通説にとらわれない新しい歴史解釈

2011年 01月 の記事 (1件)

 戦争は若者から青春と未来を奪う。東京オリンピックの開会式が行われた神宮外苑国立競技場と同じ場所でその二十年前の昭和十八年十月に出陣学徒壮行会が行われた。学生に対する徴兵猶予が廃止されてから最初の出陣であった。

 東条首相や送る側の学生代表の壮行の辞に対して東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎が出陣学徒を代表して烈々たる音声で答辞を述べた。
「生等今や見敵必殺の銃剣を捧げ、積年忍苦の精進研鑽を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん、生等もとより生還を期せず、在学学徒生諸兄、亦遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず、斯くのごときは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行ずる信条なり、生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を奮励し、強靭なる体躯を堅持して決戦場裡に突進し、誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位のご期待に背かざらんとす・・・」

 ただこの答辞のなかで「生等(せいら)もとより生還を期せず」と悲壮な覚悟を述べた江橋氏は戦後まで生き残って大学教授になったが、本人が貝のように口を閉ざしているためどこの戦場に赴任して勇戦したかは詳(つまび)らかではない。あんまり詳しく聞こうとすると「私もいつまでも出陣学徒じゃないんだ」と機嫌が悪くなるらしいです。
 次々とグラウンドから列をなして門外へ去って行く出陣学徒たちにスタンドにいた女子学生たちは泣きながら走り寄って行った。
 その中の一人であった、歴史作家の杉本苑子さんは次のように回想している。
「昭和三十九年十月十日、神宮外苑国立競技場で、東京オリンピックの開会式が開かれた。
スタンドで開会式を観た作家の杉本苑子さんがこんなふうに書いている。
「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグランドに立って見送ったのである。場内のもようはまったく変わったが、トラックの大きさは変わらない。位置も二十年前と同じだという。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった。天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスのあたりには、東条英機首相が立って、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した・・・
 暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみであった。私たちは泣きながら征く人々の行進に添って走った。髪も体もぬれていたが、寒さは感じなかった。おさない、純な感動に燃えきっていたのである。
オリンピックの開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で、世界九十四カ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった。夢ではなく、だが、オリンピックは目の前にある。そして、二十年前の雨の日の記憶もまた、幻でも夢でもない現実として、私たちの中に刻まれているのだ。
 きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られた今日が、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだー」(『東京オリンピック』講談社)



 太平洋戦争における日本人将兵の死者は230万人(他に一般民間人の死者は80万人)でその過半数である140万人は餓死と病死であった。兵站(補給能力)を軽視して攻勢終末点を超えて戦線を拡大した愚かな将軍たちの犠牲者である。その典型的な例は後に「餓(ガ)島」と呼ばれたガダルカナル島の攻防戦で、オーストラリアを米英軍から遮断する目的で海軍はここに飛行場を設営したが、日本側が戦闘機を配置するまでの間隙をついて、完成と同時に突如二万人の米軍が六十隻の護衛艦船を伴った三十隻の輸送船で上陸してきた。当時ガダルカナル島の日本側兵力は設営隊二千の他には海軍陸戦隊二百四十人のみの兵力であったため、あっけなく完成したばかりの飛行場を米軍に提供することになってしまった。
この飛行場を奪い返すために日本軍は三万四千人の将兵を兵法の鉄則に背いて逐次投入したが、結果として二万名が戦死しそのうちの一万一千人が栄養失調などによる戦病死であった。あるアメリカの歴史家はこれを「信じ得べからざる人命の浪費」と評した。軍部はガダルカナル島の奪還を不可能であることを認めると国民には「転進」と称して残存兵力一万二千名を撤退させた。その中の生き残りの一人である高崎伝元上等兵は「腹が減ってはいくさにはならんとはよくいいますが、日本の最高幹部は、腹が減るどころか兵隊を飢えさせてまで戦争をやらせたわけですよ。日本の兵隊はアメリカ軍に負けたんじゃなくて、日本の最高幹部に負けたから死んだんだと思いますね」と述懐している。(参照文献:証言・私の昭和史  テレビ東京編 文春文庫)

 本来、当然のことながら国家の政府、特に軍部は国家と国民を保護する役目をになっているはずであるが、太平洋戦争における日本の政府と軍部はこれと逆の事をしたように私は思わざるを得ないのである。結果から見る限り、どうひいき目に見ても総体的にみた当時の政府と軍部は国家のリーダーとしては落第点しか付けられない。

 現日本国憲法においては主権者は「国民」である。この点についてはGHQ側は頑として譲らなかった。これによって国民の総意に反する(承認しない)戦争は違法という法的根拠が与えられたのである。具体的には九条第二項の「国の交戦権はこれを認めない」という規定である。
 こんにち日本が抱える問題の多くは現憲法の欠陥に基づくというより、憲法上の主権者である国民の良識が政治に十分に反映されていないことに起因すると私は思うのである。
2011 01/21 18:54:34 | none | Comment(2)
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