通説にとらわれない新しい歴史解釈

2009年 07月 01日 の記事 (1件)


 政党や財閥に対する強い反感は青年将校達だけのものではなくインテリも含めて当時の国民に共通していたものだった。
池田俊彦元少尉は事件の中心人物で後に処刑された栗原安秀中尉の次のような発言を回想している。
「今の議会は民衆搾取のための手段と化している。そこからは新しい力は生まれない。第一、土地改革などは、地主達の多い支配階級が承認するはずはないし、真の根本的改革はできない。我々は力を以ってこれを倒さなければならない。いかにも多数決で事を決し、国民の意思の上に国民の心を体して行っている政治のようであっても、それは結局権力者の徹底的利己主義となってしまっている。起爆剤としての少数派による変革の先取りこそ、新しい歴史を創造することができるのだ。このことは対話では成し遂げることはできない。強力な武力的変革によってのみなし得られるのだ。我々はその尖兵である」(「生きている2・26事件」より)
まことに青年将校の行動原理がよく理解できる意見である。
しかし、客観的に観ると、当時の農村の惨状を政党政治の無能と無責任だけに起因させることはできないだろう。何しろアメリカのウォール街での株価大暴落を発端とする世界大恐慌という以前には存在しなかった予想不可能の未曾有の嵐に日本も襲われたわけであり、また当時の農村の家庭は子供の数が6人とか7人というのが珍しくもなく、今日と比べてはるかに多いという点で大家族であったことも貧困化に拍車をかけることになったのではないだろうか。

「1929年(昭和4年)十月二十四日朝、ニューヨークのウォール街は株が大暴落してパニックにつつまれた。
世に言う『暗黒の木曜日』である。街には失業者があふれ、残飯を求めてホームレスが長蛇の列を作るようになっていた。このアメリカの恐慌はヨーロッパに広がり、またたくまに日本を直撃した。輸出品価格は下落し、在庫が山をなした。
当時、日本の主力輸出品は生糸で、総輸出品の4割を占めており、その9割以上がアメリカに輸出されていたから打撃は深刻だった・・・生糸価格の暴落は他の農産物価格の下落を呼び、農家の生計は崩壊していった。当時は農家の4割が養蚕を副業としていた。ところが輸出生糸の暴落で、繭の販売価格は60パーセントも下落してしまった・・・悲嘆にくれる農民達に追い打ちがかけられた。昭和5年10月2日、浜口内閣の町田忠治農相は本年度産米の収穫予想を発表した。過去5ヵ年平均の12.5パーセント増の豊作だという。この豊作予想は米価を大暴落させた。発表直後の2日から3日にかけて全国各地の米穀取引所は立会い不能に陥り、米価は約4割も下落してしまった」

(図説2.26事件 河出書房新社 太平洋戦争研究会編
平塚柾緒著 より)

「生糸の暴落は養蚕農家を打ちのめしたが、1930年の大豊作、1931年の大凶作による農産物価格下落、収入減少はさらに零細経営の自作・小作農家に破滅的な打撃を与えた。東北地方では特にそれが激しく、飢餓水準の窮乏に追い落とされたのである。当時のわが国の小作地は全耕地の46パーセントに及び、小作戸数は全農家の27パーセント、自小作農は42パーセント、計69パーセントを占めている。また全地主戸数の75パーセントはわずか一町未満の小地主にすぎない。そして、農林業の就業人口は1929年で1392万8000人で全就業人口の47パーセントを占めていたのである。したがって、かかる農家の窮乏はいちじるしく国内市場を縮小し、それが都市・工業の恐慌をさらに激しくさせる・・・」(「昭和恐慌」長幸男著 岩波新書)


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2009 07/01 21:22:42 | none | Comment(0)
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