通説にとらわれない新しい歴史解釈
 生きていた時代や、武将と剣客という違いはあっても信長と武蔵は「天下一」と評された点では共通していると言えるだろう。
しかしながらその最期はまことに対象的であった。
武蔵は六十ニ歳という年齢で当時としては天寿をまっとうしたといえるが、信長は家臣の明智光秀の裏切りにより本能寺において紅蓮の炎に包まれて五十歳で無念の死を遂げた。

 両者の明暗を分けたものは運もあるかもしれないが、それ以上に決定的だったものは「警戒能力」ともいうべきものの違いであろう。今日伝わる宮本武蔵の伝記からは武蔵の人並みはずれた用心深さが看取できる。

 巌流島で当時、西国一と噂された佐々木小次郎を倒した時も、武蔵は小次郎の刃渡り三尺一寸の備前長光に対抗するべく舟の櫂を削って作った四尺六寸の木刀を使用した。真剣の柄に相当する部分を考慮にいれても武蔵の木刀の方が五寸(約15センチ)ばかり長かったであろう。

 小次郎は武蔵が間違いなく自分の備前長光より長さにおいて勝るであろう木刀を肩に担いで現れたのを見た瞬間、自分の敗北を悟ったに違いない。
長刀を抜き放った小次郎が無意識のうちに放り捨てた鞘は波間に漂い小次郎から遠ざかって行った。
武蔵は小次郎の心中を見透かしたように笑みを浮べて「小次郎敗れたり、勝つつもりなら何ぞ鞘を捨てるか」とあざけるように言った。
焦った小次郎が真っ向から武蔵の頭部めがけてつばめ返しを浴びせ、武蔵の鉢巻を切り落とした備前長光の切っ先がそのまま反転して、下から武蔵の顔面を断ち割るより早く、「電光猶遅しと覚えける」と後に目撃者が記した武蔵の木刀の一撃を頭部に受け小次郎はたまらず砂浜に崩れ落ちた。

 武蔵が自分の備前長光より長い木刀を使用するかもしれないということを思いつかなかったことは小次郎の不覚であった。
もし小次郎が武蔵の木刀と同等もしくは三寸でも長い木刀を用意して、それを用いたならば小次郎にも十分勝機はあったであろう。

 武蔵は孫子の兵法にある「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」に忠実であった。敵に応じて最善の闘い方を工夫してそれを用いた。
ある時、武蔵の弟子の一人が縁側で休んでいる武蔵に試しに打ちかかったところ、武蔵は敷物の端を掴んで思い切り引っ張ったため、上に乗っていたその弟子は仰向けにひっくり返ってしまったそうである。つまり、何時どんな状態の時に襲われても対応できるように常日頃対策を考えて用心していたのだろう。信長にはこのような用心深さが欠けていた。

武蔵が晩年に霊巌洞という洞窟にこもって生活したのも仇と恨まれることの多い身でありながら病を得て身体の動きが十分でなくなったので用心のため、人里離れた場所で生活したのではないだろうか。

 結局、真の強者とは隙を作らない、むらの無い用心深さを備えていなくてはならないと言えるだろう。
2008 09/22 21:40:21 | none | Comment(0)
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