腐女子の妄想と欲望に満ちた日常へようこそ。
※ネタバレアリなのでご注意。
 好きだとSHIROH〜言わないでよね〜♪

 それはジロー。



 さて、千秋楽を遥か過ぎても、未だにひきずっているSHIROHについて。
 本当にいまさらなのですが、なぜリオはキリシタンじゃないのにはらいそにいけたのか…というのを私なりに勝手に考えてみました。

 本当に今サラです。←黒のスリット入りロングドレスを着て書いているわけではありません。
 でも自分勝手に書き進めて行きたいと思います。自己満足です。

 まずお蜜が死ぬ場面から。
 「洗礼を…洗礼をしてくれないかい…」
 「じゃないとはらいそには…」
 感動の場面です!このシーンは涙なくしては見れません!
 …といいつつ、初日は涙出ませんでしたが…(閑話休題)
 
 このとき、天の御子であるシローが「マリア」という名前を与え、神父でなければできないはずの洗礼を行います。
 そして最後のシーンでは、お蜜は他のキリシタン達とともにはらいそに向かいます。
 …ということは、天の御子は洗礼を行えるという証明ですね!

 さて、ここで皆さんお気づきでしょうか。
 順番は多少違えど、リオもお蜜と同じ状況であったということを!!

 そう、リオは死んでからになってしまいますが、天の御子である四郎に、十字架の元で名前を授けられているではありませんか!

 つまり「ロザリオのリオ」というのが、あの少女の洗礼名として、彼女をキリシタンにしたのではないでしょうか。

 信仰については〜…シローやお蜜だって、デウスへの信仰を持っていたというより、「自分の居場所を求めて」とか「少年への尊敬および愛(?)」が元だと思いますから、リオの「天の御子である四郎への信仰」は十分キリシタンの資格になると思うわけです。

 が、この意見は友人には受け入れてもらえませんでした〜…
 _| ̄|○…イインダヒトリヨガリデモ

 とりあえず語ってみたかっただけです。
 あーすっきりした。
2005 02/28 01:46:14 | 演劇(新感線関連) | Comment(0)
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