通説にとらわれない新しい歴史解釈

2010年 11月 の記事 (2件)

 今日でも日本国憲法は敗戦の結果として米国人が一週間ばかりで作り上げ、日本側に押し付けたものであると信じている人が多いようであるが、日本国憲法案作成に参画したB・シロタ女史は後年「米国の憲法よりも良い憲法を作ったのだから押し付けたとは言えない」と語っている。

 米国の憲法草案作成チームには憲法の専門家がいなかったとも指摘されることがあるが、それをいうのなら大日本帝国憲法を作成した伊藤博文や井上毅、伊藤巳代治も憲法学者ではなかった。政府の法律顧問であったドイツ人のロエスレルやアルバート・モッセの協力を得てプロシア(ドイツ)の憲法を参考にして作成されたものだ。

 日本国憲法草案作成の実態について草案作成チームの統括責任者であったケーディス民生局次長は日本の民間グループによって作成された多くの憲法草案を参考にしたことを次ぎのように認めている。
「日本側の試案は、新聞に公表されたものであれ、GHQに持ち込まれたものであれ、すべて参考にしました。ラウエル中佐が日本側試案を収集し、起草委員会が利用できるようにしてくれました。その中には、民間の研究団体の試案や政党の試案などもたくさんありました」(GHQの人びと 竹前栄治 明石書店)
だからあのような短期間で草案を作成できたのであり、実質的には日本側で作られた部分が殆んどで草案の作成というよりも編集に近いものだったのではないだろうか。そういう意味で現日本国憲法を純粋な米国製の憲法とするのは誤りであろう。
 大日本帝国憲法にしてもドイツの憲法を参考にして、ドイツ人の政府法律顧問の協力を得て作られたものであり、そもそも議会制民主主義の制度も欧米で作られたものを取り入れたものではないか。君が代だって編曲は外国人によって行われている。コンピューター、自動車やら、電話、映画、レコードなど米国人が発明したものの恩恵を散々享受しておきながら日本国憲法の草案を米国人が作ったのはけしからんと考えるのはおかしいのではないだろうか。恨むのだったら新時代に適合する憲法を作る能力のなかった政府の担当者や日本に敗戦をもたらした責任者を恨むべきであろう。

 改憲論者のなかには「今の憲法は米国が日本の復讐を恐れて日本を弱体化するために作ったものだ」という迷信がある。その根拠の代表的なものとして「第九条は侵略に対して無抵抗主義である」という主張があるが、これは100パーセント誤解である。日本国憲法の英訳版で九条の項をみると奇妙な事に気付く、他の条文がそうであるように通常、法律や契約文ではshall「〜するものとする」が使われるのにこの九条だけwill(意志未来で〜せんとする)になっているのである。wllは「確実な未来」を表す場合もあるが、九条の英訳では「意志未来」と解釈することも可能である。そもそも「国際紛争を解決するための手段として武力による威嚇や武力の行使はこれを永久に放棄する」の「紛争」も英訳ではdisputeであり、これは「争論(口論)」という意味であり「武力による争い」の意味ではない。よって九条が禁止しているのは「国と国との争論を解決するために武力を用いたり、武力をちらつかせて脅したりしてはいけない」ということである(松本国務相はdisputeを「争議」と訳しました)。
 例えばブッシュ政権とイラクのフセイン政権による大量破壊兵器の存在に関する争論で米国が武力によってこの問題を解決したが、あのような行為は日本においては日本国憲法九条に照らした場合憲法違反ということになる。
 九条の条文の日本側作成者である芦田均も日本国憲法が公布された日と同日に発行された著書の中で「九条は自衛戦争まで否定したものではない」と断言しているのである。確かに「マッカーサーノート」には「自己の安全の為の戦争も放棄する」となっていたが、これはケーディスが「現実的ではないと」上司のホイットニーやマッカーサーに確認もせずに独断で削除してしまった。その後もこの件は米側でも日本側でも問題にならなかったことを考えると、このアイディアの主唱者はマッカーサーでも幣原首相でもなく、ケーディスが暗示しているように皇室の周辺からでてきた可能性が強いと思われる。新憲法にも改憲条項があるし、将来軍隊が必要になったら改憲すれば良いという思惑だったのであろうか。

 米軍が戦争中、国際法を無視した無差別爆撃で日本の多くの民間人を惨殺した歴史は消しようがない。米国が将来の日本の復讐を恐れたというのは事実であろう。将来小型の原爆が発明され、日本が何らかの手段でそれを入手し、それを搭載した神風特攻機が米国を攻撃するかもしれないーという悪夢のシナリオは当然考えたことであろう。
だからこそ、米国は様々な方法―農地改革、財閥解体、治安維持法の廃止、言論の自由の保障等の民主化改革で日本人の生活を改善する必要があったと思われる。その根本となるものが民主主義的な新憲法の作成であったろう。

 ワシントンで三月七日に開かれる極東委員会の前になんとしても新憲法案を完成させて届けるためには東京を六日の朝に出発しなければならないため、どうしても前日の五日中に憲法を完成させる必要があった。日米双方の担当者の徹夜の作業によって五日午後四時ごろ新憲法草案は完成した。
ホイットニー准将の喜びようは尋常ではなく白洲次長、佐藤部長たち日本側の労を最大級の讃辞でねぎらった。おそらく、ホイットニー准将は日本側の誰よりもこの新憲法の価値と日米両国民にもたらす利益を確信していたのだろう。

2010 11/12 19:42:40 | none | Comment(0)
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 私が学生だった頃、ある一人の歴史の教諭から戦時中の思い出話を聞いたことがある。なんでも若い未婚の男女が一緒に歩っていると警官に咎められたので妹と一緒に外出するときなど後ろを離れて歩かせたそうである。
 またこの先生は若いころいわゆるアカ(共産主義者)として活動したことがあり、そのために警察に拘束され、留置所に入れられたことがあった。その時に近くから拷問で爪を引き剥がされている女性の凄い悲鳴が聞こえたそうで、取調べの刑事に「お前たちも気をつけないとあのような目に遭う」と脅かされたそうである。
私はこの話自体は長い間半信半疑だったのであるが、1929年(昭四年)ニ月八日の衆議院予算委員会で、山本宣治議員が警察で行われている様々な拷問ー足を縛って逆さまに天井からぶら下げたり、生爪をはがして苦痛を与えるというような拷問があることを暴露して政府を追及しているので実際そのような事実は存在したのだろう。事実、当時多くの政治犯(無実の者も含めて)が拷問により殺されたことは当時の記録が証明している。
山本宣治は「民衆を弾圧し戦争への道を開くものである」と治安維持法に反対したため、元警官の黒田保久ニに宿泊していた神田の旅館で刺殺された。犯人は逮捕されたが僅か六年程で釈放されてしまった。

 それにしても狂った時代であった。大学生が喫茶店や遊技場でブラブラしていると警官に拘束された。昭和十三年(1938年)二月十五日から三日間、「非常時局をわきまえず学業を放擲して不良行為に耽る学生を取り締まるべく」東京の学生街や盛り場で警視庁による『学生狩り』が行われ7373人が検挙されたという今日からみるとまるで嘘の様な実話がある。(証言・私の昭和史2 文春文庫)

「昭和15年(1940年)3月28日、内務省警保局は、映画、芸能、レコード会社代表を招いて芸能人の芸名で日本人らしくない名前をはじめ風紀にかかわるような芸名、皇室や英雄等の尊厳を傷つけるような芸名を粛正して欲しいと伝えた・・・・・内務省が”やり玉”にあげたのは、歌手のディック・ミネ、ミス・コロンビア、サワ・カッパのほかミス・ワカナ、尼リリス、星ヘルタ、エデ・カンタ、南里コンパル、エミ石河の横文字がらみの芸名から宝塚の御剣敏子、園御幸、椎乃宮匂子。映画の熱田みや子、吉野みゆき、藤原釜足ら、何やら皇室っぽい芸名にも当局は厳しく口を出した。
 御剣は皇位の印である三種の神器の一つである草薙の剣を指すと考えたのだろう。御幸は天皇のお出ましを指し、椎乃宮は皇族の宮とまぎらわしく、熱田みや子は熱田宮を連想させ、吉野みゆきは吉野御幸の平がな版、藤原釜足は藤原鎌足を悪ふざけをしてつけた、とでも考えたのだろうか。
 この時、粛名を迫られた一人に漫才師の平和ラッパがいた。翌年、太平洋戦争に突入するという時に、進軍ラッパならともかく、平和ラッパでは具合が悪かったのだろう・・・・・昭和16年(1941年)12月に入ると、芸能人の芸名使用が禁止となった。大河内伝次郎が大部勇、阪東妻三郎が田村伝吉と本名を名乗ることを要求された・・・・・
 敵性語追放はスポーツ、音楽、教育現場など庶民の生活の隅々にまでおよんだ・・・・・ベースボール界は敵性語の山である。昭和18年のシーズンからストライクは正球、ボールが悪球、ファールは擦球、バントは軽打、アウトは退け、あるいは無為、セーフがよし、あるいは安全、グローブは手袋となった・・・・・
 音楽の世界になるとレコードが音盤、ピアノが洋琴、アコーデオンが手風琴、バイオリンが携琴、ドラムは太鼓となった。音楽関係者によると、『サキソフォンは、金属製先曲音響発生器といった』というが、当時のコチコチの軍部指導者ならいいかねないことだ。ドレミファソラシドもいけないことになった。代わってハニホヘトイロハである。これは音感的にいっても、極めておかしな改悪であった・・・・・

 さらに外夷語追放は広がった。バスの車掌が使う『オーライ』は『発車』に、『バック』は『背背(ハイハイ)』になった・・・・・当局はネオンサインの洋風店名、商品名にも目を光らせた。何でも漢字にすればいいのだろうとばかり、人形の『マネキン』を『招金』と改称、さすがの警視庁を苦笑させた・・・・・マッチを燐寸、ガスを瓦斯と読ませた。バケツは馬尻などとへんなあて字をした・・・・・」(狂気の軌跡 伊藤一男 PMC出版)

作家の高見順も次のような役人の発言に驚かされている。

「敵の空襲で、損害だ損害だというが、頭の考え方をちょっと変えてみると、焼け跡から何万貫という銅が出てくる。銅山で必死の増産をやっても、おっつかない多量の銅が家の焼けた跡から出てくる。そうなると空襲はむしろありがたい。損害どころかすこぶるありがたい話なのだー栗原部長は昨日こういった。家を焼かれた国民はまことに気の毒だが・・・そういう一言が今出るか今出るかと待っていたが、絶対言わなかった・・・・・高見順日記七月二十七日ー内閣情報局主催の「国民士昂揚に関する啓発宣伝実施要領」で会員を集めた際の話(銃後 川島高峰 読売新聞社)

 また、日本のロケット開発の父である糸川英夫博士(戦時中に隼、鐘馗等の名戦闘機も設計した)は戦時中、軍部が「B29が来たら竹槍で落とすんだ」と言って竹槍訓練をさせたとき、「こんなもので落とせるはずがない」と言ったら、「お前は精神力がなっとらん」とものすごく怒られたそうである。(「日本が危ない」糸川英夫著 講談社)

 まことに小学生程度のおつむの持ち主によって政治が行われていたことが良く分かる。戦後、マッカーサーが「日本人は十二歳の子供だ」と評したのはまったく正しい。

 ジャーナリストの清沢洌は当時の政治の愚劣さを「暗黒日記」のなかで痛烈に批判している。
1942年12月9日
東京市では、お菓子の格付けをするというので、みな役人が集まって、有名菓子を食ったりしている・・・
役人がいかに暇であるか。総て役人本位だ。役人のために政治が行われている。
1943(昭和18年)
1月8日
ジャパン・タイムスをニッポン・タイムスに改名
1月13日
政府、情報協議会を設置す。従来、単にファナティックの集合なりし情報局が改組されるかどうか。今は第五等程度の頭脳が、憲法や法律を蹂躙してやっている。新しい時代に言論自由確保の必要。
(筆者註:「ファナティック」は「fanatic」で「狂信者」の意味
2月17日
ゴルフは今度打球というようになった。
「打球練成袋」とゴルフ・バッグをいったらどうかと皆で笑う。テニスの英語も、日本語にした。テニスを生かして言葉を日本語にす。小児病的な現代思想ここにもあり。
5月15日
アッツ島に敵軍が上陸すと新聞は伝う。いかに犠牲の多きことよ。かつてこの島を熱田島、キスカを鳴神島と命名し、大本営発表にもその名がある。しかも今はアッツ島と発表す。とられた時のことを考えての結果ならん。名前をかえることの好きな小児病の現実暴露だ。子供の知識所有者が政治をやっている。
7月13日
軽井沢のこの別荘に巡査が来て防空準備をしろと注意したそうだ。この山の中の一軒家に防空用意を強うるところに、巡査の画一的ーしたがってまた常識の欠乏を知ることができる。
7月31日
毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国において、かくの如く貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国際政治の重要なる時代にあって国際政治を知らず。全く世界の情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。
8月20
「日本の当局者の頭脳はインサニチーに近いものといった意味のことあり。いかにも鋭くうがっている如く感ぜざるを得ない・・・
(筆者註:「インサニチー」は「insanity」で「狂気、精神異常、精神病」の意味)
10月17日
明日で東条内閣二周年目を迎える。この内閣に対する批判は、後の歴史家がなそう。しかし、これくらい知識と見識に欠けた内閣は世界において類例がなかろう。
1944(昭和19年)
3月10日
世界においてかくの如き幼稚愚昧な指導者が国家の重大時機に、国家を率いたることありやー
4月15日
また閣議で配給機構が変わった。閣議というのは、切符や、魚の小売りのことばかり相談しているところらしい。とにかく、役人は外に用がないのと、また統制の面白さに図ばかりひいている。左翼全盛の頃からの流行だ。遺物だ。
昨日は帝国銀行と十五銀行、安田と昭和、第三を合併した。資本国営の前提だ。しかし三井と第一の合併も、まだシックリ行っておらず、弊害がかえって百出の有様だ。健全な統制のためには一応待って第二段階に進むべきではないか。ここにも「統制業者」の道楽がある。小汀利得は常にいう。役人という奴は、どうしたら国をつぶすことができるかと、そればかり苦労していると。奇警な言だが真理あり。
(筆者註:小汀利得は金解禁当時、これに反対した数少ない言論人の一人で当時は中外商業新報社経済部長、戦後日本経済新聞社顧問)
8月25日
軍部はまだ、最後には神風が吹き、戦争が大勝利を以て終わることを信じているそうだ。
1945(昭和20年)
1月30日
日本の国民は何も知らされていない。何故に戦争になったか。戦争で損害はいくらなのか、死傷はどうなのか。これを総合的に知っている者は日本において誰もなし。一部の官吏はある事は知っているが、他の事はしらないのである。今度の議会でも多少問題になったが相変わらず駄目だ」

二月二十日

中央公論の藤田親昌君が、一ヵ年の牢獄ー実は留置場から出てきたが、警官はむやみにぶん殴る。身体がはれあがる。ぶん殴ったあとで体操をやらせる。聞いただけでも熱血沸くものがある。日本には憲法もなければ、法治国家でもない。ギャングの国である。警察でどんなことをされても仕方がないそうだ。正木(旲)君がそういうのである。正木君は死ぬつもりで闘っているという。さもあろう。正木君は、また、東条前首相に対し、堂々と悪口ー正当な批評をした恐らくは唯一の人であろう。
(暗黒日記 清沢洌 岩波文庫)

 狂気の時代に終止符を打ったのは敗戦とGHQであり、日本国民は治安維持法等の悪法によりがんじがらめにされていたため、ついに自らの手で改革することはできなかった。


2010 11/08 21:02:25 | none | Comment(0)
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