通説にとらわれない新しい歴史解釈

2009年 07月 の記事 (4件)

 当時の政党政治が今と違って(?)信頼されていなかったことは今日我々が想像する以上のものがあったようである。非常にリベラルな思想の持ち主であった東大工学部教授の冨塚清や市川房江がメンバーであった「言論報国会」においてさえ日本を保つための必要条件の中に『政党を作ることは禁止』が掲げられた(他に天皇親政の実行、軍需生産を国営とする、陸海軍を一体とする、言論の暢達)ほどである(「ある科学者の戦中日記」冨塚清著 中公新書)

大川周明も宇垣一成に宛てた手紙の中で「既成政党の徹底して信を天下に失い、国民口々に議会政治を呪詛するに至れり」と書き送っている。(宇垣一成 悲運の将軍  棟田博著 光人社)

 軍人勅諭で禁止されていた軍人の政治への介入の道筋は十分にできていたのである。
 昭和九年十月十日、統制派の永田軍務局長と林陸相の決裁を得て、陸軍省新聞班は「戦いは創造の父、文化の母である」という書き出しで始まる「国防の本義とその強化への提唱」というパンフレットを発行し、高度な戦時体制を構築するために国民を洗脳しようとした。
 しかし、特に戦争の犠牲者からみれば「戦争は創造の父であり、文化の母である」というような言い草は怒りの対象となって当然であろう。美濃部達吉博士が「好戦的である」と批判したのももっともなことである。

この永田と対支戦略を巡って対立したのが皇道派の重鎮小畑敏四郎中将であったが、小畑の薫陶を受けた一人、三吉義隆元大佐は小畑の戦略を次のように要約している。(須山幸雄『作戦の鬼 小畑敏四郎』/日本陸海軍名将 名参謀総覧 別冊歴史読本 新人物往来社)

「昭和初期のわが国の仮想敵国は唯一つ、それはソ連、戦場は満州、作戦方式は内線作戦、つまり侵略した敵に対して中心的位置から放射線的に作戦行動して撃破する。
わが方からは絶対にシベリアに侵攻しない。その要領は一言で言えば、速戦即決で、機動力を使い、大兵力を集結して包囲懺滅する。つまり、皆殺し作戦だ。こうすればソ連は一度で懲りて二度と侵そうとはしないだろう。もちろんわが国からソ連に戦争をしかける意図は毛頭ない。しかし、ソ連の軍備は日を追うて激増しつつある現状からして、ソ連の準備がまだ充分でない時、討つとすれば早い方がよいに決まっている。しかし、わが国から戦争をしかけるのは得策ではない。まず満州での作戦を有利に遂行できるよう整備は急がねばならぬ。
このためには支那を味方にし、友邦国として手をつなぐことが絶対の前提条件である。
いま内乱続きだからと支那に手をだせば、支那に利権を有する英米ニ大国を刺激し、悪くすればこのニ大国とは敵対関係になる。これはわが国としては最も戒めなければならぬ点だ」、小畑敏四郎中将は二・二六事件の青年将校達が崇拝していた荒木貞夫大将に信頼され、かつ重用されていた人物なので、小畑中将の対支、対ソ戦略はそのまま青年将校たちのそれと一致していたとみて間違いはないだろう。

 谷田勇元陸軍中将は次のように語っている「2・26事件後、若干名なりとも和親を以って中国を包容せんとする皇道派将官、又はその同調者が省部に残留し、支那事変勃発に際し、石原少将の如き不拡大主義者が陸軍を支配していたなれば、支那事変は短月日に片が付き、従って太平洋戦争も回避し得たのではないかと著者は思うものである。しかしながら時の流れは人力では如何ともなしえなかったかもしれない。(「龍虎の争い 日本陸軍派閥抗争史」 紀尾井書房)

 では、もし2・26事件を引き起こした青年将校に代表される皇道派が陸軍から統制派を駆逐し天下を取ったら、5年後の日米開戦は避けられたであろうか? 私は極めて困難というか限りなく不可能に近かったと思う。その理由はルーズベルト政権がヨーロッパの戦争に介入するきっかけとして日本との戦争を望んでいたからである。しかし、それでも当時の軍部や政府、官僚、民間人の優秀な人材の英知をルーズベルトの罠に陥らないようにすることと、石油を確保することに結集することができたなら、米英との戦争を回避することは0パーセントであったとは思えない。例えば、油田地帯にだけ侵攻して相場より10パーセントほど高い価格で石油を強制的に購入するようにしたら、少なくとも世界の世論を敵に回すことは避けられたのではないだろうか。

 「1939年(昭和14年)9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって第二次大戦が始まったが、英も仏も、ポーランドの支援はしても、ヒットラーとの戦争には消極的であった。ルーズベルトはヒットラーやムッソリーニを激昂させるような要求をする一方、英・仏・ポーランドに対しては『ポーランドが攻撃された場合、ポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英・仏を援助しない。英・仏が即時対独宣戦布告すれば、英・仏はアメリカから一切の援助を期待しうる』と英・仏・ポーランドを対独戦へと威圧し、煽動脅迫を加えた。ヒットラーはもちろん、英・仏と戦うことを望まず、目指すものはあくまでもソ連であった。英・仏もまたドイツに宣戦することを欲していなかった。イギリスにしてもフランスにしても、ルーズベルトから絶え間なくつつかれることがなかったら、ポーランドのために宣戦することはなかった。チェンバレンは『イギリスに戦争を強いたのは、アメリカと世界のユダヤ人であった』と言ったということである」(アメリカ謀略秘史 上村健二著 泰流社)

 「当時ルーズベルト大統領の財務長官には、ヘンリー・モーゲンソーが就任していた。またモーゲンソーを支えていた財務次官にはハリー・デクスターホワイトがその任にあたっていた。この両者に共通しているところは、ルーズベルト大統領をして、なんとしても日米開戦に誘導していきたいという点である。
 モーゲンソーはユダヤ人である。ナチス・ドイツの勢力圏内においては、大量のユダヤ人達が迫害にあっていた。これを解決するのはイギリス一国では、とうてい不可能なことであった。
 アメリカがドイツと戦争でもしないかぎり、問題は解決しない。だが、当時、イギリスのチャーチルがいかにルーズベルトを対独戦に参戦するようにうながしても、大統領の意思とは別に、アメリカ国民が納得する状態にはなっていなかった。
 残る方法はただ一つ、日独伊三国同盟を利用することである。
日本を挑発して日米開戦に持っていけば、ドイツは三国同盟の立場からアメリカと戦端を開くかも知れない・・・」
(日米開戦の真実  新井喜美夫著 講談社新書)
 「1940年頃のアメリカに『イギリスを助けてヨーロッパの戦争に参加しょう』と考える人は非常に少数だった。1920年代のアメリカには『第一次世界大戦時の反ドイツ・プロパガンダが行き過ぎだった』との反省から親ドイツ感情が戻ってきていたし、30年代には、議会の調査などで『アメリカの大企業やイギリスが自分たちの利益のためにアメリカを戦争に引き込んだ』との議論が盛んになされたこともあり、アメリカ国民はヨーロッパの戦争に関わることに極端に警戒心を持つようになっていた」
(アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか  菅原出 草思社)

 史上初めて大西洋を航空機による無着陸単独横断に成功した空の英雄リンドバーグも「アメリカを戦争に引き込もうとしている勢力が3つある。それはイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権だ」と激しく非難した。(前傾書)

 一方、日本側にも日本を戦争に引きずり込むことを画策していたグループが存在した。

「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯」で始まる敗戦の年昭和二十年二月の昭和天皇への上奏文の中で近衛文麿は軍内部の共産主義者が計画的に日本を戦争に導いてきたと指摘している。
「抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座侯。支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯・・・・・」
陸軍兵務局局長であった田中隆吉少将も次のように近衛の主張を裏付ける発言をしている。
「転向右翼は日本革命の手段として戦争を是認し、これをアジアの弱小民族解放の線に沿わしめ、日本と英米との衝突を激発せしめる戦術を考えていた」(日本軍閥暗闘史 田中隆吉著 中公文庫 P110)

「何が故に統制派は日中戦争の不拡大と、その速急なる解決に反対したのであろうか。これは、事変の発展と永続は、必然の結果として、国防兵力の増大を来し、これに伴う軍用資材の需要の増加はまた国内の経済機構に計画性をもたらすものであるから、手に唾せずして、その理想なる国防国家建設と国内経済機構の変革を行い得ると確信したからに他ならない。一言で言えば、彼ら統制派は日中戦争を彼らの政治理念達成の具に供したのである。
日中戦争の中途、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者(私はこれを転向右翼と名づけた)が、彼の周囲にブレーンとして参加した。陸軍省の部局に転向共産主義者が召集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の政治理念はこれがためにさらに飛躍した。すなわち大東亜共栄圏建設の理念である。この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである・・・・・統制派の政治軍人が軍人の本分を忘れ、濫りに政治に関与し、国民に号令しつつあるとき、私のいわゆる転向右翼はすでに統制派内部に巣喰い、彼ら転向右翼が目指す祖国敗戦の方途を画策しつつあった。政治にも思想にもはたまた経済にもほとんど無知な軍人が、サーベルの威力により、その付焼刃的理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に耽りつつあったとき、巧妙にして精緻なるこの種の策謀に乗せられたのは当然の帰結である」(前掲書 P92−93)

 共産化しようと狙いを定めた国を戦争に引きずり込み敗戦に導いて国家の指導者と国民を離反させることによって共産革命を実施させようとする作戦は「敗戦革命」いわれ、ロシアの革命家レーニンが考えた方法である。



 
2009 07/18 13:46:42 | none | Comment(0)
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 2・26事件は事前に予知されていた。憲兵曹長の小阪慶助は二月十九日の朝、栗原中尉一派が二十五日頃を期して重臣襲撃を決行するという三菱本館秘書課からの情報を受け、憲兵隊本部に報告している。(2・26事件 高橋正衛著 中公新書)
また事件当時、陸軍省軍務局課員であった片倉衷(ただし)少佐も「一週間ほど前にわかっていました」と証言している(未公開写真に見る 2.26事件 新人物往来社)
 ではなぜ、10月事件のクーデター未遂事件のときのように事前に首謀者を拘束したり、せめて実際に青年将校たちが重臣を襲撃する前に阻止しなかったのだろうか?
 中国や英米に対して融和的な方針だった皇道派は統制派にとって邪魔な存在であったから、皇道派の青年将校達は皇道派を一掃するために巧妙に利用された疑いがある。実際2・26事件の責任を問われて真崎甚三郎大将をはじめとする皇道派の主だった将官は陸軍の中枢からはずされてしまった。
 「露支英米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕(おとしい)らしむるは火を睹(み)るよりも明らかなり」(蹶起趣意書)
という危機的状況から何とか日本と日本国民を救おうとした青年将校たちの思惑とは逆の結果をもたらし、対中国強硬派の統制派の天下になってしまった。フランスのある新聞は「日本は国内改革に失敗したので、今後中国への侵略を強めていくであろう」と予言した。
前年に結婚したばかりの身重の妻を残して刑死した青年将校の一人田中勝中尉は子供の頃から慈悲心が強くその母親は息子が昭和維新運動に関わっていることを心配していたが田中中尉は母親に「今度戦争が始まったらね、一カ国や二カ国じゃあないよ。日本は負ける。それが悲しゅうて、苦しゅうて。戦にならぬようにしなければいけない」と言っていたそうである。これは「日米戦は必然的に第二次世界大戦へと発展する」という北一輝の予言と一致しており、青年将校達は日本の破滅を正確に見通していたというべきであろう。(参照文献:昭和聞キ語リ 毎日新聞西部本社編 葦書房)

 皇道派の荒木貞夫大将は日本軍がシンガポールを陥落させた直後の昭和十七年に「支那に大軍を残しながら、日本はアメリカと戦争をしている。また、四方八方に戦線を拡大しているが、そのタコの足を一本ずつ切断されて、日本はダメになるだろう。日本の前途は絶望的である」と語ったそうである。
真崎大将の場合も、『オレの目の黒いうちは、支那との戦いはさせない』と主張していた。真崎がいたのでは、陸軍内部の主戦派は支那事変を起こせない。そこで、軍務局長永田鉄山少将・辻政信少佐らが、二人の追い出しを画策した。永田や辻に代表される陸軍の統制派は、元老・西園寺公望やその秘書の原田熊雄に、『荒木と真崎が青年将校を煽動してこまっている』と吹き込んだ。西園寺は、戦争学にはうとい元老政治家だったが、権力だけは大きなものを持っていたから、真崎大将は二・二六事件との無実の関連をでっち上げられ、陸軍中枢から追われるのである。無益な支那大陸での戦争へ突き進む軍部への歯止めはこれで失われてしまった」(悪の戦争学 倉前盛通 太陽企画)

事件後青年将校達が首班に担ごうとした真崎甚三郎陸軍大将の実弟であった真崎勝次海軍少将も次のように陰謀の存在について言及している。

「この事件が単なる派閥や勢力争いでなくもっと深いところに原因していることだけは確かで、この事件の真相を知らずに現代の世相を知ることは困難だ」(罠にかかった真崎甚三郎)「一世を騒がせた二・二六事件についていえば、日支事変を起こさしめ世界戦争に誘導して日本に革命を起こすのに、一番邪魔になる人物を葬り去ることが、あの事件のソ連のネライであった。今日でもこのことを本当に研究しているものはまずない。真に思想を了解し世界の動向、ソ連の陰謀を洞察して、前途を警戒し国内における各種のクーデター事件に反対し、満州事変を拡大せぬように処置した人物がおっては、日本に革命を起こすことも出来ず、日支事変を起こすこともできない。そこで日支事変を起こすのに邪魔になる重要人物を葬るように仕組んだのが二・二六事件の筋書きである」(雪の首相官邸の秘密)

青年将校の一味であった山口一太郎大尉も陰謀の臭いを強く感じていたようだ。

「僕はどうも謀略がなかったらあれは起こっていなかったのじゃないかと思う。元をただせば根深いものがある。まず、あの事件前数ヵ月というものは、事件が起きるように起きるようにともってきている。士官学校事件で青年将校を悲憤させた、また、それまでずっと留め男の役をしていた柳川平助中将を突然、台湾に追いやった。次に青年将校に同情的な見方をしている持永浅治少将を朝鮮に送った。また、青年将校の精神的指導をしていた菅波三郎、大岸頼好、大蔵栄一等のような青年将校の行動を思い留ませる連中を皆遠くにやった、そして逆に香田清貞や栗原等のような事をやりそうな連中を満州から東京へ呼び寄せている」(汚濁の世に雪の日を語る座談会 日本週報 二九・一ニ、一五号)以上、「ニ・ニ六事件の謎」大谷敬二郎著 光人社NF文庫より抜粋)

2009 07/09 20:16:13 | none | Comment(0)
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 皇道派は永田鉄山軍務局長をトップとする統制派が対ソ戦の準備という名目の下に対中国との戦争に日本をどんどん深入りさせて行くことに危惧と憤りを抱いていた。
 池田俊彦元少尉は次のように語っている。
「青年将校がなぜ永田を頂点とする統制派の思想や行動を問題にしたかといえば、永田らが官僚や財閥、あるいは宮廷グループと手を組んで国家総力戦体制にもっていこうとしたからですよ。その永田が手を組んでいた人たちこそ、農村の窮乏から目をそらし、陛下にも農村の現状をお伝えせず、根本的改革には無関心だったのです。いや、それ以上に農地改革を含む国家の改造が必要だという主張に反対する最大の勢力を作っていたのです」

「(皇道派の)小畑敏四郎少将が対ソ防衛を第一義とし、日支提携を主張したのに対し、永田少将はまず武力で支那を叩き、足元を固めたうえでソ連に備えるべきだと主張した」(赤塚金次郎元少尉)

「第一、この国は国民全部の国であることが必要であり、一部特権階級本位の国であってはならないこと。
第二、国民の生命を要求する軍である以上この軍は、真に止むを得ない場合にのみ防衛戦争に投入せられることが必要であり、尽くすべき他の手段を尽くさず、悪く言えば、高級将校が勲章を貰うための戦争など絶対に行ってはならないこと。
第三、義務として若人を入営せしめた以上、その入営により、その兵の家庭が窮迫するようなことのないこと」山口一太郎大尉(当時昭和天皇の侍従武官であった本庄繁の女婿 で終身禁固)
「未公開写真に見る2・26事件」新人物往来社刊より

「われわれは今日、兵を教育しておるけれども、今のままでは、安心して、国防の第一線に対して身を捨てるわけにはいかない。捨てるような気持ちにならないし、また部下に対して国防のために死ねと申すこともできない。
 私は夜、週番士官として兵隊の寝室を回ることがあるが、そのときなど、よく寝台で泣いておる兵隊がいる。事情を聞くと、自分は壮丁として兵隊に出たために、家では食べる米もなくて困っておる。自分の妹まで今度は吉原の女郎に売られるそうである、というふうなこういう状態で、兵に対して前線に行って戦えとはいえないし、自分も全く同感である」栗原安秀中尉(刑死)ー「語りつぐ昭和史2 朝日新聞社」

 「全体にやはり農民の窮状や大資本と一般国民の遊離、あるいは政党が政争ばかり繰り返してなんら庶民の窮状を救おうとしないという現実があったわけで、それに対する青年将校の強い不平不満があったことは事実でした。私もこういう状況は何とか早く解決しなければ大変なことになるという気持ちを強く抱いたものです」片倉衷元少将(事件当時は統制派の少佐)
−「未公開写真に見る2・26事件」新人物往来社刊より

 皇道派の満井佐吉中佐は永田が当時の東京ガス重役の大田亥十二の手を通じて三井財閥の池田成彬から別荘を贈られたことを取り上げ、「永田閣下は陸軍部内における一偉才たりしことは、確かに間違いのない事実ですけれども、その終局においては財閥の頤使(いし)に甘んじて、日本を統制経済に置き換え、しらずしらずの間に、財閥の注文通りに動かされて、皇軍を全く私兵化せしむるにいたったのであろうということは、今日世間一般に信じられておるところであります」と批判した。(「軍閥」元東部憲兵司令官大谷敬二郎著 図書出版より)

二・二六事件には直接参加はしなかったが、蹶起した青年将校たちの指導者的立場にあった管波三郎大尉は戦後青年将校たちが蹶起した理由について次のように述べた。「理由の第一は、第一師団の満州移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた 北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼等は勇敢且つ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満州移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時機ではない。国政を改革し、国民の生活安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」
「第一師団が満州へ移駐した後に、必ず陸軍は中国と事を起こすことは、既に同志将校らはわかっていた。北支那への侵略の張本人は永田鉄山少将であることは、我々は誰も知っていた。だから永田局長が満州に来た時、磯部浅一が後を追ってきて暗殺しようとしたのだ」(二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房)



 「現在ノ我国ノ状態ハ軍人モ一般社会モ直情径行名利ニ恬淡ナ所謂国士的人物ハ敬遠セラレ権力者ニ媚ビ諂ウ利欲栄達ノ為ニハ恥オ恥トシナイ卑劣ナ幇間的人物カ重用セラルト云フカ如キ腐敗堕落シタ社会デアリ・・・」安田優少尉(刑死)

「叛乱時に路上で群集に演説したある叛乱将校は、陸軍の不満分子の基調をつぎのように述べた。『われわれはなぜ、三井、川崎、森村などの資本家の利益を守るために満州で戦わねばならないのか』と彼は問題を提起した。『満州ははじめは万事うまくいっていたのだが、今日では満州は、自分自身の利益のために食い物にしている、資本家の狩猟場になっている』『我々は陛下に忠節を捧げ、臣民と陛下との間に立ちふさがっている奸悪な政治家の排除を目的としている』と付け加えた」 「太平洋戦争にいたる道」 W.フライシャー著 刀水書房
 今日でも米国のイラク侵攻が石油利権目当てだったと批判されることがあるが、当時の青年将校達も不純な利益のために下級兵士の生命を犠牲にする形で戦争を利用する大企業と一部の軍人の黒い関係を疑いこれに強い怒りを抱いていたようだ。

 終戦直後の昭和二十年十二月七日に議員の前川正一は次のような発言している。
「小作料は、西欧とくらべてどうであったか。<日本の小作料が現物地代としまして、生産高の四割七分を占めております時に、イングランドではわずかに一割一分、スコットランドにおきましては一割八分、フランスにおいてさえも二割八分の小作料しか取っておらないのであります。如何に封建的土地所有関係というものが、高率なる小作料を要求しているか」(日米戦争はなぜ勃発したか 高橋英之 社会評論社)

 こういう議論はもっと早く二・二六事件や五・一五事件の起きる前にするべきであろう。これでは青年将校たちが政治家は本気で農民を救おうとする気がないと思ってもしょうがないだろう。

 
2009 07/03 20:12:01 | none | Comment(0)
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 政党や財閥に対する強い反感は青年将校達だけのものではなくインテリも含めて当時の国民に共通していたものだった。
池田俊彦元少尉は事件の中心人物で後に処刑された栗原安秀中尉の次のような発言を回想している。
「今の議会は民衆搾取のための手段と化している。そこからは新しい力は生まれない。第一、土地改革などは、地主達の多い支配階級が承認するはずはないし、真の根本的改革はできない。我々は力を以ってこれを倒さなければならない。いかにも多数決で事を決し、国民の意思の上に国民の心を体して行っている政治のようであっても、それは結局権力者の徹底的利己主義となってしまっている。起爆剤としての少数派による変革の先取りこそ、新しい歴史を創造することができるのだ。このことは対話では成し遂げることはできない。強力な武力的変革によってのみなし得られるのだ。我々はその尖兵である」(「生きている2・26事件」より)
まことに青年将校の行動原理がよく理解できる意見である。
しかし、客観的に観ると、当時の農村の惨状を政党政治の無能と無責任だけに起因させることはできないだろう。何しろアメリカのウォール街での株価大暴落を発端とする世界大恐慌という以前には存在しなかった予想不可能の未曾有の嵐に日本も襲われたわけであり、また当時の農村の家庭は子供の数が6人とか7人というのが珍しくもなく、今日と比べてはるかに多いという点で大家族であったことも貧困化に拍車をかけることになったのではないだろうか。

「1929年(昭和4年)十月二十四日朝、ニューヨークのウォール街は株が大暴落してパニックにつつまれた。
世に言う『暗黒の木曜日』である。街には失業者があふれ、残飯を求めてホームレスが長蛇の列を作るようになっていた。このアメリカの恐慌はヨーロッパに広がり、またたくまに日本を直撃した。輸出品価格は下落し、在庫が山をなした。
当時、日本の主力輸出品は生糸で、総輸出品の4割を占めており、その9割以上がアメリカに輸出されていたから打撃は深刻だった・・・生糸価格の暴落は他の農産物価格の下落を呼び、農家の生計は崩壊していった。当時は農家の4割が養蚕を副業としていた。ところが輸出生糸の暴落で、繭の販売価格は60パーセントも下落してしまった・・・悲嘆にくれる農民達に追い打ちがかけられた。昭和5年10月2日、浜口内閣の町田忠治農相は本年度産米の収穫予想を発表した。過去5ヵ年平均の12.5パーセント増の豊作だという。この豊作予想は米価を大暴落させた。発表直後の2日から3日にかけて全国各地の米穀取引所は立会い不能に陥り、米価は約4割も下落してしまった」

(図説2.26事件 河出書房新社 太平洋戦争研究会編
平塚柾緒著 より)

「生糸の暴落は養蚕農家を打ちのめしたが、1930年の大豊作、1931年の大凶作による農産物価格下落、収入減少はさらに零細経営の自作・小作農家に破滅的な打撃を与えた。東北地方では特にそれが激しく、飢餓水準の窮乏に追い落とされたのである。当時のわが国の小作地は全耕地の46パーセントに及び、小作戸数は全農家の27パーセント、自小作農は42パーセント、計69パーセントを占めている。また全地主戸数の75パーセントはわずか一町未満の小地主にすぎない。そして、農林業の就業人口は1929年で1392万8000人で全就業人口の47パーセントを占めていたのである。したがって、かかる農家の窮乏はいちじるしく国内市場を縮小し、それが都市・工業の恐慌をさらに激しくさせる・・・」(「昭和恐慌」長幸男著 岩波新書)


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2009 07/01 21:22:42 | none | Comment(0)
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