通説にとらわれない新しい歴史解釈

2009年 11月 18日 の記事 (1件)


 狭量な独善家の東条は自分に敵対する人間を容赦なく弾圧ーしばしば死に追い込んだ。有名な例では「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」という見出しで、もう後がないという状況まで追い込まれていた日本の真実の戦況を国民に知らせようとした記事を書いた東京日々新聞(現毎日新聞)の新名丈夫記者を懲罰徴集して激戦地に送り込み戦死させようとした。新名は近視のため徴兵免除になっており、当時新兵にするには異例の37歳という高齢であった。このような東条のやり方に対して、さすがにおかしいという声が大きくなると、東条はつじつま合わせのために新名と同世代の徴兵免除者250名を召集して硫黄島に送った。新名は元々海軍報道班員であったため、海軍側の庇護によって生命をまっとうできたが、つじつま合わせのために召集された250名は全員戦死してしまった。
 また東条は自分を批判した部下を激戦中の硫黄島に派遣して即日戦死させたこともある。「東条の狭量ときてはお話にならず、反対意見のものは陸軍士官でさえすぐ死場所に追放されるから、苦言を呈するバカはいない」(自伝的日本海軍始末記 高木惣吉著 光人社NF文庫)
 東条が敵対者を抹殺するやり方として、激戦地に追いやって、敵の手によって殺させるというパターンがあったことが分かる。

 東海大学の創立者でもある松前重義は当時、通信院工務局長兼防衛通信施設局長であったが、各省庁の信頼できる技術専門家を集めて日本の生産力の実情を厳密に調査分析した結果「東条内閣の発表する軍需生産計画はデタラメである」、「このままの態勢では戦争の将来は惨憺たる滅亡あるのみだ」、「現内閣の施策はすべて非科学的だ」と結論し、現内閣は国を滅ぼすものだと高松宮や永野修身元帥等海軍の高級将校たちに力説した。これを東条が見逃すはずはなく、即座に松前に対し報復措置をとった。
 それまで上限が四十歳だった徴兵年齢を四十五歳にまで引き上げて、四十二歳の松前を陸軍二等兵として召集し、淡路丸という爆薬運搬船に乗せて南方に送ったのである。通常はこのような爆薬船に兵隊は乗船させないのだが、この時は松前の部隊の百名が乗船させられていた。

 松前の部下で逓信省工務局調査課長であった篠原登は松前の召集解除を画策し、兵器行政部長の管清次中将から富永恭二陸軍次官に頼んでもらったところ、富永は直立不動の姿勢で「これは東条閣下の直接の命令であるので絶対に解除できぬ」と拒絶した。

 絶体絶命のピンチに陥った松前は台湾の高尾から無線電話で篠原に連絡をとり、海軍から松前の転船命令を出してもらうことに成功し、ようやく石炭船に乗り換えることに成功した。
 淡路丸は港をでるとすぐに松前の見ている前で爆発を起こして沈没してしまった。(証言・私の昭和史  文春文庫より引用)


 このエピソードから、東条は確固たる意志を持って、松前を殺害しようとしたことが窺える。おそらく、爆薬運搬船の淡路丸が台湾の高尾に入港するという情報をなんらかの方法で敵方に漏らしたのではないだろうか。私は山本五十六も同じ方法で殺害されたのではないかと思うのである。

 ガダルカナル島奪還のための作戦の打ち合わせに戦艦大和を訪れたある陸軍大本営参謀(辻政信であろう)が「成る程、大和ホテルとはよく言ったものだ。こんなところで、鯛の刺身で晩酌などやっていては、ガ島でトカゲを食っている陸軍の苦しみはわかるまい。陸軍は百武軍司令官自ら上陸して陣頭指揮だ。海軍の長官はトラックの大和ホテルだ。ここなら潜水艦も来ないし、命も安全だからな。これでは、海軍に応援を頼んでも、軍艦を出してくれぬわけだ。司令長官が一番後方では、部下もついて来ぬし、第一、士気が揚がらぬ。日本海海戦のときは、東郷大将自ら三笠で陣頭に立ったと聞いている。帝国海軍も変わったものですな」と毒舌を叩いて高笑いした(激流の孤舟 提督米内光政豊田穣著 講談社)
 付け加えればトラック島には日本から慰安婦も来ていたからまさに天国であったろう。

 


 
2009 11/18 20:25:35 | none | Comment(0)
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