思索に耽る苦行の軌跡
その古本屋は雪の馴染みの古本屋だった。少し強めに握られてゐた私の右手首から不意に雪は手を放し、雪にはお目当ての本の在り処が解ってゐたのだらう、私を古本屋の入り口に残したまま一目散に其方に向かって歩を進めたのであった。

その古本屋は東洋の思想、哲学、宗教、神話等々の専門の古本屋だった。

雪に取り残された私はその古本屋内の仏典の本棚に向かってゆるりゆるりと歩を進めたのであった。

私は唐三藏法師玄奘譯 (たうさんざうほふしげんじやううやく) の般若波羅蜜多心經(はんにやはらみったしんぎやう)がその時どうした訳か無性に読みたくなったのであった。

「觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不?不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛故。
說般若波羅蜜多咒即說咒曰
揭帝揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經」

訓み下し

「觀自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまへり。

舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなはちこれ空、空はこれすなはち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。

舎利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙(けいげ)なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)を得たまえり。故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち咒を説いて曰はく、

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶(ぎやてい ぎやてい はらぎやてい はらそうぎやてい ぼじそはか)

般若心經」

……くわんじざいぼさつ ぎやうじんはんにやはらみつたじ せうけんごうんかいくう どいちさいくやく……と、真言を頭蓋内で読誦(どくじゅ)しやうとしたが、「觀自在菩薩」の文字を見ると最早私の視線は「觀自在菩薩」から全く放れず「觀自在菩薩」の文字をなにゆゑかじっと凝視したままなのであった。

――觀自在菩薩……何て好い姿をした文字だ……くわんじざいぼさつ……音の響きも好い……何て美しい言葉だ……

不図気付くと私の目に張り付いてゐた業火が私の視界の隅に身を潜めてゐるではないか。目玉をぎょろりと出来得る限り回転させるとやっと視界の境に業火が見えるではないか。

――これも……《觀自在菩薩》……といふ文字の……御蔭か……

私はゆっくりと目を閉ぢ、瞼が完全に閉ぢられた瞬間に姿を現はす勾玉模様の光雲と業火を見つつ胸奥で何度も何度も……《觀自在菩薩》……と唱へたのであった。

暫くすると雪が私を見つけて私の右肩をぽんと叩くのであった。

――これ、どう ?

雪が私に見せたのは陰陽五行説の陰陽魚太極図であった。

――あなたの目には、今、勾玉が棲み付いてゐる筈よ。何故だかあなたのことが解ってしまふのよ。それに業火もね、うふっ。

雪が微笑んだ顔は何か不思議な力を秘めてゐるやうで、雪が微笑んだ瞬間辺りは一瞬にして《幸福》に包まれてしまったのであった。

――あなたには陰陽魚太極図の意味が解るわね。さう、《宇宙》よ。……わたし、哲学を、それも西洋哲学を専攻してゐるのだけども……西洋哲学の《論理》が今は虚しくてしやうがないの。……特に弁証法がね……虚しいのよ。……私の勝手な自己流の解釈だけれども……正反===>合が何だか自己充足の権化のやうな気がして気色悪いのよ。西洋の哲学者……特にヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日)が自己陶酔したNarcist(ナルシスト)に思へてしやうがないの……西洋哲学専攻者としては失格ね、うふっ。

君も知ってゐるやうに私は筆談するとき《つまり》と先づ書き出さないと筆が全く進まないのは知ってゐるね。この時もさうだったのさ。私は常時携帯してゐるB五版の雑記帳とPenを取り出して雪と筆談を始めたのであった。

*******つまり、ヘーゲルには、つまり、陰陽魚太極図の目玉模様が、つまり、陰中の陽と、つまり、陽中の陰が、つまり、無いんだよ。つまり、それで君は、つまり、William Blake(ヰリアム・ブレイク)を、つまり、読んでゐたんだね。

――さう……。

君にも教えておかう。雪は直感的に何故私が《つまり》を連発するのか解ったが、私の当時の思考は堂々巡りだったのさ。或る言葉を書き出すときその言葉を頭蓋内から取り出すには一度思考を頭蓋内で堂々巡りをさせないと駄目だったのだ。ストークスの定理は知ってゐるね。私の思考はストークスの定理を地で行ってゐたのさ。

*******つまり、キェルケゴールも、つまり、読むと善い。つまり、陰陽魚太極図は、つまり、その後でも、つまり、善い。つまり、僕が、つまり、さっき、つまり、「キルケゴール全集」を、つまり、買ったから、つまり、僕が、つまり、読んだら、つまり、君に、つまり、あげるよ。

――有難う。でも、借りるだけね、うふっ。

*******つまり、君は、つまり、知ってゐるかな、つまり、渦は、つまり、未だ数式では、つまり、物理数学的に、つまり、記述、つまり、出来ないことを ?

――えっ ! 知らないわ。さうなの……

(以降に続く)



2007 08/19 07:27:50 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
《人間は考えへる葦である》といふ箴言で人口に膾炙してゐるフランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家であるブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)が、晩年に、ある書物を構想しつつ書き綴った断片的なNoteを、彼の死後に編纂して刊行した遺著『パンセ』【筑摩書房:「世界文学全集11モンテーニュ パスカル集」(昭和四十五年十一月一日発行)より松浪 信三郎訳】から抜粋(一部私が改変)

 第六篇より

      三百四十六

 思考が人間の偉大をなす。

      三百四十七

 人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考へる葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしづくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すよりもいっそう高貴であるであらう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知ってをり、宇宙が人間の上に優越することを知ってゐるからである。宇宙はそれについては何も知らない。

 それゆゑ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆゑ、われわれはよく考へるやうにつとめやう。そこに道徳の根原がある。

      三百四十八

 考へる葦。――私が私の尊厳を求めるべきは、空間に関してではなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであらう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む。

      三百四十九

 霊魂の非物質性。――自己の情念を制御した哲学者たちよ、いかなる物質がそれをよく為しえたであらうか?

――以下略

さて、人体の構成を分子Levelで言へば《水》がほぼ七割を占めるので、パスカルの《人間は考へる葦である》を更に推し進め私流にすると《人間は考へる水である》となる。

つまり、《水》が生物の存在を許さなければ生物は此の世に存在出来ないのである。

ところで、《水》がその存在を『許容』しない物質は此の世に存在するのであらうか。つまり、《水》は全てを、《神》の如く、《受容》するのであらうか。

この問題の考察は次回以降に譲る。

閑話休題。

突然であるが、私は他人の、そして動物の死相が見える。「虫の知らせ」等といふ言葉があるので死相が見えることは別段不思議なことだとは考へてゐないが、しかし、他人の死相が見えてしまふことは何とも遣り切れないものである。経験則に過ぎないが、私に死相が見えてしまった人はどんな医学的な治療をしても三年以内には必ず死ぬのである。

先づ、眼光から《生気》が消えると言へば良いのか、死に行く人の眼光は異様に見えるのである……。

そして、他人の死相は死に行く星の様相とそっくりなのである。

例へば、「SN 1987A、即ち超新星1987A」、「エーターカリーナ星」、「エッグ星雲」、「リング星雲」等等と他人の死相は似てゐるのである……。

閑話休題。

星はその最後には星の中心核内にある全てのHelium(ヘリウム)を使ひ切り、次に何が起こるのかはその星の質量によって変はるのであるが、最も重い星、太陽質量の6〜8倍以上の質量を持つ星は、十分な圧力が核内にあるため、核融合で炭素原子を燃やし始め、炭素が無くなると超新星として爆発し中性子星やBlack hole(ブラックホール)が後に残る。軽い星は燃え尽きながら外層を噴き出して美しい惑星状星雲を作る。中心核は高温の白色矮星として残る。

星の死後残った中性子星やBlack holeや白色矮星は人で言へば『霊魂』である、と、私は考へてゐるが、つまり、パスカルと同じく『霊魂』は存在すると考へてゐるのである。といふのも人間の構成は宇宙の構成と原子Levelでは似てゐて『人体』を『宇宙』に喩へるのは極々一般的な考へ方であるからである。

第一章は序といふ事で更なる考察は次回以降に譲る。
2007 08/13 08:49:07 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
ここで話が横道に逸れる私の《死後の世界》について預言しておかう。

私が死して後、私のゐない此の世の様こそ私の《死後の世界》の様相を映してゐると考へておくれ。君や嘗ての雪、即ち攝願やSalonの仲間を初め、私のゐない此の世がまあまあ過し易ければ私は極楽浄土にゐるし、此の世が地獄の有様だとすれば私も地獄に堕ちたと思ってくれ給へ。私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》に外ならないのさ。

まあ、それはそれとして、私の死後、君達は、特に攝願、つまり俗名でいふところの雪は彼女が出家するまでに私が施した、例へば雪の為されるがまま私が何の抵抗もせずそれに無言で従ったことは、雪の「男」に対する憎しみやそれに伴ふ底知れぬ苦悩といふ雪の内部でばっくりと傷口の開いた《心の裂傷》を縫合しその傷に軟膏薬を塗布して治療する意図があってのことで、雪も癒された筈だが、といふのも幾ら《生きる屍》に成り下がったとはいへ、私も生物学的には「男」そのものだからね。

そして、雪は出家し攝願と為った訳だが、攝願が尼僧でゐる間は《禊の時間》に過ぎない。攝願の内部の《心の裂傷》が癒えその傷の《瘡蓋(かさぶた)》が剥がれ落ちると攝願の《禊の時間》は終はりを告げる。私も君もSalonの仲間も知ってゐる「男」に攝願は惚れ、攝願は何もかも捨ててその「男」の元へ身を寄せる筈だ。再び雪に戻るのさ。「男」は「男」で雪に逢った時からずっと惚れてゐた。そこで雪はその「男」の子を身ごもり「母」になる。雪の第一子は男の子で雪はその子に私の名を付ける。勿論、雪の「男」も大賛成さ。まあ、これ以上は話さない方がいいので黙って彼の世に持って行くよ。

さて、そこで君にお願ひがある。雪は寺を出た後、その罪悪感に悶絶する程苦悩し続けることになるが君は雪の良き理解者となって雪の「愚痴」の聞き役になってくれ給へ。お願いする。さうすることで君達に起こるであらう艱難辛苦も乗り越へられ私も浄土で安らげるといふものさ。重ね重ね宜しく頼むよ。

話を戻さう。

ところで、古本屋街を漫ろ歩きしてゐた私と雪との間には雪がぽつりぽつりと一方的に私に話す以外殆ど会話は無かった。

沈黙。Salonの仲間とは違った心地よさが雪との間の沈黙にはあったのだ。互ひが互ひを藁をも縋る思ひで「必要」としてゐたことははっきりとしてゐたので、多分、雪と私の間には――他人はそれを「宿命」とか「運命」とか呼ぶが――互ひに一瞥した瞬間に途轍もなく太い《絆》で結ばれてしまったのは確かだ……。

――ねえ、この古本屋さんに入りましょう

少し強めに雪に握られた右手首を通して雪の心の声が聞こえて来たのであった……

(以降に続く)

2007 08/12 06:13:47 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
****************************************************************

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ニュートリノ

ニュートリノ (Neutrino) は、素粒子のうちの中性レプトンの名称。中性微子とも書く。 ヴォルフガング・パウリが中性子のβ崩壊でエネルギー保存則が成り立つようにその存在仮説を提唱した。「ニュートリノ」の名はβ崩壊の研究を進めたエンリコ・フェルミが名づけた。フレデリック・ライネスらの実験によりその存在が証明された。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E)を参照

****************************************************************

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ニュートリノ振動

ニュートリノ振動(ニュートリノしんどう)は、ニュートリノが質量をもつことでニュートリノの種類(フレーバー)が変わる現象。スーパーカミオカンデが1998年に大気から降り注ぐニュートリノを観測することによって、この現象が実証された。現在日本では人工的にニュートリノを発生させスーパーカミオカンデで振動現象を観測する実験が行われている。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E%E6%8C%AF%E5%8B%95)を参照

****************************************************************

埴谷雄高・小川国夫『隠された無限 往復書簡〈終末〉の彼方に』【岩波書店:1988年10月28日 第一刷発行】より抜粋(第七信「非在とのっぺらほう 埴谷雄高」152〜153頁)

 宇宙内のすへての物体を透過するニュートリノは、ひたすら無限の空間と永劫の時間へ向って、飛びゆきつづけます。恐らく、ニュートリノに向かって、そうかな、と訊き質したら、そうさ、無限と永劫へ向って「実際」に自己を投げいれる現実的超越者なるものは、俺をおいてほかに何もいないさ、と、ニュートリノのなかの或る異端者、もしくは、或る愚昧者は得意げに答えるかもしれません。しかしまた、ニュートリノはいまだはっきりとは解明されていませんけれども、超微小な質量をもっていることですから、あらゆる物体を透過するとき――例えば、神岡鉱山の直径十五・六メートル、高さ十六メートルの円筒形の三千トンに及ぶ水をたたえた大水槽内部一面に取りつけられている光電子倍増管に、水中の素粒子と衝突したニュートリノが「光」を放つことによって確かめられた「数」を「十三秒内に十一個」と検出されたとき、この光の「数」こそは、絶望とも悲哀とも歓喜とも諦念とも放心ともつかぬ、「心の痛み」の悲痛な呻きの或る前駆症状を提示していると言えるのです。自由無碍に無限永劫へ向って飛びいっていると見えるニュートリノとても、かくのごとくして、つぎつぎと、その「質量」を失いつくした果て、無限永劫の何処か手前で、星の死から発足したニュートリノ自体の死に直面せざるを得なくなることになります。そしてそのとき、ファウストの「憂い」に似たところの或る種の薄暗い原言語が、死を前にしたニュートリノのこれまた薄暗い内部をさっと掠めゆく筈です。さらになお――無限永劫の手前でついに衰滅してしまったこのニュートリノの死骸は、宇宙の未知の蟻群によって何処かの薄暗い巣へ牽かれゆくことになるでしょう。

――略

****************************************************************

『物体』をほぼ全て透過してしまふNeutrino(ニュートリノ)の『孤独』の深さは多分底無しであらう。

『他』にぶち当たって『衝突』や『反射』しない『他』の存在しないNeutrinoの『自己認識』の術は、さて、何であらうか。果たしてNeutrinoは自己が此の世に存在してゐることを『認識』してゐるのであらうか……

――……吾、果たしてこの吾、此の世に《存在》してゐるの……か……

――お前は今、お前を《吾》と言ったが……お前が己を《吾》といふその存在根拠は何かな ?

――……《吾》たる根拠は……何も……無い……

――それではお前に尋ねるが……お前の仲間の極々少数の者が『素粒子』に打つかって微小な微小な仄かな蒼白き『光』を発光して『死んで』いくが……さて……その時以外お前が《吾》が《吾》であったと『自己認識』出来る瞬間は……無いのではないかな……するとだ、お前は『死』以外……己の存在を『認識』することが出来ない……此の世で最も『哀れ』な存在……

――否 !! Neutrino振動を知ってゐるな。《吾》は《吾》であるといふ『自同律の不快』によって《吾》は《吾》とは《異種》の《吾》に変容する……

――はっ。お前でさへ……《吾》なることを……《吾》なることの《底無しの苦悩》を知ってゐるとすると……『自己変容』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての此の世での慰めか……

――はっ、馬鹿が。『自己変容』 ? 何を甘っちょろいことをぬかしてをるか……『死』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての慰めさ、はっ。
2007 08/06 07:12:54 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
古本屋との遣り取りはいつも筆談だったので馴染みの古本屋の主人は多分今でも私のことを聾唖者だと思ってゐるに違ひない。それにそこの古本屋の主人は何かと私には親切でその日も「キルケゴール全集」を注文するとどれでも好きな本を一冊おまけしてくれるといふので私は、埴谷雄高の「死霊(しれい)」を凌駕するべく書き出したはいいが、書き出しの筆致の迷ひや逡巡等が取り繕ひもせずに直截的に書き記された現代小説の傑作の一つ、武田泰淳の「富士」の初版本を選んだのである。「富士」を読む時は私は何時もブラームスの「交響曲第1番 ハ短調 op.68」を聴く。どちらも作品を書き連ねることに対する迷ひや逡巡等がよく似てゐると思はないかい ? それに泰淳さんは盟友の椎名麟三が洗礼を受け基督者になった時、埴谷雄高が椎名を誹った事と純真無垢といふのか天衣無縫といふのか埴谷雄高曰く「女ムイシュキン公爵」たる泰淳夫人で著名な随筆家の百合子夫人に対する埴谷雄高の好意への多分「嫉妬」を死すまで根に持ってゐた節があるが、そこがまた武田泰淳の魅力でもある……

さて、雪はSalonの真似事が開かれてゐた喫茶店に着くまで終始私の右に並んで歩き、左手で私の右手首を少し強く握り締めたままであった。

馴染みの古本屋を出たとき、東の空には毒々しいほど赤々とした満月の月が地平から上り始めてゐたが、その満月の「赤」が私の目に張り付いた業火の色に似てゐたのである。

――成程……この業火の色は《西方浄土》の日輪の色を映したものか……

雪が私の右手首を少し強く握り締めてゐたのは多分理不尽な陵辱を受けた「男」に対する恐怖といふよりも

――今暫くは逝かないで

といふ私に対する切願が込められてゐたやうに私は確信してゐる。唯、私は女性に対しては「無頓着」なので雪のしたいやうにさせ、雪に為されるがまま夕闇の古本屋街を二人で漫ろ歩きを始めたのであった。

当然、私は伏目であった。雪は私の右手首を握ってで私を巧く「操縦」してくれたのである。雪は私を捕まへてないと何処か、つまり「彼の世」へ行ってしまふと直感的に感じてゐたのは間違ひない。

――今は未だ逝かないで……

(以降続く)
2007 08/05 07:52:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
四象若しくは四神の北を指す玄武の図柄は、特にキトラ古墳の石室に描かれた玄武の写真を見ると様様な妄想を掻き立てるのである。

一方で玄武に似た『象徴』にギリシアの自らの尾を噛んで『無限』を象徴するウロボロスの蛇があるが差し詰め現代社会を象徴する蛇を図案化すると自らの尾から自らを喰らひ始め、自滅を始めた『蛇』、つまり現代を考えるとき必ず人類の絶滅といふことが頭を過ぎってしまふのである。

閑話休題。

玄武――その『玄』の字から黒を表はすのは直ぐに想像出来る。黒から『夜』へと想像するのは余りに単純だが、思ふに玄武は『北の夜空』の象徴ではないのかと仮定出来る。

さて、キトラ古墳の玄武の蛇はウロボロスの蛇のやうに自らの尾を噛んではをらず、尾が鉤状になって蛇の首に絡んだ格好になってゐるが、これは正に北の夜空の星の運行を端的に表はし、現代風に言へば『円環』若しくはニーチェの『永劫回帰』すらをもそこには含んでゐるやうにも思ふ。日本の古代の人々は蛇が『脱皮』を繰り返すことから『不死』若しくは『永久(とは)』を表はし、また『龍』の化身、更には『水神』をも表はしてゐたらしいので、多分、北極星を象徴してゐるであらう『亀』と併せて考へると玄武は『脱皮』をしながら、つまり『諸行無常』といふ『異質』の概念を敢へて飲み込んだ『恒常普遍』といふ概念が既に考へ出されてゐたと仮定できるのである。更に何処の国の神話かは忘れてしまったが、世界を『支へる』ものとして『亀』が考へられてゐたことも含めると玄武は今もって『普遍』へとその妄想を掻き立てる現在も『生きてゐる』神である。

少なくともキトラ古墳の玄武は千数百年生き続けてゐたのは確かで、さて、現代社会で千年単位で物事が考へられてゐるかといふと皆無に近いといふのが実情ではないかと思ふ。

滅び――現代は『普遍』といふ概念がすっぽりと抜け落ちた『諸行無常』――それは中身が空っぽな概念に思ふ――を自明の事としてしか物事を考へない、つまり数にすれば圧倒的多数である『死者』とこれから生まれてくるであらう未出現の『未来人』の事は一切無視した現在『生存』してゐる人間の事しか考へない『狭量』な『諸行無常』といふ考へに支配された世界認識しか出来ないのではなからうか。

少なくとも千年は生き残る『もの』を現代社会は創造しないと人類の『恥』でしかないやうに思ふ今日この頃である。
2007 07/30 07:23:06 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
眩暈から何事もなかったやうにすっくと立ち上がった私を見て君と雪は初めて見詰め合って互ひに安堵感から不図笑顔が零れたが、その時の雪の横顔は……今更だが……美しかった。雪は何処となくグイド・レーニ作「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」の薄倖の美女を髣髴とさせるのだが、しかし、凛として鮮明な雪の横顔の輪郭は彼女が既に『吾が道ここに定まれり』といった強い意志を強烈に表はしてゐたのである。

―大丈夫?

と雪が声を掛けたが私は一度頷いた切り茜色の夕空をじっと凝視する外なかった……。

何故か――

君は多分解らなかっただらうが――後程雪には解ってゐたのが明らかになるが――私には或る異変が起きてゐたのだ。血の色の業火が目に張り付いたことは言ったが、もう一つ私の視界の周縁を勾玉模様の小さな光雲――これは微小な微小な光の粒が集まった意味で光雲と表現してゐるが――が、大概は一つ、時計回りにゆっくりと回ってゐることである。

人間の体は殆ど水分で出来てゐることと此処が北半球といふことを考慮すると時計回りの回転は上昇気流、つまり、私の視界から何かが――多分それは魂魄に違ひない――が放出し続けてゐることを意味してゐたのである……

勾玉模様の光雲が見えるのは大概は一つと言ったが、時にそれが二つであったり三つであったり四つであったりと日によって見える数が違ってゐた。それは私の想像だが、死者の魂と言ったらよいのか……星がその死を迎えるとき大爆発を起こして色色なものを外部に放出するが、人の死もまた星の死と同じで人が死の瞬間例へば魂魄は大爆発を起こし外部に発散する……。それが此の世に未だ『生きる屍』となって杭の如く存在する私をしてカルマン渦が発生し、それが私の視界の周縁に捉えられるのだ。だから多分、その光雲は一つは私の魂魄でその他は死んだばかりの死者の魂魄の欠片に違ひない……私はさう解釈してしまったのだ……

さて、君と雪と私はSalonの真似事が行はれる喫茶店に向け歩き出した。その途中に古本屋街を通らなければならないのだが、君は気を利かせてくれたのだらう、その日に限って古本屋には寄らず、私と雪を二人きりにしてくれたね。有難う。

私は先づ馴染みの古本屋で白水社版の「キルケゴール全集」全巻を注文しそれから雪とぶらぶらと古本屋を巡り始めたのだった。

(以降続く)
2007 07/29 05:31:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
*****************************************************************

広辞苑より

五蘊

(梵語skandha)現象界の存在の五種類。色(しき)・受・想・行(ぎゃう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質及び肉体、受は感覚・知覚、想は概念構成、行は意志・記憶など、識は純粋意識、蘊は集合体の意。

*****************************************************************

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より



場(ば、field、工学では界と訳される)とは、物理量を持つものの存在が別の場所にある他のものに影響を与えること、あるいはその影響を受けている状態にある空間のこと。

場では、座標および時間を指定すれば、(スカラー量、ベクトル量、テンソル量などの)ある一つの物理量が定まる。つまり、数学的には空間座標が独立変数となっているような関数として表現できることがその特徴である。 場に配置される物理量の種類により、スカラー場、およびベクトル場などに分類することができる。

*****************************************************************

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ストークスの定理

ベクトル解析におけるストークスの定理は、ベクトル場の回転を曲面上で面積分したものが、元のベクトル場を曲面の境界で線積分したものに一致することを述べたものである;







ここで S は積分範囲の面、C はその境界の曲線である。ストークスの定理を用いることで、電磁気学ではマクスウェルの方程式からアンペールの法則などを導くことができる。

*****************************************************************

頭蓋内といふものは考へれば考へる程不思議な時空間に思へてならない。

例へば何かを思考する時、私は脳自体を認識することなく『思考』する。これは摩訶不思議な現象であるやうに思へてならない。

さて、『脳』とは一体何なのか?

『脳』のみ蟹や海老等の甲殻類の如く頭蓋骨内にあり、手や足などの肉体とは違ひ、思考してゐる時、『脳』を意識したところで漠然と『脳』の何々野の辺りが活動してゐるかなとぐらゐしか解らず――それも脳科学者が言ってゐることの『知識』をなぞってゐるに過ぎないが――私には『脳』の活動と『思考』がはっきり言って全く結び付かないのである。これは困ったことで、『脳』の活動と『思考』することが理路整然と結び付かない限り何時まで経っても霊魂の問題は、つまりOccult(オカルト)は幾ら科学が発展しやうが消えることはなく、寧ろ科学が発展すればするほどOccultは衆人の間で『真実』として語られるに違ひないのである。

そこで上記に記したストークスの定理をHintに頭蓋内を『五蘊場』といふ物理学風な『場』と看做して何とか私の内部で『脳』の活動と『思考』を無理矢理結び付けやうとしなければ私は居心地が悪いのである。全くどうしやうもない性分である……。

例へば一本の銅線に電流が流れると銅線の周辺には電磁場が生じる。そこで脳細胞に微弱な電流が流れると『場』が発生すると仮定しその『場』を『五蘊場』と名付けると何となく頭蓋内が解ったかのやうな気になるから面白い。

『脳』が活動すると頭蓋内には『五蘊場』が発生する。それ故『人間』は『五蘊』の存在へと統合され何となく『心』自体へ触れたやうな気分になるから不思議である。

多分、『脳』とは『場』の発生装置で『脳自体』が『思考』するのではなく『脳』が活動することによって発生する『五蘊場』で『人間』は『思考』する。

さて、ここで妄想を膨らませると、世界とか宇宙とか呼ばれてゐる此の世を『神』の『脳』が活動することによって発生した『神』の『五蘊場』だとすると科学の『場』の概念と宗教が統一され、さて、『大大大大統一場の理論』が確立出来るのではないかと思へてくる……

――宇宙もまた『意識』を持つ存在だとすると……

――さう、宇宙もまた『夢』を見る……

――その『夢』と『現実』の乖離がこの宇宙を『未来』に向かせる原動力だとすると……

――『諸行無常』が此の世の摂理だ !!
2007 07/23 09:14:38 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
雪の目から恐怖の色がすうっと消えたと思った瞬間、私は眩暈に襲われたのだ。

――どさっ。

あの時、先づ、目の前の全てが真っ白な霧の中に消え入るやうに世界は白一色になり、私は腰が抜けたやうにその場に倒れたね。意識は終始はっきりしてゐた。君と雪が突然の出来事に驚いて私に駆け寄ったが、私は軽く左手を挙げて

――大丈夫

といふ合図を送ったので君と雪は私が回復するするまでその場で見守り続けてくれたが、あの時は私の身体に一切触れずにゐて見守ってくれて有難う。私が他人に身体を勝手に触られるのを一番嫌ってゐる事は君は知ってゐる筈だから………。

あの時の芝の青臭い匂ひと熊蝉の鳴き声は今でも忘れない。

私が眩暈で倒れた時に感覚が異常に研ぎ澄まされた感じは今思ひ返しても不思議だな……。私は私の身に何が起きてゐるのか明瞭過ぎるほどはっきりとあの時の事を憶えてゐるよ。

それでも眼前が、世界全体が、濃霧に包まれたやうに真っ白になったのは一瞬で、直ぐに深い深い漆黒の闇が世界を蔽ったのだ。つまり、最早私はその時外界は見えなくなってゐたのだ。

するとだ、漆黒の闇の中に金色(こんじき)の釈迦如来像が現はれるとともに深い深い漆黒の闇に蔽はれた私の視界の周縁に勾玉の形をした光雲が現はれ、左目は時計回りに、右目は反時計回りにその光雲がぐるぐると周り出したのだ。

そして、その金色の釈迦如来像がちらりと微笑むと不意と消え世界は一瞬にして透明の世界に変化(へんげ)した……。

その薄ら寒い透明な世界に目を凝らしてゐると突然業火が眼前に出現した。それは正に血の色をした業火だった。

その間中、例の光雲は視界の周縁をずっと廻り続けてゐたよ。

私が悟ったのはその時だ。自分の死をそれ以前は未だ何処となく他人事のやうに感じてもゐたのだらう、まだ己の死に対して覚悟は正直言って出来てゐなかった、が、私が渇望してゐた『死』が直ぐ其処まで来ているなんて……私はその時何とも名状しがたい『幸福』――未だ嘗て多分私は幸福を経験したことがないと思ふ――に包まれたのだ。

――くっくっくっ。

私は眩暈で芝の上にぶっ倒れてゐる間『幸福』に包まれて内心、哄笑してゐたのだ。

しかし、業火は私が眩暈から醒め立ち上がっても目の奥に張り付いて……今も見えてしまうのだ。

さう、時間にしてそれは一分位の事だったよね。私は不図眩暈から醒め何事もなかったかのやうに立ち上がったのは。君と雪は何だかほっとしたのか笑ってゐたね。その時君は初めて雪と目が合った筈だが、君の目には雪はどのやうに映ったんだい? 

私には雪はその時既に尼僧に見えたのだ……

(以降続く)
2007 07/22 06:03:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
******************************************************

例へば、関数



x = 0 で に発散し、定義されないので、このとき x = 0 は特異点であるといふ。

《出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)の特異点の項より》

******************************************************

さて、此の世の時空間に物理学上の特異点は存在しないのかと問はれれば、即、Black holeに存在するが『事象の地平面』で覆はれてゐるため一般的な物理法則の、例へば因果律などでは全く問題ないと教科書的には即答出来るが、しかし、ここで特異点なるものを夢想すると何やら面妖なる『存在』の、若しくは『物自体』の影絵の影絵のその尻尾が捉まへられさうでもある。

先づ、±∞から単純に連想されるものに合はせ鏡がある。

二枚の鏡を鏡に映す事で恰も無限に鏡が鏡の中に映ってゐるが如き幻影に囚はれるが、それは間違ひである。鏡の反射率と光の散乱から鏡の中の鏡は無限には映らないのは常識である。

だが、二枚の鏡をゆっくりと互ひに近づけて行き、最後に二枚の鏡をぴたっと合はせてしまふと、さて、二枚の鏡に映ってゐる闇の深さは『無限』ではないのではなからうか。

――眼前に『無限』の闇が出現したぜ。

眼前のぴたっと合はせられた二枚の鏡の薄い薄い時空間に『無限』の闇が出現する……

――其の名は何ぞ

――無限……

――無限? ふむ……。其に問う、『此の世に《無限》は存在するのか?』

――ふむ。存在してゐると貴君が思へば、吾、此の世に存在す。しかし、貴君が存在してゐないと思へば、吾、存在せず……

――すると、己次第といふことか……唯識の世界だな……

さて、瞼を閉ぢてみる。

――眼前の薄っぺらい瞼の影もまた『無限』の闇か……

すると、闇は闇自体既に『無限』といふことになる。

――光無き漆黒の闇の中には無数の『存在』が隠れてゐる……か……

さうである。闇は何物にも変幻自在に変容し吾の思ふが儘に闇はその姿を変へる。

――何たる事か ! !

――へっ。吾、闇は、水の如し……だぜ。

――するとだ、其はその薄っぺらい薄っぺらい闇自体に全存在を隠し持ってゐる、へっ、例へば創造主か……

――……

――神、其れは『闇』の異名か……、ちぇっ。

私は其の瞬間、眼前の二枚の鏡を床に擲ち、粉々に割れた鏡の欠片に映る世界の景色をじっと何時までも眺め続けたまま一歩も動けなかったのであった……
2007 07/16 06:22:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー