通説にとらわれない新しい歴史解釈
 忠綱には実朝を暗殺する動機が客観的に観て存在した。建保元年(1213年)五月に和田義盛が乱を起こし御所に押し寄せた時、真っ先に駆けつけて防いだのが波多野忠綱であった。
 戦後の論功行賞の時に和田義盛の親戚で事前に協力を約束しながら裏切った三浦義村がどういうわけか強硬に先陣は自分であったと主張したため、忠綱と激しい言い争いになった。
目撃者の証言からも忠綱の先陣は明らかであったが、実朝の面前で義村を盲目と罵り、北条義時が「御主の言い分が正しい事は分かっているが義村は今度の戦勝の第一の功労者であるから今回は彼の顔を立ててくれないか」と説得しようとしても聞く耳を持たなかったため、義時を怒らせてしまい、結局何の恩賞も貰えないことになってしまった。
 先陣の功を無視された忠綱が三浦義村と北条義時に激しい怒りを抱いた事は間違いなく、同時にこのような理不尽な裁定を黙認した将軍実朝にも深い幻滅を抱いたことであろう。
 道理を曲げて側近のいいなりになるような将軍は有害であり不要ではないかと考えてもおかしくはない。忠綱も祖先を辿れば鎮守府将軍藤原秀郷に行き着く名門の出身である。北条義時の仕打ちは忠綱本人のみならず家名に対する侮辱とも受け取ったことであろう。

 当時から公暁は生き延びたという噂があり、その後、嘉禄二年(1226年)に陸奥の国で公暁禅師と称するものが謀反を起こし討伐されているが、それだけ当時から疑問の余地はあったのだろう。
公暁の首とされるものを見せられた泰時は「自分は過去に面会したことが無いので御本人であるかどうかは確認できない」と語ったことが吾妻鑑に記録されている。「承久記」によると公暁と間違えられて逮捕されたり、殺された者も少なくなかったようである。
 公暁の死に場所についても当時の記録では幾つかの異なった記述があり、三浦義村の屋敷で殺されたとか、逃げる途中、民家の家の者に打ち殺された、山中で餓死したなどとと伝えるものもある。これは公暁の死そのものが曖昧であったことの証拠ではないだろうか。

 目撃者によると実朝暗殺犯は頭巾を被っており、実朝に斬りかかりながら「親の仇はかく討つぞ」と叫び、義時と間違えて源仲章を斬り伏せ、拝殿への階段を駆け上がって段上から「我こそは八幡宮別当公暁なるぞ、親の仇を討ち取ったり」と叫んだ。
おかしな話である。何で自分の正体を大声で公言する人間が頭巾で顔を隠す必要があるのか。
暗殺現場から警護の武士たちが待機していた鳥居の外までは二百メートル位あるので、重い鎧を身に着けた武士達の追跡を振り切って暗殺者が闇に紛れて現場から逃げおおせる事が可能なことは最初から明らかであった。正体を隠したまま黙って逃げるのがいちばんよかったのである。三浦義村が黒幕で本当に公暁をそそのかして実朝を暗殺させたのだったらわざわざ名乗らせて正体を明らかにするような馬鹿な真似はさせなかっただろう。

 公暁にしてもそれまでに二人の兄弟が反北条氏の陰謀に巻き込まれて命を落としているので、実朝や義時を除けばすんなりと次期将軍の座が転がり込んでくると安易に考えるほど愚かではなかったであろう。
それどころか、祖母の政子を始めとする北条一族との関係が決定的に悪化し自分にとっても破滅的な結果をもたらすであろうことは十九歳の若者でも容易に推測できたはずである。
義時を殺しても後に名執権となった嫡子泰時は、事件当時37歳の壮年であったし、義時の弟の時房も存在したから義時一人を除けば揺らぐほど北条氏の基盤は脆弱ではなかったことも認識できたはずである。そもそも、北条氏を、殺された親や兄弟の仇とする公暁を北条氏が将軍の座に据えるはずがないことはちょっと考えればわかることである。

 実朝暗殺の容疑者として第一に義時があげられるのが普通であるが、暗殺犯は義時とまちがえて源仲章を殺しているので、つじつまが合わないという疑問が残る。
第二の容疑者としては公暁の乳母夫であった三浦義村があげられるが、これも実朝暗殺の第一報を受けた時、しばらく無言で落涙していたという。事前に事件を知っていたとしたら解せない態度である。また義村の妻が公暁の乳母だったので、当然赤子の時の公暁にも親しく接していただろうから公暁に対して父親に近い感情を持っていたと考えるのが自然であろう。
故に義村が公暁に対して破滅的行為をそそのかすようなことをしたとは考えづらい。故に二人とも波多野忠綱よりも実朝暗殺の動機は小さいと思われる。

実朝暗殺の背景-すなわち、忠綱が実朝暗殺を是とした根拠には御家人をはじめとする武士団の実朝に対する信頼の低下があっただろう。
例えば謀反の嫌疑で実朝が畠山重忠の末子重慶の逮捕を長沼宗政治に命じたところ宗政は実朝に無断で重慶を殺害してしまったので、使者を送って難詰したところ宗政は激しく実朝を非難した。「当代(実朝)は歌鞠をもって業となし武芸は廃るるに似たり。女性をもって宗(むね)となし、勇士これ無きがごとし。また没収の地は勲功の族(やから)に充てられず、多くをもって青女等に賜う・・・」
 東大寺の大仏を鋳造した陳和卿の言を信じて前世では宋の高僧であったから宋に渡ると言い出して大船を建造させたが結局進水させることができず、徒に由比ヶ浜に朽ち果てさせた。関東の武士団がこの実朝の将軍としての職務放棄とも思われる渡宋計画に唖然としたであろうことは想像に難くない。
 ひたすら官位昇進を望む実朝に北条義時等が諫言したこともあり、その度に朝廷に対して行われる謝礼等の費用も少なくなかったようで吾妻鏡にも「拝賀につき贈り物多し、皆御家人等に仰せ、毎日の経営、贈り物華美を尽くす。これしかし庶民の費えにあらずということなし。」と批判的に書かれている。
 実朝自身は本質的に武人というよりは文人であり、殺伐とした武家社会の棟梁であることに嫌気がさしていたことであろう。
将軍といっても北条氏に頭を押さえられた殆ど実権のない名目的な存在である。陳和卿の話による渡宋計画は将軍の座から逃げ出すのにはうってつけの話であったことであろう。
子供のできない実朝の後継者に皇族将軍、即ち後鳥羽上皇の皇子を迎え、源氏の血はその皇族将軍と故頼家の遺児である竹御前との婚姻によって存続させるという方針が決定した時点で実朝の存在価値の著しい低下は避けられなかったのではないだろうか。

 和田一族の滅亡後、実朝の身辺には深い憂愁と不穏な気配が漂っていた。
「建保元年八月十八日、子の剋、将軍家南面に出御、時に灯消え、人定まりて、悄然として音無し、只月色、蛬思(きょうし)心を傷むるばかりなり。御歌数首、御独吟有り、丑の刻に及びて、夢の如くして青女一人、前庭を走り通る、頻りに問はしめ給うと雖も、遂に以って名のらず、而して漸く門外に至るの程、俄かに光物有り、頗る松明の光の如し、宿直の者を以って、陰陽少允親職を召す、親職衣を倒(さかしま)にして奔参す、直ちに事の次第を仰せらる、よって勘へ申して云う、殊なる変に非ずと云々、然れども南庭において招魂祭を行はる・・・」(吾妻鏡)
月光や虫の音までもが悲痛に感じられるほどであるという後の実朝の悲劇的な運命を予感しているような悲愴な文である。
実朝には未来を予知する能力があったようである。和田合戦の一月ほど前に女房達を集めて酒宴を催したが、その時に門のあたりを徘徊していた山内政宣と筑後四郎を招き寄せ、杯を与えながら「汝等は近く、一人は私の味方として、もう一人は敵として命を落とすことになるだろう」と予言した。二人は怖れ慄いて貰った杯を懐中にして早々に退散したという。そして実朝の予言が正しかったことは一ヵ月後の和田合戦で実証された。体験したことが無いと信じられないかもしれないが、このような能力を持った人間は実際に存在するものであり、ごく普通の人でも遠くにいる肉親の死などの際に夢枕に立つなどで肉親の死を予見することはよくあることである。
「源氏の正統は自分で絶える」と断言した実朝は今後自分が嫡男に恵まれることは無いと考えていたというより、自分の生命が長くないことを予知していたのではないだろうか。


(参考文献:日本の歴史7 鎌倉幕府 中央公論社、史話 日本の歴史11 武者の祈り 作品社、 全訳 吾妻鏡 新人物往来社)


2008 01/25 16:17:28 | none | Comment(0)
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