通説にとらわれない新しい歴史解釈

2011年 04月 の記事 (5件)

 意外なことであるが民主主義では日本よりはるかに長い歴史を持つ米国の憲法には「主権在民」や「拷問の禁止」の規定がない。
これらのアイディアをGHQは元東大教授の高野岩三郎や憲法成立史研究家の鈴木安蔵ら六人のメンバーからなる憲法研究会によって作成されGHQに提出された「憲法草案要綱」から採り入れたことは明らかであるが、実はこれらの規定は明治時代に大日本国憲法が制定される以前に民間において盛んに作成された私擬憲法草案にその源を発しているのである。

「マッカーサーやホイットニーの指揮の下で、新憲法に採り入れられた諸原則の多くの概念に寄与した者は、十九世紀の民主的傾向を持つ指導者たちを引き継いだ日本のインテリたちだったのである」とケーディスは後年回顧している。(日本国憲法制定におけるアメリカの役割 竹前栄治ほか著『日本国憲法・検証 第一巻』 小学館文庫)

「今日発掘されている明治憲法以前の憲法構想は五十以上あり、そのほとんどが明治憲法よりデモクラティックなものであった。」
それらの中から憲法研究会のメンバーであり憲法成立史研究家の鈴木安蔵が取捨選択して「憲法草案要綱」に蘇らせたのである。鈴木は著作も十冊を超える憲法成立史研究の第一人者であった。鈴木安蔵は、民権期の憲法案二十余りを参考にして研究会案を作ったと述べている。

例えば明治の自由民権家の植木枝盛案での「日本国ノ最上権ハ日本全民ニ属ス」は「日本国ノ統治権ハ国民ヨリ発ス」(憲法研究会案)になり、これが日本国憲法では「主権は国民に存する」となっている。
第三十六条「公務員による拷問および残虐な刑罰はこれを絶対に禁止する」は研究会案では「国民ハ拷問ヲ加エラルルコトナシ」であり、その源は植木案清書本の第四十八条「日本人民ハ拷問ヲ加エラルコトナシ」である。

 憲法研究会の初会合は1945(昭和二十年)十一月五日、高野岩三郎、杉森孝次郎、森戸辰男、室伏高信、岩淵辰雄、鈴木安蔵、馬場恒吾で完成した草案に署名した。高野は元東大教授であり鈴木は憲法成立史研究者であった。
1945年十二月二十六日、できあがった憲法研究会最終完成案「憲法草案要綱」は、杉森孝次郎と室伏高信と鈴木安蔵によって首相官邸へ届けられ、さらにその帰途、もう一通が新聞記者室に発表された。
 GHQ民生局では、念には念を入れて平素使っている連合翻訳局(ATIS)での翻訳に着手することにした。政治顧問事務所(Polad)でも本格的に翻訳させることにした」

最高司令官附合衆国政治顧問ジョージ・アチソンはその草案を首相官邸から取り寄せ、その大要を政治顧問事務所で英訳させた。
アチソン政治顧問が、「憲法草案要綱」を知らせるために本国の国務長官に緊急の書簡を書いたのは、終戦の翌年、1946(昭和二十一)年が明けたばかりの、一月二日のことであった。
「著名な法律家、学者、政事評論家からなる私的な研究者集団である憲法研究会によって、1945年12月27日に幣原首相に提出された憲法の翻訳を同封することを名誉に存じます。(Hussey Papers Reel No.5)・・・」

アチソンは、日本国内で発表された「ある私的な研究者集団」の憲法改正草案が、第一条「日本国の統治権は日本国民より発す」をはじめ、きわめて注目すべき内容であることを報告している。彼は、「さらに重要なことに、最高統治機関は議会・国会に責任のある内閣となっており、天皇は儀礼的・形式的長官にすぎないと規定されている」と興奮気味に伝えている(Hussey Papers, Reel No.5 国立国会憲政資料)

憲法研究会案「1.日本国の統治権は日本国民より発す」
「2.天皇は国政を親らせす国政の一切の最高責任者は内閣とす」
「3、天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」の核心を、余さず受け継いで成立している。
憲法研究会案の国民主権の宣言規定、政治的権限を有しない天皇、儀礼的存在としての天皇規定は、」すでに見たように、自由民権期植木枝盛案・土佐立志社案に由来している。つまり日本国憲法は、その核心をなす国民主権の宣言規定、政治的権能を有しない天皇、象徴的存在としての天皇規定の起源を、民権期植木案と立志社案にもっていると言えるのだ。

日本国憲法は、アメリカによって輸入され、押し付けられた、日本人の思想と乖離した法典では決してない。むしろ、明治以来の日本の伝統的なデモクラシー思想が、日本と総司令部双方の努力によってついに結実したものと見るべきなのである。日本国憲法の核心部分は日本人が生み出したものである。このことを忘れてはならない。(P163)」
(参照文献 憲法「押しつけ」論の幻 小西豊治 講談社現代新書)

2011 04/29 13:21:16 | none | Comment(0)
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 日本側で作成した新憲法草案を全面的に否定されたばかりか、米側の作成した新憲法草案を突然突きつけられて呆然としている日本側代表団から白洲次郎は一人抜け出して太陽の光が燦々(さんさん)とふりそそぐ外務大臣官邸の庭で日本側が草案を読み終えるのを待っている米側一行に近づいて話しかけるとホイットニーは「おかまいなく、我々は原子力のエネルギーで暖をとっているところです。」と答えた。

 米側が原子爆弾を保有している有利さを示唆して威嚇するようなこの発言は暴言―控えめに言っても日本側の感情を著しく傷つける嫌味な表現であったとはいえるであろう。しかしながら、このホイットニー准将の発言は日本側代表団全員を前にして言ったことではなく、部屋の中に入りませんかという白洲の勧めに対する返事としてGHQ側にかなり嫌われていた白洲個人に対して発言されたものである。白洲が部屋の中へと誘わなかったら恐らくホイットニーの発言そのものもなかったであろう。あらかじめ用意していた言辞ではなかったことは間違いない。白洲次郎はGHQ側から嫌われていたので、ホイットニーもつい、嫌味をいってしまったというのが真相だろう。

 米側からみれば白洲次郎もしょせん守旧派の一人にすぎなかった。
白洲次郎がGHQ側も我々日本側も目指すところは同じであるが、性急な改革は日本に混乱を起こす恐れがあるという趣旨の手紙を出発点と目的地の間に幾つもの山が描かれ、目的地を目指すジープと飛行機の絵入りの手紙をホイットニー宛に送ったところ(ジープウェイレター)それに対するホイットニーの返事は以下のような説得力のあるものであった。
「日本の憲法の改革は、日本国民だけの関心事にとどまるものではなく、また日本国民と最高司令官の共通の関心事であるにすぎないものでもなく、連合国が日本に対する完全な支配を解除するためには、世界の世論が十分に満足されなければならないということを、理解していただかねばなりません。つまるところ、日本政府がこの問題に思い切った解決を与えるか、最高司令官が自ら措置をとるかしない限り、外部から日本に対して憲法が押しつけられる可能性がかなりあり、そうなった時の新しい憲法は、−あなたのお手紙では、十三日に私がお渡しした文書を「あまりにも急進的な」という言葉で形容しておられますがーそのような言葉でもこの憲法を言い表すことができないような厳しいものになり、お渡しした文書で最高司令官が保持できるよう取り計らっておられる伝統と機構さえも、洗い流してしまうようなものとなるでありましょう」
(参照文献 占領史録 第三巻 憲法制定経過 講談社)

 松本国務相を中心に作成された日本側の草案の内容は毎日新聞によってスクープされたが、大日本帝国憲法の焼き直しで新味が無く、国民の評判も芳しいものではなかった。2月にはGHQをコントロールするほどの権限を持つ連合国極東委員会が発足し、憲法問題に介入してくることは明らかであったため、それまでにどうしても新憲法を制定してしまう必要があった。
これが僅か1週間で草案を作成しなければならなかった理由である。だからといってやっつけ仕事でなかったことはその内容をみれば明らかである。

 よく改憲論者は米側が日本の憲法を作成したことは「占領地の法律を遵守する」ことを義務付けたハーグ条約に違反するものであると主張するが、実際のハーグ条約の条文は「やむをえない事情がある場合を除き」という但し書きがついているのである。
日本側で新時代に適応する内容の新憲法を作る能力が無かった、天皇制に批判的なソ連、中国、オーストラリア等の国が構成国に含まれる連合国極東委員会の発足が差し迫っていたーという当時の状況は、ハーグ条約で定められた「やむをえない事情」に相当するものであろう。



2011 04/19 19:18:57 | none | Comment(0)
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 ホイットニーは自分のヒューマニズムを日本国憲法の中に具現したいと思ったようである。
それが現日本国憲法の第九十七条の条文として残っている。
第九十七条「此の憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」ーこれはホイットニーの作成したものでその原文の和訳は「此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ、人類ノ多年ニ亘る自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ、此等ノ権利ハ過去幾多ノ試練ニ堪ヘ、現在及将来ノ国民ニ対シ永遠ニ神聖不可侵ノモノトシテ賦与セラル」で多少表現が異なっている箇所もあるが、実質的に同じ内容といえるだろう。
(参照文献 占領史録 第三巻 憲法制定経過 講談社)
 
 GHQ側は日本国憲法草案作成にあたってかなり日本側に配慮をしたことが窺える。例えば第十条の「日本国民たる要件は法律でこれを定める」などの重要な規定は大日本帝国憲法の第十八条「日本臣民タルノ要件ハ法律の定ムル所ニ依ル」をそのまま流用している。「臣民」が「国民」になっただけである。
 天皇の詔勅も否定されていないことは第九十八条の「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」で明らかである。

 終戦間もない1945年当時、日本と交戦した国々の世論は当然厳しいものがあった。ギャラップ調査によると米国では天皇を処刑せよという意見が33パーセント、終身禁固11パーセント、流刑は9パーセントを占めていた。
しかし米国政府は世論に抗する形で天皇制を存続させた。農地改革も実施して小作人に農地を開放した。残虐な拷問を行うことで知られていた特高警察も廃止した。
婦人参政権も実施したし言論の自由は大幅に回復された。スターリンが北海道を占領しようとした時も峻拒し、直ちに北海道各地に米軍を派遣して、ソ連軍の侵入を牽制した。

 米国が戦争中に国際法を無視した無差別爆撃により多くの無辜の民間人を殺戮したり戦後も自分たちのやったことを棚に上げて多くの日本軍将兵を戦争犯罪の名の下に処罰したことは事実であるが、それでも私は米国主導のもとに行われた日本民主化の功績は正当に評価するべきであると思うのである。それが公正な歴史の見方というものであろう。

 改憲論者は特に憲法前文の「われ等は平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの生存を確保しようと決意した」の部分が特に気に入らないようであるが、これは今日の日本の姿そのものではないか。これは別の言葉に言い換えれば今日、日本は国際的に孤立していては生存できないということである。これはあまりにも明白な現実である、すなわち、軍事的には米国に依存せざるを得ず、エネルギー面でも他国に依存しなくては経済的に破綻することは明らかである。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して生存」しているのが偽りの無い実態ではないだろうか。

 日露戦争だって戦費調達のための外債を引き受けてくれた金融家や日英同盟に基づいて日本攻撃に向かう途上のロシアのバルチック艦隊に石炭の供給をしなかった英国、軍艦を日本に譲ってくれたアルゼンチン等の行為がなかったら勝利は覚束なかったのではないか。勝ったといってもやっと満州からロシア軍を追い払ったに過ぎず、ロシア本土には一歩も踏み込んだわけではないのだから。


2011 04/17 08:29:45 | none | Comment(0)
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「嘘も百回繰り返せば真実になる」とはナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスの言ったことであるが、この大衆を欺くトリックは今日でも多用されており、その魔力がまったく色あせていないことは東日本大震災で決定的に崩壊した日本の原発の安全神話によって思い知らされることになった。

国の最高法規である日本国憲法についても驚くばかりの嘘、誤解が戦後六十年の間に蔓延し、未だに多くの国民が洗脳されている。九条は自衛戦争までも否定しているーなどはその代表的なものであろう。
九条はGHQ民生局次長のケーディス大佐と芦田均の合作であるが、芦田自身が第二項の冒頭に「前項の目的を達するため」を挿入する、いわゆる「芦田修正」によって将来的に自衛のための軍隊なら持つことができる余地を残したと明言しているにもかかわらず、当時の憲法作成に関与もしていなかった人間がー憲法学者であろうと、高名な評論家であろうと「そうじゃない」というのは理屈に合わないまったくおかしなことである。
確かに吉田茂首相が「太平洋戦争も自衛の名分の下に行われたものであり、第二項で戦力の不保持も規定されているので、事実上自衛のための戦争も禁止されている」旨の答弁を国会でしたことがあるが、これもその後、自衛戦争容認論に修正されている。そもそも首相が憲法条文の解釈を決定できるわけではない。

嘘に尾ひれがついて、GHQ側が外務省公邸で日本側の代表団に憲法草案を手渡した時に米軍の爆撃機が上空を旋回して威嚇していたなどという馬鹿馬鹿しい捏造話まで出てくる。
実際は爆撃機が上空を通過しただけであって、日本側で威嚇と感じたものは誰もいなかった。
ホイットニーは日本側代表団に次のように述べた。「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。

 これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えていたからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。さらに最高司令官は、これを受け容れることによって、日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くなるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられることになると考えております・・・マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の機会であると考えています。そしてそれは、あなた方が左に急旋回〔してこの案を受諾〕することによってのみ、なされうると考えています。そしてもしあなた方がこの憲法草案を受け容れるならば、最高司令官があなた方の立場を支持することを期待されてよいと考えております。この憲法草案が受け容れられることがあなた方が〔権力の座に〕生き残る期待をかけうるただ一つの道であるということ、さらに最高司令官が日本国民はこの憲法を選ぶかこの憲法の諸原則を包含していない他の形の憲法を選ぶかの自由を持つべきだと確信されていることについては、いくら強調しても強調しすぎることはありません。」

(参照文献 占領史録 第三巻 憲法制定経過 講談社)
2011 04/15 19:58:13 | none | Comment(0)
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 戦争が終わっても日本の苦難は続いた。「忘れもしない敗戦の年の秋であった。昭和二十年の十一月、もう中頃になっていたであろうか、肌寒い夕暮れどきであった。私は急ぎの用で、県庁の焼け跡を近道しようと、自転車をおしながら濠端の道をいそいでいた。「おい、きみ」小さい声で呼びとめる者がいる。ふり返ると松の木陰に一人の巡査が立っていた。「ここから先へ行ってはいかん、進駐軍がいる」と、押し殺した声でいう。この年の夏、決戦を叫ぶ青年たちによって焼き打ちされた島根県庁の焼け跡は、瓦礫の山で、まだ片づけられていない。焼けただれた築地松のすき間から、アメリカ兵の帽子が二つ見える。かすかに女の悲鳴が聞こえる。女が強姦されている。「あんたは警官じゃないか、なぜ救わないんだ」私は噛みつくように叫んだ。巡査の顔は醜くゆがんだ。つぶやくように答えた。「奴らはピストルを持っている。殺されても殺され損だ、とにかく日本は負けたんだ」わたしは血が逆流するような憤怒に、わななく足をふみしめたが、私も前に進めなかった。わずか半年前の名古屋では、連日B29の猛爆にさらされながら、少しも命が惜しいとは思わなかったのに、敗けたとたんに臆病風におそわれたのか、私はすごすごと引き返さざるを得なかった。止め度もなく流れる涙をふきもしないで、私はむやみに自転車のペダルを踏んだ・・・・・この夕暮れ時の白昼夢のような出来事は、戦争に敗れた国の、国に見捨てられた国民の悲惨な運命を、冷厳な事実をもって私は体験させられた。
娘か人妻か知らないが、彼女も恐らく三ヶ月前までは「鬼畜米英」を叫んで、勇ましく竹槍訓練をしたけなげな女性の一人であったろうに、白昼堂々とかつての敵国の兵士に輪姦されている。それを国民を保護すべき警官が、人を近づけないように(殺気だった兵士に殺傷されないように)、護衛している姿は、全くやり場のない憤激となって、私の体内にくすぶりつづけた。
それから四、五年たった年の暮、シベリアに抑留されて、骨と皮ばかりにやせ衰えて帰還した友人を見舞い、話のついでに私はこの痛恨の思い出を物語った。
「それくらいはまだ序の口だよ。満州ではひどかったね。ソ連の軍隊というのは、あれは文明国の軍隊じゃないね。ひどいボロボロの軍服を着て、時計でも万年筆でもとにかく手あたり次第に強奪する。その上、女は見つけ次第に強姦するんだ。
私の知っている例でも、十七、八の娘が父母の面前でソ連の兵士に輪姦される。ついでにその母親も犯される。娘はとうとう気が狂って二、三日後、その一家は一家心中した。敗戦後の満州ではいたる所で、こんな悲劇が無数に起こったらしい。男子は全部シベリアで強制労働だ。飢えと寒さで三分の一は死んだと思う・・・・・」P7 (二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房)

「マッカーサー元帥が海岸通りの、ホテル・ニューグランドに入るのは、1945年8月30日の夕刻であるが、この日、早くも青木橋の上の台町で、アメリカ兵によって若い女性が拉致される事件が起こっている。その後、横浜では次々に拉致・強姦事件が起き、日本側の抗議によって、第八軍のアイケルバーガー中将が、簡易裁判法廷を開き、婦女暴行について厳しくのぞむことを決定する。ちなみに、神奈川県公安課の調べでは、八月は、強姦三件、強盗四十六件、九月になると殺人二件、強姦二十五件、強盗六百二十一件とある」
(昭和二十年の青空 赤塚行男 有鱗堂)

 もちろん、その後も米兵による犯罪は続いたのであるが、それでも米国がソ連の進駐を拒否してくれたことは日本にとって幸運だった。ソ連軍が進駐していたらこれに数倍する被害が発生していたことだろうことは満州におけるソ連兵の日本人に対する暴状をみても明らかである。
 人数が多くなるとその中にどうしても何パーセントかの割合で犯罪者的素質をもった人間が紛れ込んでしまうのは防げないそうである。日本の警察官のなかにも過去に現職の警察官が強姦殺人や銀行強盗の犯罪を犯した者がいることをみればそれが事実であることがわかる。

 GHQ参謀長ミューラーは部下に「日本人には抑圧者としてではなく解放者として振舞え」と訓示していたそうであるが、理想と現実が食い違ってしまうことはよくあることである。
 駐留軍の経費が国家予算の三分の一を占めるほど膨大であったため日本政府の苦労も大変なものがあり、目にあまる贅沢には控えてもらいたいと申し入れたこともあったようである。吉田茂首相もGHQ(連合国総司令部)のことを”Go Home Quickly!(とっとと出てけ!)”だと皮肉ったこともあったが、一方では
「敗戦日本の占領が、主としてアメリカ軍によって行われたこと、そしてその最高指揮官がマッカーサー元帥であったことが、如何に日本にとって幸運であったかということである。この幸運は、日本人として永く忘れてはならぬことと確信する次第である」吉田茂 回想十年 新潮社/袖井林二郎・福島鑄郎 日本放送出版協会)とマッカーサー個人のことは高く評価している。

「私が平和の促進に貢献したと、一世紀後に仮に一行でも書いてもらえるなら、私は戦争で与えられたすべての名誉を喜んで放棄するであろう」とマッカーサーは語った。
将来の歴史家が彼について「ほんの一言でも触れておく」価値ありと判断するとしたならば、それは軍の指揮官としてではなく、正義と平和のために真の基礎となるものを作り出すと決意した一人の人間としてであってほしいと望んでいた。(サタデー・レビュー誌 1964年5月2日号/ 袖井林二郎・福島鑄郎 日本放送出版協会)―これはマッカーサの本心であったに違いない。
2011 04/05 19:49:08 | none | Comment(0)
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