通説にとらわれない新しい歴史解釈
 吾妻鏡には多くの重要事項の記録が漏れていることは良く知られている。代表的なものは源頼朝の死に至る約3年間(建久七年一月)から頼朝が死の原因となったとも言われている落馬事件のあった建久九年12月までと翌年1月の頼朝の死の記録が抜けていることである。
 その原因については吾妻鏡を編纂した北条氏にとって都合の悪い部分は削除したのだろうとか、徳川家康が頼朝の名誉のために落馬事件の部分を抹消した吾妻鏡が後世に伝わったのだろうとか言われてきた。
 私も最初には存在した記録が途中で失われてしまったとしたら何とも残念なことだと思っていたが、現在では今日伝わっている吾妻鏡の欠落部分は最初から存在しなかったと確信している。その原因はおそらく火災による原資料の焼失であろう。当時はまだ耐火建築である土蔵が普及していなかったようで鎌倉は京都とともに度々大火の被害にあっている。
 例えば建久二年(1191年)三月四日には鎌倉に大火があり、幕府も罹災、鶴ヶ丘八幡宮はことごとく灰燼に帰し、重要人物の家屋数十軒が燃亡したとの記録がある。
 この時に本来ならば吾妻鏡編纂の資料となるべきものが大量に失われたことと推察できる。鎌倉滞在中の義経のエピソードがほとんどまったく伝わっていないのもこのような火災による記録の消失が原因ではないだろうか。
 他にも承元二年(1208年)正月十六日には門注所執事三善康信(母親の姉が頼朝の乳母)の家が燃亡し、「将軍家の御文籍、雑務文書、並びに散位倫兼日記以下累代の文書等を納め置き処、悉くもって灰燼と為す、善信これを聞き、愁嘆の余り落涙数行し心身網然と為す」
建仁元年三月十日「地震、若宮大路西側消失す」
承元元年(1207年)十月一日「夜、若宮大路の人家燃亡。猛火甚だしく延焼数町に及ぶ」
承元四年二月二十九日「和田義盛宅以南燃亡」
    十一月二十日「北条泰時邸および近隣の御家人宅等焼 失」
建保元年(1213年)五月「和田義盛挙兵、御所燃亡」
建保元年十二月一日「将軍家御所近辺燃亡、北条時房、大江広元等の邸燃亡」
建保二年十二月四日「由比の浜辺燃亡す、南風烈しきの間、若宮大路数町に及ぶ。その中間の人家皆もって罹災」
建保三年正月十一日「若宮の辻の人家燃亡す・・・酉戌両時の間、二十四余町ことごとく灰燼となる、安達景盛邸燃亡」
承久元年(1219年)一月七日「将軍家御所の近辺、広元邸以下四十余宇焼亡」
承久元年一月十五日「大倉の辺燃亡。北条時房の室の宿所以下数十宇焼く」
九月二十二日「大火、鎌倉中燃亡」
十二月二十四日「政子邸燃失」
承久二年(1220年)二月十六日「鎌倉大町以南燃亡」

失われた記録の中にはこの他にも火災の記録が存在したことだろう。
それにしてもこれらの火災により鎌倉幕府の貴重、かつ興味深い記録が永遠に失われて、我々が見ることができなくなってしまったことはやはり残念なことである。



 
2009 04/25 07:17:17 | none | Comment(0)
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