。この両者に共通しているところは、ルーズベルト大統領をして、なんとしても日米開戦に誘導していきたいという点である。
 モーゲンソーはユダヤ人である。ナチス・ドイツの勢力圏内においては、大量のユダヤ人達が迫害にあっていた。これを解決するのはイギリス一国では、とうてい不可能なことであった。
 アメリカがドイツと戦争でもしないかぎり、問題は解決しない。だが、当時、イギリスのチャーチルがいかにルーズベルトを対独戦に参戦するようにうながしても、大統領の意思とは別に、アメリカ国民が納得する状態にはなっていなかった。
 残る方法はただ一つ、日独伊三国同盟を利用することである。
日本を挑発して日米開戦に持っていけば、ドイツは三国同盟の立場からアメリカと戦端を開くかも知れない・・・」
(日米開戦の真実  新井喜美夫著 講談社新書)
 「1940年頃のアメリカに『イギリスを助けてヨーロッパの戦争に参加しょう』と考える人は非常に少数だった。1920年代のアメリカには『第一次世界大戦時の反ドイツ・プロパガンダが行き過ぎだった』との反省から親ドイツ感情が戻ってきていたし、30年代には、議会の調査などで『アメリカの大企業やイギリスが自分たちの利益のためにアメリカを戦争に引き込んだ』との議論が盛んになされたこともあり、アメリカ国民はヨーロッパの戦争に関わることに極端に警戒心を持つようになっていた」
(アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか  菅原出 草思社)

 史上初めて大西洋を航空機による無着陸単独横断に成功した空の英雄リンドバーグも「アメリカを戦争に引き込もうとしている勢力が3つある。それはイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権だ」と激しく非難した。(前傾書)

 一方、日本側にも日本を戦争に引きずり込むことを画策していたグループが存在した。

「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯」で始まる敗戦の年昭和二十年二月の昭和天皇への上奏文の中で近衛文麿は軍内部の共産主義者が計画的に日本を戦争に導いてきたと指摘している。
「抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座侯。支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯・・・・・」
陸軍兵務局局長であった田中隆吉少将も次のように近衛の主張を裏付ける発言をしている。
「転向右翼は日本革命の手段として戦争を是認し、これをアジアの弱小民族解放の線に沿わしめ、日本と英米との衝突を激発せしめる戦術を考えていた」(日本軍閥暗闘史 田中隆吉著 中公文庫 P110)

「何が故に統制派は日中戦争の不拡大と、その速急なる解決に反対したのであろうか。これは、事変の発展と永続は、必然の結果として、国防兵力の増大を来し、これに伴う軍用資材の需要の増加はまた国内の経済機構に計画性をもたらすものであるから、手に唾せずして、その理想なる国防国家建設と国内経済機構の変革を行い得ると確信したからに他ならない。一言で言えば、彼ら統制派は日中戦争を彼らの政治理念達成の具に供したのである。
日中戦争の中途、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者(私はこれを転向右翼と名づけた)が、彼の周囲にブレーンとして参加した。陸軍省の部局に転向共産主義者が召集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の政治理念はこれがためにさらに飛躍した。すなわち大東亜共栄圏建設の理念である。この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである・・・・・統制派の政治軍人が軍人の本分を忘れ、濫りに政治に関与し、国民に号令しつつあるとき、私のいわゆる転向右翼はすでに統制派内部に巣喰い、彼ら転向右翼が目指す祖国敗戦の方途を画策しつつあった。政治にも思想にもはたまた経済にもほとんど無知な軍人が、サーベルの威力により、その付焼刃的理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に耽りつつあったとき、巧妙にして精緻なるこの種の策謀に乗せられたのは当然の帰結である」(前掲書 P92−93)

 共産化しようと狙いを定めた国を戦争に引きずり込み敗戦に導いて国家の指導者と国民を離反させることによって共産革命を実施させようとする作戦は「敗戦革命」いわれ、ロシアの革命家レーニンが考えた方法である。



 
2009 07/18 13:46:42 | none | Comment(0)
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