ミッドウェー海戦は山本五十六とスプルーアンスの戦いであったが、控えめに見てもこの二人の提督の能力と人間性には悲劇的なほどの差があった。ギャンブラー山本に対して、スプルーアンスは「冷静沈着でその決心はきわめて堅確であったが、よく部下の意見に耳を傾け、広く分散した部隊の状況を常に明確に把握し、しかも好機に際してはすかさずこれを利用した」 「戦争も終わりに近づいた頃、仲間の提督がスプルーアンス に対して指揮官は戦いに勝つためにいかにすべきかを決定するにあたり、賭けをしなくてはならないといったことがある。このときスプルーアンスは、もしそうだとすれば、彼だけはその例外の一人であると答えた」
「1944年末、スプルーアンスは真珠湾の日本兵捕虜の収容所の前を通りかかった。ここにはアメリカ本土へ移されるのを待っている捕虜の収容所があったのである。 彼は思わず捕虜収容所の鉄条網に近寄り、身振りを混じえながら簡単な英語で話しかけた。そして驚いている捕虜たちに、『君たち日本軍の戦闘ぶりは立派だ』と何度も何度もいうのであった。四つ星の肩章をつけた海軍大将が、敵に向かって熱心に話しかけている光景をみて、アメリカ人も日本人も驚きの目をみはった。 しかし、ムーアは少しも驚かなかった。彼はスプルーアンスに同行して病院へ、アメリカ軍および日本軍の負傷者の見舞いに行ったことがあった。このとき、スプルーアンスは戦いに傷つき、あるいは不具となった将兵に対し、敵味方の区別なく心から同情の気持ちを表したのであった。彼はアメリカ軍の負傷兵だけでなく、日本軍の負傷兵についても非常な思いやりを示したのである」、またスプルーアンスは子供の頃世話になった二人の叔母に対する経済援助をまだ経済的にあまり余裕のなかった少尉の頃から生涯に渡って継続した。顔色の変わるような強い寒気のなかに身をさらす事も厭わなかった。(参照文献ー提督・スプルーアンス トーマス・B・ブュエル著 小城正訳 読売新聞社)*「ムーア」はスプルーアンスの部下で参謀長)ーつまり、自分には厳しく、他人には優しい人間であった。
ミッドウェー海戦の時はスプルーアンスも参謀長のブラウニングも空母エンタープライズにあって、直接攻撃隊のパイロット達の意見を聞いて細かな作戦まで決定した。スプルーアンスは刻々と変化する敵味方の位置を記録する航跡図をどこへ行くにも手離したことがなかったそうである。 一方,山本五十六や黒島亀人等の幕僚は安全快適な戦艦大和に座乗して南雲機動部隊のはるか後方―全速力で駆けつけても9時間以上もかかる後方に位置していたばかりか山本五十六は海戦の最中に部下と将棋をしていた。 沖縄攻略戦の時もスプルーアンスは旗艦ニューメキシコに座乗して前線で指揮を執ったため、特攻機の体当たり攻撃を受けて死者50人、負傷者100名以上の被害が出たときもあった。(提督・スプルーアンス) また彼の上司であるニミッツは次のようにスプルーアンスを評価している。「スプルーアンスは素晴らしい判断力を持っていた。彼はあらゆる事を徹底して検討し、それをきわめて慎重に判断し、一度攻撃すると決定すると、徹底的に攻撃するタイプであった。スプルーアンスはグラント将軍のように、敵に向かってゆくタイプであり、私はそのような指揮官を必要としていた。彼は大胆であったが、無謀になることはなかった。彼はまた慎重であり、戦闘に対する勘を持っていた」(ミッドウェーの奇跡 下 ゴードン・W・プランゲ 原書房)
ミッドウェー海戦では空母の数においては日本が6隻に対して米国は3隻、戦艦は日本11隻に対して米は0巡洋艦は日本14、米国8、駆逐艦は日本52隻、米国15隻、潜水艦は日本16隻、米国20隻で航空機は日本372機対米国354機であった。 さらに帝国海軍連合艦隊は空前絶後の巨大戦艦大和と格闘戦の性能と航続距離においては当時世界一であった零戦を保有していた。それでも惨敗したのである。
松田千秋元少将は山本五十六を連合艦隊司令長官にしたのは間違いで「人事の失敗が、あのようなみじめな戦さにしたといってもいいでしょうね」と語っている(艦長たちの太平洋戦争 佐藤和正 光人社) 山本五十六は合理的な思考ではなくギャンブラーとしての勝負勘に基づいて作戦をたてて惨敗した。
当時の日米の主要なリーダーを比較するとその資質の差というか人間としてのレベルの甚だしい違いを痛感させられる。大人と子供くらいの差があったのではないか。 源田実のことを同期の柴田武雄大佐は「源田のように実戦に通用しない、人をたぶらかす魔力が強いだけで、実際的には弱い欠陥頭脳者が作戦を指導したので、勝てる戦に負けたのだ」とまで極言している。(日米海戦史 田村正三 図書出版社) 山本五十六を連合艦隊司令長官にした米内海軍大臣は「金魚大臣」とも言われていた。その意味は見かけは派手だが煮ても焼いても食えないということだそうである。 杉山元陸軍元帥は押した方に動くので「便所の戸」といわれていたそうである。 東条英機を著名な右翼学者の大川周明が「下駄」と評したのは有名な話である。下駄は足の下に履くには便利なものだが、頭に乗せて使用するものではない。東条が指導者として国民の上に立つ資格も能力もないという意味である。金魚や下駄や便所の戸でマッカーサーや、ニミッツ、スプルーアンスなどの超一流の将軍を相手にして勝てるはずがなかった。 東条は首相になってから食物の配給が庶民にちゃんと行き渡っているかを確認するために残飯を見て確認しようとゴミ箱の中を視察して回ったので「ゴミ箱宰相」とも言われた。尊敬の念を込めて言われていたとは思えない。元々役所の戸籍係が向いているといわれた程度の人物である。
「東条程度の人物のやれることは知れている。彼は、戦国乱世の中にのしあがった織田信長でもない。幕末の混乱に生き延びて明治政府を作り上げ、その独裁者になった大久保利通でもない。幼年学校、陸士、陸大と、鋳型にはめられてポンと押し出されたその他大勢の人間の一人である。 片寄った狭い知識しか持ち合わせていない軍部という封鎖社会で、派閥のたたき合いで多くの人が消え去ったあとに生き残り、少し頭が切れるとか、実行力がある、努力家である、まじめで謹厳である、とかが目立っただけで陸軍の最高位に出世していった・・・」(松岡英夫 東条英機論 より引用 一億人の昭和史 3 太平洋戦争 毎日新聞社)
昭和の帝国海軍では年功序列と情実および不合理な感情に基づく非科学的な人事が大勢を占めていたため、開戦時のハードウェアの点での優勢さを生かすことができなかった。 武器の性能に相当な差があっても、例えば戦闘機などの場合、パイロットの技術の差が大きければカバーできるそうである。 極端なたとえ話であるが、もし宮本武蔵をタイムマシンで呼び出して私と決闘すると仮定して、私が上野の国立博物館に秘蔵してある、おそらく時価一億円はくだらないと思われる源頼光が大江山で酒天童子を斬った刀剣との伝承がある国宝の「童子切安綱」を用い、武蔵はどこかの観光地のみやげ物屋で二千円くらいで売っている木刀で立ち会った場合、向き合って数秒後には私は武蔵の木刀で打ち殺されるだろう。いくら優れた武器を持っていてもそれを扱う人間がそれを生かせる能力を持っていなければ役に立たないということである。
山本五十六という人間について知れば知るほどあの時期に日本側によって暗殺されることは当然であったという私の考えは一貫して変わらない。 山本五十六に関係していた幾人かの高官達の証言を読むと何か隠しているという印象を私はぬぐえないのである。
一例を挙げれば海軍少将高木惣吉は東条政権末期に神重徳大佐、小園安名大佐、渡名喜守定大佐、矢牧章大佐、伏下哲夫主計中佐や後に高松宮宣仁親王や細川護貞なども加わった東条暗殺計画を立案した人物であるが、その著書「自伝的日本海軍始末記」のなかで「永野総長のごときは、山本元帥を殺した一事だけでも、引退謹慎すべき責任者である」と明記しているが、私にはこれが単なる比喩とは思えないのである。
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