通説にとらわれない新しい歴史解釈
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 実朝の暗殺は謎に満ちている。葬儀の時点で首を発見できなかった為に替わりに毛髪を棺の中に入れたと伝えられているが神奈川県秦野市にある金剛寺と道を隔てた反対側を少し下った場所に実朝の首塚が当時から存在するのである。
 今日でも寂寥とした野原の片隅に五輪の石塔が少し小高くなった塚の上に安置されている。八百年前は今よりはるかに辺鄙な地であったことを思えばいかにひっそりと葬られたかということが良くわかるのである。
伝承によると三浦義村の家来の武常晴という若者が八幡宮の裏山で首を発見し、当地を支配し縁戚関係にあった波多野忠綱の元へ持参し、忠綱が実朝の三十三回忌に首塚を造営し供養したということである。
 常識的に考えておかしな話である。なぜ武常晴は首を発見した時に北条政子や義時、三浦義村などに知らせず忠綱の元へ持ち去ったのか。このような重大なことは当時十八歳の下級武士であった武常晴の独断でできるようなことではない。私は武常晴が公暁とほぼ同年齢の若者であったという事実に深い興味を覚える。
忠綱もなぜ血縁関係も無いのに実朝の首塚を造営し供養したのか。
 これらの疑問は波多野忠綱自身が実朝暗殺に深く関わっていたと仮定すると氷解する。恐らく実朝暗殺の実際の下手人は武常晴で実朝の首を暗殺現場から秦野の波多野忠綱の元へ持ち去ったのは忠綱に暗殺成功の証拠とするためであったろう。もし実朝暗殺が失敗して武常晴が生きて捕らえられたりしたら拷問によって黒幕の忠綱の存在が明らかになるのは避けられないので、忠綱も武常晴に暗殺が成功したら実朝の首を持参するようにと事前に言い含めてあったと思われる。
 実朝暗殺後武常晴は出家して実朝の菩提を弔ったが二年七ヵ月後僅か二十歳で早世する。法名は「虚目昌林」という意味ありげなものである。(参考文献 これが秦野だ 増田武夫 近代文藝社)
 
2008 01/25 15:41:12 | none | Comment(0)
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