通説にとらわれない新しい歴史解釈

2018年 04月 28日 の記事 (1件)


「映画史上ただ一人の天才」と言われるチャップリンは兄のシドニーと日本人の秘書高野虎一を従えて1932年5月14日に初来日し、翌15日には首相官邸での歓迎会に出席する予定であったが、当日、直前にキャンセルして相撲見物に予定を変更したため(*1)、危うく難を逃れたと伝えられている。
不思議な事に犬養毅(つよし)首相暗殺の首謀者の一人である古賀清志中尉等は新聞等で公表されていなかったにもかかわらず、15日に首相官邸で歓迎パーティが開かれる事を知っていて、その時にチャップリン暗殺を決行しようとしたが、その動機を中村義雄中尉は裁判で次のようにのべている。「元来日本人は歓迎好きで外国人であればどんな人間でも直ちに熱狂するからその席上には朝野の名士があつまるだろうと考えた、それを襲撃することはもっとも効果的であるし、チャップリンをやっつければ、日米関係が重大化し時局益々緊張して卓抜な人物でなければ到底収拾し能(あた)はざるに至り革新は容易に行われるに違いない、明治維新の際高杉晋作が英国大使館を襲撃した故知に倣ったのです」と述べている。(五・一五事件 陸海軍大公判記 時事新報社)
実に粗雑で幼稚な動機であるが、とってつけたような印象が拭えない。本当は5月15日(日曜日)に暗殺目標である犬養首相が確実に首相官邸に滞在しているようにするために、チャップリンが利用されたのではないだろうか。そのように考えれば当日の直前に首相官邸訪問をキャンセルして相撲見物に切り替えたのも理解しやすい。本当に犬養首相暗殺事件に巻き込まれるのを避けるためである。そして、首相官邸訪問の期日を決めたり、キャンセルすることができたのは、おそらく秘書の高野虎一以外にいなかったのではないだろうか。「チャップリンは犬養首相との会見を熱望している」とチャップリンに無断でマスメディアに報道させたのは高野である。
実際のところ、高野虎一は妻の親戚に海軍の高官がいたこともあって、海軍に独自の人脈をもっており、何人かはチャップリンの撮影所にも訪ねてきたそうである。チャップリン初来日に先立ち、高野は一人、歓迎会の準備という理由で一足さきに来日して何人かの海軍側軍人と接触している。

来日に先立ち、チャップリンはヨーロッパも訪問していた。「1932年3月、チャップリンはこのヨーロッパ旅行で、各地で偏狭なナショナリズムが勃興していることに心を痛め、その感想をこんな風に述べた。『愛国心というのは、かつて世界に存在した最大の狂気だ。私はこの何ヶ月かヨーロッパの各国をまわってきたが、どこでも愛国心がもてはやされていた。これがどういう結果になるかというと、また新たな戦争だ。願わくば、この次の戦争では、老人を前線に送ってもらいたいね。今日のヨーロッパでは、真の犯罪者は老人なのだから』だが、このチャップリンの発言は当時、とくに英国のマスコミによって徹底的に批判された。第二次世界大戦はそこまで来ていた」(参照文献:チャップリン暗殺 5・15事件で誰よりも狙われた男 大野裕之 メディアファクトリー)

(*1)これは日本側の関係者の証言であり、チャップリンの自伝によると歓迎会は「五月十六日」に予定されており、十五日は相撲に招待されていたとなっている。


2018 04/28 20:43:51 | none | Comment(0)
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