通説にとらわれない新しい歴史解釈

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関東大震災が襲来した年の八月、鎌倉の平野屋の別荘に滞在していた芥川龍之介は庭に藤、山吹、菖蒲が季節はずれの花を咲かせているのを見て、自然に発狂の気味があり、唯事ではないと感じ、会う人ごとに天変地異が起こりそうだと言ったが、誰も本気にしなかった(大震災雑記)。芥川は八月二十五日に帰京したが、その八日後に激震が関東地方を襲った。時に大正十二年(1923年)九月一日午前十一時五十八分でした。

関東大震災を象徴する大惨事となった、本所被服工廠跡地(現墨田区横網町公園)では、ここに逃げ込んだ避難民約4万人が焼死しました。

「現在の墨田区本所には、陸軍の軍服を作る工場があったが、その工場が移転した跡地の約6.6ヘクタールという面積が公有地になっていた。地震で被災した人々はこの広大な空き地に次々と避難してきたという。中には家財道具を運び込む者もいた。そして、見る見るうちに、空き地に集まってきた人々の数は4万人に膨れあがった・・・地震発生から4時間ほど経過した。午後4時から5時頃のこと。空き地は突然、竜巻のような大旋風に何度か見舞われたのだ!・・・旋風の勢いは凄まじく、人や荷物、大八車までが空中に巻き上げられたという・・・生き残ったのは、避難した約4万人のうち、わずか5%ほどにすぎなかったという」(必ず来る巨大地震 朝日新聞社P63)

「(関東大震災により)焼失した家屋は計44万7000棟になった。東京市はその面積の44%を焼かれ、焦土と化した。(東京大震災はあす起こる 川西勝著)死者十四万二千八百七人、全壊した家屋十二万八千二百六十六戸で死者のうち建物の下敷きになったりした圧死者は数千人に過ぎず、ほとんどは焼死者だった。」(参照文献・東海大地震の秘密 天野昌紀著 山手書房)

「関東大震災クラスの巨大地震が大都市を直撃した場合の人的被害の予想を建設省、自治省消防庁等の政府機関の協力で財団法人日本都市センターが昭和五十一年にまとめた研究結果によると、建物の下敷きになるなど倒壊にともなう死者が四万三千人、火災による死者が一番多く四十四万四千人、そのほか水害、交通事故、生き埋め、ビルから落ちる看板、ガラスなどの落下物に当たったりして一万四千人が死ぬという。さらに大地震であまりに多くの負傷者が出て、病院や医者の数が足り救急医療が十分に回転できない場合やゴミ収集の清掃事業がストップするため、疫病が発生し、冬ならば住むところがないまま凍死者が出ることも予想される。都市センターの報告書では、こうした被害まで含めると、『東京二十三区内だけで死者が百万人を超える可能性がある』との悲観的な見方をとっている」(東海大地震の秘密 山手書房)

「巨大地震はいつ来てもおかしくない」。多くの専門家がそう指摘する。何の前触れもなく私たちの生活を巨大地震が襲ったとき、その被害は考えられないほど大きなものとなる。生死を分ける巨大地震のサバイバル。自分の家族の命を守るため、私たちは情報を集め、今、できる限りの、の備えをしなければならない」(必ず来る巨大地震 朝日新聞社P19)

私が地震に関する多くの文献を読んで気づいたことは、実は多くの大地震は事前に予知されていること、大地震でも倒壊しない木造建築の方法も百年以上前から存在するということです。例えば関東大震災も海軍の検潮機が六時間前に感知したことが「江戸から東京へ(九)矢田挿雲著 中公文庫」P76に明記されています。また、広瀬隆著の「棺の列島」P188にも阪神大震災が事前に予知されていたことが書かれています。「兵庫県南部地震を直前に予測したのは、地震発生の三日前、一月十四日に発売された週刊現代(一月二十八日号)だけであった。『巨大地震が首都&関西圏を襲うー三陸はるか沖地震は破局への序章か』と題してこの尾池教授たちの警告が特集されていたのだ。その言葉がこれほど的確に阪神大震災を予言していたのである。P188


『地震が起こる』と予測して、パニックが起きたり、経済的損失が出ることを考えると、地震予知は簡単にはできなくなる。そうなると、『心配な状況である』ことをニュースでそれとなく漏らすしかないのかもしれない。P257(地震の前兆―こんな現象が危い 池谷元伺大阪大学大学院教授工学博士)。
英語にread between the lines (行間を読む)という表現がありますが、地震の予知情報に関してはこのような読み方をすることが必要と思われます。

「阪神・淡路大震災の現場では、消火栓が全滅したため、消防隊員たちがなすすべもなく立ち尽くしている現場を、私も目撃している」(東京大震災は明日起こる 川西勝著 中公新書ラクレ P17)

 将来、関東大震災級の地震が起きたとき、水道管の破損により、十分な消火活動ができない可能性は極めて高いと思われます。そこで、現実的に可能と思われる対策として、都内の地下鉄のトンネル内に消防用ホースを張り巡らし、火災が発生した場合、隅田川の水を吸い上げて消火に利用することは可能でしょう。

 もぅ一つの対策として、老朽化して大地震の際に危険なビルに入居している企業を中心に安全な郊外に移転を勧めても、本社の所在地は東京にこだわる会社は多いでしょう。そこで、東京都に隣接した県の一部を東京都に編入して、そこに都内の老朽化したビルで営業している企業を転居させで、その跡地には火災発生時、停電の状態でも自家発電で放水できる貯水タワーを建設して、大地震の際、火災が発生した時に火勢が広範囲に広がるのを防げるように配置できれば良いと思います。またこの貯水タワーは広告塔としても利用できるので管理費の一部を稼ぎ出すことはできるでしょう。

官公庁も大地震の被害で機能が麻痺する場合に備えて、上記の新たに東京都に編入した地域に現在とほぼ同じ規模の施設を作り、今から一部の職員を常駐させて、もし、霞ヶ関の施設が甚大な被害により行政がストップする恐れがある場合、即座に滞りなく行政活動をそこで継続できるように準備しておくべきではないでしょうか。

我々の時代、特に私のような年寄りが生きている間には大震災は起きないかもしれませんが、いつか来ることは確実なので、無駄になることはありません。今、我々の時代に可能な限りの備えをしておけば、確実に大震災に遭遇する未来の人たちは「昔の人たちが、ちゃんと準備しておいてくれたので、被害が少なくてすんだ」と感謝してくれると思います。
2023 09/16 18:37:22 | none | Comment(0)
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「一人殺せば、犯罪者になるが、数百万人殺せば英雄になる。(戦争による大量殺人の)人数は崇高視されるのだ」
“One murder makes a villain, millions a hero. Numbers sanctify.”

この言葉はチャップリン自身が自分の作品のなかで最高傑作と自負する「殺人狂時代」で金持ちの未亡人に近づいて次々に殺害し、その財産を奪う犯罪を重ねた主人公アンリ・ヴェルドゥが処刑台に向かう直前に残したセリフである。
その真意は個人の殺人も戦争による殺人も本質は同じであり、違うのは被害者の数の違いであり、個人的殺人は醜悪な犯罪とみなされるが、戦争による殺人は崇高な行為とみなされるという意味であろう。
全ての戦争がそうだとは言えないとしても、人道とか正義とか、もっともらしいことを言っているが、客観的に見ると実際は大規模な火付け強盗と火事場泥棒にしか見えない戦争もあるのが現実ではないだろうか。誰でも自分の子供に「お父さんは本当は火付け強盗の親分なんだよ」とは言いたくないだろうし、自分でもそうは思いたくないだろうから「盗人にも三分の理」で、人道だとか正義だとか自由とか、もっともらしいことを言って嘘も交えて色々と火付け強盗を正当化して正義と自由を守るための戦争のようにでっちあげる例は歴史上少なくないのではないだろうか。

外国のことばかり批判するのは不公平なので日本の実情はどうであったかというと、やはり、似たようなことはあったようである。二・二六事件の青年将校も「勲章を貰うための戦争などあってはならない」と批判したが、そのような戦争が実際に存在した事を裏付けるエピソードが戦後、海軍の高官を中心としておこなわれた「海軍反省会」の記録のなかに見ることができる。

満州事変が勃発したとき司令官だった本庄繁が男爵の称号と金鵄勲章功一級を貰ったため、それにあやかろうとした軍人がいたことを示唆している。(金鵄勲章は年金が加算され、功一級は900円の年金がプラスされたー当時の大将の年収の半分以上)

大井篤元大佐―近衛文麿さんが終戦のときに天皇陛下に上奏したの。(註1)右翼は、国体の衣を着た左翼である、と、こう言っているんですね。それから、平沼騏一郎さんの回顧録、あれに語ったのを見ますと、これは昭和十八年ですよ。戦争の真っただ中に語っているのを見ると、コミンテルンは、転向させられてなかったんです。この頃はみんな転向させるという、大いに、そして転向しておいて、政府のところにとうとう入っていると。
それで、日米間の戦争をやらせるのも、片一方は、蒋介石とか何とかって戦争をやらせるんですよ、コミンテルンが。そして、日本の中で戦争に、英米とは戦争するように持っていくし、もう一つは、戦争が始まったら、戦争が終われんようにしていくんです・・・・・第5巻−P488

それで、とにかくそのとき満州であのことをやった連中は、司令官が男爵で、確か金鵄勲章功一級もらったと思いますが。
寺崎隆治元大佐―(そうですね。本庄繁さん。)
保科善四郎元中将―うん、そういうことをやっている。それで、天津軍の司令官、それを満州と同じことをやって、功名を立てたいという感じが非常に強いんですね。第5巻−P502

勲章が欲しい司令官が一人で戦争をすればいいが、己の個人的野心のために多くの部下を死なせることになるのだから、これも一種の戦争犯罪といってよいだろう、欲に目がくらんで、本来の任務を忘却して大小の犯罪的行為に手を染めるということは企業社会でもそれほど珍しいことではないのではないか。故意にミスやトラブルの起きやすい環境を作って、それを収拾することによって、自分の管理者としての能力をアピールしようとする管理者はいるでしょう。企業で言えば部下を自殺させるほど追いつめて働かせる管理職のようなタイプの人間が軍隊の組織では、己の栄達のために平然と多くの部下を死地に追いやる指揮官になるのだろう。(ただし、本庄繁司令官は清廉潔白な人物でした)。 

(註1)近衛文麿自身がコミンテルンの一味だと評論家の宇野正美氏は言っていますね。真偽のほどは分かりませんが、興味深い見方だと思います。
 https://www.youtube.com/watch?v=YvNW4W50UWw&feature=relmfu

ノモンハン事件はインパール、ガダルカナル作戦と並び酸鼻を極めた戦いとして知られている。ソ連の衛星国となっていた外モンゴルと満州国の国境紛争に端を発した日ソ両軍の四カ月間に及ぶ戦闘であるが、日本側の主張する国境であるハルハ河を巡る攻防で、この人の住んでいない砂漠地帯の国境紛争で日本側は戦死8600人、負傷9000人の損害を出した結果、事実上ソ連とモンゴル側の主張する国境線を受け入れて停戦した。

第七師団第二六連隊長としてノモンハン事件に応援の形で参戦した須見新一郎中佐は参謀長から遠足にでも行くような調子で「どのみち須見さん、須見さんにも金鵄勲章をあげるようにしますよ」と言われたことを証言している。「須見さんにも」ということは当然自分たちも貰うつもりでいたのだろう。実際に彼らが受け取ったのは死神からの招待状であったが。この戦いの主役であった小松原師団長(中将)も、「まるでお茶を飲むように『いってもらえばいいんだ』と」―これはお茶でも飲みに行くような感じで、という意味であろう。この小松原師団というのは実戦経験が乏しかったそうで、そのために本当の戦闘の恐ろしさを実感できなかったのだろう。

須見大佐は状況を憂慮する直属の上司であった園部師団長から「須見大佐殿必親展」で受け取った手紙には小松原師団長を批判する内容が書かれていた。「小生がハルハ河の渡河を非常に無謀と思ったのは、第一、上司のこの作戦は行きあたりばったり、寸毫も計画らしきところなきの感を深くしたこと。第二、敵は基地に近く、われは遠く、敵は準備完全、われはでたらめなることのように思われる。第三、敵は装備優良、われは全く裸体なり。第四、作戦的の関係上ノモンハンの敵は大敵なり、しかるにもかかわらず上司はこれを侮って、ほとんど眼中に置かざる態度なりと、要するに敵を知らず己を知らず」

今日、このノモンハン事件を振り返ってみると、本当にこの戦いは必要だったのか?率直に言えば、現地の軍の上層部が金鵄勲章欲しさに安易な気持ちで暴走したのではないか?という疑いを少なくとも私は拭い去ることは困難である。
誠に悪名高い辻政信参謀が起草したと言われている「ソ満国境紛争処理要綱」では「国境線が明確でない地域では、防衛司令官が自主的に国境線を認定して、第一線部隊に明示し、万一衝突したときは兵力の多少、国境のいかんに拘わらず必勝を期する」となっていた。
あたかも進んで衝突を引き起こそうとするような規定である。

木下末一氏は須見大佐の部下として参戦した一人であるが、やはり、何のための戦いであったのか強い疑問を吐露しています。「もうこれは、われわれはほとんど敵の物量でやられたんですね。戦車が一列横隊に並ぶんですね。ザーッとね。そして砲塔から火炎放射器でやってくるんです。それに対してこちらはなにものもなく、火炎放射器で重油をかけられない者も、戦車に踏みつぶされる。踏みつぶされなかった者は焼かれる。ですから停戦後の戦場掃除ということになったときに、このノロ高地一帯に、もうほとんどごま粒をまいたようなと言っても過言じゃないくらいの日本軍の死体でしたよ。ほとんどの死体が火炎放射器で焼かれた、砲弾でたたかれた・・・・・それが草原を埋め尽くすように倒れておったんです。これはもう全般的に見て負けです。はっきり負けです、これは・・・・・やったこと自体が無駄な戦いでしたよ。あの砂漠地帯でですね、あの誰も住んでいない、どこが国境やら何もないんです・・・・・そんなところで、あれだけの人を死なせなきゃならん戦いが、なんのために必要であったかと、もうその期(ご)に至ってですね、いちいち例をあげていったら、これはもうとうてい表現し得ないくらい悲惨な戦闘を九月十六日まで続けたわけでしてね。本当に無駄であった、まことに情けないと思いますねえ」(参照文献:証言・私の昭和史 第2巻 文芸春秋)


小松原師団各指揮官の最後 (北海タイムズ刊『ノモンハンの死闘』より)

大内大佐(参謀長)七月四日戦死
小林少将(師団長)八月二十四日負傷
山県大佐(第六四連隊長)八月二十九日連隊旗を焼き自決
岡本大佐(参謀長)負傷入院中某大佐により斬殺
森田大佐(第七一連隊長)八月二十六日連隊旗を焼き自決
東中佐(第七一連隊長代理)八月三十日戦死
酒井大佐(第七二連隊長)負傷入院中自決(部隊全滅)
井置中佐(捜索第二三連隊長)フイ高地放棄の責をとり自決
伊勢大佐(野砲第二三連隊長)後退の責をとり自決
内藤大佐(野砲兵連隊長)包囲され自決
染谷大佐(連隊長)自決(部隊全滅)

小松原師団長はノモンハンでは生き残りましたが、予備役編入後、胃がんにより一年後の1940年(昭和15年)に死去しました。最近の研究ではソ連のハニートラップに引っかかりスパイ的な行為をしていたという説もあるようです。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm18129592

2019 08/10 00:11:44 | none | Comment(0)
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「チャップリンは合衆国の有名人であり、資本家どものお気に入りである。われわれは彼を殺すことでアメリカとの戦争を引き起こさせることができると信じていた」と首謀者の一人である古賀清志中尉は後に語った。
(チャップリン アメリカと戦った天才道化師 福川粛著 メディアファクトリーより引用)
そして、この暗殺計画が未遂に終わった理由を古賀は「アメリカとの戦争を引き起こし、軍部の勢力を拡大できるかもしれないという小さなチャンスのために一人のコメディアンを殺害することは賢明なことだろうかという議論になり、結局、暗殺計画は放棄された」と語っている。
(The same prisoner said that the plan to kill Chaplin was   abandoned because ‘It was disputed whether it was advisable to kill the comedian on the slight chance that it might bring about war with the United States and increase the power of  the military’)A PENGUIN BOOK MY AUTOBIOGRAPHYより引用

国民にとって最大の不幸は戦争の惨禍であろう。五・一五事件の首謀者達が大衆を貧窮に陥れている政治を糾弾し、大衆の救済を唱えながら、一方で、はるかに大きな不幸を国民にもたらす戦争に国民を巻き込もうと考えていたことは大きな矛盾であり、私は彼らの真意と誠意を疑わざるを得ない。二・二六事件の青年将校たちは日米戦が日本に破滅をもたらすものと正確に予見していたので、戦争を避けるために米英や中国に対しては融和的な考えを持っていた。この点で五・一五事件の青年将校たちとは本質的に異なっていた。

どう考えても日本の農村の不況や中国の排日、侮日運動もチャップリンの罪ではない。その無関係なチャップリンの暗殺を発想するという時点で、既に彼らの思想がまともなものとは私には思えない。同じような話が五・一五事件の青年将校たちのなかでリーダー的存在であった藤井斉(ひとし)中尉(後に上海で戦死)と血盟団の井上日召の間でもあった。(下記文中の「大川」とは東京裁判でA級戦犯に指定され、たびたびクーデター計画の黒幕となっていた大川周明)
「藤井は『すごい情報を握ってきた』と言い、大川から聞いた具体的計画を語った。<この秋には満州(中国東北)で、中国人をそそのかしてニ、三人の日本人売薬商を殺させる。それをきっかけに、国際問題を起こし、日本は中国に対して断固たる処置にでる。そうなれば中国でも、排日、排貨を必ずやり出す。関西の商人たちの間では貿易不振が問題になり、財界は混乱し、ひいては内閣も倒れる。その混乱に乗じて、愛国者たちに国会を襲撃させる。すると警視庁の巡査と衝突し、流血の惨事となって、革命の火ぶたが切って落とされる。つまり、こうして社会を混乱に落とし入れて、そのドサクサに革命を成就させる>ーというものであった。藤井は独断で大川に対して、この計画に仲間と共に参加する意思を伝え、計画実行の際には『拳銃ニ十挺の交付を受くる約束を結んできた』と語った。これを聞いた井上は激怒した。『藤井、貴様も貧乏人の子じゃないか、そうして大衆の為と云うことを大川は言うではないか、藤井も能く大衆々々と云うことを言うではないか、そうした気の毒な満州へ行って売薬して生活して居る、そう云う人を殺すと云うことは断じていかぬ、そんなことが抑々(そもそも)革命精神の非常に違う所だ・・・・・そういう者が権力を握った時には決して日本を善くせぬ、握るだけは握っても、握ってから必ず日本を毒する、それにお前が合流すると云うことを約束するとはなにごとか・・・・』(「血盟団事件 中島岳志著 文芸春秋社」より引用)

どうも五・一五事件の首謀者達には純粋な意味での革命家というよりも革命ブローカー的な色彩を私は強く感じるのである。三上卓中尉は戦後、今度は「無税」、「無失業」、「無戦争」の3つをスローガンとし、政府の要人や労働組合の幹部を暗殺するクーデター計画(三無事件―未遂)に参加して1961年に逮捕されている。ただし、証拠不十分で不起訴)
(三無事件の詳細についてのリンク)http://kh16549.blog.fc2.com/blog-entry-159.html

五・一五事件の被告たちは昭和十三年には仮釈放されたが、山本五十六に出所の挨拶に行っている。そのときのことを古賀清志(当時は古賀不二人と改名)は戦後「昭和史探訪」という番組に出演して司会の三国一郎の「十三年に仮出所。それからどうなさいました」という質問に対して「当時山本五十六元帥は海軍次官で、お礼の挨拶にいったら、当座のこづかいと言って一○○○円づつくれました。当時近衛文麿内閣書記官の風見章、これも一○○○円づつくれました。当時の一○○○円は大きいですものな」と答えている。(昭和史探訪 2 日中戦争 日曜日の弾痕 「五・一五事件」古賀不二人  番町書房)昭和15年の大卒の初任給が月給で75円〜80円くらいだったらしいので、今日の貨幣価値に換算すると二人から貰った計2000円だけでも700万〜800万円くらいになるだろうか。その後も彼らは仕事の面などで色々と優遇されたらしい。ちなみに風見章はソ連のスパイであったゾルゲの逮捕事件に関連して処刑された朝日新聞記者尾崎秀実の親友であり、尾崎を近衛内閣のブレーンの一人として引き入れた人物である。

公判で明らかになっただけでも、古賀清志中尉は暗殺決行前の四月三日にも大川周明から拳銃五挺と弾丸百二十五発及び運動資金として一千五百円を受領し、二十九日には再び大川から運動資金として二千円を受領している。
五月十三日には犬養首相に最初に発砲した黒岩勇中尉が大川から二千五百円を受領している。彼らの活動規模に対して不釣合いなほどの大金といえるだろう。「話せば分かる」と話し合おうとした犬養首相に対して「問答無用」と叫んで発砲を促したことで有名な山岸宏中尉は「軍資金を貰って残ったら弟の学資にしよう」と笑いながら話した。(五・一五事件 陸海軍大公判記 時事新報社)
2018 05/22 20:01:45 | none | Comment(1)
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チャップリンの自伝のなかに昭和七年五月十五日に首相官邸を襲撃して犬養首相を暗殺した六人の海軍士官および陸軍士官候補生(*1)とチャップリンの秘書高野虎一が直接関わりがあったのではないかと疑わせる記述がある。
前日十四日にチャップリンと兄のシドニー、秘書の高野等が食事中に突然闖入してきた正体不明の男達も六人であったのだ。シドニーはこれを「単なる偶然ではない」と言っている(‘It is more than a coincidence that six assassins murdered the Prime Minister and that six men came into the restaurant that night while  we were dining.’)

神戸に到着した時からチャップリンと兄のシドニーには、出迎えた秘書の高野が何か心配事を抱えているように見えた。(He looked worried ever since we arrived at Kobe)
シドニーの私物が留守中に検査されており、チャップリンの世話を担当する政府の係員がやってきて、もし行きたい所があれば秘書の高野を通してその係員に連絡するようにとのことだった。
シドニーは「我々は監視されている。高野は何か隠している」と言い張った(Sydney insisted that we were being watched and that Kono was holding back something.)
「私も時間が経つにつれてだんだんと高野の苦悩といらいらしている感情が深まっていくように見えたことを認めねばならない   (I must admit that Kono was looking more worried and harassed every hour.)
同じ日、高野がおかしな話を持ち込んできた。それは絹の布地に描かれた春画を所持している一人の商人がチャップリンに家に来てもらって見て貰いたいというものであった。チャップリンが興味が無いと答えると、高野は困った様子だった。
「私がその男に絵をホテルまで持ってきて置いていってくれと頼んだらどうでしょうか?」
「どんな条件でもダメだ、時間を無駄にするなとその男に言っておけ」
「この人たちはノーという回答は受け入れません」
「お前は何を言っているんだ?」
「えーとですね、彼らは数日間私を脅迫しているのです。ここ東京には無法者集団がいるのです。」 (Well, they’ve been threatening me for several days: there’s a tough element here in Tokyo.)
「馬鹿馬鹿しい!すぐに警察を動かそう」(‘What nonsense!’ I answered.‘We’ll put the police on their tracks.’)
しかし、高野は首を振って、暗に「彼ら」が警察の手にも負えない存在であることを示唆した。

翌日の夜、前述の六人の正体不明の若い男達がレストランの個室で食事中のチャップリンの前に現れた。一人は高野の隣に腰掛けて腕を組んだまま怒りを押し殺した様子で何か言うと高野の顔から血の気が引いた。身の危険を感じたチャップリンはとっさにコートのポケットに片手を入れてさも回転式拳銃を構えているような仕草をして叫んだ「これはどういうことなんだ!」高野は顔を伏せたまま料理から目をはなすことなくつぶやくように言った。「彼はあなたが彼の絵を見ることを拒否したことで彼の先祖を侮辱したと言っています」
チャップリンは勢いよく立ち上がると片手をポケットに入れたまま、その若い男を睨みつけた。「一体これはどういうことなんだ?」チャップリンは兄を促して直ちに部屋から脱出し、高野にはタクシーを呼ぶように指示した。「いったん、安全に通りまで出ることができたので我々は皆ほっとした」と自伝のなかで回想している。

この事件に関わった当時の日本側の関係者の証言とチャップリンが自伝の中で語っている事には幾つかの重大な食い違いがある。一番問題なのは首相官邸における歓迎会は五月十五日ではなく、「惨劇の翌日」すなわち十六日に予定されていたとチャップリンが書き残していることである。(The day after the tragedy I was to have met the late Prime Minister at an official reception, which was, of course, called off.)
十五日には首相の息子である犬養健から相撲に招待されていたと述べており、首相訪問の予定を気が進まなかったため相撲観戦に変更したなどとは一言も書いていない。
要するに日本側では首相官邸での歓迎会は十五日と思っており、チャップリンは十六日と聞かされていたということである。なぜこのような奇妙な食い違いが生じたかは秘書の高野虎一が何者かに脅迫されて首相が十五日に官邸に滞在しているようにしむけるためにチャップリンと日本側には別々の事を言ったと考えるとつじつまが合うように思える。

(以上、英文はA PENGUINE BOOKの 「CHARLES CHAPLINE MY AUTOBIOGRAPHY」より引用)

(*1)実際に首相官邸を襲撃したのは四人の海軍士官と五人の陸軍士官候補生の計九人であったが、どういうわけか翌日の新聞には六人と報道されている。

2018 05/12 14:19:06 | none | Comment(0)
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「映画史上ただ一人の天才」と言われるチャップリンは兄のシドニーと日本人の秘書高野虎一を従えて1932年5月14日に初来日し、翌15日には首相官邸での歓迎会に出席する予定であったが、当日、直前にキャンセルして相撲見物に予定を変更したため(*1)、危うく難を逃れたと伝えられている。
不思議な事に犬養毅(つよし)首相暗殺の首謀者の一人である古賀清志中尉等は新聞等で公表されていなかったにもかかわらず、15日に首相官邸で歓迎パーティが開かれる事を知っていて、その時にチャップリン暗殺を決行しようとしたが、その動機を中村義雄中尉は裁判で次のようにのべている。「元来日本人は歓迎好きで外国人であればどんな人間でも直ちに熱狂するからその席上には朝野の名士があつまるだろうと考えた、それを襲撃することはもっとも効果的であるし、チャップリンをやっつければ、日米関係が重大化し時局益々緊張して卓抜な人物でなければ到底収拾し能(あた)はざるに至り革新は容易に行われるに違いない、明治維新の際高杉晋作が英国大使館を襲撃した故知に倣ったのです」と述べている。(五・一五事件 陸海軍大公判記 時事新報社)
実に粗雑で幼稚な動機であるが、とってつけたような印象が拭えない。本当は5月15日(日曜日)に暗殺目標である犬養首相が確実に首相官邸に滞在しているようにするために、チャップリンが利用されたのではないだろうか。そのように考えれば当日の直前に首相官邸訪問をキャンセルして相撲見物に切り替えたのも理解しやすい。本当に犬養首相暗殺事件に巻き込まれるのを避けるためである。そして、首相官邸訪問の期日を決めたり、キャンセルすることができたのは、おそらく秘書の高野虎一以外にいなかったのではないだろうか。「チャップリンは犬養首相との会見を熱望している」とチャップリンに無断でマスメディアに報道させたのは高野である。
実際のところ、高野虎一は妻の親戚に海軍の高官がいたこともあって、海軍に独自の人脈をもっており、何人かはチャップリンの撮影所にも訪ねてきたそうである。チャップリン初来日に先立ち、高野は一人、歓迎会の準備という理由で一足さきに来日して何人かの海軍側軍人と接触している。

来日に先立ち、チャップリンはヨーロッパも訪問していた。「1932年3月、チャップリンはこのヨーロッパ旅行で、各地で偏狭なナショナリズムが勃興していることに心を痛め、その感想をこんな風に述べた。『愛国心というのは、かつて世界に存在した最大の狂気だ。私はこの何ヶ月かヨーロッパの各国をまわってきたが、どこでも愛国心がもてはやされていた。これがどういう結果になるかというと、また新たな戦争だ。願わくば、この次の戦争では、老人を前線に送ってもらいたいね。今日のヨーロッパでは、真の犯罪者は老人なのだから』だが、このチャップリンの発言は当時、とくに英国のマスコミによって徹底的に批判された。第二次世界大戦はそこまで来ていた」(参照文献:チャップリン暗殺 5・15事件で誰よりも狙われた男 大野裕之 メディアファクトリー)

(*1)これは日本側の関係者の証言であり、チャップリンの自伝によると歓迎会は「五月十六日」に予定されており、十五日は相撲に招待されていたとなっている。


2018 04/28 20:43:51 | none | Comment(0)
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 建久九年(1198年)十二月七日、頼朝が家臣である稲毛重成の造営した橋供養に参列した帰途落馬して翌年の一月中頃に死去したことは吾妻鏡の記録で明らかであるが、その直接の死因については諸説があり、中には愛人の家に忍んで入ろうとしたところを家人に斬り殺されたというものまである。
だが京都の公家の記録にある「飲水」「所労(病気)」などの記録が一番信頼できるであろう。飲水とは糖尿病のことなので糖尿病に由来する合併症が頼朝の直接の死因とするのが妥当ではないだろうか。
私はそのなかでも心筋梗塞ではなかったかと思うのである。心筋梗塞の発作が起きた時の典型的な症状は顔面蒼白になって冷や汗をかき、重症の場合は激しい胸痛を伴い意識を失うというものである。これなら頼朝が落馬したことも納得できるし、間近にそのありさまを見た家来があたかも恐ろしいものを見たかのような頼朝の表情をみて、安徳天皇や義経の亡霊を見たというように噂が発展していったのではないだろうか。

心筋梗塞の発作の前兆は必ずしも心臓部分の痛みを感じるのではなく、肩や胸骨、奥歯等の痛みとして現れることもある。また虫歯による細菌が心臓の内膜に感染して炎症を起こして重度の心臓病を引き起こすこともあるそうである。
鶴岡八幡宮に伝来する木造の頼朝像をみてもかなり豊頬であり、典型的な糖尿病体形である肥満体であったことをうかがわせるし、死去する五年前には激しい歯痛に苦しんでいたことが吾妻鏡に記録されている。

建久五年八月二十二日  
将軍家いささか御不例。御歯の勞(いたわり)と云々。これによって雑色上洛し、良薬を尋ねらると云々。
建久五年九月二十二日  
 歯の御勞(いたわり)再発すと云々。
建久五年九月二十六日  
 歯の御勞(いたわり)の事、療法お京都の医師に尋ねられんがために、わざと飛脚をを立てらるる所なりと云々。 
建久五年十月十七日    
 歯の御治療の事、基朝臣これを注し申す。その上良薬等を献ず・・・・・
建久五年十月十八日   
 上総介義兼、御使いとして日向薬師堂に参ると云々。歯の御勞(いたわり)御祈のためなりと云々。
建久六年八月十九日   
 将軍家御歯の勞(いたわり)再発すと云々。    

糖尿病になってから合併症を併発するまで数年間かかるのが普通なのでやはり糖尿病の合併症の一つである心筋梗塞が直接の死因となったと考えるのが一番妥当ではないだろうか。

2014 04/27 19:59:15 | none | Comment(0)
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 個別に見れば日本の政治家や官僚の中にも有能で誠実な人材が存在することは疑いないが、総体的にはそれらの人材の能力が発揮できるような組織の仕組みになっていない。破滅へと暴走して行った昭和前期の日本と同じである。根拠無き楽観に基づいて、内外の政策において失敗を繰り返して大日本帝国を滅亡せしめた。

 今日の日本の政治のレベルは現在我々が直面している福島原子力発電所の危機を引き起こした経緯だけをみても一目瞭然である。とても憲法改正などという大それたことを手がけるようなレベルではないと思わざるを得ない。「改憲」は恐らく「改悪」となり、深甚な混乱を引き起こし、既に形骸化しつつある日本の民主主義に致命的なダメージを与えることになるのではないかと私は危惧する。

 改憲論者の改憲理由で納得させられるようなものに私はお目にかかったことはない。ほとんどは悪く言えば嘘、デタラメ、曲解、誤解にもとづくものであるように思える。なかには日本を戦争に引きずり込んで自滅させようと企む外国勢力に踊らされている者もいるのではないかと思うことさえある。
九条の条文を作成した当事者やマッカーサー元帥、今日の日本政府も九条は自衛戦争まで否定したものではないと明言しているのに、今更それらの見解に異議を唱えるのは馬鹿馬鹿しいことのように思えてならない。

 現憲法のことを奴隷法とみなす改憲論者もいるようであるが、過労死するほど労働者を酷使することを容認するような労働法こそ奴隷法というべきであろう。
日本は連合国に降伏し、帝国陸海軍においては無条件降伏ー全面的武装解除を受け入れたのである。当時の日本の実態は憲法前文の「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」そのままであり、事実をありのままに述べているに過ぎない。
何ゆえこの箇所のみ捉えて「奴隷憲法」呼ばわりするのか理解に苦しむ。日本国憲法の実体が「奴隷憲法」なるものからいかにかけ離れた存在であるかは以下の四つの条文だけでも明らかである。
第十一条 「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」
第十三条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
第十四条 「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」
第十八条「何人(なんびと)も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」

そもそも、切迫性かつ正当な理由の無い改憲は憲法違反であろう。
第九十九条 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」

 また、この憲法の作成者たちはこの憲法によって保障される基本的人権を保持するためには国民自身の自覚とたゆみない努力が不可欠であることも将来の日本国民に警告した。
第十二条 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない・・・」

すでに、国民の基本的人権を侵す恐れのある法案が「人権擁護法案」のように巧妙にカモフラージュされて出現している。我々国民はおおいに警戒すべきであろう。
2011 05/03 07:54:37 | none | Comment(0)
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 意外なことであるが民主主義では日本よりはるかに長い歴史を持つ米国の憲法には「主権在民」や「拷問の禁止」の規定がない。
これらのアイディアをGHQは元東大教授の高野岩三郎や憲法成立史研究家の鈴木安蔵ら六人のメンバーからなる憲法研究会によって作成されGHQに提出された「憲法草案要綱」から採り入れたことは明らかであるが、実はこれらの規定は明治時代に大日本国憲法が制定される以前に民間において盛んに作成された私擬憲法草案にその源を発しているのである。

「マッカーサーやホイットニーの指揮の下で、新憲法に採り入れられた諸原則の多くの概念に寄与した者は、十九世紀の民主的傾向を持つ指導者たちを引き継いだ日本のインテリたちだったのである」とケーディスは後年回顧している。(日本国憲法制定におけるアメリカの役割 竹前栄治ほか著『日本国憲法・検証 第一巻』 小学館文庫)

「今日発掘されている明治憲法以前の憲法構想は五十以上あり、そのほとんどが明治憲法よりデモクラティックなものであった。」
それらの中から憲法研究会のメンバーであり憲法成立史研究家の鈴木安蔵が取捨選択して「憲法草案要綱」に蘇らせたのである。鈴木は著作も十冊を超える憲法成立史研究の第一人者であった。鈴木安蔵は、民権期の憲法案二十余りを参考にして研究会案を作ったと述べている。

例えば明治の自由民権家の植木枝盛案での「日本国ノ最上権ハ日本全民ニ属ス」は「日本国ノ統治権ハ国民ヨリ発ス」(憲法研究会案)になり、これが日本国憲法では「主権は国民に存する」となっている。
第三十六条「公務員による拷問および残虐な刑罰はこれを絶対に禁止する」は研究会案では「国民ハ拷問ヲ加エラルルコトナシ」であり、その源は植木案清書本の第四十八条「日本人民ハ拷問ヲ加エラルコトナシ」である。

 憲法研究会の初会合は1945(昭和二十年)十一月五日、高野岩三郎、杉森孝次郎、森戸辰男、室伏高信、岩淵辰雄、鈴木安蔵、馬場恒吾で完成した草案に署名した。高野は元東大教授であり鈴木は憲法成立史研究者であった。
1945年十二月二十六日、できあがった憲法研究会最終完成案「憲法草案要綱」は、杉森孝次郎と室伏高信と鈴木安蔵によって首相官邸へ届けられ、さらにその帰途、もう一通が新聞記者室に発表された。
 GHQ民生局では、念には念を入れて平素使っている連合翻訳局(ATIS)での翻訳に着手することにした。政治顧問事務所(Polad)でも本格的に翻訳させることにした」

最高司令官附合衆国政治顧問ジョージ・アチソンはその草案を首相官邸から取り寄せ、その大要を政治顧問事務所で英訳させた。
アチソン政治顧問が、「憲法草案要綱」を知らせるために本国の国務長官に緊急の書簡を書いたのは、終戦の翌年、1946(昭和二十一)年が明けたばかりの、一月二日のことであった。
「著名な法律家、学者、政事評論家からなる私的な研究者集団である憲法研究会によって、1945年12月27日に幣原首相に提出された憲法の翻訳を同封することを名誉に存じます。(Hussey Papers Reel No.5)・・・」

アチソンは、日本国内で発表された「ある私的な研究者集団」の憲法改正草案が、第一条「日本国の統治権は日本国民より発す」をはじめ、きわめて注目すべき内容であることを報告している。彼は、「さらに重要なことに、最高統治機関は議会・国会に責任のある内閣となっており、天皇は儀礼的・形式的長官にすぎないと規定されている」と興奮気味に伝えている(Hussey Papers, Reel No.5 国立国会憲政資料)

憲法研究会案「1.日本国の統治権は日本国民より発す」
「2.天皇は国政を親らせす国政の一切の最高責任者は内閣とす」
「3、天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」の核心を、余さず受け継いで成立している。
憲法研究会案の国民主権の宣言規定、政治的権限を有しない天皇、儀礼的存在としての天皇規定は、」すでに見たように、自由民権期植木枝盛案・土佐立志社案に由来している。つまり日本国憲法は、その核心をなす国民主権の宣言規定、政治的権能を有しない天皇、象徴的存在としての天皇規定の起源を、民権期植木案と立志社案にもっていると言えるのだ。

日本国憲法は、アメリカによって輸入され、押し付けられた、日本人の思想と乖離した法典では決してない。むしろ、明治以来の日本の伝統的なデモクラシー思想が、日本と総司令部双方の努力によってついに結実したものと見るべきなのである。日本国憲法の核心部分は日本人が生み出したものである。このことを忘れてはならない。(P163)」
(参照文献 憲法「押しつけ」論の幻 小西豊治 講談社現代新書)

2011 04/29 13:21:16 | none | Comment(0)
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 日本側で作成した新憲法草案を全面的に否定されたばかりか、米側の作成した新憲法草案を突然突きつけられて呆然としている日本側代表団から白洲次郎は一人抜け出して太陽の光が燦々(さんさん)とふりそそぐ外務大臣官邸の庭で日本側が草案を読み終えるのを待っている米側一行に近づいて話しかけるとホイットニーは「おかまいなく、我々は原子力のエネルギーで暖をとっているところです。」と答えた。

 米側が原子爆弾を保有している有利さを示唆して威嚇するようなこの発言は暴言―控えめに言っても日本側の感情を著しく傷つける嫌味な表現であったとはいえるであろう。しかしながら、このホイットニー准将の発言は日本側代表団全員を前にして言ったことではなく、部屋の中に入りませんかという白洲の勧めに対する返事としてGHQ側にかなり嫌われていた白洲個人に対して発言されたものである。白洲が部屋の中へと誘わなかったら恐らくホイットニーの発言そのものもなかったであろう。あらかじめ用意していた言辞ではなかったことは間違いない。白洲次郎はGHQ側から嫌われていたので、ホイットニーもつい、嫌味をいってしまったというのが真相だろう。

 米側からみれば白洲次郎もしょせん守旧派の一人にすぎなかった。
白洲次郎がGHQ側も我々日本側も目指すところは同じであるが、性急な改革は日本に混乱を起こす恐れがあるという趣旨の手紙を出発点と目的地の間に幾つもの山が描かれ、目的地を目指すジープと飛行機の絵入りの手紙をホイットニー宛に送ったところ(ジープウェイレター)それに対するホイットニーの返事は以下のような説得力のあるものであった。
「日本の憲法の改革は、日本国民だけの関心事にとどまるものではなく、また日本国民と最高司令官の共通の関心事であるにすぎないものでもなく、連合国が日本に対する完全な支配を解除するためには、世界の世論が十分に満足されなければならないということを、理解していただかねばなりません。つまるところ、日本政府がこの問題に思い切った解決を与えるか、最高司令官が自ら措置をとるかしない限り、外部から日本に対して憲法が押しつけられる可能性がかなりあり、そうなった時の新しい憲法は、−あなたのお手紙では、十三日に私がお渡しした文書を「あまりにも急進的な」という言葉で形容しておられますがーそのような言葉でもこの憲法を言い表すことができないような厳しいものになり、お渡しした文書で最高司令官が保持できるよう取り計らっておられる伝統と機構さえも、洗い流してしまうようなものとなるでありましょう」
(参照文献 占領史録 第三巻 憲法制定経過 講談社)

 松本国務相を中心に作成された日本側の草案の内容は毎日新聞によってスクープされたが、大日本帝国憲法の焼き直しで新味が無く、国民の評判も芳しいものではなかった。2月にはGHQをコントロールするほどの権限を持つ連合国極東委員会が発足し、憲法問題に介入してくることは明らかであったため、それまでにどうしても新憲法を制定してしまう必要があった。
これが僅か1週間で草案を作成しなければならなかった理由である。だからといってやっつけ仕事でなかったことはその内容をみれば明らかである。

 よく改憲論者は米側が日本の憲法を作成したことは「占領地の法律を遵守する」ことを義務付けたハーグ条約に違反するものであると主張するが、実際のハーグ条約の条文は「やむをえない事情がある場合を除き」という但し書きがついているのである。
日本側で新時代に適応する内容の新憲法を作る能力が無かった、天皇制に批判的なソ連、中国、オーストラリア等の国が構成国に含まれる連合国極東委員会の発足が差し迫っていたーという当時の状況は、ハーグ条約で定められた「やむをえない事情」に相当するものであろう。



2011 04/19 19:18:57 | none | Comment(0)
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 ホイットニーは自分のヒューマニズムを日本国憲法の中に具現したいと思ったようである。
それが現日本国憲法の第九十七条の条文として残っている。
第九十七条「此の憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」ーこれはホイットニーの作成したものでその原文の和訳は「此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ、人類ノ多年ニ亘る自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ、此等ノ権利ハ過去幾多ノ試練ニ堪ヘ、現在及将来ノ国民ニ対シ永遠ニ神聖不可侵ノモノトシテ賦与セラル」で多少表現が異なっている箇所もあるが、実質的に同じ内容といえるだろう。
(参照文献 占領史録 第三巻 憲法制定経過 講談社)
 
 GHQ側は日本国憲法草案作成にあたってかなり日本側に配慮をしたことが窺える。例えば第十条の「日本国民たる要件は法律でこれを定める」などの重要な規定は大日本帝国憲法の第十八条「日本臣民タルノ要件ハ法律の定ムル所ニ依ル」をそのまま流用している。「臣民」が「国民」になっただけである。
 天皇の詔勅も否定されていないことは第九十八条の「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」で明らかである。

 終戦間もない1945年当時、日本と交戦した国々の世論は当然厳しいものがあった。ギャラップ調査によると米国では天皇を処刑せよという意見が33パーセント、終身禁固11パーセント、流刑は9パーセントを占めていた。
しかし米国政府は世論に抗する形で天皇制を存続させた。農地改革も実施して小作人に農地を開放した。残虐な拷問を行うことで知られていた特高警察も廃止した。
婦人参政権も実施したし言論の自由は大幅に回復された。スターリンが北海道を占領しようとした時も峻拒し、直ちに北海道各地に米軍を派遣して、ソ連軍の侵入を牽制した。

 米国が戦争中に国際法を無視した無差別爆撃により多くの無辜の民間人を殺戮したり戦後も自分たちのやったことを棚に上げて多くの日本軍将兵を戦争犯罪の名の下に処罰したことは事実であるが、それでも私は米国主導のもとに行われた日本民主化の功績は正当に評価するべきであると思うのである。それが公正な歴史の見方というものであろう。

 改憲論者は特に憲法前文の「われ等は平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの生存を確保しようと決意した」の部分が特に気に入らないようであるが、これは今日の日本の姿そのものではないか。これは別の言葉に言い換えれば今日、日本は国際的に孤立していては生存できないということである。これはあまりにも明白な現実である、すなわち、軍事的には米国に依存せざるを得ず、エネルギー面でも他国に依存しなくては経済的に破綻することは明らかである。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して生存」しているのが偽りの無い実態ではないだろうか。

 日露戦争にしても戦費調達のための外債を引き受けてくれた金融家や日英同盟に基づいて日本攻撃に向かう途上のロシアのバルチック艦隊に石炭の供給をしなかった英国、軍艦を日本に譲ってくれたアルゼンチン等の行為がなかったら勝利は覚束なかったのではないか。勝ったといってもやっと満州からロシア軍を追い払ったに過ぎず、ロシア本土には一歩も踏み込んだわけではないのだから。


2011 04/17 08:29:45 | none | Comment(0)
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「嘘も百回繰り返せば真実になる」とはナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスの言ったことであるが、この大衆を欺くトリックは今日でも多用されており、その魔力がまったく色あせていないことは東日本大震災で決定的に崩壊した日本の原発の安全神話によって思い知らされることになった。

国の最高法規である日本国憲法についても驚くばかりの嘘、誤解が戦後六十年の間に蔓延し、未だに多くの国民が洗脳されている。九条は自衛戦争までも否定しているーなどはその代表的なものであろう。
九条はGHQ民生局次長のケーディス大佐と芦田均の合作であるが、芦田自身が第二項の冒頭に「前項の目的を達するため」を挿入する、いわゆる「芦田修正」によって将来的に自衛のための軍隊なら持つことができる余地を残したと明言しているにもかかわらず、当時の憲法作成に関与もしていなかった人間がー憲法学者であろうと、高名な評論家であろうと「そうじゃない」というのは理屈に合わないまったくおかしなことである。
確かに吉田茂首相が「太平洋戦争も自衛の名分の下に行われたものであり、第二項で戦力の不保持も規定されているので、事実上自衛のための戦争も禁止されている」旨の答弁を国会でしたことがあるが、これもその後、自衛戦争容認論に修正されている。そもそも首相が憲法条文の解釈を決定できるわけではない。

嘘に尾ひれがついて、GHQ側が外務省公邸で日本側の代表団に憲法草案を手渡した時に米軍の爆撃機が上空を旋回して威嚇していたなどという馬鹿馬鹿しい捏造話まで出てくる。
実際は爆撃機が上空を通過しただけであって、日本側で威嚇と感じたものは誰もいなかった。
ホイットニーは日本側代表団に次のように述べた。「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。

 これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えていたからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。さらに最高司令官は、これを受け容れることによって、日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くなるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられることになると考えております・・・マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の機会であると考えています。そしてそれは、あなた方が左に急旋回〔してこの案を受諾〕することによってのみ、なされうると考えています。そしてもしあなた方がこの憲法草案を受け容れるならば、最高司令官があなた方の立場を支持することを期待されてよいと考えております。この憲法草案が受け容れられることがあなた方が〔権力の座に〕生き残る期待をかけうるただ一つの道であるということ、さらに最高司令官が日本国民はこの憲法を選ぶかこの憲法の諸原則を包含していない他の形の憲法を選ぶかの自由を持つべきだと確信されていることについては、いくら強調しても強調しすぎることはありません。」

(参照文献 占領史録 第三巻 憲法制定経過 講談社)
2011 04/15 19:58:13 | none | Comment(0)
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 戦争が終わっても日本の苦難は続いた。「忘れもしない敗戦の年の秋であった。昭和二十年の十一月、もう中頃になっていたであろうか、肌寒い夕暮れどきであった。私は急ぎの用で、県庁の焼け跡を近道しようと、自転車をおしながら濠端の道をいそいでいた。「おい、きみ」小さい声で呼びとめる者がいる。ふり返ると松の木陰に一人の巡査が立っていた。「ここから先へ行ってはいかん、進駐軍がいる」と、押し殺した声でいう。この年の夏、決戦を叫ぶ青年たちによって焼き打ちされた島根県庁の焼け跡は、瓦礫の山で、まだ片づけられていない。焼けただれた築地松のすき間から、アメリカ兵の帽子が二つ見える。かすかに女の悲鳴が聞こえる。女が強姦されている。「あんたは警官じゃないか、なぜ救わないんだ」私は噛みつくように叫んだ。巡査の顔は醜くゆがんだ。つぶやくように答えた。「奴らはピストルを持っている。殺されても殺され損だ、とにかく日本は負けたんだ」わたしは血が逆流するような憤怒に、わななく足をふみしめたが、私も前に進めなかった。わずか半年前の名古屋では、連日B29の猛爆にさらされながら、少しも命が惜しいとは思わなかったのに、敗けたとたんに臆病風におそわれたのか、私はすごすごと引き返さざるを得なかった。止め度もなく流れる涙をふきもしないで、私はむやみに自転車のペダルを踏んだ・・・・・この夕暮れ時の白昼夢のような出来事は、戦争に敗れた国の、国に見捨てられた国民の悲惨な運命を、冷厳な事実をもって私は体験させられた。
娘か人妻か知らないが、彼女も恐らく三ヶ月前までは「鬼畜米英」を叫んで、勇ましく竹槍訓練をしたけなげな女性の一人であったろうに、白昼堂々とかつての敵国の兵士に輪姦されている。それを国民を保護すべき警官が、人を近づけないように(殺気だった兵士に殺傷されないように)、護衛している姿は、全くやり場のない憤激となって、私の体内にくすぶりつづけた。
それから四、五年たった年の暮、シベリアに抑留されて、骨と皮ばかりにやせ衰えて帰還した友人を見舞い、話のついでに私はこの痛恨の思い出を物語った。
「それくらいはまだ序の口だよ。満州ではひどかったね。ソ連の軍隊というのは、あれは文明国の軍隊じゃないね。ひどいボロボロの軍服を着て、時計でも万年筆でもとにかく手あたり次第に強奪する。その上、女は見つけ次第に強姦するんだ。
私の知っている例でも、十七、八の娘が父母の面前でソ連の兵士に輪姦される。ついでにその母親も犯される。娘はとうとう気が狂って二、三日後、その一家は一家心中した。敗戦後の満州ではいたる所で、こんな悲劇が無数に起こったらしい。男子は全部シベリアで強制労働だ。飢えと寒さで三分の一は死んだと思う・・・・・」P7 (二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房)

「マッカーサー元帥が海岸通りの、ホテル・ニューグランドに入るのは、1945年8月30日の夕刻であるが、この日、早くも青木橋の上の台町で、アメリカ兵によって若い女性が拉致される事件が起こっている。その後、横浜では次々に拉致・強姦事件が起き、日本側の抗議によって、第八軍のアイケルバーガー中将が、簡易裁判法廷を開き、婦女暴行について厳しくのぞむことを決定する。ちなみに、神奈川県公安課の調べでは、八月は、強姦三件、強盗四十六件、九月になると殺人二件、強姦二十五件、強盗六百二十一件とある」
(昭和二十年の青空 赤塚行男 有鱗堂)

 もちろん、その後も米兵による犯罪は続いたのであるが、それでも米国がソ連の進駐を拒否してくれたことは日本にとって幸運だった。ソ連軍が進駐していたらこれに数倍する被害が発生していたことだろうことは満州におけるソ連兵の日本人に対する暴状をみても明らかである。
 人数が多くなるとその中にどうしても何パーセントかの割合で犯罪者的素質をもった人間が紛れ込んでしまうのは防げないそうである。日本の警察官のなかにも過去に現職の警察官が強姦殺人や銀行強盗の犯罪を犯した者がいることをみればそれが事実であることがわかる。

 GHQ参謀長ミューラーは部下に「日本人には抑圧者としてではなく解放者として振舞え」と訓示していたそうであるが、理想と現実が食い違ってしまうことはよくあることである。
 駐留軍の経費が国家予算の三分の一を占めるほど膨大であったため日本政府の苦労も大変なものがあり、目にあまる贅沢には控えてもらいたいと申し入れたこともあったようである。吉田茂首相もGHQ(連合国総司令部)のことを”Go Home Quickly!(とっとと出てけ!)”だと皮肉ったこともあったが、一方では
「敗戦日本の占領が、主としてアメリカ軍によって行われたこと、そしてその最高指揮官がマッカーサー元帥であったことが、如何に日本にとって幸運であったかということである。この幸運は、日本人として永く忘れてはならぬことと確信する次第である」吉田茂 回想十年 新潮社/袖井林二郎・福島鑄郎 日本放送出版協会)とマッカーサー個人のことは高く評価している。

「私が平和の促進に貢献したと、一世紀後に仮に一行でも書いてもらえるなら、私は戦争で与えられたすべての名誉を喜んで放棄するであろう」とマッカーサーは語った。
将来の歴史家が彼について「ほんの一言でも触れておく」価値ありと判断するとしたならば、それは軍の指揮官としてではなく、正義と平和のために真の基礎となるものを作り出すと決意した一人の人間としてであってほしいと望んでいた。(サタデー・レビュー誌 1964年5月2日号/ 袖井林二郎・福島鑄郎 日本放送出版協会)―これはマッカーサの本心であったに違いない。
2011 04/05 19:49:08 | none | Comment(0)
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インドネシアのジャワ島には古来、十二世紀の国王ジョボョの予言という不思議な言い伝えがあった。それは北方から黄色い民族が空から降り立ち、圧制者を追い払い我々を解放してくれるというものであった。日本軍がオランダの植民地であったインドネシアからオランダ軍を駆逐したことは予言の実現とインドネシア国民からみなされ、昭和十七年二月十四日にスマトラのパレンバンの油田地帯に空から舞い降りた陸軍落下傘部隊の三百余人の終結地には自分の娘をつれたインドネシア人が「この娘の体内に神の子を宿してほしい」と殺到したため、他の部隊の将兵たちは羨望し嫉妬したそうである。

また終戦後初めて組閣した東久邇宮殿下がフランス留学時代、元首相のクレマンソーから「アメリカは太平洋に進出するためには日本が邪魔であるから、将来必ず日本に戦争をしかけることになるだろうが、戦えば日本は必ず負けるので決して短気を起こして挑発にのってはいけない」と忠告されたそうである。また、東久邇宮が日本からきた画家だと身分を隠してある占い師に占ってもらったところ、占い師は「あなたは画家ではない」と否定し、「あなたは将来日本に大乱が起きたときに首相になる運命にある」と予言したそうである。
(参照文献:商社マン戦中裏日記 矢野成典 日東出版社/虚構の軍神 帝国海軍マサカ物語 山本昌雄 東京図書出版会)

 日本と欧米諸国との決戦は運命づけられていて避けることはできなかったのだろうか。
太平洋戦争の原因としてドイツとイギリスの戦いに介入したくてしょうがなかったルーズベルト大統領の罠にまんまとはまったことが直接の原因であろうが、もちろん原因はそれだけではなく、英米に代表される白人のアジア支配に対する有色人種の事実上唯一の抵抗勢力であった日本の反抗という性質があったことも否定できないだろう。いつも殴りつける相手を探しているような米国にとって(これは私の偏見かもしれないが)、対外的には露骨な武力外交を行い、国内的には残虐な特高警察による圧制をしく日本はうってつけの相手であったろう。

昭和二十年(1945)九月二日ミズリー号上で降伏調印式が行われこの日から昭和二十七年(1952)四月二十八日まで、約六年八ヶ月に及ぶ占領時代が始まり、日本は有史以来初めて外国の占領軍の支配下に置かれることになった。
日本の降伏調印式が行われた戦艦ミズーリの砲塔下の側壁には日本の代表団が見えるところに92年前の幕末に開港を求めて日本に来航したペリーの旗艦ミシシッピーに掲げられていた色褪せた星条旗が額に入れられて飾ってあった。
これによって米側は自分たちはペリー提督のごとく侵略者としてではなく第二の開国をもたらすために日本に来たものであるということをアピールしようとしたものであろう。この辺は当時の米国人は芸が細かった。
2011 03/30 21:00:21 | none | Comment(0)
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 戦争は若者から青春と未来を奪う。東京オリンピックの開会式が行われた神宮外苑国立競技場と同じ場所でその二十年前の昭和十八年十月に出陣学徒壮行会が行われた。学生に対する徴兵猶予が廃止されてから最初の出陣であった。

 東条首相や送る側の学生代表の壮行の辞に対して東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎が出陣学徒を代表して烈々たる音声で答辞を述べた。
「生等今や見敵必殺の銃剣を捧げ、積年忍苦の精進研鑽を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん、生等もとより生還を期せず、在学学徒生諸兄、亦遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず、斯くのごときは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行ずる信条なり、生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を奮励し、強靭なる体躯を堅持して決戦場裡に突進し、誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位のご期待に背かざらんとす・・・」

 ただこの答辞のなかで「生等(せいら)もとより生還を期せず」と悲壮な覚悟を述べた江橋氏は戦後まで生き残って大学教授になったが、本人が貝のように口を閉ざしているためどこの戦場に赴任して勇戦したかは詳(つまび)らかではない。あんまり詳しく聞こうとすると「私もいつまでも出陣学徒じゃないんだ」と機嫌が悪くなるらしいです。
 次々とグラウンドから列をなして門外へ去って行く出陣学徒たちにスタンドにいた女子学生たちは泣きながら走り寄って行った。
 その中の一人であった、歴史作家の杉本苑子さんは次のように回想している。
「昭和三十九年十月十日、神宮外苑国立競技場で、東京オリンピックの開会式が開かれた。
スタンドで開会式を観た作家の杉本苑子さんがこんなふうに書いている。
「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグランドに立って見送ったのである。場内のもようはまったく変わったが、トラックの大きさは変わらない。位置も二十年前と同じだという。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった。天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスのあたりには、東条英機首相が立って、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した・・・
 暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみであった。私たちは泣きながら征く人々の行進に添って走った。髪も体もぬれていたが、寒さは感じなかった。おさない、純な感動に燃えきっていたのである。
オリンピックの開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で、世界九十四カ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった。夢ではなく、だが、オリンピックは目の前にある。そして、二十年前の雨の日の記憶もまた、幻でも夢でもない現実として、私たちの中に刻まれているのだ。
 きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られた今日が、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだー」(『東京オリンピック』講談社)



 太平洋戦争における日本人将兵の死者は230万人(他に一般民間人の死者は80万人)でその過半数である140万人は餓死と病死であった。兵站(補給能力)を軽視して攻勢終末点を超えて戦線を拡大した愚かな将軍たちの犠牲者である。その典型的な例は後に「餓(ガ)島」と呼ばれたガダルカナル島の攻防戦で、オーストラリアを米英軍から遮断する目的で海軍はここに飛行場を設営したが、日本側が戦闘機を配置するまでの間隙をついて、完成と同時に突如二万人の米軍が六十隻の護衛艦船を伴った三十隻の輸送船で上陸してきた。当時ガダルカナル島の日本側兵力は設営隊二千の他には海軍陸戦隊二百四十人のみの兵力であったため、あっけなく完成したばかりの飛行場を米軍に提供することになってしまった。
この飛行場を奪い返すために日本軍は三万四千人の将兵を兵法の鉄則に背いて逐次投入したが、結果として二万名が戦死しそのうちの一万一千人が栄養失調などによる戦病死であった。あるアメリカの歴史家はこれを「信じ得べからざる人命の浪費」と評した。軍部はガダルカナル島の奪還を不可能であることを認めると国民には「転進」と称して残存兵力一万二千名を撤退させた。その中の生き残りの一人である高崎伝元上等兵は「腹が減ってはいくさにはならんとはよくいいますが、日本の最高幹部は、腹が減るどころか兵隊を飢えさせてまで戦争をやらせたわけですよ。日本の兵隊はアメリカ軍に負けたんじゃなくて、日本の最高幹部に負けたから死んだんだと思いますね」と述懐している。(参照文献:証言・私の昭和史  テレビ東京編 文春文庫)

 本来、当然のことながら国家の政府、特に軍部は国家と国民を保護する役目をになっているはずであるが、太平洋戦争における日本の政府と軍部はこれと逆の事をしたように私は思わざるを得ないのである。結果から見る限り、どうひいき目に見ても総体的にみた当時の政府と軍部は国家のリーダーとしては落第点しか付けられない。

 現日本国憲法においては主権者は「国民」である。この点についてはGHQ側は頑として譲らなかった。これによって国民の総意に反する(承認しない)戦争は違法という法的根拠が与えられたのである。具体的には九条第二項の「国の交戦権はこれを認めない」という規定である。
 こんにち日本が抱える問題の多くは現憲法の欠陥に基づくというより、憲法上の主権者である国民の良識が政治に十分に反映されていないことに起因すると私は思うのである。
2011 01/21 18:54:34 | none | Comment(2)
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 今日でも日本国憲法は敗戦の結果として米国人が一週間ばかりで作り上げ、日本側に押し付けたものであると信じている人が多いようであるが、日本国憲法案作成に参画したB・シロタ女史は後年「米国の憲法よりも良い憲法を作ったのだから押し付けたとは言えない」と語っている。

 米国の憲法草案作成チームには憲法の専門家がいなかったとも指摘されることがあるが、それをいうのなら大日本帝国憲法を作成した伊藤博文や井上毅、伊藤巳代治も憲法学者ではなかった。政府の法律顧問であったドイツ人のロエスレルやアルバート・モッセの協力を得てプロシア(ドイツ)の憲法を参考にして作成されたものだ。

 日本国憲法草案作成の実態について草案作成チームの統括責任者であったケーディス民生局次長は日本の民間グループによって作成された多くの憲法草案を参考にしたことを次のように認めている。
「日本側の試案は、新聞に公表されたものであれ、GHQに持ち込まれたものであれ、すべて参考にしました。ラウエル中佐が日本側試案を収集し、起草委員会が利用できるようにしてくれました。その中には、民間の研究団体の試案や政党の試案などもたくさんありました」(GHQの人びと 竹前栄治 明石書店)
だからあのような短期間で草案を作成できたのであり、実質的には日本側で作られた部分が殆んどで草案の作成というよりも編集に近いものだったのではないだろうか。そういう意味で現日本国憲法を純粋な米国製の憲法とするのは誤りであろう。
 大日本帝国憲法にしてもドイツの憲法を参考にして、ドイツ人の政府法律顧問の協力を得て作られたものであり、そもそも議会制民主主義の制度も欧米で作られたものを取り入れたものではないか。君が代だって編曲は外国人によって行われている。コンピューター、自動車やら、電話、映画、レコードなど米国人が発明したものの恩恵を散々享受しておきながら日本国憲法の草案を米国人が作ったのはけしからんと考えるのはおかしいのではないだろうか。恨むのだったら新時代に適合する憲法を作る能力のなかった政府の担当者や日本に敗戦をもたらした責任者を恨むべきであろう。

 改憲論者のなかには「今の憲法は米国が日本の復讐を恐れて日本を弱体化するために作ったものだ」という迷信がある。その根拠の代表的なものとして「第九条は侵略に対して無抵抗主義である」という主張があるが、これは100パーセント誤解である。日本国憲法の英訳版で九条の項をみると奇妙な事に気付く、他の条文がそうであるように通常、法律や契約文ではshall「〜するものとする」が使われるのにこの九条だけwill(意志未来で〜せんとする)になっているのである。wllは「確実な未来」を表す場合もあるが、九条の英訳では「意志未来」と解釈することも可能である。そもそも「国際紛争を解決するための手段として武力による威嚇や武力の行使はこれを永久に放棄する」の「紛争」も英訳ではdisputeであり、これは「争論(口論)」という意味であり「武力による争い」の意味ではない。よって九条が禁止しているのは「国と国との争論を解決するために武力を用いたり、武力をちらつかせて脅したりしてはいけない」ということである(松本国務相はdisputeを「争議」と訳しました)。日本語でも「特許紛争」と言ったら、会社同士が「武力」を用いて争うという意味ではありませんよね。
 例えばブッシュ政権とイラクのフセイン政権による大量破壊兵器の存在に関する争論で米国が武力によってこの問題を解決したが、あのような行為は日本においては日本国憲法九条に照らした場合憲法違反ということになる。
 九条の条文の日本側作成者である芦田均も日本国憲法が公布された日と同日に発行された著書の中で「九条は自衛戦争まで否定したものではない」と断言しているのである。確かに「マッカーサーノート」には「自己の安全の為の戦争も放棄する」となっていたが、これはケーディスが「現実的ではないと」上司のホイットニーやマッカーサーに確認もせずに独断で削除してしまった。その後もこの件は米側でも日本側でも問題にならなかったことを考えると、このアイディアの主唱者はマッカーサーでも幣原首相でもなく、ケーディスが暗示しているように皇室の周辺からでてきた可能性が強いと思われる。新憲法にも改憲条項があるし、将来軍隊が必要になったら改憲すれば良いという思惑だったのであろうか。

 米軍が戦争中、国際法を無視した無差別爆撃で日本の多くの民間人を惨殺した歴史は消しようがない。米国が将来の日本の復讐を恐れたというのは事実であろう。将来小型の原爆が発明され、日本が何らかの手段でそれを入手し、それを搭載した神風特攻機が米国を攻撃するかもしれないーという悪夢のシナリオは当然考えたことであろう。
だからこそ、米国は様々な方法―農地改革、財閥解体、治安維持法の廃止、言論の自由の保障等の民主化改革で日本人の生活を改善する必要があったと思われる。その根本となるものが民主主義的な新憲法の作成であったろう。

 ワシントンで三月七日に開かれる極東委員会の前になんとしても新憲法案を完成させて届けるためには東京を六日の朝に出発しなければならないため、どうしても前日の五日中に憲法を完成させる必要があった。日米双方の担当者の徹夜の作業によって五日午後四時ごろ新憲法草案は完成した。
ホイットニー准将の喜びようは尋常ではなく白洲次長、佐藤部長たち日本側の労を最大級の讃辞でねぎらった。おそらく、ホイットニー准将は日本側の誰よりもこの新憲法の価値と日米両国民にもたらす利益を確信していたのだろう。

2010 11/12 19:42:40 | none | Comment(0)
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 私が学生だった頃、ある一人の歴史の教諭から戦時中の思い出話を聞いたことがある。なんでも若い未婚の男女が一緒に歩っていると警官に咎められたので妹と一緒に外出するときなど後ろを離れて歩かせたそうである。
 またこの先生は若いころいわゆるアカ(共産主義者)として活動したことがあり、そのために警察に拘束され、留置所に入れられたことがあった。その時に近くから拷問で爪を引き剥がされている女性の凄い悲鳴が聞こえたそうで、取調べの刑事に「お前たちも気をつけないとあのような目に遭う」と脅かされたそうである。
私はこの話自体は長い間半信半疑だったのであるが、1929年(昭四年)ニ月八日の衆議院予算委員会で、山本宣治議員が警察で行われている様々な拷問ー足を縛って逆さまに天井からぶら下げたり、生爪をはがして苦痛を与えるというような拷問があることを暴露して政府を追及しているので実際そのような事実は存在したのだろう。事実、当時多くの政治犯(無実の者も含めて)が拷問により殺されたことは当時の記録が証明している。
山本宣治は「民衆を弾圧し戦争への道を開くものである」と治安維持法に反対したため、元警官の黒田保久ニに宿泊していた神田の旅館で刺殺された。犯人は逮捕されたが僅か六年程で釈放されてしまった。

 それにしても狂った時代であった。大学生が喫茶店や遊技場でブラブラしていると警官に拘束された。昭和十三年(1938年)二月十五日から三日間、「非常時局をわきまえず学業を放擲して不良行為に耽る学生を取り締まるべく」東京の学生街や盛り場で警視庁による『学生狩り』が行われ7373人が検挙されたという今日からみるとまるで嘘の様な実話がある。(証言・私の昭和史2 文春文庫)

「昭和15年(1940年)3月28日、内務省警保局は、映画、芸能、レコード会社代表を招いて芸能人の芸名で日本人らしくない名前をはじめ風紀にかかわるような芸名、皇室や英雄等の尊厳を傷つけるような芸名を粛正して欲しいと伝えた・・・・・内務省が”やり玉”にあげたのは、歌手のディック・ミネ、ミス・コロンビア、サワ・カッパのほかミス・ワカナ、尼リリス、星ヘルタ、エデ・カンタ、南里コンパル、エミ石河の横文字がらみの芸名から宝塚の御剣敏子、園御幸、椎乃宮匂子。映画の熱田みや子、吉野みゆき、藤原釜足ら、何やら皇室っぽい芸名にも当局は厳しく口を出した。
 御剣は皇位の印である三種の神器の一つである草薙の剣を指すと考えたのだろう。御幸は天皇のお出ましを指し、椎乃宮は皇族の宮とまぎらわしく、熱田みや子は熱田宮を連想させ、吉野みゆきは吉野御幸の平がな版、藤原釜足は藤原鎌足を悪ふざけをしてつけた、とでも考えたのだろうか。
 この時、粛名を迫られた一人に漫才師の平和ラッパがいた。翌年、太平洋戦争に突入するという時に、進軍ラッパならともかく、平和ラッパでは具合が悪かったのだろう・・・・・昭和16年(1941年)12月に入ると、芸能人の芸名使用が禁止となった。大河内伝次郎が大部勇、阪東妻三郎が田村伝吉と本名を名乗ることを要求された・・・・・
 敵性語追放はスポーツ、音楽、教育現場など庶民の生活の隅々にまでおよんだ・・・・・ベースボール界は敵性語の山である。昭和18年のシーズンからストライクは正球、ボールが悪球、ファールは擦球、バントは軽打、アウトは退け、あるいは無為、セーフがよし、あるいは安全、グローブは手袋となった・・・・・
 音楽の世界になるとレコードが音盤、ピアノが洋琴、アコーデオンが手風琴、バイオリンが携琴、ドラムは太鼓となった。音楽関係者によると、『サキソフォンは、金属製先曲音響発生器といった』というが、当時のコチコチの軍部指導者ならいいかねないことだ。ドレミファソラシドもいけないことになった。代わってハニホヘトイロハである。これは音感的にいっても、極めておかしな改悪であった・・・・・

 さらに外夷語追放は広がった。バスの車掌が使う『オーライ』は『発車』に、『バック』は『背背(ハイハイ)』になった・・・・・当局はネオンサインの洋風店名、商品名にも目を光らせた。何でも漢字にすればいいのだろうとばかり、人形の『マネキン』を『招金』と改称、さすがの警視庁を苦笑させた・・・・・マッチを燐寸、ガスを瓦斯と読ませた。バケツは馬尻などとへんなあて字をした・・・・・」(狂気の軌跡 伊藤一男 PMC出版)

作家の高見順も次のような役人の発言に驚かされている。

「敵の空襲で、損害だ損害だというが、頭の考え方をちょっと変えてみると、焼け跡から何万貫という銅が出てくる。銅山で必死の増産をやっても、おっつかない多量の銅が家の焼けた跡から出てくる。そうなると空襲はむしろありがたい。損害どころかすこぶるありがたい話なのだー栗原部長は昨日こういった。家を焼かれた国民はまことに気の毒だが・・・そういう一言が今出るか今出るかと待っていたが、絶対言わなかった・・・・・高見順日記七月二十七日ー内閣情報局主催の「国民士昂揚に関する啓発宣伝実施要領」で会員を集めた際の話(銃後 川島高峰 読売新聞社)

 また、日本のロケット開発の父である糸川英夫博士(戦時中に隼、鐘馗等の名戦闘機も設計した)は戦時中、軍部が「B29が来たら竹槍で落とすんだ」と言って竹槍訓練をさせたとき、「こんなもので落とせるはずがない」と言ったら、「お前は精神力がなっとらん」とものすごく怒られたそうである。(「日本が危ない」糸川英夫著 講談社)

 まことに小学生程度のおつむの持ち主によって政治が行われていたことが良く分かる。戦後、マッカーサーが「日本人は十二歳の子供だ」と評したのはまったく正しい。

 ジャーナリストの清沢洌は当時の政治の愚劣さを「暗黒日記」のなかで痛烈に批判している。
1942年12月9日
東京市では、お菓子の格付けをするというので、みな役人が集まって、有名菓子を食ったりしている・・・
役人がいかに暇であるか。総て役人本位だ。役人のために政治が行われている。
1943(昭和18年)
1月8日
ジャパン・タイムスをニッポン・タイムスに改名
1月13日
政府、情報協議会を設置す。従来、単にファナティックの集合なりし情報局が改組されるかどうか。今は第五等程度の頭脳が、憲法や法律を蹂躙してやっている。新しい時代に言論自由確保の必要。
(筆者註:「ファナティック」は「fanatic」で「狂信者」の意味
2月17日
ゴルフは今度打球というようになった。
「打球練成袋」とゴルフ・バッグをいったらどうかと皆で笑う。テニスの英語も、日本語にした。テニスを生かして言葉を日本語にす。小児病的な現代思想ここにもあり。
5月15日
アッツ島に敵軍が上陸すと新聞は伝う。いかに犠牲の多きことよ。かつてこの島を熱田島、キスカを鳴神島と命名し、大本営発表にもその名がある。しかも今はアッツ島と発表す。とられた時のことを考えての結果ならん。名前をかえることの好きな小児病の現実暴露だ。子供の知識所有者が政治をやっている。
7月13日
軽井沢のこの別荘に巡査が来て防空準備をしろと注意したそうだ。この山の中の一軒家に防空用意を強うるところに、巡査の画一的ーしたがってまた常識の欠乏を知ることができる。
7月31日
毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国において、かくの如く貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国際政治の重要なる時代にあって国際政治を知らず。全く世界の情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。
8月20
「日本の当局者の頭脳はインサニチーに近いものといった意味のことあり。いかにも鋭くうがっている如く感ぜざるを得ない・・・
(筆者註:「インサニチー」は「insanity」で「狂気、精神異常、精神病」の意味)
10月17日
明日で東条内閣二周年目を迎える。この内閣に対する批判は、後の歴史家がなそう。しかし、これくらい知識と見識に欠けた内閣は世界において類例がなかろう。
1944(昭和19年)
3月10日
世界においてかくの如き幼稚愚昧な指導者が国家の重大時機に、国家を率いたることありやー
4月15日
また閣議で配給機構が変わった。閣議というのは、切符や、魚の小売りのことばかり相談しているところらしい。とにかく、役人は外に用がないのと、また統制の面白さに図ばかりひいている。左翼全盛の頃からの流行だ。遺物だ。
昨日は帝国銀行と十五銀行、安田と昭和、第三を合併した。資本国営の前提だ。しかし三井と第一の合併も、まだシックリ行っておらず、弊害がかえって百出の有様だ。健全な統制のためには一応待って第二段階に進むべきではないか。ここにも「統制業者」の道楽がある。小汀利得は常にいう。役人という奴は、どうしたら国をつぶすことができるかと、そればかり苦労していると。奇警な言だが真理あり。
(筆者註:小汀利得は金解禁当時、これに反対した数少ない言論人の一人で当時は中外商業新報社経済部長、戦後日本経済新聞社顧問)
8月25日
軍部はまだ、最後には神風が吹き、戦争が大勝利を以て終わることを信じているそうだ。
1945(昭和20年)
1月30日
日本の国民は何も知らされていない。何故に戦争になったか。戦争で損害はいくらなのか、死傷はどうなのか。これを総合的に知っている者は日本において誰もなし。一部の官吏はある事は知っているが、他の事はしらないのである。今度の議会でも多少問題になったが相変わらず駄目だ」

二月二十日

中央公論の藤田親昌君が、一ヵ年の牢獄ー実は留置場から出てきたが、警官はむやみにぶん殴る。身体がはれあがる。ぶん殴ったあとで体操をやらせる。聞いただけでも熱血沸くものがある。日本には憲法もなければ、法治国家でもない。ギャングの国である。警察でどんなことをされても仕方がないそうだ。正木(旲)君がそういうのである。正木君は死ぬつもりで闘っているという。さもあろう。正木君は、また、東条前首相に対し、堂々と悪口ー正当な批評をした恐らくは唯一の人であろう。
(暗黒日記 清沢洌 岩波文庫)

 狂気の時代に終止符を打ったのは敗戦とGHQであり、日本国民は治安維持法等の悪法によりがんじがらめにされていたため、ついに自らの手で改革することはできなかった。


2010 11/08 21:02:25 | none | Comment(0)
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 山本五十六の巡視に同行する予定だった日映のカメラマンで海軍報道班員だった吉田一氏は前日(四月十七日)の夜遅くに突然同乗をキャンセルされた。憤慨した吉田氏は巡視スケジュール計画の責任者だった南東方面艦隊航空乙参謀の野村了介に直接強く抗議したが「GF(連合艦隊)からの指示である」とかたくなに拒否されたそうである。
 結局、危ういところで吉田氏は命拾いしたわけであるが、この野村参謀が戦後、この山本五十六の巡視計画について事実と異なる奇妙な発言をしているのである。それは「最初の計画では護衛戦闘機の数は十八機だったが、イ号作戦の結果、ラバウルの戦闘機隊の整備が間に合わないため、当日になって九機しか出せないということになり・・・・・」「連合艦隊参謀と相談した結果、ソロモンの敵も弱ったようだし、ブインの味方の零戦もいるのだから九機でもよかろうということになった」「九機のうち第二小隊長機がエンジン不調のため列機と共に引き返したため、結局ブインまで行ったのは六機だった」と証言しているのである。

 「当日」になって実際に同行できる護衛戦闘機の数が明らかになるというのもおかしな話であるが、この「九機」という数も「第二小隊長機が引き返した」というのも嘘であることを戦後、証言した生き証人がいたのである。山本長官の護衛に失敗した六人のパイロットは次々と激戦地に出動させられて六人のうち五人が戦死したが、ただ一人柳谷飛兵長だけが戦闘で右手首切断の重傷を負って内地に搬送されたためそのまま戦後まで生き残ったのである。
 この柳谷氏の証言によると「いまになってみれば、どっちでもいいんですがね。でもね、あの日、第二小隊長が引き返したといわれるが、あの日の第二小隊長機は日高上飛曹ですよ。列機までが引き返したそうですが、その第二小隊の三番機が私だったんですからね。あの日、ラバウルの東飛行場を飛び立ったのは、第一、第二小隊の二つだけで、最初から六機だったことは間違いありませんよ」(参照文献:六機の護衛戦闘機 高城肇  中公文庫)

 恐らく野村参謀は山本長官を護衛したパイロットの内一人が戦後も生き残っていることを知らずにあのような嘘を言ったのではないだろうか。でもなぜそのような嘘を言わなければならなかったのだろうか?私はここに陰謀の存在の臭いを感じるのである。単純な遭難死とは思えないのである。

 山本五十六を将兵の慰問という口実で危険空域に誘き出して米軍の手によって戦死させるために、イ号作戦の結果、敵航空兵力もだいぶ弱ったので護衛機の数はそれほど多くなくても大丈夫でしょうと山本一行を説得したというのが私の推理である。
 この巡視スケジュールの作成者である野村了介参謀も当日まで山本と同じ機に同乗する予定であり実際に当日の朝、一番機の機内で山本たちの一行を待っていたと戦後証言している。それが突然連合艦隊から同行者二名が追加されたので野村参謀は急遽同行を取りやめたそうである。(戦後、月刊丸に寄稿した手記より)、何か非常に怪しい話であると思うのだが。

 米側で解読した暗号ー4月13日付で南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将と三川軍一第三艦隊司令長官の連名で発信された機密第一三一七五五番電には明白に「〇六〇〇中攻ニテ(戦闘六機ヲ附ス)ラバウル発」となっているのである。最初からー5日前から護衛戦闘機の数は六機と決まっていたのだ。
 暗号文の中で一式陸攻の機数や訪問する全体の人数には触れずに護衛戦闘機の数だけ「六機」と連絡するというのも奇妙である。もしこれが「三十機」となっていたら暗号を解読した米側も攻撃を躊躇したのではないだろうか。

「トラックからラバウルに来ていた第三艦隊司令長官の小沢治三郎中将は、長官の前線視察は危険であると取りやめを具申した。しかし山本長官が言うことを聞き入れないため、連合艦隊の先任参謀黒島亀人大佐に言った。『どうしてもいかれるなら、戦闘機が六機ぐらいじゃダメだ。戦闘機なら俺のところ(第三艦隊)でいくらでもだすから、参謀長にそう言えよ』しかし黒島は、『大事な戦闘機だから六機でいい』というのが長官の意向だと、取り合わなかったという」
(ヤマモト・ミッション 平塚柾緒 PHP研究所)
 
 いずれにしろ山本五十六は哀れな死に方をしたものである。最初に山本元帥の遺体を検死した蜷川親博陸軍軍医大尉の実弟である蜷川親正氏はその著書「山本五十六の最期」のなかで「事故発生の十八日は、墜落現場のアクちかくには陸軍の歩兵二十三連隊(浜之上大佐指揮)が駐屯していた。ひさしぶりの休日のため、墜落して行く飛行機を、多くの将兵は敵機と思って見物していた。この陸軍部隊になぜ、的確に遭難状況をはやくつたえなかったのであろうか。もし、救出を依頼しておけば、九時か十時にはつたえ得たはずである。五千名もいた連隊の、せめて千名いや五百名でもよい、墜落炎上している方向を中心に、一列横隊で前進して捜索するという『面』の捜索を実施しておれば、その日の昼、または午後そうそうには、かならず発見しえたはずである」ともっともな疑問を呈しておられる。

 山本は出発直前にマラリアで入院していた部下の三和参謀に副官の福崎を通して「当分のあいだ見舞ってやれないが、決してあせるな。無理してもいかん。くれぐれも気をつけて、十分静養するように」との伝言を伝えさせた。この「当分の間見舞ってやれない」という発言が日帰りの視察日程なのに奇妙なこととして山本のあの視察は自殺覚悟のものだったのだという根拠の一つになっているようであるが、山本自身は当日の周囲の雰囲気から「危ない」と察したのではないだろうか。

 墜落後死亡するまでの長い一日に何を思ったであろうか、恐らく罠にかけられたことを悟ったのではないだろうか。

 さて、今日、山本五十六が姿と名前を変えて国の運命を左右する地位に就いているということはないだろうか。そうでなければ幸いであるが。
2010 10/15 19:10:40 | none | Comment(0)
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 ミッドウェー海戦は山本五十六とスプルーアンスの戦いであったが、控えめに見てもこの二人の提督の能力と人間性には悲劇的なほどの差があった。ギャンブラー山本に対して、スプルーアンスは「冷静沈着でその決心はきわめて堅確であったが、よく部下の意見に耳を傾け、広く分散した部隊の状況を常に明確に把握し、しかも好機に際してはすかさずこれを利用した」
「戦争も終わりに近づいた頃、仲間の提督がスプルーアンス
に対して指揮官は戦いに勝つためにいかにすべきかを決定するにあたり、賭けをしなくてはならないといったことがある。このときスプルーアンスは、もしそうだとすれば、彼だけはその例外の一人であると答えた」

「1944年末、スプルーアンスは真珠湾の日本兵捕虜の収容所の前を通りかかった。ここにはアメリカ本土へ移されるのを待っている捕虜の収容所があったのである。
彼は思わず捕虜収容所の鉄条網に近寄り、身振りを混じえながら簡単な英語で話しかけた。そして驚いている捕虜たちに、『君たち日本軍の戦闘ぶりは立派だ』と何度も何度もいうのであった。四つ星の肩章をつけた海軍大将が、敵に向かって熱心に話しかけている光景をみて、アメリカ人も日本人も驚きの目をみはった。
しかし、ムーアは少しも驚かなかった。彼はスプルーアンスに同行して病院へ、アメリカ軍および日本軍の負傷者の見舞いに行ったことがあった。このとき、スプルーアンスは戦いに傷つき、あるいは不具となった将兵に対し、敵味方の区別なく心から同情の気持ちを表したのであった。彼はアメリカ軍の負傷兵だけでなく、日本軍の負傷兵についても非常な思いやりを示したのである」、またスプルーアンスは子供の頃世話になった二人の叔母に対する経済援助をまだ経済的にあまり余裕のなかった少尉の頃から生涯に渡って継続した。顔色の変わるような強い寒気のなかに身をさらす事も厭わなかった。(参照文献ー提督・スプルーアンス トーマス・B・ブュエル著 小城正訳 読売新聞社)*「ムーア」はスプルーアンスの部下で参謀長)ーつまり、自分には厳しく、他人には優しい人間であった。

 ミッドウェー海戦の時はスプルーアンスも参謀長のブラウニングも空母エンタープライズにあって、直接攻撃隊のパイロット達の意見を聞いて細かな作戦まで決定した。スプルーアンスは刻々と変化する敵味方の位置を記録する航跡図をどこへ行くにも手離したことがなかったそうである。
一方,山本五十六や黒島亀人等の幕僚は安全快適な戦艦大和に座乗して南雲機動部隊のはるか後方―全速力で駆けつけても9時間以上もかかる後方に位置していたばかりか山本五十六は海戦の最中に部下と将棋をしていた。
 沖縄攻略戦の時もスプルーアンスは旗艦ニューメキシコに座乗して前線で指揮を執ったため、特攻機の体当たり攻撃を受けて死者50人、負傷者100名以上の被害が出たときもあった。(提督・スプルーアンス)
 
 また彼の上司であるニミッツは次のようにスプルーアンスを評価している。「スプルーアンスは素晴らしい判断力を持っていた。彼はあらゆる事を徹底して検討し、それをきわめて慎重に判断し、一度攻撃すると決定すると、徹底的に攻撃するタイプであった。スプルーアンスはグラント将軍のように、敵に向かってゆくタイプであり、私はそのような指揮官を必要としていた。彼は大胆であったが、無謀になることはなかった。彼はまた慎重であり、戦闘に対する勘を持っていた」(ミッドウェーの奇跡 下 ゴードン・W・プランゲ 原書房)

 ミッドウェー海戦では空母の数においては日本が6隻に対して米国は3隻、戦艦は日本11隻に対して米は0巡洋艦は日本14、米国8、駆逐艦は日本52隻、米国15隻、潜水艦は日本16隻、米国20隻で航空機は日本372機対米国354機であった。
さらに帝国海軍連合艦隊は空前絶後の巨大戦艦大和と格闘戦の性能と航続距離においては当時世界一であった零戦を保有していた。それでも惨敗したのである。

 松田千秋元少将は山本五十六を連合艦隊司令長官にしたのは間違いで「人事の失敗が、あのようなみじめな戦さにしたといってもいいでしょうね」と語っている(艦長たちの太平洋戦争 佐藤和正 光人社)
山本五十六は合理的な思考ではなくギャンブラーとしての勝負勘に基づいて作戦をたてて惨敗した。

 当時の日米の主要なリーダーを比較するとその資質の差というか人間としてのレベルの甚だしい違いを痛感させられる。大人と子供くらいの差があったのではないか。
源田実のことを同期の柴田武雄大佐は「源田のように実戦に通用しない、人をたぶらかす魔力が強いだけで、実際的には弱い欠陥頭脳者が作戦を指導したので、勝てる戦に負けたのだ」とまで極言している。(日米海戦史 田村正三  図書出版社)
山本五十六を連合艦隊司令長官にした米内海軍大臣は「金魚大臣」とも言われていた。その意味は見かけは派手だが煮ても焼いても食えないということだそうである。
杉山元陸軍元帥は押した方に動くので「便所の戸」といわれていたそうである。
東条英機を著名な右翼学者の大川周明が「下駄」と評したのは有名な話である。下駄は足の下に履くには便利なものだが、頭に乗せて使用するものではない。東条が指導者として国民の上に立つ資格も能力もないという意味である。金魚や下駄や便所の戸でマッカーサーや、ニミッツ、スプルーアンスなどの超一流の将軍を相手にして勝てるはずがなかった。
東条は首相になってから食物の配給が庶民にちゃんと行き渡っているかを確認するために残飯を見て確認しようとゴミ箱の中を視察して回ったので「ゴミ箱宰相」とも言われた。尊敬の念を込めて言われていたとは思えない。元々役所の戸籍係が向いているといわれた程度の人物である。

「東条程度の人物のやれることは知れている。彼は、戦国乱世の中にのしあがった織田信長でもない。幕末の混乱に生き延びて明治政府を作り上げ、その独裁者になった大久保利通でもない。幼年学校、陸士、陸大と、鋳型にはめられてポンと押し出されたその他大勢の人間の一人である。
片寄った狭い知識しか持ち合わせていない軍部という封鎖社会で、派閥のたたき合いで多くの人が消え去ったあとに生き残り、少し頭が切れるとか、実行力がある、努力家である、まじめで謹厳である、とかが目立っただけで陸軍の最高位に出世していった・・・」(松岡英夫 東条英機論 より引用 一億人の昭和史 3 太平洋戦争 毎日新聞社)

 昭和の帝国海軍では年功序列と情実および不合理な感情に基づく非科学的な人事が大勢を占めていたため、開戦時のハードウェアの点での優勢さを生かすことができなかった。
武器の性能に相当な差があっても、例えば戦闘機などの場合、パイロットの技術の差が大きければカバーできるそうである。
極端なたとえ話であるが、もし宮本武蔵をタイムマシンで呼び出して私と決闘すると仮定して、私が上野の国立博物館に秘蔵してある、おそらく時価一億円はくだらないと思われる源頼光が大江山で酒天童子を斬った刀剣との伝承がある国宝の「童子切安綱」を用い、武蔵はどこかの観光地のみやげ物屋で二千円くらいで売っている木刀で立ち会った場合、向き合って数秒後には私は武蔵の木刀で打ち殺されるだろう。いくら優れた武器を持っていてもそれを扱う人間がそれを生かせる能力を持っていなければ役に立たないということである。

 山本五十六という人間について知れば知るほどあの時期に日本側によって暗殺されることは当然であったという私の考えは一貫して変わらない。
山本五十六に関係していた幾人かの高官達の証言を読むと何か隠しているという印象を私はぬぐえないのである。

 一例を挙げれば海軍少将高木惣吉は東条政権末期に神重徳大佐、小園安名大佐、渡名喜守定大佐、矢牧章大佐、伏下哲夫主計中佐や後に高松宮宣仁親王や細川護貞なども加わった東条暗殺計画を立案した人物であるが、その著書「自伝的日本海軍始末記」のなかで「永野総長のごときは、山本元帥を殺した一事だけでも、引退謹慎すべき責任者である」と明記しているが、私にはこれが単なる比喩とは思えないのである。
2010 09/28 20:44:55 | none | Comment(0)
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 終戦四カ月前の昭和二十年四月七日、空前絶後の巨大戦艦大和は沖縄特攻作戦の途上三百八十機を超える米軍機の猛攻を受け三時間の激闘の末、東シナ海で撃沈された。米戦艦と一度も砲火を交えることなく誕生してから僅か3年半の短い生涯であった。
この時大和が撃墜できた米軍機は僅か十機であったという。あまりにも少なすぎるので間違いではないかとも思われるが、この時に攻撃してきた米軍パイロットの技量と勇敢さは大和の艦橋から見ていた森下参謀長が「見事なものだ、おそらく米軍きっての精鋭であろう」と感心したほどだったので、やはり事実かもしれない。大和を沖縄に出動させた理由としては沖縄の海岸に乗り上げて陸上砲台となって米軍を攻撃すという狙いがあったが、このような殆んど実現不可能な非現実的な理由よりも歴史上最大最強の戦艦を建造しておいてこれを満足に活躍させないうちに港に浮かべたまま敗戦を迎えることはできないという海軍の面子が大きかったようである。それにしても無駄な使い方をしたものである。大和を沖縄の海岸に乗り上げさせ陸上砲台として上陸した米軍を殲滅するという計画はもっと早い時期―天王山といわれたガダルカナル攻防戦で実施していれば太平洋戦争の結果は変わっていただろう。
 
1200隻の艦船と18万2千名からなる米艦隊が待ち構える沖縄に到達できる可能性は事実上ゼロであったがガダルカナルの場合は一時期、苦境に陥った米軍が撤退することも考えていた時期に大和を投入すればガダルカナル争奪戦は少なくとも一時的には日本が勝利を収めることができたであろう。ガダルカナルでは駆逐艦を利用して武器や兵員の輸送を行い大きな被害をだしたが、大和を利用すれば防御力がはるかに強大なので必要な武器や兵員の輸送にかなり成功したのではないだろうか。当時、戦艦は時代遅れだと言われていたが、このガダルカナル争奪戦において幾度か戦艦同士の決戦は行われている。大和は米国の最新鋭の戦艦より射程が2000メート以上長かったからアウトレインジで攻撃してほとんどの戦艦を沈めることができたであろう。
 
 只何といってもこのとき連合艦隊司令部は「実は燃料が無い」とか狭い海域なので大和では座礁する恐れがあるとかいって出て行こうとしなかった。(参考文献:帝国海軍はなぜ敗れたか 御田俊一 芙蓉書房出版)

 「日本海軍は、大和の戦力『世界一の艦砲と重防禦』を生かした作戦を考えず、後方で漫然と旗艦任務に充てているうちに、ついに使用の時期を失った。大和は二十年四月七日、航空機の掩護なしに沖縄特攻作戦に出撃し、悲運の最期をとげたのである。
大和の悲運は、時代遅れだったのでも、性能的に問題があったのでもなく、その持てる力を十分に引き出すような使い方が全くなされなかったことにあるというべきであろう」
(写真記録 昭和の歴史3 太平洋戦争と進駐軍)小学館


 山本は、昭和十五年四月に全国地方長官会議に出席したお歴々を旗艦「長門」に案内した際、「一旦緩急あるときは常に最前線に立って全艦隊を指揮する」と語ったところ、それでは長官が危ないではないかと問い返された。これに対して山本は次のような指揮官論で応じている。
「これは何も私の考えたことではない。二十七八年の役の黄海海戦以来、長い間海軍の伝統なのだ。東郷元帥も軍艦三笠の艦橋に立って戦われた。指揮官が先頭に立たなければ、海戦は出来るものではない」
(山本五十六 田中宏巳 吉川弘文館)
全然言行不一致であり、詐欺と言ってもよいレベルであると思う。

「その作戦はつねに、内容がともなわないわりにゼスチャアが大きい。軍政家に向いた方であったろう」草鹿龍之介
ハワイ作戦の際、総指揮官として直接真珠湾の上空に飛んでいった淵田美津雄はいきなり「山本五十六なんて凡将なんだよ」と吐き捨てるようにいった。
昭和十七年十二月から十八年五月まで戦艦大和艦長だった松田千秋は「あの人はギャンブルが好きだったでしょう。本当はあまり強くなくて、ハッタリ性の強いものだったというが。あの人の立てた作戦はすべて、見た目はハデだがシロウト考えでね。それも国力を無視した、イチかバチかのギャンブルみたいなものだった。それから、真珠湾奇襲をやって航空機こそ兵器の主役であるということを、敵側に教えてしまった。航空機の重要性については、アメリカ側もそれほど切実に考えていたわけじゃないんだから」

昭和十二年海軍次官時代、かつての教え子である南郷茂章少佐が、中国南昌上空で戦死したときのエピソードが知られている。南郷家に弔問に訪れた山本大将(当時中将)は、父親の挨拶を伏目がちに無言で聞いていたが、突如体を前に倒して、まるで幼児のごとく大声あげて慟哭し、大勢の弔問客が見守る中、ついにはその場に横ざまに打ち倒れた。しばらくたって起き上がったが、ふたたび激しく哭き伏して、同じように倒れたという(反町栄一著『人間山本五十六』)
歴史群像太平洋戦史シリーズVol 7 ラバウル航空戦 学習研究社

 私は山本五十六は役者に向いていたように思う、その世界に入っていればかなり成功したにちがいない。軍人になるべき人ではなかった。まして連合艦隊司令長官などには絶対なってはいけない人間だった。人目を引く派手なゼスチャーと一見誠実そうな風貌を利用して、弁舌巧みに勇猛かつ人情味のある提督という役をずっと演じ続けていた幼児性の強い人間ではなかったかという気が私にはしてならない。

山本五十六の裏の顔を暗示する見逃せない証言が「二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房」に記述されている。五・一五事件で犬養毅首相を暗殺した罪で下獄した古賀清志らが出獄して山本五十六海軍次官のところへ挨拶に行くと「御苦労であった」と、副官を通じて一人千円ずつ(筆者山口註:平成二十六年の価値では五百万円くらいか)与えて慰労したという。犬養首相は清廉潔白な人柄で知られ、組閣してまだ半年ばかりしかたっていなかった。国民の人気も非常に高かった首相である。拳銃を構える兵士たちに臆することなく「話せばわかる」と説得しようとした老宰相を「問答無用」と一方的に射殺するとは何事であるか。そのような無慈悲で浅はかな犯人たちに対して「御苦労であった」とは何たる言い草か。
このエピソードについては古賀不二人(古賀清志から改名)が戦後「昭和史探訪」という番組の中で司会の三国一郎の「一三年に仮出所。それからどうなさいました」という質問に対して「当時山本五十六元帥は海軍次官で、お礼の挨拶にいったら、当座のこづかいと言って一○○○円ずつくれました。当時近衛文麿内閣の書記官長の風見章、これも一○○○円ずつくれました。当時の一○○○円は大きいですものな」と答えている。(昭和史探訪  2 日中戦争 日曜日の弾痕「五・五一五事件」古賀不二人 番町書房) 古賀のこの話が事実であるとすると山本五十六の背後の闇が一層深くなると思われる。また風見章はソ連のスパイであったゾルゲの逮捕事件に関連して処刑された朝日新聞記者尾崎秀実の親友であり、尾崎を近衛内閣のブレーンの一人として引き入れた人物である。
2010 09/27 20:19:28 | none | Comment(0)
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 芥川龍之介いわく「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、いわゆる光栄を好んだりするのは今更ここに言う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。ことに小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当たることである・・・勲章もーわたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのだろう。(侏儒の言葉):
「勲章なんて人を沢山殺したからもらえたんだろ」と芥川は言いたかったのではないか。

 芥川が「将来に対するボンヤリとした不安」を感じて自殺したのは昭和二年なので芥川は山本五十六も東条英機も知らなかっただろう。それでも既に軍人のレベルの著しい低下に気づいていたようだ。
太平洋戦争の時の軍部が幼稚で常識に欠けていたことは国民に竹やりで米軍を迎え撃つ訓練をさせたことでも明らかである。自分たちだけでは良い知恵もでないくせに国民の自由な言論を徹底的に弾圧した。そもそも明治天皇御即位の時に明らかにされた五箇条の御誓文のなかに「広く会議を起こし万機公論に決すべし」とある。
徳川幕府でさえ黒船来航の国難に際して広く町人からも意見を求めた。太平洋戦争の時の指導者は明治の時よりはもちろん徳川幕府末期の頃よりも劣っていた。結果から判断する限り少なくとも国防という観点から見た場合、帝国大学や陸軍、海軍大学校の教育はほとんど役に立たなかったと思われてもしょうがないだろう。むしろ有害だったかもしれない。私は帝国大学や陸軍、海軍大学校の卒業生が増えるにしたがって日本は衰退していったように思える。少なくとも両者は時系列的には一致している。

 帝国大学を出た井上準之助と帝国大学で学んだことのない高橋是清という二人の大蔵大臣を比較することは良い例であろう。下落していた円の実勢価値を無視し旧平価で金本位制に復帰して金解禁を実行した(円の人為的な切り上げ)井上準之助と、取り付け騒ぎの起きた時に裏面の印刷していない紙幣を大量に印刷させてそれを銀行の窓口に積み上げさせることによって恐慌状態になった預金者を沈静化させた帝国大学をを卒業していない高橋是清という二人の大蔵大臣の能力と功績の差は歴然としている。
井上準之助蔵相は実際には円の価値がドルに対して旧平価の時より下落しているのに新平価を採用することなくーつまり人為的に円高にした。円高は外国の買手からみると日本製品の購入価格が上がることであるから日本の輸出を減少させ輸入を増大させるーつまり日本が保有している金(金、金貨)の国外流出もたらすことは自然の道理である。そして金本位制は基本的に金の保有量に応じて紙幣を発行するものであるからその保有量の減少は必然的に紙幣の流通量の減少をもたらすことになった。輸出を増やすためには輸出価格を下げなければならなかったので一層不景気に拍車がかかった。つまり、井上準之助が予言した金解禁をすれば景気がよくなるというのは嘘だったわけである。金解禁前にこれに気づいた新平価による金解禁論者(円の実勢相場に基づいて円と金の交換比率を決める)を「食うために新平価解禁を唱えている」と口汚く批判した井上準之助が高橋是清より優れているのは学歴のみのようにも思える。
*(金本位制とは通貨の額面と一定量の金(きん)の量を例えば一円=金750mgというように結びつける制度で(法定平価)、この制度のもとで発行される通貨は法律で定められた等価関係に基づいて無制限に金(きん)と兌換する事を中央銀行が保証する制度である。
この法定平価は固定的なもので為替市場の交換レートの変動による影響は受けないため、為替相場はおおむね法定平価の水準に安定する。
故に金本位制を採用するメリットは為替相場の極端な乱高下を防止できるため為替リスクを避ける事ができるということである。
変動為替相場制度のもとでは例えば、一ドル100円のレートの時に一つ10ドルの商品を10個米国から輸入する契約をして、いざドル建てで決済する時に極端な円安となり円の価値が購入契約したときの半分になってしまった場合、十個につき本来は1000円払えばよいものを2000円として計算しなくてはならなくなり利益は吹っ飛んでしまう。
この場合でも、米国側の立場で見れば、あくまでも10ドルという価格はそのままで、金(きん)を基準にして見た場合、契約時とまったく変動はないのであるから日本側としては通貨を金(きん)に変えて輸入代金相当分を現送して決済すれば損害を防げるということになる。但し、実際の金本位制度下においては法定平価と著しくかけ離れた為替相場にはならない。)

 山本五十六、東条英機、井上準之助の三人に共通していることは自分の考えが一番正しいと思い込み、それに反する他人の意見は排除しようとすることであろう。

陸軍少将田中隆吉は米軍の空襲に備えて早急に十分なる防空施設を造営することを東条英機首相に進言したが、東条は「英米空軍がドイツに対して行ったような爆撃を日本に行うことは不可能である。それは貴官の取り越し苦労である」と一蹴されたことで辞表を出して陸軍省の兵務局を去り、昭和二十二年に「敗因を衝く」という著書を上梓した人物である。そのなかで東条の人物を次のように評している。

「私の親友大橋忠一氏は満州以来、よく東条氏を知っている。また第二次近衛内閣では、外務次官として外交問題に関し東条氏と折衝した人である。
氏は『東条氏の頭の中には脳味噌がない。感情ばかりである』という。松井岩根大将は『東条にはどうも私心があって困る』という。私が東条氏の部下として働いたのは、その関東軍参謀長時代に六ヵ月、兵務局長としてニ年弱である。
私の見るところでは、東条氏は非常に愛憎の念が強く偏狭である。自己を信ずる事が厚く、その行うところは独善である。直諫の士を斥けて阿諛佞弁の徒を好む。故に大橋氏の言は当っている。一見しからざるがごとく見えて極めて虚栄心が強い。また立身出世を喜ぶ。その地位を維持せんがためにあらゆる手段を講ずる。ひとたび権勢の地位に立つと、一切の権力を自己の保身に利用する。公よりもまず自己が先である。東条内閣の末期に、氏が行った憲兵警察による恐怖政治はその実証である。私心多しとする松井大将の言は実にこれを指す。事務に堪能である。努力もする。しかしそれは眼前の小事に限る。ある人はかつて、『東条氏は村役場の戸籍吏が一番適任だ』と言った。いかなる小事でも手帳に書く癖があり、書類の整理はその最も得意とするところであるからである。
小事に拘泥して物を大局から判断する能力は零である。経綸のない所以である。従って宇垣大将の言は当る・・・・・東条氏の性格かくのごとしとすれば、これをして誤りなからしむるためには、その周囲には特に剛直にして直諫の士を必要とする。書記官長の星野氏、海軍の嶋田氏、企画院の鈴木氏、大蔵省の賀屋氏、商工の岸氏、文部の橋田氏。司法の岩村氏、厚生の小泉氏ら、ともに上司の命令に忠実なる能吏ではあるが、剛直よく一身の栄辱を度外視して東条氏に対して忠諫をあえてするの気概は微塵といえども認め得ない人々である。いわんやこの中には、さきに述べた東条氏の性格とほとんど相似た性格の持ち主もある。ある人は東条内閣を評して粗製急造内閣と罵った・・・・・

近代戦の特質は航空機の質と量とが、その遂行に重大なる役割を演ずるところにある。
大東亜戦争もまたこの例に洩れることは許されない。したがって、わが日本本土の防空施設のいかんは、戦争の勝敗を左右する大問題である。しかし遺憾ながらこれに対する陸海軍首脳部の関心は、ほとんど絶無に近かった。彼らは口を開けば常に言った。『未だ寡聞にして爆撃によって破れたる国家あるを聞かぬ』と。また曰く『成層圏飛行機の出現を見ざる限り、日本本土の爆撃は絶対に不可能である』と。東条首相は満々たる自信をもって『日本の本土は、たとえ敵の爆撃を受くるも絶対に大丈夫である。それはドイツと異なり、敵の基地が遠隔の地にあるのみならず、日本の建築物は欧州のそれと異なり、平面的にして木造なるが故に、被害はドイツのごとくはなはだしくない』と言った。海軍の平出大佐は、『無敵海軍の存在する限り、わが本土には、一機といえども敵の侵入は許さない。防空演習の実施は、帝国海軍を侮辱するものである』と豪語するを常とした・・・・・」

以上、中公文庫の「敗因を衝く 田中隆吉著」より引用。


 また、終戦後最初の東久邇宮内閣で国務大臣を務めた小畑敏四郎中将は東条について「東条は、連隊長止まりがせいぜいで、師団長にもなれる人物ではない。そんな人物が、この大事な現時局に、一国の総理大臣になったのだから、日本の悲劇は生まれたのだ。東条は、一度、こうと思い込んだら、誰が何といおうとも聞く耳を持たぬ頑固で、無理押しをする面がある・・・・・」と評した。(わが東条英機暗殺計画 津野田忠重著 徳間書店)

 小児に似ていたのは高級軍人だけではなかった。当時の政治家や官僚も似たようなものであった。実際、当時の高級軍人や政治家および官僚の知的精神的幼稚さには驚かされる。その事実を証明するための実例を挙げれば殆んど無限に出てくるであろう。

 昭和天皇が終戦後、まだ少年であった皇太子に敗戦の原因として「科学を軽視したこと、明治の大山巌や山本権兵衛のような常識のある軍人がいなかったこと」を挙げられた。「常識がない」−簡潔ではあるが実に痛烈な批評である。およそどの分野でも常識の無い人間なんて使い物にならないだろう。

 軍人に常識が欠けていた事を認めていた将軍もいる。戦争中フィリピンに報道班員として派遣されていた今日出海(初代文化庁長官で作家の今東光の実弟)は兵団長三上中将から「君から軍人を見るとどうかね。これも変人組か、非常識な?」という質問を受けた。「これは困った質問だ。軍人の居候をしていて、非常識呼ばわりは出来ぬ。けれども確かに常識を持った軍人は少ない。幼年学校、士官学校の教育は世間から隔離し、常識を追放することに努めたようなものだ。『私はここへ来てつくづくアメリカの戦争振りを見ていると、決して特別な攻撃法を用いていないように思うのです。常識と申しますか定石と申しますか、そんな戦争の門外漢の私でも気がつく戦法だと思います。それが独逸(ドイツ)の精鋭を破り、日本をここまで押す力を持っているとすれば軍人にもまた常識が大事なものと考えるのですが・・・・・』『無論大切だね・・・・・日本の軍人もこういうことは戦争が済んでから、ゆっくり考えなけァならんね。しかし常識に非常識が打ち勝つということは原則的にもあり得ない。これァ自明だ』
 中将閣下の温顔が曇ったようだ。軍人も将官まで来れば常識を備え、好々爺になるのだが、佐官までは非常識が武器なのだ。官僚も大学を出て高等文官試験を受けるまでは、雑誌一冊読む暇もなく勉強に追われ難行苦行して一人前の役人になる。二十七、八歳の事務官が石油、石炭、繊維の統制の元締めであり、私と同年の男が文化全体の元締めだ。何も解らぬからやれるので、解ったら手も足も出ぬという不思議な逆説の上に日本がのっているのでは、どんなことをやり出すかどんなことになるか判ったものではない」(山中放浪 今日出海著 中公文庫)

 実際は軍の上層部にも常識を備えた智勇兼備の優れた軍人が少なくなかったことは当時の記録を見ればわかることである。問題はなぜ彼らでなく四流、五流の人材グループが主導権を握ることができて、しかもその体制が事実上日本が壊滅するまで続いたかということである。それはおそらく今日も日本の組織において同様の現象がしばしば見られるのと同じ理由であったろう。

 「幕末、内憂外患交々(こもごも)至るや、憂国の青年武士たちは、地位も名誉も金も命も捨てて救国のために立ち上がり、旧体制幕府を倒して明治維新を成し遂げた。その多くは維新の中途に倒れたが、生き残りの志士たちにより、明治天皇御統率の下、国家体制を確立し、富国強兵以て外患をことごとく突破し、僅か四十五年にして日本を世界の一等国たらしめた。
 これらの人々は、生きた政治・軍事その他を実践と実戦の中に自ら体得したが、指導者たるべき後継者の養成を誤り、地位や名誉を目標とする月給取りの文人や武人を養成して国家の指導に当たらしめたため、それより、わずか三十年そこそこで、日本は未曾有の大敗戦となり、六年八ヵ月におよぶ旧敵国の占領支配を受くるに至った・・・民間の維新運動者たちは、軍に期待したが、実は軍こそが旧体制の最たるものであった。ここでは、実戦の実力などは昇進・栄達には何の関係もなく、平和時の机上学問による点数によって一生の階級が決まるような、たわけた制度だったため、立身出世の有能者、実戦と国家指導の無能者を指導階級たらしめ、ついにこのような結果となったのである」(常岡瀧雄 世界戦略研究所所長 元陸軍大尉 歴史と人物 昭和五十六年二月号)

 「わが海軍は、敗戦壊滅のドタン場まで、ただ精勤、保守的、官僚型、小まわりのきく事務的人材が幅をきかし、上司に苦言を呈したり、型破りの独創的な考えをだしたり、反骨をしめしたりする人物をすてて顧みなかったのである」(自伝的日本海軍始末記  元海軍少将高木惣吉著 光人社NF文庫)

「陸海同額予算時代になると、軍隊はどうしても乱を好むようになる。厚生省は病人が多いほうがうれしいとか、文部省は落ちこぼれが大好きというのと同じである。
本来は、こうした職業にある人ほど、エゴイズムを抑えなければならない。大局的にみて譲り合えるという人物が、国家を背負う本当のエリートである。賢いだけでは務まらない。品格や人格を合わせ持った人でなければいけない。
戦争後半世紀を経た今も、ただ公務員試験にさえ合格すればいいという考えが尾をひいている。国益のためではなく、仲間や自分のエゴを満たすために才知を発揮するような人間ばかりになってしまった。私の友人たちを見れば一目瞭然だ。役人でも正論を言うと出世がストップしてしまうのである。一方、がむしゃらに予算をとったり、先輩の天下り先をつくった人間が出世する。今も同じ事を繰り返しているのである・・・組織は、どうしても上層部に仲間ができてしまう。仲間に入れない人間は、実戦で消耗品にされてしまう。派閥に入っていない人は仲間外れにされ、派閥に入って言い訳がうまければ出世する。仕事そのものではなく、忠誠心を売り物にするわけだが、結局そんな組織は丸ごと沈没する。日本海軍、陸軍、外務省、大銀行、大企業その他」
(組織の興亡  日下公人 三野正洋 ワック出版)

 「今の日本は、官僚主導国家、つまり政治が不在で官僚が国をコントロールしていると言われるが、実は戦前もそうだった。政治が不在で、軍部がコントロールしていた。その結果どうなったかというと、当時の日本、つまり大日本帝国は亡びたのである。同じことが起こらないとどうして言えよう。いや、このままでいけば確実に起こるだろう」

「小室直樹氏は、もし日本が中国と停戦をし、そのことで浮いた予算を全部太平洋戦争のほうに回したら、あるいは勝っていたかもしれないということを言っている。これが当然至極の考え方であって、戦力でも予算でも、特定の目的を達成しようとすれば、一極に集中しなければ勝てない。
簡単に言えば、日米開戦の時点で、陸軍、つまり大日本帝国は、何としてでも中国との停戦を実現するべきだったのだ。
その上でアメリカと戦争状態に入るならば、まだしもリーズナブルな選択と言える。ところが、当時の日本は、日ソ中立条約という形でソ連に手を打っただけで、肝心の戦争状態にある中国との講和は、陸軍自らが潰す形で消し去ってしまった。つまり、幼稚園児でもしないような馬鹿な判断を下し、国を滅ぼしたのが、あの戦争の実態であったのだ。
では、当然の論理的帰結として、その戦争を主導した日本軍、特に陸軍の最高首脳は、馬鹿ばかりだったということになる。これは論理の帰結として、そうならざるを得ない。

 「今、まさに辻政信(*1)のような人間が日本を動かしている。それは、大蔵官僚を中心とするエリート官僚である。本来、官僚はスタッフであるから、国政全体の立場から言えば、国を動かしてはならないはずだ。あくまで政治家の命令、つまりは国民の命令における公僕として動かなければならない。ところが、実際はどうか。ちょうど、国土や国民を守るべき軍隊が暴走して日本を亡ぼしたように、今は国民の忠実な公僕であるべき階層が、国民を苦しめるようなことをやっている・・・かつて、日本の政治家は二流だが官僚は優秀であるという神話があった。実は、昭和十年代も同じことが言われていたのである。『日本の政治家はろくなのがいないが、軍人は優秀である』と。そして、その「優秀」な軍人は、日本のすべてを支配することに成功し、思い通りに国を動かした。その結果、どうなったか。日本は亡びたのである。

*1「参謀本来の職務を逸脱し、独断専行を重ねた人物の典型が辻政信である。辻政信は、陸軍幼年学校を二番、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を三番で卒業した秀才である。彼は昭和十六年(1941年)七月に大本営作戦課の戦力班長という要職に就いたが、戦争中に何度か彼にあったある人物は「私はこの男は間違いなく一種の精神異常者だと考えた」という回想を残している・・・実際、日本陸軍がかつて行った無謀な戦いや市民の虐殺といった恥ずべき行動には、たいてい辻政信の名前が登場する・・・昭和十四年(1939)に関東軍とソ連・モンゴル軍が衝突した「ノモンハン事件」が起こった当時、辻少佐は関東軍の作戦参謀を務めていた。彼はそこでノモンハン方面の作戦担当をしていたが、もともと曖昧だった国境線をめぐる小競り合いが、彼の強硬論によって大規模な軍事衝突に発展した・・・また辻少佐はたびたび前線に乗り込み、現地部隊に介入を繰り返している。
『此の男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也』とは辻の上官であった山下奉文の言である。

(日本軍の教訓 日下公人  PHP)


 元官僚出身の作家・堺屋太一氏も、現在の官僚の問題を次のように指摘している。
第一に先見性がまったくないこと。
第二に情報収集能力がないこと。
第三に事務処理能力が世界最低であること。
第四に自浄能力がまったくないこと。そして最も重要なこととして、「失敗した人がどんどん出世している」と指摘している。これが最も重要なことである。

 官僚というものの本能的遺伝子の中には、「民というのは愚かである」という規定がある。だからこそ、「愚民を優れたわれわれが指導しなければならない」という思い込みから離れられない。そしてその背景には、自分たちはきわめて困難な試験を若いうちに合格したエリートであるという誇りがあるのである。しかし、こんな誇りなどは、まさに塵芥と同じで意味のないものだ。
たかだか二十一、二歳の若者がペーパーテストに受かったというだけのことであり、それを生涯の履歴にすることがおかしいのである。今、生涯の履歴と言ったが、読んで字のごとし、けっして大げさに言っているのではない。たとえば大蔵省などは、今でも国家公務員上級試験の上位一桁の人間を好んで採用し、そしてその好んで採用した人間の中から、さらに主計局へ行くエリートたちを決定する。
そして、官僚同士は、おれはあの時何番だった、お前はあの時何番だったということを最後まで自慢しあうのである。実に子供っぽい話である」(日本を殺す気か 井沢元彦 黄金文庫)

 実際のところ、二十一、二歳の年齢で到達できる知識のレベルなんてたかが知れている。試験では法律や英語の問題が出題されたろうが、その試験に合格したから即弁護士の助手や通訳、翻訳家として生計を立てることのできるレベルであるかどうかは本人に確認するまでもないことである。


2010 05/28 23:09:53 | none | Comment(0)
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 山本五十六の遭難死の裏には山本を見限った陸海の首脳部による陰謀があったのではないかと疑われる状況証拠として次のようなものがある。
撃墜されてから現場近くの日本軍の救助隊が至近距離(直線距離で1キロ以内)の現場に到着するまで丸一日以上かかっており、海軍の最重要人物の捜索としては異常に遅いこと。つまり、一刻も早く不時着した現場に到着して救出しようと努力した形跡が無い。
翌日の午後、最初に現場に到着した捜索隊は道路設営隊の陸軍の一行で、それも海軍から依頼されたわけではなく一式陸攻が撃墜されたのを目撃したため自発的捜索に向ったものである。故に最初は撃墜された機に山本五十六が搭乗していたことも知らなかった。
山本五十六がおそらくまだ生存していた可能性の高い十八日(撃墜当日)の夕方に水上偵察機から地上の陸軍の捜索隊に対して早々に「生存者の見込みなし」という内容の連絡筒が投下されている。このような事故の場合は身動きできなくても生きている場合はありえるのに飛んでいる偵察機から見下ろしただけで近くで確認したわけでもないのに、いかにも不可解な行動である。まして山本五十六は腰掛けたままの姿だったのだから、本当に上空から確認したのなら「生存の見込みなし」などという報告はできなかったはずである。

山本五十六の遺体に残されていた銃痕は米軍の戦闘機の機銃によるものではなく、小口径の拳銃のものであったこと、
すなわち機上戦死という公式の記録は嘘で、最初に検視した軍医(蜷川親博陸軍大尉)のメモ等から判断しても墜落後約24時間は生存していたと思われる山本五十六の救出の遅れの責任を回避するため、機上戦死をデッチあげたと思われること。
 山本五十六の搭乗機の少なくとも尾部の機関砲が取り外されていたか発射できないようになっていた可能性が高い。
生き残った二番機の操縦士林浩二等飛行兵曹も頭上を敵機の放つ曳光弾が山本機目掛けて走っていくのを見ているが反対に山本機から敵機目掛けてのものは目撃しておらず、山本機を撃墜したレックス・バーバー陸軍中尉も「一番機の尾部銃座に銃も人影もなく、一発も反撃されなかった」と証言しているからである。
 最初に墜落現場に到着した陸軍の捜索隊の長であった浜砂盈栄(みつよし)少尉も墜落機(後部)には機関銃は見当たらなかったと証言している。
(参考文献 山本五十六の最期 蜷川親正 光人社/検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会)蜷川親正氏は最初に山本五十六の死体を検死した軍医の実弟でご本人も医師である。 
巡視のスケジュールが訪問予定の各部隊に宛てて暗号を用いて打電されたが、これがもっとも解読されやすい暗号であったため電信員が驚き、間違いではないかと通信参謀に問い合わせたが「そのままでよい」といわれたこと。
山本の巡視予定だった方面は当時、約1ヶ月間で20回の偵察や襲撃を受けており、山本の護衛機が僅か六機であることを知っていた各部隊の司令官が実情を山本一行に伝えて護衛の強化や自分達の方から護衛を申し出なかったことは不自然であること。事実山本に別の機で同行して同様に撃墜されて生き残った宇垣纏長官は「あんな危険なところだとはしらなかった」と述懐している。

 この方面は、山本長官視察前の一ヵ月に二十回、航空偵察や空襲を受けている・・・ブイン方面は、海軍の最高指導者が薄い護衛で視察に行くような状況ではなかった。遭難当日も2機の米軍機が偵察に来ていた。
 特に山本五十六遭難死の前日の四月十七日には最初の着陸予定地ブインにB−17と艦爆計十数機が来襲していた。
「不可解なのは第二六航空戦隊司令部の対応である。司令部はブインにあり、司令官上阪少将は当然同方面が受けている空襲状況を知っていたはずである」・・・

ラバウルからの電文の中には、長官一行の行動予定に加えて「但シ各部隊ハ当日ノ作業ヲ続行ス」というただし書きがあった・・・
 搭乗員編成についても、疑問がある。空戦経験が豊富な人を選んだわけではない。九六式戦闘機から零式戦闘機にかわったばかりの人も入っている。さほど経験を積んでいない飛行兵長が二人入っている・・・何を基準に六人を選んだのか全くわからない」
「計画を立案した連合艦隊司令部、直接携わった南東方面艦隊司令部、司令部がブインにあって視察に関する全航空機を統括・指揮する立場にあった第二六航空戦隊司令部、すべてに大きな責任があった。しかしだれも責任を追及されていない」
(参考文献 検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会) 

 「現地ブイン基地においては、長官巡視の当日、朝五時二十分、六時二十分と相ついでP38の来襲があり、その前日、前々日にも敵機B24の激しい夜間爆撃を受ける等、連日連夜の敵機襲来で滑走路付近等かなりの被害が生じていたことは、当時の守備隊の記録によっても明らかである。かかる現地の状況報告が連合艦隊司令部に届いていなかったとは到底考えられないが、宇垣自身は当時この時期に運悪く病気入院中であったせいか、この事を承知していない。いずれにしろ、幕僚たちが『危険なし』或いは『危険少なし』と判断した根拠はよく分からない」(ブーゲンビリアの花 衣川宏著 原書房)

山本五十六に同行する予定だった吉田一従軍カメラマンが直前に搭乗を強く拒まれていること(証言・私の昭和史)等。
山本五十六の搭乗した一番機は宇垣長官の搭乗した2番機と同じ一式陸攻で2番機には計12名が搭乗していたのに対して1番機は11名だったので吉田カメラマンが搭乗する余裕はあったはずである。これも山本五十六一行が米機によって撃墜されることは確実だったので救ったのではないだろうか。

 宇垣纏が遭難後、「あんな危険なところだとは知らなかった」と言っていたということは山本五十六もそう思っていた可能性が高い。つまり、本当はどれだけ危険なところであるかが故意に山本五十六に伝えられなかったのではないだろうか。すなわち米軍機のしばしば出没する危険地域に山本五十六を将兵の慰問という口実で誘き出して米軍の手によって殺させたのではないだろうか。

 上記の数々の不可解な事も山本五十六の搭乗機を米側の手によって撃墜させる謀略があったと仮定すると納得できるように私には思えるのだが。

 高松宮の当時の日記の記載を見ると山本五十六の化けの皮は既に剥がれていたようである。

「一課長の話  山本長官「い号」作戦ニテ「ラボール」ニ出ルコトハ好マレズ。幕僚室ニ来ラレタ時ナド「ラボールニ出ナクテハナラヌカ」ト二、三度云ワレシ由。主将は軽々シク出カケルモノデハナイトノ考エニテ、愈々ト云フ時ニ陣頭ニ進ムベキダトノコトナリ」

「総長の所見ニテハ、山本長官戦死ハ海軍ノ戦争遂行オ左右スルモノニハアラズ。「ミッドウェー」等ニツイテモ海軍ハ都合悪イコトハ発表セズト世間で云ヒツツアレバ・・・」
(高松宮日記 高松宮宣仁親王 中央公論社)

 今日までのところ、山本五十六の遭難が陸海軍上層部の反山本派による米軍を利用した暗殺であったとの決定的な証拠は発見されていないが、ミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦で致命的な敗戦を喫した作戦の最高責任者であった山本五十六が日本側に暗殺されても不思議ではない状況だったことは確かである。

 要するに大本営発表ではない真実のミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦の敗北の事実と山本の臆病な戦い振りを知っていれば「山本では駄目だ」という結論が出てこないほうがおかしい。戦艦大和に引きこもったまま前線に出て行こうとしない山本五十六をバカにしていたパイロットも少なくなかったようである。

 海上護衛隊参謀として台湾の護衛隊司令部にいた当時陸軍少佐の堀江芳孝は山本五十六戦死のニュースが入って来たとき周囲の護衛隊の将校、下士官、兵が一斉に「ザマ見ヤガレ、馬鹿野郎」と公然と罵るのを目の当たりにして愕然としている。戦争遂行に不可欠な戦略物資輸送のための輸送船団が満足な護衛がつけられないためにみすみす沈められていく現状に彼らの怒りは大きかったのである。
(参照文献 歴史から消された兵士の手記 土井全二郎 光人社)

 不可解というより奇怪とさへ思える当時の海軍の船団護衛方式を当時の記録から知ることができる。ほんの一例をあげると「一九四ニ年五月に入り南方の各占領地域の各種産業の復興のために、日本から大勢の各種業種の専門家が派遣されることになった。そして彼ら大勢は特別に組まれた船団の中の二隻の客船に分乗し、五月七日に門司郊外の六連島泊地を出発した。
この船団は第『109船団』と呼ばれ、客船大洋丸、客船吉野丸そして三隻の貨物船で編成されていた・・・・・
吉野丸と大洋丸の二隻の客船に分乗していた派遣技術者は、石油、セメント、土木建設等の業界の専門技術者、及び占領地域の行政を司るために派遣される政府役人や民間企業の専門事務職員等であった。そして三隻の貨物船と吉野丸には陸軍部隊の補充要員や軍需品、あるいは産業復興工事に必要な機材や材料も大量に積み込まれていた。しかし、出発翌日の五月八日午後七時四十五分、船団の中で最大の大洋丸が米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。
位置は九州西南沖の男女群島の南南西百六十キロメートルであるが、積み荷のカーバイトや工事用爆薬の爆発などによって船体はたちまち火炎に包まれ救助活動は困難を極めた。この時の犠牲者は乗組員と派遣技術者など合計八一七名に達し、日露戦争の時の常陸丸遭難事件以来の最大の輸送船犠牲者となった。

この頃は南方方面を往復する船団であれ、単独航行の商船であれ、護衛艦艇がこれらすべての商船を援護するには絶対数が不足の状態であったため、すべての船団や単独航行商船が護衛をうけられるとは限らなかった。
この時も今後の南方地域の産業の復興と開発を左右しかねない、大勢の専門家や大量の必要物資を輸送する船団にしては護衛艦艇はわずかに一隻だけであった。しかもその護衛艦
は中国航路用の二〇〇〇総トン級の貨物船を徴用し、四門の大砲と一〇発程度の爆雷を装備しただけの特設砲艦であった。そして十分な性能の潜水艦探索装置も装備されていなかったこの護衛艦の護衛では、とうてい潜水艦の攻撃に対処てきるものではなかった」
 「悲劇の輸送船 大内建二著 光人社)

 「八月十五日、山本長官は新たにガダルカナル救援部隊の編成を命じ、田中頼三少将と第二水雷戦隊をこの任務に選んだ。第二戦隊はトラック島で物資を補給していた。田中少将はすでにトラック島へ到着していた一木支隊の九○○人の兵隊を乗せて、ガダルカナルへ運ぶよう命じられた。田中少将は初めから憤慨していた。どうして連合艦隊司令部は重火器を持たず、小銃だけの一、○○○人以下の兵士でやれると思っているのか理解できなかった。田中少将は「竹槍作戦」と呼んだ。(ガダルカナルの戦い エドウィン P ホワイト著 井原裕司訳 元就出版社P66)

 山本五十六は愛人の河合千代子にはしばしば「日本が勝てるとはさらさら思っていない」と言っていたそうである。(山本五十六の恋文 望月良夫 考古堂)
冷静に考えればそのとおりで中国大陸において中国兵を相手の戦争でも日本は四苦八苦して点と線の確保しかできないでいるのに、その中国軍に数倍する強敵である米軍を北米大陸に追い詰めて屈服させることなんてできるはずがないことは子供でも理解できる。

 だから私は山本五十六は長期戦になって日本の被害が致命的にならないうちにどうせ負けるなら早めに負けようと考えてあのような戦い方をしたのではないかと本気で思うこともある。それくらい山本五十六の作戦はおかしい。
真珠湾奇襲にしても本来なら失敗するはずであった。第一次攻撃隊の接近をハワイの基地のレーダー監視員が30分以上前に発見していたからだ。監視員が上司に報告したところこの上司が到着予定になっている味方の編隊だと誤解し放置されたので一応奇襲の形になっただけである。小型潜航艇の一隻も真珠湾奇襲の一時間以上前に米側に発見されて撃沈されている。もしこの時日本軍の襲来だと気がついていたら、米側では十分な迎撃体制を整えることができ、日本の機動部隊は飛んで火にいる夏の虫という結果になったことだろう。
 この奇襲に対して、アメリカ海軍は在泊大小の艦船九十四隻に備えられていた八四三門から二十八万四千四百六十九発を放って応戦したという。
(図説 秘話で読む太平洋戦争 森山康平 河出書房新社 )

 一応の成功としても日本側の戦死者は64人、未帰還機29機、損傷ー74機の被害は奇襲にしては決して少なくはない。一時間しか航続能力のなかった小型特殊潜航艇5隻も全て帰還することはできなかった。もし米側が待ち構えているところに突入したらこの数倍の被害がでて奇襲は失敗となったことだろう。

「1941年1月、南米ペルーの駐日公使はジョゼフ・グルー米大使にある情報を伝えた。最近公使館に複数の話がもたらされたという。『日本軍がハワイ真珠湾に大規模な攻撃を計画している』『航空機の編隊で米艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける』という。公使はグルーに至急本国に通報するよう促した。しかし国務省は真剣に受け取らず攻撃を許してしまう」(1945日本占領 徳本栄一郎著  新潮社)

真珠湾奇襲計画は事前に何者かによって入念に漏洩されていたのである。
2010 05/07 22:01:27 | none | Comment(0)
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 外国で作成されたドキュメンタリー番組で珍しい山本五十六の映像を見たことがあるが、周囲の者に敬礼しながら堂々とした重々しい足取りでカメラの前を通り過ぎて行く自信に溢れた態度はとても印象的であり、一種のカリスマ性が感じられた。白黒の映画でみてさえそうなのだから、実際に生で山本に接した人達はもっと強い印象を受けたことであろう。とても戦いの度に後方の安全地帯に引っ込んでいたような人間には見えなかった。まことに演出力に秀でた人物であった。
 かつ、巧言令色の典型的人物で東条のように人相が悪くないから、国民を始めとして多くの者が山本五十六を買いかぶってしまったーはっきり言えば騙されてしまったことはよく理解できる。
 しかし山本のようなタイプの人間は組織のトップに就けるにはもっとも危険な人物である。会社の社長くらいなら最悪の場合、倒産するだけだが、山本の場合は連合艦隊司令長官という国の運命を左右する要職に就けてしまったため、日本に測り知れない厄災をもたらすことになった。
 山本五十六型の人間は今日も存在しているし、将来もまた繰り返し出現するであろう。このような人物をいかに組織の要職から排除するかということが、組織、国家の運命に深く関わってくる。ここに、今日我々が山本五十六という人物の実像を探求することの価値が存在する。
 
 「国を滅ぼしたのは山本五十六の責任である。要するに山本長官は本気で日米戦争をしていない。むしろ陸軍と国民の評判を争う戦争をしていた。
 山本長官は日本全体を考えない無責任な戦術家で、海軍だけのヒーローだった。連合艦隊司令部などで彼の部下や同僚だった人達の回想記を丹念にみていくと、人の好き嫌いが激しく、個人的に嫌いな人にはけっしてこころを開かないという話が出てくる。
組織の長としては問題である」(日本軍の教訓 日下公人 PHP)

 戦略的に重要な戦いで事実上連戦連敗した山本五十六が死んだとき日本は国葬にして弔った。米内光政にいたっては山本を男爵に推挙した。まったくどういう頭の構造をしているのか不可解というしかない。

 「真珠湾奇襲のように、軍事的見解のみによって行われた典型的な戦例は史上稀である。一面それは低級で不信極まる愚行であり、他面信じがたいほどの洞察力の不足を現している。日本はアメリカに対して宣戦布告なき戦争を仕掛けたことで、ただ一撃でルーズベルト大統領の困難を全部解決し、全アメリカ人を彼の味方にしてしまった。日本の不可解なまでの愚かさは、アメリカ人を世界の笑い種にすることによって、その艦隊を攻撃したよりもさらに大きく彼らの威信を傷つけた。アメリカは日本にバカにされたという憤怒からどんなに戦争が長く続こうがこのペテン師と妥協することはできない仕儀となった。(英 フラー)」山本五十六 プレジデント社


巡洋艦球磨艦長横山一郎も次のように山本五十六を強く批判している。

「日本にとって一番得手の悪い、大量生産ができない飛行機の戦争をはじめたことが間違いなんだね・・・山本五十六連合艦隊司令長官のハワイ奇襲作戦というのは、よさそうに思えるけれど、あとのことを考えたらバカの骨頂ですよ。日本はもともと大艦巨砲主義でやってきたんだから、これが使えるような戦さをしなくてはいかんのです。真珠湾でフネを沈めてみても、浅いからフネはすぐ着底してしまう。あとで引き揚げてなおすことができるんだ。結局なんにもならなかったわけですよ・・・日本としては南洋群島に飛行場をたくさんつくって、そこへアメリカの艦隊をおびき寄せて、まず飛行機でたたき、ついで艦隊が決戦をいどむ、そういうやり方をとるべきだったんです

艦隊同士の決戦になれば、たとえ飛行機が少なくても、大鑑巨砲がモノをいって勝ったと思う。そういう戦争をするべきだったと思うね。飛行機の大量生産ができない日本があえて飛行機の戦争にもちこんだ山本五十六大将は、大きな誤りを犯したといってもいいと思う」

巡洋艦「利根」艦長黛治夫大佐も次のように語っている。

「日本海軍の砲戦に対する自信というものは、われわれ砲術のものには、かなり大きなものがあったね。昭和八年に、後の『日向』の艦長になった野村留吉さんが米国戦艦主砲戦闘射撃の無線を傍受してね、私がそれを研究した結果、日本の命中率はアメリカの三倍だということが判明したんだ。射撃速度が同じで命中率が三倍だから、戦艦の保有数が対米比六割だけれども、命中率から見ると、十対八と日本がはるかに優勢になるんだ。
さらに零戦で制空権を得ると、こっちは六割増しになり、さらに日本が開発した平頭弾の九一式徹甲弾の水中弾性能を加味すると、十対六の劣勢がじつに十対五十という、五倍の優勢になるんですよ。こうなると、いかに山本五十六といえども、五倍あれば勝つと思うべきなんだ。それを参謀長も、作戦参謀も、砲術参謀もみな知らなかった。知らなかったというより信じようとしなかったんだな」
(艦長たちの太平洋戦争 佐藤和正著 光人社)




2009 12/18 23:36:28 | none | Comment(1)
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 山本五十六というのはその戦い方から死に至るまで、実にミステリアスな人物である。その戦い方はあたかもわざと負けるようにしたのではないかと思われるほどの摩訶不思議な戦術の連続である。
 例えばガダルカナル島に飛行場を作ったが、ここは最も近いラバウルの航空基地から1000キロも離れているため、零戦の長大な航続力をもってしても片道3時間かかるのでガダルカナル島上空で米軍機と戦闘可能な時間は僅か10〜15分しかなかった。何でこんな防衛しにくい場所に飛行場を作ったのか?子供でもおかしいと思うであろう。

 ガ島戦における日米の海軍力の比較は、戦艦ー日本12隻、米ー6隻で空母は日本ー10隻、米ー4隻であった。しかし山本五十六はこれらの優勢な日本の海軍力を有効に使用しようとはしなかった。

 「わが連合艦隊は戦艦も空母もほとんど遊ばせて戦ったのである。要するにガ島戦を将棋にたとえれば、飛車、角、金、銀を使わずに負けた”世にも奇妙な”戦闘なのである」
「戦闘能力からも生産能力からも、逆立ちしても勝つ見込みのない航空消耗戦を、搭乗員の養成、補充も考えずに行った。絶対に不利な戦場までノコノコ出かけて、海軍航空が実質的戦力を消耗し尽くすまで、性懲りもなく行った」
 「こうして日本海軍は、米国海軍長官ノックスの言う『近代戦を知らぬか、近代戦を戦う資格の無い軍隊』に堕してしまったのである」
 「ヤコブ・モルガンという米国の作家が『山本五十六は生きていた』(忍野昭太郎訳 第一企画出版)のなかで、ルーズベルトは山本五十六以下の連合艦隊をおのれのスパイにして日本が負けるように作戦させたというのである。それは本当ではないかと思うほど、日本海軍の作戦は拙劣を極めている」(帝国海軍が日本を破滅させた  佐藤晃  光文社)

 当時の海軍上層部の人間性を知ることのできるエピソードを零戦のエース坂井三郎がその著書「零戦の運命」の中で書き残している。
 「ガダルカナル島の戦いが、文字通り、飢餓との戦いとなりはじめた頃も、ラバウルの司令部や部隊の高級将校たちの夕食はフランス料理のフルコースであったとの証言がある。それを提供した施設部のリーダー格だった人が、拙著『零戦の真実』を読んで来訪された時の証言だから、本当のことだろう。
ここに、その証言の驚くべき内容の一部を再録してみよう。主旨はこうなる。『あの頃、私たち施設部隊では皆さんの知らない施設もいろいろと用意させられたが、冷蔵庫を作ったので当然冷凍機も持って運転していました。坂井さん達がいた頃はもちろん、その後もずっと運転し続けたが、時々海軍の指令から「搭乗員たちは毎日毎日空中戦で大変だ。せめて毎日とは言わないまでも、時にはその冷凍機を使って、燃料、弾薬補給のために降りてきた搭乗員たちにアイスクリームを食べさせてやりたい」という注文があり、度々作って納めました。戦後、皆さんが書いたラバウル戦記のなかに、「燃料、弾薬補給のために飛行場に降り立った時吸った一服のタバコは何とも言えない味だった」という記事はよく見かけたが、「あの時のアイスクリームの味は今でも忘れられない」という記事は一度も見たことがない。坂井さんは私たちが心をこめて作ったあのアイスクリームを食べてくれましたか?』と聞かれた私はもう唖然とした。
「そんなもの見たことも聞いたこともないし、氷水も飲んだことはありませんよ」と答えたが、そんなことは信じたくないという返事。世の中の悪人たちの所業に人の上前をはねるという行為はよく聞くが、何とその頃の海軍の司令部のお偉方は、死に物狂いで戦っている搭乗員達の上前をはねるならまだしも、搭乗員の名前を騙ってアイスクリームを作らせ、搭乗員達には一片のアイスクリームを見せもせず、もちろん与えもせず、フランス料理のフルコースのデザートとして平らげていたのだ。前線視察に来た山本長官も、それを賞味したという確かな証言である。
 上級将校がこんな所業とあっては、勝利の女神もあきれ果て、振り向きもしなかったのであろう。仮に、企業で上層部だけがいい思いをしていたら、社員はついていくだろうか。何も、上級将校に兵士と同一の行動をとれとは言わない。ただ、苦楽をともにするという心意気が部下に伝わらなければ、兵士を奮起させることはできない。ましてや、兵士は犠牲的精神を発揮することもない」(零戦の運命 坂井三郎 講談社)

このエピソードはまさにマッカーサーが言ったといわれる「日本人は12歳の子供」説を裏付けるものである。いや、普通の12歳の日本の子供ならもっとまともな常識を持っているだろう。他人のことをまったく考えずに己の欲望を満たすことだけを考えるのは4,5歳の子供のレベルだろう。

2009 12/05 17:05:46 | none | Comment(0)
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 ガダルカナルの攻防戦でも、相打ち覚悟の積極的戦法を採用すれば日本側の勝機は十分にあった。第一次ソロモン海戦で三川第八艦隊は米豪の巡洋艦と駆逐艦に大打撃を与えたが、深追いすることなく、輸送船団に一指も触れることなく引き返してしまった。巡洋艦鳥海の早川艦長は三川長官と参謀たちに「敵軍をそのままにしておくと、わが軍の爾後の作戦が極めて難しくなってきます。敵は航空基地を完成し、輸送船団は陸揚げを完了するでしょう。敵は現在、戦闘精神を完全に奪われている。船団に向けて引き返しましょう」と進言したが、夜明けとともに米軍の空母と戦艦から攻撃を受ける恐れがあることを理由に戦場から離脱してしまった。早川大佐は「ツラギ海峡夜戦に於いて敵艦隊を撃沈したる際、なお残弾は六割以上を有し、被害もまた軽微なりき。よろしく勇気を揮い越し、再び泊地に侵入、輸送船を全滅すべきものなりと確信す。同輸送船には、ガダルカナル基地を強化すべき人員資材を搭載せるは明らかなり。またこれを全滅せる場合、敵国側におよぼすべき心理影響の大なるべきは、察するに余りあるところなり」と記した。(遠い島ガダルカナル 半藤一利著 PHP文庫)

 こうしてガダルカナル島を奪還する好機をみすみす逃してしまった。山本は自分が常に後方に引っ込んでいる手前、部下に対しても強いことが言えなかったのだろう。山本五十六はギャンブルや逆立ち、皿回しがプロなみだったそうだが、そっちの方に進んだほうが 、日本のためにも本人のためにも良かった。職業の選択を誤ったとしか思えない。
2009 11/20 22:59:27 | none | Comment(0)
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 日本の指導者の間で真珠湾奇襲の前後にその政略的および戦略的影響、価値について科学的に分析され正しく認識された形跡がないのは驚くべきことである。
 大西龍治郎などは最初から米国を刺激するようなやり方は良くないと認識しており、周囲の者にもそう話していたそうである。
 反戦感情が支配していた米国民を一挙に戦争へと結束させた真珠湾奇襲を歴史家のモリソンは「歴史上これほどの愚行は無い」と酷評したが、冷静に分析すればその通りである。
第一次大戦に参加した米国ではまだ戦禍の記憶が生々しく、国民の間には根強い反戦感情があった。
米国の国民も議会もマスコミも非戦派が優勢だったのだから、日本はその事実を利用するべきであった。
 石油を手に入れるのにハワイを攻撃する必要はなかった。米国の一方的な対日禁油の不当性を米国民に十分に訴えてからオランダの植民地一帯の油田地帯に侵攻して正当な対価を支払って石油を確保するだけだったら、米国の議会や世論はルーズベルト政権が対日参戦に踏み切るのを許さなかっただろう。

「ガ島戦で得た教訓を、天皇は東久邇宮にこんな風にいったという。『ノモンハンの戦争の場合と同じように、わが陸海軍はあまりにも米軍を軽んじたため、ソロモン諸島では戦況不利となり、尊い犠牲を多く出したことは気の毒の限りである。しかし、わが軍にとってはよい教訓となったと思う』
いや、日本の軍部はこの惨たる敗戦から何も学ばなかったのである。その後の歴史がそれをわれわれに教えてくれる。結局は同じことを際限なく繰り返し続ける、いや、日本人の独善性と硬直性と無反省と、情報無視はいまに通じているのである。(遠い島ガダルカナル 半藤一利著)

 山本は自分の負け戦を隠蔽することによって身の保身を図った。ミッドウェーの敗戦で既に自分の能力は思い知らされたことであろうから、山本は自ら身を引いて有能な人材に連合艦隊司令長官の座を譲るべきであった。作戦も拙劣、死を恐れ、最前線で先頭に立って戦う勇気も無いのなら当然そうすべきであった。最低それくらいの責任感はあってしかるべきである。実に責任感の無い不適格な人物が連合艦隊司令長官になったものである。
 沖縄特攻途上で戦艦大和が撃沈されて作戦中止命令がでたとき、駆逐艦雪風の寺内艦長は「駆逐艦だけで沖縄に突っ込みましょう」と意見具申した。この時の寺内艦長の心境は自分の生死は度外視していただろう、というより完全に死を覚悟していたのは間違いない。このような勇猛さと軍人としての強烈な責任感が山本五十六には欠如していた。
2009 11/20 22:09:05 | none | Comment(0)
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 狭量な独善家の東条は自分に敵対する人間を容赦なく弾圧ーしばしば死に追い込んだ。有名な例では「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」という見出しで、もう後がないという状況まで追い込まれていた日本の真実の戦況を国民に知らせようとした記事を書いた東京日々新聞(現毎日新聞)の新名丈夫記者を懲罰徴集して激戦地に送り込み戦死させようとした。新名は近視のため徴兵免除になっており、当時新兵にするには異例の37歳という高齢であった。このような東条のやり方に対して、さすがにおかしいという声が大きくなると、東条はつじつま合わせのために新名と同世代の徴兵免除者250名を召集して硫黄島に送った。新名は元々海軍報道班員であったため、海軍側の庇護によって生命をまっとうできたが、つじつま合わせのために召集された250名は全員戦死してしまった。
 また東条は自分を批判した部下を激戦中の硫黄島に派遣して即日戦死させたこともある。「東条の狭量ときてはお話にならず、反対意見のものは陸軍士官でさえすぐ死場所に追放されるから、苦言を呈するバカはいない」(自伝的日本海軍始末記 高木惣吉著 光人社NF文庫)
 東条が敵対者を抹殺するやり方として、激戦地に追いやって、敵の手によって殺させるというパターンがあったことが分かる。

 東海大学の創立者でもある松前重義は当時、通信院工務局長兼防衛通信施設局長であったが、各省庁の信頼できる技術専門家を集めて日本の生産力の実情を厳密に調査分析した結果「東条内閣の発表する軍需生産計画はデタラメである」、「このままの態勢では戦争の将来は惨憺たる滅亡あるのみだ」、「現内閣の施策はすべて非科学的だ」と結論し、現内閣は国を滅ぼすものだと高松宮や永野修身元帥等海軍の高級将校たちに力説した。これを東条が見逃すはずはなく、即座に松前に対し報復措置をとった。
 それまで上限が四十歳だった徴兵年齢を四十五歳にまで引き上げて、四十二歳の松前を陸軍二等兵として召集し、淡路丸という爆薬運搬船に乗せて南方に送ったのである。通常はこのような爆薬船に兵隊は乗船させないのだが、この時は松前の部隊の百名が乗船させられていた。

 松前の部下で逓信省工務局調査課長であった篠原登は松前の召集解除を画策し、兵器行政部長の管清次中将から富永恭二陸軍次官に頼んでもらったところ、富永は直立不動の姿勢で「これは東条閣下の直接の命令であるので絶対に解除できぬ」と拒絶した。

 絶体絶命のピンチに陥った松前は台湾の高尾から無線電話で篠原に連絡をとり、海軍から松前の転船命令を出してもらうことに成功し、ようやく石炭船に乗り換えることに成功した。
 淡路丸は港をでるとすぐに松前の見ている前で爆発を起こして沈没してしまった。(証言・私の昭和史  文春文庫より引用)


 このエピソードから、東条は確固たる意志を持って、松前を殺害しようとしたことが窺える。おそらく、爆薬運搬船の淡路丸が台湾の高尾に入港するという情報をなんらかの方法で敵方に漏らしたのではないだろうか。私は山本五十六も同じ方法で殺害されたのではないかと思うのである。

 ガダルカナル島奪還のための作戦の打ち合わせに戦艦大和を訪れたある陸軍大本営参謀(辻政信であろう)が「成る程、大和ホテルとはよく言ったものだ。こんなところで、鯛の刺身で晩酌などやっていては、ガ島でトカゲを食っている陸軍の苦しみはわかるまい。陸軍は百武軍司令官自ら上陸して陣頭指揮だ。海軍の長官はトラックの大和ホテルだ。ここなら潜水艦も来ないし、命も安全だからな。これでは、海軍に応援を頼んでも、軍艦を出してくれぬわけだ。司令長官が一番後方では、部下もついて来ぬし、第一、士気が揚がらぬ。日本海海戦のときは、東郷大将自ら三笠で陣頭に立ったと聞いている。帝国海軍も変わったものですな」と毒舌を叩いて高笑いした(激流の孤舟 提督米内光政豊田穣著 講談社)
 付け加えればトラック島には日本から慰安婦も来ていたからまさに天国であったろう。

 


 
2009 11/18 20:25:35 | none | Comment(0)
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 今からみると昭和は不吉な元号であった。昭和の昭の字を分解すると、日本の口に刀とも読める。昔、鎧を身に着けた武士が戦場で自決する場合、口に刀の切っ先を含み、刀の柄を地面に打ち当てて喉を刺し貫く方法があったが、日本も太平洋戦争でまさに滅亡寸前にまで追い込まれた。今思うと昭和という元号は本来の国民と世界の平和という理想を表す意味とは別に日本の悲劇的未来を警告していたように私には思える。

 太平洋戦争末期、勝利は既に絶望的となり、軍部の狂気じみたプロパガンダは益々エスカレートして行った。自動小銃を持った米兵に立ち向かうために国民に竹槍の訓練をさせたり、「一億総玉砕」などと叫びだした。「木戸幸一内大臣が、本土決戦の急先鋒である阿南陸軍大臣に向かい『アメリカの博物館に三種の神器が陳列されて、その横に、かつて大日本帝国という国があった。これはその遺品である、と書かれるだろう』との趣旨のことを述べて、全軍特攻、一億総玉砕の終末に注意を喚起したのもこの頃である」(別冊歴史読本「太平洋戦争敗北の責任」 新人物往来社)
阿南陸軍大臣が終戦の詔書に署名して、陸相官邸に戻って自決する直前に義弟の竹下正彦中尉に「米内を斬れ」と言ったことは有名な話である。ポツダム宣言受諾に賛成したものは他に鈴木首相や東郷外務大臣もいたのに、わざわざ米内海軍大臣だけを名指ししたのは他の理由からだろう。私はそれは米内に敗戦の責任ー特に拙劣な作戦を繰り返すことによって日本の敗戦を決定づけた山本五十六を連合艦隊司令長官に任命した責任を取らせろということだったのではないかと思うのである。
「米内光政は総理大臣として、また海軍大臣として、昭和史の重大局面にしばしば登場し、選択をせまられ、決断してきた。その重責たるや、近衛文麿、東条英機に比して、より大ではあっても、小ではなかった。しかもその判断の誤りが、敗戦の惨禍を招来してしまった。彼の舵取りは、痛恨昭和への水先案内人のそれであったのだ」(米内光政と山本五十六は愚将であった 三村文男著 テーミス)

「確かに緒戦のあれは、山本さんでなくてはやれなかったんだが、そのあとが、周囲から作戦の神様扱いされて、すること為すこと派手になりすぎ、いつか誰かが ブレーキをかける必要があった。山本にブレーキのかけられる人といえば、米内さんを措いてありません。
自分でも分かっていたろうに、米内さん、それをしなかった。立場になければ口出しはせぬ、性格的にも信条としてもそういう人なんだからやむを得ないけれど、日本のために不幸なことだったし、米内さんについて惜しいと思うのはこの点です」前田稔中将
(米内光政 阿川弘之著  新潮社)



 山本五十六に河合千代子という新橋の芸者の愛人がいたことはよくしられているが、この千代子の晩年の主治医であった望月良夫氏が彼女から直接聞いた話では、山本五十六戦死の当日か翌日に軍務局の人間が押しかけてきて彼女に自殺を迫ったそうである.
奇妙なことに、この時のことを千代子は「三十台の若さで死ねなかった」とあたかも自殺を迫られてもしょうがないような言い方をしていることである。

 普通なら「何で私が自殺しなくちゃいけないんですか」と反論するべきであろう。この時に千代子は山本五十六から受け取った手紙のほとんどを持ち去られてしまった。客観的に考えて山本五十六と千代子は機密漏洩等の重大な嫌疑を受けていたとみるべきではないだろうか。(参照文献「山本五十六の恋文 望月良夫著 考古堂書店より) 
事実、ミッドウェー海戦の直前昭和十七年五月二十七日付で山本から千代子に宛てた手紙の中で「・・・私の厄を引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上はー万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日にはこちらも早朝出撃して、三週間ばかり洋上にて全軍を指揮します。多分あまり面白いことはないと思いますが。今日は記念日だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれも大事にね。

 うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふも暮らしつ (山本五十六 半藤一利 平凡社)
 うつし絵とは写真の事である、それにしてもこの手紙は重大な機密漏洩である。おそらく検閲官には見られていた可能性がたかい。山本五十六はそれまでにも度々死を覚悟しているような手紙を知人に送っているが、こちらの「万事を放擲して、二人だけになりたい」の方が本音だったのではないだろうか。
「身は鉄石にあらずとも、堅き心の一徹に敵陣深く切り込みて日本男子の血をみせむ。いざ待てしばし若人ら死出の名残の一戦を華々しくも戦いてやがて追うわれなるぞ」などと言っているが、実際には自分は全然敵陣深く切り込んでなんかいないではないか。真珠湾奇襲の時も、ミッドウェー海戦の時もガダルカナル攻防戦の時も、いつも前線からはるか後方の安全地帯に引っ込んでいたではないか。ただ、何も知らない国民はこのような山本の手紙をみて感激し、また頼もしく思ったことだろう。(前掲書参照)

 河合千代子こと新橋の芸者梅龍について山本の同僚で海軍省書記官であった榎本重治は戦後次のように語っている。「飲んだくれの芸者でね。芸の無い芸者で、ただ酒を飲んで酔っ払うだけ。乱暴な口をきくしね。五十六はそういうところを面白がっていたな。掘(悌吉)さんなんかも困っていたが、五十六は憎めない男ですからね。何くれとなく山本のことをかばい、我々もウワサが広がらないようにごく一部で止めて、知っていたのは幕僚と知人たちのごく少数でした。あれこれ書かれるようになったのは、戦後のことですよ」(ミッドウェー海戦 第一部 森史朗 新潮選書)

 戦後明らかにされた元艦長クラスの山本評は概ね、最悪と言ってもよいものであるが、陸軍の山本評も同様であり、東条の側近だった佐藤賢了中将などは山本五十六のことを「凡将中の凡将であり、その罪は万死に値する」と痛罵している。

 東条首相は4隻の空母と百余人のベテランパイロットを失ったミッドウェー海戦の真実を知った時に「これでもうお仕舞だ」と目に涙を浮かべていたということである。(「地獄のニューギニア戦線  栗崎ゆたか著 フットワーク出版)
 米国とオーストラリアを分断するために海軍が設置したガダルカナル島の飛行場を巡る攻防でも奪還が絶望的になり、多くの日本軍将兵が飢え死にしていることを知った東条は参謀本部作戦部の田中新一部長と服部卓四郎課長に「三万人を餓死させたらお前たちとは生きてお目にかからない。地獄で会おう」と言い切った。海軍に対しても「海軍が知らないうちにおかしな作戦をやって尻拭いを陸軍に頼む、そんな事をやられては困る。なぜ近くに飛行場を作らないのか。絶対優位の海軍力を持ちながらなぜ昼間の制空権を握れないのか等、皇族の竹田宮参謀に対して、海軍に対する怒りを顕わにしたという。(「遠い島ガダルカナル 半藤一利著 PHP出版参照)

 そもそもガダルカナル島をめぐる攻防は海軍がここに設置した飛行場を守るために陸軍が駆り出されたもので、それにもかかわらず、へっぴり腰とも思われる山本五十六の中途半端な戦い方のために、陸軍は戦死八千人、餓死者一万人を出してガダルカナル島からの撤退を余儀なくされた。狭量で短気な東条英機が山本五十六を見限らないほうが不思議である。しかし、真珠湾奇襲の国民的英雄である山本を罷免することは可能ではあるが、それでは国民に戦局がはかばかしい状況ではないことを明らかにすることになる。
 一番良いのは山本五十六が戦死か病死してくれることであるが、それを待っているだけの余裕はないから戦死するような状況を作り出すしかないーと東条が考えたであろうという推理はあながち荒唐無稽とはいえないのではないだろうか。
2009 11/17 19:14:34 | none | Comment(0)
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 日本側が最後通牒と受け取った強硬な内容のハルノートによって日本は米国との開戦を余儀なくされたが、このハルノートの草案の作成者は戦後ソ連のスパイとして摘発され疑惑の渦中に急死した、財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトであった。
 そしてルーズベルト大統領のことも当時米国内において、共産主義者であると一部で評されていたそうである。(「ある科学者の戦中日記」P28)
 そうすると、日中の衝突から日英同盟の消滅、国際連盟からの脱退、三国同盟の締結、2.26事件の結果としての皇道派の敗退等一連の破滅への道程は主としてソ連の共産主義者によって巧妙に作成されたシナリオだったのではないかという仮説も成立するのではないだろうか。
226事件の際に青年将校達が担ごうとした真崎大将は「統制派は赤だ。統制派は赤の手先に踊らされていたのだ」と戦争中東部憲兵隊司令官大谷敬二郎大佐に語ったという。(昭和維新 田々宮英太郎 サイマル出版会)
 北一輝は財閥の三井から盆と暮に一万円づつ貰っていたそうである。当時の一万円といったら今日の三千万円くらいに相当する巨額である。北一輝が2・26事件に連座して処刑されたのに、その北に巨額の資金援助をした三井の関係者が不問にされたのは奇妙なことと言わねばならない。

「部下入営兵らの家庭がいかに貧困窮乏の状況を呈しているか、一方、満州事変当時発生した”島徳事件”のごとく自己の利益追求のために敵に重要物資を売り、それが敵の陣地構築に利用されて、満州の広野に転戦した第二師団の将兵の多数の戦死・戦傷の被害を出した。事変・戦争により利益を得るのは一部特権階級と財閥・悪徳業者・軍中央の一部幕僚のみである。国民生活安定のもとに国防を充実するのでなければ国家の安泰は確保できない。そのためには君側にあって民生の安定を度外視し、自己の利益追求にのみ狂奔する重臣・財閥・軍幕僚・新官僚を打倒して、天皇親政を確立するのでなければ、日本帝国の将来はきわめて暗澹たるものである・・・・・」(村中孝次ー銃殺刑)「特設軍法会議傍聴の記」金子桂(当時陸軍憲兵伍長)「歴人と人物 昭和五十六年二月号 中央公論社」

 処刑された栗原安秀は「余万斛ノ怨ミを呑ミ、怒リを含ンデ倒レタリ、我カ魂魄コノ地に止マリテ悪鬼羅刹トナリ我敵を憑殺セント欲ス。陰雨至レバ或イハ鬼哭啾々トシテ陰火燃エン。コレ余の悪霊ナリ。余ハ断ジテ成仏セザルナリ・・・」と恨みを書き残した。

 今日、東京渋谷の青年将校達が処刑された現場を訪れると青年将校等2・26事件の殉難者の慰霊のための立派な観音像が建立されており、そこからは青年将校達の怨念を感ずることはできない。幕末に坂本竜馬等と共に国事に奔走した勤皇の志士の生き残り田中光顕伯爵は「自分が宮内大臣だったら死刑にしないよう陛下に減刑の意見を奉ったであろう。国家に大切な勤皇の士を死刑に処したのは遺憾である」と述懐した。(二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房)
処刑された青年将校達の一生は普通に考えれば短かったが彼らは歴史において永遠の生命を得た。今もなお、故国を遠く離れた異境のジャングルや冷たい海底に白骨となって横たわっている彼らと同世代の無名戦士達とくらべればはるかに幸せといえるのではないだろうか。100年、200年後においてさえ、彼らの名が歴史から消えることはないだろう。以て瞑すべしというべきか。
2009 08/04 19:48:02 | none | Comment(0)
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 所詮、貧乏国の日本が米英やソ連などの大国に対抗して国防の備えをしなければならないという根本的な無理があったにもかかわらず、そうしなければならなかったところに当時の日本の宿命的悲劇があった。当時日本に滞在していたジャーナリストのフリーダ・アトリーは次のように日本を見ていた(「日本の粘土の足」 日本経済新聞社刊)

「日本のもっとも重要な輸出品は、原料である生糸で、農民の労働の産物である。それは半奢侈品で、ほとんどがその最大の競争相手であるアメリカ合衆国に向けて売られている。アメリカ合衆国から生糸の代金を得なければ、日本はその主要産業のために綿花を購入することもできないだろう。それのみならず、日本の全社会=経済構造が倒壊するだろう。それは、農民の大多数が養蚕から得られる副収入無しには生きてはいけないし、また、商人が生糸取引から得る利潤が、日本の資本蓄積の主要な源泉であるからである・・・実際の日本は半ば飢えた農民の国であり、この国の子供達は、一世紀前のイギリスのように長時間労働に苦しんでいる・・・その労働者は、団結権も自分達の利益を増進し中世的生活水準を改善するための政党を結成する権利も認められていない・・・監獄には囚人が詰め込まれ、証言を引き出すためにはアジア式の拷問が実行されている。平気で人を殺すギャングを警察が野放しにしており、根深く広い範囲の腐敗が国力を蝕み、その政治の世界を毒している。結局、巨富と赤貧の極端な対照の国であり、その社会は極度に緊張して革命は発酵している。
 実際の日本は、悲惨と不正、社会的憎しみ、復讐への情熱、異常な集団的興奮状態と排外的愛国主義が煮えたぎる大釜であり、地主と小作人、雇主と労働者、独占資本と中小工業家、男女、老若の間の衝突が絶えない国である・・・日本はすでに歳出の半分近くを軍事費に支出しており、残りの大部分は国債の利子に充てられている。日本は毎年、新規の国債を発行してますます拡大する財政赤字を埋めており、日本は実際に平和であった30年間(1905〜1935)に蓄えられた準備金をすでに使い果たしてしまった。これは、日本が征服から利益を引き出せぬうちに、日本国内の財政的・社会的崩壊に見舞われるかどうかの問題であり、西洋の金融勢力が暗黙のうちに支援する代わりに反対に回れば、日本は崩壊にいたるだろう」

 「『東京日々新聞』は次のように伝えている。『就学中の児童の身体的条件が国の将来を決定するであろう。児童の健康改善問題は、国防に関わる致命的問題である・・・』
この論説は続けて、年間の出生数は約210万人であるが、一歳から十四歳までの児童四十六万人が毎年多くは栄養失調のために死亡していると報じている。『東京日々新聞』は政府に対し膨大な(政府が処分できなかった)備蓄米を飢えた就学児童に食べさせるべきだと迫り、それ自身『危険思想』すれすれの怒りの爆発になっている。そのないようは次のようなものである。『多くの者が餓死の瀬戸際に立たされながら、他方では大量の米が買い手もつかずに浪費されている。社会のどこかがおかしいに決まっている』
 政府は文部省にわずかばかりの金額を与えて飢餓的状態にある児童に食べさせようとしたけれども、しかし、同時に、その備蓄米を売却することで米穀商人や地主に損害を与えるのを嫌がり、国内価格の三分の一の値段で海外にダンピングした。(前掲書)

 武藤山治(日本の実業家、政治家。鐘紡社長、時事新報社社長などを務めたが昭和九年鎌倉にて暗殺される)は次のように政財界を批判した「政治と経済、あるいは政界と財界が結託すれば、どんな悪いことでもできる。法律を逃れることによって、いかなる悪徳をやっても金儲けすればいいというふうな、風潮がある。五・一五事件が起きたのも、十月事件や三月事件が起きようとしたのも、結局、資本主義陣営みずからがその原因を与えてやったようなものだ。これを防ぐには、どうしても同じ資本主義陣営の中におる者が、お互いに牽制し批判し合って、いまのこの風潮をなくさなければならん。聞くところによると、番町会なる名のもとに財界の有力者たちが集まって、官界、政界と結託して悪徳な金もうけに狂奔しているという・・・」(語りつぐ昭和史 2 朝日新聞社)
 
2009 08/02 12:14:44 | none | Comment(0)
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 当時の政党政治が今と違って(?)信頼されていなかったことは今日我々が想像する以上のものがあったようである。非常にリベラルな思想の持ち主であった東大工学部教授の冨塚清や市川房江がメンバーであった「言論報国会」においてさえ日本を保つための必要条件の中に『政党を作ることは禁止』が掲げられた(他に天皇親政の実行、軍需生産を国営とする、陸海軍を一体とする、言論の暢達)ほどである(「ある科学者の戦中日記」冨塚清著 中公新書)

大川周明も宇垣一成に宛てた手紙の中で「既成政党の徹底して信を天下に失い、国民口々に議会政治を呪詛するに至れり」と書き送っている。(宇垣一成 悲運の将軍  棟田博著 光人社)

 軍人勅諭で禁止されていた軍人の政治への介入の道筋は十分にできていたのである。
 昭和九年十月十日、統制派の永田軍務局長と林陸相の決裁を得て、陸軍省新聞班は「戦いは創造の父、文化の母である」という書き出しで始まる「国防の本義とその強化への提唱」というパンフレットを発行し、高度な戦時体制を構築するために国民を洗脳しようとした。
 しかし、特に戦争の犠牲者からみれば「戦争は創造の父であり、文化の母である」というような言い草は怒りの対象となって当然であろう。美濃部達吉博士が「好戦的である」と批判したのももっともなことである。

この永田と対支戦略を巡って対立したのが皇道派の重鎮小畑敏四郎中将であったが、小畑の薫陶を受けた一人、三吉義隆元大佐は小畑の戦略を次のように要約している。(須山幸雄『作戦の鬼 小畑敏四郎』/日本陸海軍名将 名参謀総覧 別冊歴史読本 新人物往来社)

「昭和初期のわが国の仮想敵国は唯一つ、それはソ連、戦場は満州、作戦方式は内線作戦、つまり侵略した敵に対して中心的位置から放射線的に作戦行動して撃破する。
わが方からは絶対にシベリアに侵攻しない。その要領は一言で言えば、速戦即決で、機動力を使い、大兵力を集結して包囲懺滅する。つまり、皆殺し作戦だ。こうすればソ連は一度で懲りて二度と侵そうとはしないだろう。もちろんわが国からソ連に戦争をしかける意図は毛頭ない。しかし、ソ連の軍備は日を追うて激増しつつある現状からして、ソ連の準備がまだ充分でない時、討つとすれば早い方がよいに決まっている。しかし、わが国から戦争をしかけるのは得策ではない。まず満州での作戦を有利に遂行できるよう整備は急がねばならぬ。
このためには支那を味方にし、友邦国として手をつなぐことが絶対の前提条件である。
いま内乱続きだからと支那に手をだせば、支那に利権を有する英米ニ大国を刺激し、悪くすればこのニ大国とは敵対関係になる。これはわが国としては最も戒めなければならぬ点だ」、小畑敏四郎中将は二・二六事件の青年将校達が崇拝していた荒木貞夫大将に信頼され、かつ重用されていた人物なので、小畑中将の対支、対ソ戦略はそのまま青年将校たちのそれと一致していたとみて間違いはないだろう。

 谷田勇元陸軍中将は次のように語っている「2・26事件後、若干名なりとも和親を以って中国を包容せんとする皇道派将官、又はその同調者が省部に残留し、支那事変勃発に際し、石原少将の如き不拡大主義者が陸軍を支配していたなれば、支那事変は短月日に片が付き、従って太平洋戦争も回避し得たのではないかと著者は思うものである。しかしながら時の流れは人力では如何ともなしえなかったかもしれない。(「龍虎の争い 日本陸軍派閥抗争史」 紀尾井書房)

 では、もし2・26事件を引き起こした青年将校に代表される皇道派が陸軍から統制派を駆逐し天下を取ったら、5年後の日米開戦は避けられたであろうか? 私は極めて困難というか限りなく不可能に近かったと思う。その理由はルーズベルト政権がヨーロッパの戦争に介入するきっかけとして日本との戦争を望んでいたからである。しかし、それでも当時の軍部や政府、官僚、民間人の優秀な人材の英知をルーズベルトの罠に陥らないようにすることと、石油を確保することに結集することができたなら、米英との戦争を回避することは0パーセントであったとは思えない。例えば、油田地帯にだけ侵攻して相場より10パーセントほど高い価格で石油を強制的に購入するようにしたら、少なくとも世界の世論を敵に回すことは避けられたのではないだろうか。

 「1939年(昭和14年)9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって第二次大戦が始まったが、英も仏も、ポーランドの支援はしても、ヒットラーとの戦争には消極的であった。ルーズベルトはヒットラーやムッソリーニを激昂させるような要求をする一方、英・仏・ポーランドに対しては『ポーランドが攻撃された場合、ポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英・仏を援助しない。英・仏が即時対独宣戦布告すれば、英・仏はアメリカから一切の援助を期待しうる』と英・仏・ポーランドを対独戦へと威圧し、煽動脅迫を加えた。ヒットラーはもちろん、英・仏と戦うことを望まず、目指すものはあくまでもソ連であった。英・仏もまたドイツに宣戦することを欲していなかった。イギリスにしてもフランスにしても、ルーズベルトから絶え間なくつつかれることがなかったら、ポーランドのために宣戦することはなかった。チェンバレンは『イギリスに戦争を強いたのは、アメリカと世界のユダヤ人であった』と言ったということである」(アメリカ謀略秘史 上村健二著 泰流社)

 「当時ルーズベルト大統領の財務長官には、ヘンリー・モーゲンソーが就任していた。またモーゲンソーを支えていた財務次官にはハリー・デクスターホワイトがその任にあたっていた。この両者に共通しているところは、ルーズベルト大統領をして、なんとしても日米開戦に誘導していきたいという点である。
 モーゲンソーはユダヤ人である。ナチス・ドイツの勢力圏内においては、大量のユダヤ人達が迫害にあっていた。これを解決するのはイギリス一国では、とうてい不可能なことであった。
 アメリカがドイツと戦争でもしないかぎり、問題は解決しない。だが、当時、イギリスのチャーチルがいかにルーズベルトを対独戦に参戦するようにうながしても、大統領の意思とは別に、アメリカ国民が納得する状態にはなっていなかった。
 残る方法はただ一つ、日独伊三国同盟を利用することである。
日本を挑発して日米開戦に持っていけば、ドイツは三国同盟の立場からアメリカと戦端を開くかも知れない・・・」
(日米開戦の真実  新井喜美夫著 講談社新書)
 「1940年頃のアメリカに『イギリスを助けてヨーロッパの戦争に参加しょう』と考える人は非常に少数だった。1920年代のアメリカには『第一次世界大戦時の反ドイツ・プロパガンダが行き過ぎだった』との反省から親ドイツ感情が戻ってきていたし、30年代には、議会の調査などで『アメリカの大企業やイギリスが自分たちの利益のためにアメリカを戦争に引き込んだ』との議論が盛んになされたこともあり、アメリカ国民はヨーロッパの戦争に関わることに極端に警戒心を持つようになっていた」
(アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか  菅原出 草思社)

 史上初めて大西洋を航空機による無着陸単独横断に成功した空の英雄リンドバーグも「アメリカを戦争に引き込もうとしている勢力が3つある。それはイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権だ」と激しく非難した。(前傾書)

 一方、日本側にも日本を戦争に引きずり込むことを画策していたグループが存在した。

「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯」で始まる敗戦の年昭和二十年二月の昭和天皇への上奏文の中で近衛文麿は軍内部の共産主義者が計画的に日本を戦争に導いてきたと指摘している。
「抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座侯。支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯・・・・・」
陸軍兵務局局長であった田中隆吉少将も次のように近衛の主張を裏付ける発言をしている。
「転向右翼は日本革命の手段として戦争を是認し、これをアジアの弱小民族解放の線に沿わしめ、日本と英米との衝突を激発せしめる戦術を考えていた」(日本軍閥暗闘史 田中隆吉著 中公文庫 P110)

「何が故に統制派は日中戦争の不拡大と、その速急なる解決に反対したのであろうか。これは、事変の発展と永続は、必然の結果として、国防兵力の増大を来し、これに伴う軍用資材の需要の増加はまた国内の経済機構に計画性をもたらすものであるから、手に唾せずして、その理想なる国防国家建設と国内経済機構の変革を行い得ると確信したからに他ならない。一言で言えば、彼ら統制派は日中戦争を彼らの政治理念達成の具に供したのである。
日中戦争の中途、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者(私はこれを転向右翼と名づけた)が、彼の周囲にブレーンとして参加した。陸軍省の部局に転向共産主義者が召集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の政治理念はこれがためにさらに飛躍した。すなわち大東亜共栄圏建設の理念である。この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである・・・・・統制派の政治軍人が軍人の本分を忘れ、濫りに政治に関与し、国民に号令しつつあるとき、私のいわゆる転向右翼はすでに統制派内部に巣喰い、彼ら転向右翼が目指す祖国敗戦の方途を画策しつつあった。政治にも思想にもはたまた経済にもほとんど無知な軍人が、サーベルの威力により、その付焼刃的理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に耽りつつあったとき、巧妙にして精緻なるこの種の策謀に乗せられたのは当然の帰結である」(前掲書 P92−93)

 共産化しようと狙いを定めた国を戦争に引きずり込み敗戦に導いて国家の指導者と国民を離反させることによって共産革命を実施させようとする作戦は「敗戦革命」いわれ、ロシアの革命家レーニンが考えた方法である。



 
2009 07/18 13:46:42 | none | Comment(0)
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 2・26事件は事前に予知されていた。憲兵曹長の小阪慶助は二月十九日の朝、栗原中尉一派が二十五日頃を期して重臣襲撃を決行するという三菱本館秘書課からの情報を受け、憲兵隊本部に報告している。(2・26事件 高橋正衛著 中公新書)
また事件当時、陸軍省軍務局課員であった片倉衷(ただし)少佐も「一週間ほど前にわかっていました」と証言している(未公開写真に見る 2.26事件 新人物往来社)
 ではなぜ、10月事件のクーデター未遂事件のときのように事前に首謀者を拘束したり、せめて実際に青年将校たちが重臣を襲撃する前に阻止しなかったのだろうか?
 中国や英米に対して融和的な方針だった皇道派は統制派にとって邪魔な存在であったから、皇道派の青年将校達は皇道派を一掃するために巧妙に利用された疑いがある。実際2・26事件の責任を問われて真崎甚三郎大将をはじめとする皇道派の主だった将官は陸軍の中枢からはずされてしまった。
 「露支英米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕(おとしい)らしむるは火を睹(み)るよりも明らかなり」(蹶起趣意書)
という危機的状況から何とか日本と日本国民を救おうとした青年将校たちの思惑とは逆の結果をもたらし、対中国強硬派の統制派の天下になってしまった。フランスのある新聞は「日本は国内改革に失敗したので、今後中国への侵略を強めていくであろう」と予言した。
前年に結婚したばかりの身重の妻を残して刑死した青年将校の一人田中勝中尉は子供の頃から慈悲心が強くその母親は息子が昭和維新運動に関わっていることを心配していたが田中中尉は母親に「今度戦争が始まったらね、一カ国や二カ国じゃあないよ。日本は負ける。それが悲しゅうて、苦しゅうて。戦にならぬようにしなければいけない」と言っていたそうである。これは「日米戦は必然的に第二次世界大戦へと発展する」という北一輝の予言と一致しており、青年将校達は日本の破滅を正確に見通していたというべきであろう。(参照文献:昭和聞キ語リ 毎日新聞西部本社編 葦書房)

 皇道派の荒木貞夫大将は日本軍がシンガポールを陥落させた直後の昭和十七年に「支那に大軍を残しながら、日本はアメリカと戦争をしている。また、四方八方に戦線を拡大しているが、そのタコの足を一本ずつ切断されて、日本はダメになるだろう。日本の前途は絶望的である」と語ったそうである。
真崎大将の場合も、『オレの目の黒いうちは、支那との戦いはさせない』と主張していた。真崎がいたのでは、陸軍内部の主戦派は支那事変を起こせない。そこで、軍務局長永田鉄山少将・辻政信少佐らが、二人の追い出しを画策した。永田や辻に代表される陸軍の統制派は、元老・西園寺公望やその秘書の原田熊雄に、『荒木と真崎が青年将校を煽動してこまっている』と吹き込んだ。西園寺は、戦争学にはうとい元老政治家だったが、権力だけは大きなものを持っていたから、真崎大将は二・二六事件との無実の関連をでっち上げられ、陸軍中枢から追われるのである。無益な支那大陸での戦争へ突き進む軍部への歯止めはこれで失われてしまった」(悪の戦争学 倉前盛通 太陽企画)

事件後青年将校達が首班に担ごうとした真崎甚三郎陸軍大将の実弟であった真崎勝次海軍少将も次のように陰謀の存在について言及している。

「この事件が単なる派閥や勢力争いでなくもっと深いところに原因していることだけは確かで、この事件の真相を知らずに現代の世相を知ることは困難だ」(罠にかかった真崎甚三郎)「一世を騒がせた二・二六事件についていえば、日支事変を起こさしめ世界戦争に誘導して日本に革命を起こすのに、一番邪魔になる人物を葬り去ることが、あの事件のソ連のネライであった。今日でもこのことを本当に研究しているものはまずない。真に思想を了解し世界の動向、ソ連の陰謀を洞察して、前途を警戒し国内における各種のクーデター事件に反対し、満州事変を拡大せぬように処置した人物がおっては、日本に革命を起こすことも出来ず、日支事変を起こすこともできない。そこで日支事変を起こすのに邪魔になる重要人物を葬るように仕組んだのが二・二六事件の筋書きである」(雪の首相官邸の秘密)

青年将校の一味であった山口一太郎大尉も陰謀の臭いを強く感じていたようだ。

「僕はどうも謀略がなかったらあれは起こっていなかったのじゃないかと思う。元をただせば根深いものがある。まず、あの事件前数ヵ月というものは、事件が起きるように起きるようにともってきている。士官学校事件で青年将校を悲憤させた、また、それまでずっと留め男の役をしていた柳川平助中将を突然、台湾に追いやった。次に青年将校に同情的な見方をしている持永浅治少将を朝鮮に送った。また、青年将校の精神的指導をしていた菅波三郎、大岸頼好、大蔵栄一等のような青年将校の行動を思い留ませる連中を皆遠くにやった、そして逆に香田清貞や栗原等のような事をやりそうな連中を満州から東京へ呼び寄せている」(汚濁の世に雪の日を語る座談会 日本週報 二九・一ニ、一五号)以上、「ニ・ニ六事件の謎」大谷敬二郎著 光人社NF文庫より抜粋)

2009 07/09 20:16:13 | none | Comment(0)
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 皇道派は永田鉄山軍務局長をトップとする統制派が対ソ戦の準備という名目の下に対中国との戦争に日本をどんどん深入りさせて行くことに危惧と憤りを抱いていた。
 池田俊彦元少尉は次のように語っている。
「青年将校がなぜ永田を頂点とする統制派の思想や行動を問題にしたかといえば、永田らが官僚や財閥、あるいは宮廷グループと手を組んで国家総力戦体制にもっていこうとしたからですよ。その永田が手を組んでいた人たちこそ、農村の窮乏から目をそらし、陛下にも農村の現状をお伝えせず、根本的改革には無関心だったのです。いや、それ以上に農地改革を含む国家の改造が必要だという主張に反対する最大の勢力を作っていたのです」

「(皇道派の)小畑敏四郎少将が対ソ防衛を第一義とし、日支提携を主張したのに対し、永田少将はまず武力で支那を叩き、足元を固めたうえでソ連に備えるべきだと主張した」(赤塚金次郎元少尉)

「第一、この国は国民全部の国であることが必要であり、一部特権階級本位の国であってはならないこと。
第二、国民の生命を要求する軍である以上この軍は、真に止むを得ない場合にのみ防衛戦争に投入せられることが必要であり、尽くすべき他の手段を尽くさず、悪く言えば、高級将校が勲章を貰うための戦争など絶対に行ってはならないこと。
第三、義務として若人を入営せしめた以上、その入営により、その兵の家庭が窮迫するようなことのないこと」山口一太郎大尉(当時昭和天皇の侍従武官であった本庄繁の女婿 で終身禁固)
「未公開写真に見る2・26事件」新人物往来社刊より

「われわれは今日、兵を教育しておるけれども、今のままでは、安心して、国防の第一線に対して身を捨てるわけにはいかない。捨てるような気持ちにならないし、また部下に対して国防のために死ねと申すこともできない。
 私は夜、週番士官として兵隊の寝室を回ることがあるが、そのときなど、よく寝台で泣いておる兵隊がいる。事情を聞くと、自分は壮丁として兵隊に出たために、家では食べる米もなくて困っておる。自分の妹まで今度は吉原の女郎に売られるそうである、というふうなこういう状態で、兵に対して前線に行って戦えとはいえないし、自分も全く同感である」栗原安秀中尉(刑死)ー「語りつぐ昭和史2 朝日新聞社」

 「全体にやはり農民の窮状や大資本と一般国民の遊離、あるいは政党が政争ばかり繰り返してなんら庶民の窮状を救おうとしないという現実があったわけで、それに対する青年将校の強い不平不満があったことは事実でした。私もこういう状況は何とか早く解決しなければ大変なことになるという気持ちを強く抱いたものです」片倉衷元少将(事件当時は統制派の少佐)
−「未公開写真に見る2・26事件」新人物往来社刊より

 皇道派の満井佐吉中佐は永田が当時の東京ガス重役の大田亥十二の手を通じて三井財閥の池田成彬から別荘を贈られたことを取り上げ、「永田閣下は陸軍部内における一偉才たりしことは、確かに間違いのない事実ですけれども、その終局においては財閥の頤使(いし)に甘んじて、日本を統制経済に置き換え、しらずしらずの間に、財閥の注文通りに動かされて、皇軍を全く私兵化せしむるにいたったのであろうということは、今日世間一般に信じられておるところであります」と批判した。(「軍閥」元東部憲兵司令官大谷敬二郎著 図書出版より)

二・二六事件には直接参加はしなかったが、蹶起した青年将校たちの指導者的立場にあった管波三郎大尉は戦後青年将校たちが蹶起した理由について次のように述べた。「理由の第一は、第一師団の満州移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた 北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼等は勇敢且つ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満州移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時機ではない。国政を改革し、国民の生活安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」
「第一師団が満州へ移駐した後に、必ず陸軍は中国と事を起こすことは、既に同志将校らはわかっていた。北支那への侵略の張本人は永田鉄山少将であることは、我々は誰も知っていた。だから永田局長が満州に来た時、磯部浅一が後を追ってきて暗殺しようとしたのだ」(二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房)



 「現在ノ我国ノ状態ハ軍人モ一般社会モ直情径行名利ニ恬淡ナ所謂国士的人物ハ敬遠セラレ権力者ニ媚ビ諂ウ利欲栄達ノ為ニハ恥オ恥トシナイ卑劣ナ幇間的人物カ重用セラルト云フカ如キ腐敗堕落シタ社会デアリ・・・」安田優少尉(刑死)

「叛乱時に路上で群集に演説したある叛乱将校は、陸軍の不満分子の基調をつぎのように述べた。『われわれはなぜ、三井、川崎、森村などの資本家の利益を守るために満州で戦わねばならないのか』と彼は問題を提起した。『満州ははじめは万事うまくいっていたのだが、今日では満州は、自分自身の利益のために食い物にしている、資本家の狩猟場になっている』『我々は陛下に忠節を捧げ、臣民と陛下との間に立ちふさがっている奸悪な政治家の排除を目的としている』と付け加えた」 「太平洋戦争にいたる道」 W.フライシャー著 刀水書房
 今日でも米国のイラク侵攻が石油利権目当てだったと批判されることがあるが、当時の青年将校達も不純な利益のために下級兵士の生命を犠牲にする形で戦争を利用する大企業と一部の軍人の黒い関係を疑いこれに強い怒りを抱いていたようだ。

 終戦直後の昭和二十年十二月七日に議員の前川正一は次のような発言している。
「小作料は、西欧とくらべてどうであったか。<日本の小作料が現物地代としまして、生産高の四割七分を占めております時に、イングランドではわずかに一割一分、スコットランドにおきましては一割八分、フランスにおいてさえも二割八分の小作料しか取っておらないのであります。如何に封建的土地所有関係というものが、高率なる小作料を要求しているか」(日米戦争はなぜ勃発したか 高橋英之 社会評論社)

 こういう議論はもっと早く二・二六事件や五・一五事件の起きる前にするべきであろう。これでは青年将校たちが政治家は本気で農民を救おうとする気がないと思ってもしょうがないだろう。

 
2009 07/03 20:12:01 | none | Comment(0)
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 政党や財閥に対する強い反感は青年将校達だけのものではなくインテリも含めて当時の国民に共通していたものだった。
池田俊彦元少尉は事件の中心人物で後に処刑された栗原安秀中尉の次のような発言を回想している。
「今の議会は民衆搾取のための手段と化している。そこからは新しい力は生まれない。第一、土地改革などは、地主達の多い支配階級が承認するはずはないし、真の根本的改革はできない。我々は力を以ってこれを倒さなければならない。いかにも多数決で事を決し、国民の意思の上に国民の心を体して行っている政治のようであっても、それは結局権力者の徹底的利己主義となってしまっている。起爆剤としての少数派による変革の先取りこそ、新しい歴史を創造することができるのだ。このことは対話では成し遂げることはできない。強力な武力的変革によってのみなし得られるのだ。我々はその尖兵である」(「生きている2・26事件」より)
まことに青年将校の行動原理がよく理解できる意見である。
しかし、客観的に観ると、当時の農村の惨状を政党政治の無能と無責任だけに起因させることはできないだろう。何しろアメリカのウォール街での株価大暴落を発端とする世界大恐慌という以前には存在しなかった予想不可能の未曾有の嵐に日本も襲われたわけであり、また当時の農村の家庭は子供の数が6人とか7人というのが珍しくもなく、今日と比べてはるかに多いという点で大家族であったことも貧困化に拍車をかけることになったのではないだろうか。

「1929年(昭和4年)十月二十四日朝、ニューヨークのウォール街は株が大暴落してパニックにつつまれた。
世に言う『暗黒の木曜日』である。街には失業者があふれ、残飯を求めてホームレスが長蛇の列を作るようになっていた。このアメリカの恐慌はヨーロッパに広がり、またたくまに日本を直撃した。輸出品価格は下落し、在庫が山をなした。
当時、日本の主力輸出品は生糸で、総輸出品の4割を占めており、その9割以上がアメリカに輸出されていたから打撃は深刻だった・・・生糸価格の暴落は他の農産物価格の下落を呼び、農家の生計は崩壊していった。当時は農家の4割が養蚕を副業としていた。ところが輸出生糸の暴落で、繭の販売価格は60パーセントも下落してしまった・・・悲嘆にくれる農民達に追い打ちがかけられた。昭和5年10月2日、浜口内閣の町田忠治農相は本年度産米の収穫予想を発表した。過去5ヵ年平均の12.5パーセント増の豊作だという。この豊作予想は米価を大暴落させた。発表直後の2日から3日にかけて全国各地の米穀取引所は立会い不能に陥り、米価は約4割も下落してしまった」

(図説2.26事件 河出書房新社 太平洋戦争研究会編
平塚柾緒著 より)

「生糸の暴落は養蚕農家を打ちのめしたが、1930年の大豊作、1931年の大凶作による農産物価格下落、収入減少はさらに零細経営の自作・小作農家に破滅的な打撃を与えた。東北地方では特にそれが激しく、飢餓水準の窮乏に追い落とされたのである。当時のわが国の小作地は全耕地の46パーセントに及び、小作戸数は全農家の27パーセント、自小作農は42パーセント、計69パーセントを占めている。また全地主戸数の75パーセントはわずか一町未満の小地主にすぎない。そして、農林業の就業人口は1929年で1392万8000人で全就業人口の47パーセントを占めていたのである。したがって、かかる農家の窮乏はいちじるしく国内市場を縮小し、それが都市・工業の恐慌をさらに激しくさせる・・・」(「昭和恐慌」長幸男著 岩波新書)


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2009 07/01 21:22:42 | none | Comment(0)
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 太平洋戦争勃発に先立つこと5年前の昭和11年2月26日早暁、目睫(もくしょう)に迫った日本の破滅を座視するに忍びず焦慮した安藤輝三大尉と野中四郎大尉を中心とする青年将校の一団は千四百名余りの兵を動員し、日本を救うべく当時の内閣総理大臣岡田啓介を始めとする重臣達を襲撃して一挙に昭和維新を実現して外交と内政を改革しようとした。
 この襲撃により岡田首相の義弟であった松尾伝蔵秘書官が首相の身代わりとなって殺害され、大蔵大臣の高橋是清、教育総監の渡辺錠太郎大将、内大臣の斎藤実と警護の警官五人が惨殺された。彼らは昭和維新という困難な大改革を実現するには自分達があまりに微力であることを良く認識していたからこそ、内閣の重臣達を皆殺しにするという極端な方法ー言い換えれば恐怖の威力を利用して絶対多数を占める反対勢力(現状追認派)を押さえ込み一気に国家の改造を実現しようとしたのではないだろうか。
そして青年将校達は隆車に斧を振り上げ打ちかかった蟷螂(とうろう)のごとく踏み潰された。

 老臣達を惨殺された昭和天皇の怒りは激しく、青年将校達の言い分には耳を貸さず「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き兇暴の将校等其の精神に於いても何の恕すべきものありや」「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕の首を締むるに等しき行為」と最初から青年将校達を叛徒と断定し、自ら近衛師団を率いて鎮圧されようとしたため、彼等の運命はここに極まった。全面的な敗北である。軍事裁判の結果は北一輝等の事件に関係した民間人を含めて死刑十九人、無期七人という青年将校側の惨敗であった。

 では、処刑された青年将校達や殺害された重臣たちの死は犬死であったのだろうか?私は否と答えたい。その理由は莫大な犠牲を払った敗戦の結果という実に不幸な形ではあったが、2・26事件は日本の戦後の民主化改革の原動力になった可能性が高いからである。終戦後最初の内閣であった東久邇宮内閣では二・二六事件には直接関係していなかったが皇道派の将軍として予備役に回された小畑敏四郎中将が国務大臣として入閣していたが、小畑は青年将校の重鎮であった大岸頼好大尉をブレーンの一人に加え度々その意見を聞くことがあったそうである。
戦後、GHQでは2・26事件を日本の民主化運動と評価したそうである。実際、すでに指摘されていることであるが、戦後GHQによって行われた日本の民主化政策は青年将校達が聖典とした北一輝著の「日本改造法案大綱」の内容と酷似しているのである。
 具体的には農地解放の実行、華族制度、貴族院、枢密院の廃止、天皇家の財産の国有化、財閥解体、私有財産の制限、五歳から十五歳までの無償の義務教育等である。
しかし、農地解放一つとっても、あのような大改革は日本軍が武装解除されて解体された状況下で初めて可能であったろう。
 
 2・26事件が分かりにくい原因の一つは決起趣意書が難解な言葉を用いて書かれていることと具体的な政策が掲げられていないことと関係があるだろう。彼らがクーデター成功後の具体的な青写真を公にしなかったことは軍人の政治関与を禁止した軍人勅諭を彼らも公然と無視することができなかったこともあるだろうが(軍人の政治意見公表は陸軍刑法に違反し、禁固三年)、もっと明確な理由について首相官邸襲撃に参加して終身禁固の判決を受けた池田俊彦元少尉が貴重な証言を残している。
(「生きている2・26事件」池田俊彦著 文芸春秋社刊)
「我々の同志首脳は機会を捉えて、裁判の打ち合わせをひそひそと行っていた。それはこの法廷闘争で何を眼目とするかということであった。農民の救済、農地解放、財閥解体ということを強く主張すると、左翼革命のように受け取られるので、第一の眼目としては統帥権干犯の賊を討ったのだということでなければならないということであった。
そうでなければ陛下の軍隊を率いて起った根拠が無くなるのだ。
このことは裁判開始以前からひそかに連絡をとって打ち合わせしていたようである。当時の世相からして、社会主義的主張などは赤化思想として当局から厳しく糾弾されていたからである。決起の趣意書もこの配慮を以って書かれている。現在これを不満とする一部の社会学者や歴史家がいるが、それは歴史に隠された事実というものがあることが解らないからだ。歴史には何時の時代でも当時は言うことができなかった隠された事実があるということを忘れてはならないと思う」

この続きは2・26事件(2)以降は左側のアーカイブの欄の2009年7月をクリックしていただくとご覧いただけます。「新しい日記」が何らかの故障で表示されていません。
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2009 06/23 20:26:25 | none | Comment(0)
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 吾妻鏡には多くの重要事項の記録が漏れていることは良く知られている。代表的なものは源頼朝の死に至る約3年間(建久七年一月)から頼朝が死の原因となったとも言われている落馬事件のあった建久九年12月までと翌年1月の頼朝の死の記録が抜けていることである。
 その原因については吾妻鏡を編纂した北条氏にとって都合の悪い部分は削除したのだろうとか、徳川家康が頼朝の名誉のために落馬事件の部分を抹消した吾妻鏡が後世に伝わったのだろうとか言われてきた。
 私も最初には存在した記録が途中で失われてしまったとしたら何とも残念なことだと思っていたが、現在では今日伝わっている吾妻鏡の欠落部分は最初から存在しなかったと確信している。その原因はおそらく火災による原資料の焼失であろう。当時はまだ耐火建築である土蔵が普及していなかったようで鎌倉は京都とともに度々大火の被害にあっている。
 例えば建久二年(1191年)三月四日には鎌倉に大火があり、幕府も罹災、鶴ヶ丘八幡宮はことごとく灰燼に帰し、重要人物の家屋数十軒が燃亡したとの記録がある。
 この時に本来ならば吾妻鏡編纂の資料となるべきものが大量に失われたことと推察できる。鎌倉滞在中の義経のエピソードがほとんどまったく伝わっていないのもこのような火災による記録の消失が原因ではないだろうか。
 他にも承元二年(1208年)正月十六日には門注所執事三善康信(母親の姉が頼朝の乳母)の家が燃亡し、「将軍家の御文籍、雑務文書、並びに散位倫兼日記以下累代の文書等を納め置き処、悉くもって灰燼と為す、善信これを聞き、愁嘆の余り落涙数行し心身網然と為す」
建仁元年三月十日「地震、若宮大路西側消失す」
承元元年(1207年)十月一日「夜、若宮大路の人家燃亡。猛火甚だしく延焼数町に及ぶ」
承元四年二月二十九日「和田義盛宅以南燃亡」
    十一月二十日「北条泰時邸および近隣の御家人宅等焼 失」
建保元年(1213年)五月「和田義盛挙兵、御所燃亡」
建保元年十二月一日「将軍家御所近辺燃亡、北条時房、大江広元等の邸燃亡」
建保二年十二月四日「由比の浜辺燃亡す、南風烈しきの間、若宮大路数町に及ぶ。その中間の人家皆もって罹災」
建保三年正月十一日「若宮の辻の人家燃亡す・・・酉戌両時の間、二十四余町ことごとく灰燼となる、安達景盛邸燃亡」
承久元年(1219年)一月七日「将軍家御所の近辺、広元邸以下四十余宇焼亡」
承久元年一月十五日「大倉の辺燃亡。北条時房の室の宿所以下数十宇焼く」
九月二十二日「大火、鎌倉中燃亡」
十二月二十四日「政子邸燃失」
承久二年(1220年)二月十六日「鎌倉大町以南燃亡」

失われた記録の中にはこの他にも火災の記録が存在したことだろう。
それにしてもこれらの火災により鎌倉幕府の貴重、かつ興味深い記録が永遠に失われて、我々が見ることができなくなってしまったことはやはり残念なことである。



 
2009 04/25 07:17:17 | none | Comment(0)
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 生きていた時代や、武将と剣客という違いはあっても信長と武蔵は「天下一」と評された点では共通していると言えるだろう。
しかしながらその最期はまことに対象的であった。
武蔵は六十ニ歳という年齢で当時としては天寿をまっとうしたといえるが、信長は家臣の明智光秀の裏切りにより本能寺において紅蓮の炎に包まれて五十歳で無念の死を遂げた。

 両者の明暗を分けたものは運もあるかもしれないが、それ以上に決定的だったものは「警戒能力」ともいうべきものの違いであろう。今日伝わる宮本武蔵の伝記からは武蔵の人並みはずれた用心深さが看取できる。

 巌流島で当時、西国一と噂された佐々木小次郎を倒した時も、武蔵は小次郎の刃渡り三尺一寸の備前長光に対抗するべく舟の櫂を削って作った四尺六寸の木刀を使用した。真剣の柄に相当する部分を考慮にいれても武蔵の木刀の方が五寸(約15センチ)ばかり長かったであろう。

 小次郎は武蔵が間違いなく自分の備前長光より長さにおいて勝るであろう木刀を肩に担いで現れたのを見た瞬間、自分の敗北を悟ったに違いない。
長刀を抜き放った小次郎が無意識のうちに放り捨てた鞘は波間に漂い小次郎から遠ざかって行った。
武蔵は小次郎の心中を見透かしたように笑みを浮べて「小次郎敗れたり、勝つつもりなら何ぞ鞘を捨てるか」とあざけるように言った。
焦った小次郎が真っ向から武蔵の頭部めがけてつばめ返しを浴びせ、武蔵の鉢巻を切り落とした備前長光の切っ先がそのまま反転して、下から武蔵の顔面を断ち割るより早く、「電光猶遅しと覚えける」と後に目撃者が記した武蔵の木刀の一撃を頭部に受け小次郎はたまらず砂浜に崩れ落ちた。

 武蔵が自分の備前長光より長い木刀を使用するかもしれないということを思いつかなかったことは小次郎の不覚であった。
もし小次郎が武蔵の木刀と同等もしくは三寸でも長い木刀を用意して、それを用いたならば小次郎にも十分勝機はあったであろう。

 武蔵は孫子の兵法にある「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」に忠実であった。敵に応じて最善の闘い方を工夫してそれを用いた。
ある時、武蔵の弟子の一人が縁側で休んでいる武蔵に試しに打ちかかったところ、武蔵は敷物の端を掴んで思い切り引っ張ったため、上に乗っていたその弟子は仰向けにひっくり返ってしまったそうである。つまり、何時どんな状態の時に襲われても対応できるように常日頃対策を考えて用心していたのだろう。信長にはこのような用心深さが欠けていた。

武蔵が晩年に霊巌洞という洞窟にこもって生活したのも仇と恨まれることの多い身でありながら病を得て身体の動きが十分でなくなったので用心のため、人里離れた場所で生活したのではないだろうか。

 結局、真の強者とは隙を作らない、むらの無い用心深さを備えていなくてはならないと言えるだろう。
2008 09/22 21:40:21 | none | Comment(0)
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ルーズベルト大統領は米国民に「私は何度でも言いますが、決して皆さんのご子息を戦場に送るようなことはしません」と公約して三選したが、そう言わなければならないほど米国民の反戦感情は強かった。その米国民を一気に対日戦争に駆り立てたのが山本五十六の真珠湾奇襲であった。まことに愚かな事をしたものである。山本五十六を連合艦隊司令長官にした米内光政も同罪である。
 当時、米陸軍参謀本部に勤務し戦略動員計画を作成し、開戦後は連合軍東南アジア副司令官、中国戦線米軍総司令官を歴任したウェデマイヤー大将は戦後回想録で次のように述べている。「1941年(昭和16年)十二月七日(日本では八日未明)、日本軍の真珠湾攻撃が開始された。この攻撃によってアメリカ国内の主戦派と孤立派は、アメリカの第二次大戦への参戦について賛否の結論をえないまま、突然その大論争に終止符をうった。アメリカ人にとって、ひとたび他国から攻撃されたからには、もはやアメリカが参戦すべきか否かを議論する必要はなかったからである、。この日、われわれアメリカ国民は、いまや、好むと好まざるとにかかわらず、太平洋において戦争に突入したのである。日本が真珠湾を攻撃すると、日本と日独伊三国同盟を締結していたドイツは、アメリカに対して宣戦を布告し、それまでアメリカをヨーロッパ戦争に介入させないためにとっていた、いろいろな手段をいっさい放棄してしまった。そこで、アメリカ政府首脳たちは、イギリスおよびソ連の首脳たちと同様、真剣になってこの戦争に当たることになった。
日本の真珠湾攻撃は、アメリカによって計画的に挑発されたものであるという事実は、真珠湾の惨敗と、それにひきつづきフィリピンを失陥したことにより、おおい隠されてしまった。
アメリカ国民をヨーロッパ戦争に裏口から参戦させようとしていた当時のアメリカ政府は、フィリピンのアメリカ守備隊を日本軍の犠牲に供するのもやむをえない、と考えていた。
アメリカ国内の反戦派の人たちは、ルーズベルトがドイツに対しては明らかに戦時中立を犯す行動をとり、また日本に対しては最後通告を突きつけてなんとかしてアメリカを参戦させようとしていたことは、十分に承知していた・・・いま、われわれは当時を回想し、歴史の流れを考察するとき、かつてヒトラーが征服を夢見た地域よりもはるかに広大な地域に、全体主義的な専制政治を台頭させる結果となった第二次大戦に、アメリカがなぜ、また、どのようにして参戦したかを検討しなければならない」
(アルバート・C.ウェデマイヤー著、「第二次大戦に勝者なし」講談社学術文庫より)

 同じく米軍のロバート・シオボルド少将は言っている「世界中を戦争に巻き込んだ張本人は、フランクリン・ルーズベルトその人である。ことわっておくが、私はアドルフ・ヒトラーを弁護する意志はいささかももたない。しかしながら今日、異常性格のもちぬしとして全世界から指弾されているあの人物が、アメリカの参戦をのぞんでいなかったことは今日多くの人が肯定しているところである。ナチスの全体主義をおそれたルーズベルトは、老獪な政治家ウインストン・チャーチル英首相の切願もあって、ついに大戦争にふみ切ることに決意し、ついでにその以前から強力な軍事力をたくわえはじめていた日本を叩き潰そうとたくらんだ。ナチスと組んだ日本こそいいつらの皮である。はっきりいおう。ルーズベルトは、真珠湾奇襲を初手から十分予知していたのである」
(ミッドウェー戦記 亀井宏 光人社)

 ルーズベルトがドイツとの戦争に米国を巻き込むためにドイツの同盟国である日本を挑発して、先に手を出させるように仕向けた証拠は十分にあり、ルーズベルトとその側近が日本側の暗号を解読していて真珠湾攻撃を事前に知っていたことは間違いないが、それでも真珠湾のキンメル司令長官以下の将兵たちと一般の米国民からみれば日本による卑劣な騙まし討ちであったという事実は動かしようがない。
当時、日本のみならず連合国側にも傑出した賢明な指導者が存在しなかった事は真に不幸なことであった。第二次世界大戦は愚かな指導者達によって引き起こされた戦争と言えよう。
 ウェデマイヤー将軍は前掲書の日本語版序文のなかで次のように述べている。
「この地球上に生活している人々のうち、圧倒的多数の者は戦争を憎んでおります。これらの人々は自由な環境のもとで、平和的に自分達の境遇をよりよくできる機会だけを捜し求めています。だが、彼らは、世界の指導者や軍部首脳たちのなかに、このままほうっておけば必ずや世界戦争を招くだろう、と思われる事態の発展を許している者のあることを承知しております。事実、世界の指導者たちのうちある者は、積極的に、諸国民の間に緊張をたかめ、憎悪をあおり、ゲリラ戦を扇動し支援しております。
 もし、全面的な無制限戦争が発生した場合には、空前の大破壊が行われて、われわれのみるところ少なくとも、一千年間は人類の文明が退歩する結果になるということは、ぬぐいえない事実であるにもかかわらず、さきに述べたような事態が現在いろいろと起こっております。」
なお、このウェデマイヤー将軍は終戦時、中国大陸にいた三百九十万の日本軍将兵と在留邦人の早期内地送還について、大いに尽力してくれた功績に対して我々日本人は感謝すべきであろう。
2008 09/12 23:13:55 | none | Comment(0)
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日米間においても、少なくとも両国民のレベルではあのような熾烈な殺し合いをしなくてはならないような深刻な問題は存在しなかった。米国第三十五代大統領ジョン・F・ケネディの父親で1938年当時駐英大使だったジョセフ・P・ケネディは次のように語って戦争の回避を訴えた「私はみなさんにお尋ねしなければなりません。いったい世界にあなたの息子さんや他人の子供たちの命をかけるほどの議論やら論争が存在するのでしょうか?」ーこれはドイツとの戦争の危機に対しての発言ではあるが、当然日本に対してもあてはまるだろう。
日独伊三国同盟の成立、南部仏印(現南ベトナム)進駐ーこれによってシンガポールやオランダの植民地であった油田地帯が日本の航空機による攻撃範囲に入った。)このように日本は欧米諸国の反応を自国に都合よく楽観的に判断して次々と欧米に対して敵対行為をとり、悪魔に魅入られたように破滅への道を進んでいった。
連合国は報復処置として石油、屑鉄の日本向け輸出の禁止、日本の対外資産の凍結等、日本の甘い予想を裏切る厳しい対抗処置により日本を窮地に追い込んで行った。
ナチスドイツの旧領土回復の問題にしろ、日中紛争の問題にしろ、決して第二次世界大戦の莫大な犠牲に引き合うような重大な問題ではなかった。まるで悪魔が巧妙に世界的規模に導火線を張り巡らして小さな火種を世界的大火災に発展させたような気が私にはするのである。
2008 09/12 22:52:19 | none | Comment(0)
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第二次世界大戦によって受けた被害は敗戦国の日本やドイツはもとより、戦勝国であったソ連、米国、英国等の被害も甚大なものであった。
もし、大戦勃発前に当時の人々がタイムマシンで今日明らかになっている、第二次世界大戦の悲惨な記録を手にとって見ることができたとしたら、敗戦国の日本はもとより戦勝国の米国やソ連でさえ、国民のレベルでは圧倒的多数が避戦派となり、必ずや戦争以外の道を選択したことであろう。
第二次世界大戦はその原因という観点からみると真に奇怪な戦争であった。
ヨーロッパではドイツのポーランド侵攻に対して英、仏が宣戦布告したことから始まったが、これはドイツが第一次世界大戦における敗北の結果、ポーランドに割譲された旧ドイツ領の返還交渉をポーランドが英国との軍事同盟をあてにして事実上、拒否したことが原因であった。
2008 09/12 21:17:55 | none | Comment(0)
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ミッドウェー海戦敗戦の史実は、国防において適材適所を誤るといかに恐ろしい結果をもたらすことになるかという教訓として、日本国民は将来にわたって永く銘記するべきであろう。
私が常々感心するのは幕末から明治にかけて優秀な人材が輩出して国の舵取りをしたため大局を誤ることがなかったことである。
幕末の徳川幕府の幕僚は優秀で科学的頭脳を持っていたから太平洋戦争の時の高級軍人と違って、いざとなったら神風が吹いて日本を救ってくれるなどという幼稚で甘い考えは持たなかった。
昭和には四流、五流の人物がトップに登りつめて主導権を握ったため国を誤った。人材登用のシステムに重大な欠陥があったと思わざるを得ない。
帝国大学や陸軍大学校、海軍大学校は優秀なエリートを効率的に大量生産しようとしたものであろうが、これが無残な失敗であったことは太平洋戦争の結果が証明している。

思慮の浅さというのは山本五十六の大きな欠点の一つであろう。
 
 日米交渉打ち切りを野村大使が米側に通告したことを確認する前に真珠湾を奇襲したために、「騙まし討ち」として米国民を憤激させ、それまでは圧倒的にに非戦派が占めていた米国民と議会を一気に開戦容認へと踏み切らせ、さらに早期講和が困難な状況を作り出してしまった。結局この思慮の浅さが命取りとなって「い号作戦」を陣頭指揮するためにラバウルに出張し、ブーゲンビル島の基地視察に空路おもむく途中米戦闘機に襲われて戦死するのであるが、この時も危険であるから止めるようにとか護衛の戦闘機の数を増やそうかという周囲の進言をすべてはねつけた結果であった。
この前線視察も山本自身は本当は行きたくなかったらしい。ただガダルカナル島でトカゲを食べながら戦っている飢えてやせ衰えた兵士を見てきた大本営参謀の辻政信が作戦の打ち合わせに戦艦大和に山本五十六を訪ねたさい、冷房の効いた安全な大和で毎日豪華な食事に舌鼓をうっている山本とその幕僚を痛烈に皮肉ったため、行き掛かり上危険な前線に出向かざるを得なくなったようである。

左欄のインデックスのアーカイブで2008年9月をクリックすると8〜10を正常に御覧いただけます。トップが「信長と武蔵」で「ミッドウェーに仕掛けられた罠」の8〜10はその下にあります。
2008 08/24 10:25:33 | none | Comment(0)
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 山本五十六はミッドウェー海戦の最中に部下と将棋を指していたそうである。また日本の航空隊が英極東艦隊のプリンスオブウェ−ルズとレパルスを攻撃していた時も、その戦果について部下とビールを賭けることを自分から言い出した。どこの国の国民の基準から見ても「おかしな男だ」と思うのが普通ではないだろうか。
2008 08/16 00:02:19 | none | Comment(1)
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昭和天皇は開戦後まだ間もない1942年2月に東条英機首相に「終戦について機会を失せざる様充分考慮するように」と注意を促した。まだ日本が連戦連勝していた頃である。
 当時の軍部や政府が日露戦争の時のように引き際を誤らず、勝ち戦の最中に講和を実行できる器量を持っていたかどうかは甚だ疑問であるが、もし実現できていれば敗戦の結果(300万人を超える犠牲者)と原爆投下や世界移民史上最も悲惨な最期を遂げたと言われている満州移民団の悲劇も無かったわけである。そう考えると開戦後僅か六ヶ月後のミッドウェー海戦の敗北の意味は大きい。その最大の責任者は山本五十六自身が認めているように彼自身である。本来なら敗戦の責任をとらされて予備役に編入されてもおかしくはなかった。
 ミッドウェー海戦は日露戦争の日本海海戦に相当するものであり、まさに「皇国の興廃この一戦にあり」であった。どう転んでも勝たなくてはならない戦いであったが稚拙な作戦と用兵により取り返しのつかない大敗を喫してしまった。
2008 08/15 23:37:05 | none | Comment(0)
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日露戦争開戦の直前、海軍大臣山本権兵衛は竹馬の友であり、戦時には連合艦隊となる常備艦隊の司令長官であった日高壮之丞をクビにして、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したが、その理由の一つは日高が独断専行の傾向があり、他人の意見を聞かない性向があったからだと言われている。私は山本五十六がまさにこの日高と同じタイプであるように思える。山本権兵衛だったら絶対に山本五十六を連合艦隊司令長官にはしなかったであろう。
スタンドプレーを好み、メンツにこだわり、手柄を独り占めにしたいようなタイプは大将の器ではない。

 ミッドウェー海戦の勝者スプルーアンス提督は次のように語っている。
「戦争の間、私は常に虚心坦懐に他の者の意見を聞く必要がある、という感じを強く持っていた。私達は教訓を汲み取ろうとして戦史を研究するが、戦史の研究からは必ずしも、将来の問題に対する正しい答えが得られるものと予期するべきではない。同じ状況が二度と起きることは、ほとんどないのであり、状況に応じて解決法を見出すのでなく、あらかじめ解答を考えておいて、これを状況にあてはめるようなことをしたならば危険で、高価な犠牲を払わなければならないことになりがちである。
 あらゆる分野において優れた力を発揮することができる者は誰もいない。従って、われわれはこのことを認識し、それぞれの分野における他の人たちの優れた知識と能力を利用することが、われわれの義務である。自分の部下の方が自分よりもよくできるようなことについて、何もかも自ら決定を下そうとしてはならない。
 自分が上に立つ組織が大きくなればなるほど、個人としての自分の力を発揮してその組織のために寄与することができる割合は少なくなり、自分の力は部下を指導し、これに指針を与え、そのアイデアを活用することを奨励するのに用いることが重要になってくる。他の者の考えを認めてこれを用いることは、自分の能力が劣っていることになると感じているようなものがいる。このような考え方をする者は、一つの組織の上に立つことには向かない人物である」(「提督・スプルーアンス」 トーマス・B・ブュエル著 小城正訳 読売新聞社)
スプルーアンスと山本五十六では大人と子供の違いがあると思うのは私だけだろうか?

 スプルーアンスのやり方は「他者の意見に謙虚に耳を傾けて優れた意見であれば積極的に採用する」という極めて常識的で当然のことに過ぎませんが、この当然のことが行われていない組織が世間には満ち溢れているのが実情ではないでしょうか。正論よりリーダー個人のプライドや個人的欲望が組織の利益よりも優先されているところが多いのではないでしょうか。
1997年から1999年のわずか2年間で機能不全に陥っていた駆逐艦ベンフォルドを海軍No.1と評価されるまでに大改革した新米艦長アブラショフ大佐はスプルーアンスの正統な継承者と言えると思います。

「今までのやり方にとらわれることなく部下たちが考えた合理的で、よりよい方法を採用した結果、アブラショフが艦長に就任してから僅か一年間で、リストラなどを一切行わずに、前年の予算の75パーセントですべての任務を遂行した。
装備機器の故障率を、前年の75パーセントから24パーセントにまで減少させたが、その結果、整備費と修理費も予算の25パーセント前後も余らせることができた。
砲撃訓練でも太平洋艦隊で史上最高の得点を上げた。
艦の最も重要な二つの部門における定着率は28パーセントから100パーセントにまで上がった。ベンフォルドの部下の昇進率は海軍の平均以下だったが、翌年には海軍平均の2倍になった。」

アブラショフは部下に「何をするにも必ずもっとよい方法があると考えよ」「きみがしている仕事に、もっとよいやり方はないか?」聞いて回った。その結果、思いもしなかった画期的な回答が出ることもしばしばであった。中には艦長のアブラショフでさえ考えつかないような戦術を考え出す者もおり、アブラショフを驚かせた。
「ほとんどの組織がそうであるように、海軍でも中間管理職を単なる『トップの命令の伝達者』に変えてしまっていた。彼らは上からの命令を’’公布’’ することに慣らされて、下からの提案をこころよく受け入れることに慣れていなかった。しかし、私は、部下が持っている艦の活動を改善するためのアイデアを、すべて集めることこそ自分の仕事だと考えた。ガチガチの管理主義者はこれを邪道だとみなすかもしれないが、実際には、各部門で仕事をしている人々こそが艦を支え、艦長には見えていない現実を知っているのだ」

「最先端のテクノロジーが装備されたベンフォルドのシステムは、信じられないくらい複雑である。消化し、処理し、実行に移すべき情報が大量に生じ、ときにはわずか数秒ですべてを解決しなければならないこともある。したがって、一人の人間があらゆることを掌握し続けることはできない。部下からより多くの能力を引出し、彼らに責任を持つように求めることが必要になる。これはビジネスでも同じだ。私に要求されているのは、突発する問題に対し、的確な状況判断を下し、仕事を進めていくこと、そのために部下の能力を最大限に引き出すことであった。すぐれたリーダーシップを発揮するには、自分のプライドよりもチームの実績を優先させなければならないのだが、それができないリーダーは多い」
ベンフォルドの指揮をとることになったとき、アブラショフ艦長は「埋もれている才能、生かされていないエネルギー、無限の潜在能力を備えた310名の男女からなる部下を預かることになった。私は、彼らにふさわしい艦長になろうと決意した。彼ら一人一人に挑戦の機会を与え、指示を待たず、自分で考えて行動する人材に育てることは自分に課せられた使命だった。私は部下たちを労働者ではなく、パートナーにしたいと真剣に考えていることを声高に示したかったが、言葉だけでは何の影響も与えられない。これまで軍のトップたちは口を揃えて、一番大事なのは人材だと言ってきたが、その言葉を実行する者はほとんどいなかったのだ。」
アブラショフ氏はその後海軍を退役し、現在はコンサルタント会社を経営して海軍で身に着けたノウハウを民間企業で活用する手助けをしているそうです。
(アメリカ海軍に学ぶ「最強チームのつくり方」 マイケル・アブラショフ著 吉越浩一朗訳  三笠書房)


 名将児玉源太郎も部下のアイディアを吸い上げる名人だったようである。「児玉は、部下の参謀を駆使する能力とともに、機略、奇策、そして確かな判断力、こうした資質をも遺憾なく発揮した。彼は、冬営中の部下たちを気軽に見舞って回った。その際、必ず「酒、煙草、缶詰など、陣中慰藉の料を携え」そして、こう言ったそうである。「これ総司令官より卿等に贈るところなり」(註:総司令官は大山巌のこと)
そして、このときほど、参謀たちの意見を大いに言わせたこともなかったらしい。「故に、参謀幕僚等の会議に列するや、議論沸騰、口角泡をとばして、毫も遺憾なきを期」した。
児玉は、参謀たちに言った。《会議は神聖にして、諸氏の意見は直ちに国家の意見也。しかるに、もし諸君、知って言わず、別に意見を有すと言うものあらば、即ち国家に対する不忠不親切の至りなり》
そして、議事を終わって、ひとたび軍幕の外に出ると、今まで眼を怒らし、耳を赤くして論争していたものと何のこだわりもなく、「親しきこと骨肉もただならざる」を常とした。
松川参謀は、こう言って深く感嘆したという。《大将が人を統轄するのは幾微、学んで遂に得べからざるなり》」
(森山守次、倉辻明義著『児玉源太郎伝』明治四十一年刊/参謀の条件 渡部昇一編 プレジデント社)

 淵田美津夫と奥宮正武共著の「ミッドウェー」にはミッドウェーの敗戦は結局、日本人の国民性に拠るところが大きいというようなことが書かれており、私は最初にこれを読んだ時、自分達の失敗を国民のせいにしていると憤りを感じたが、しばらくたってから著者の言わんとしている事が分かってきた。
それは日本人の「リスクはあるけれど多分大丈夫だろう」と自分達に都合よく楽観的な状況判断をするという、危機にたいする救いがたい程の甘さである。
それは今日でも変わっていないように見える。
例をあげれば、大企業で製造した製品に非常に重大な欠陥があった場合、それを明らかにすると責任問題になるため隠蔽して、結局大事故を起こし、隠し切れなくなって会社に大きなダメージをもたらすーということが今日でも繰り返されている。
今日、我々がミッドウェー敗戦の歴史を振り返る意義の一つはここにあるのではないだろうか。

 歪んだプライドと硬直した頭脳の持ち主であり実力の伴わない外見だけのエリート集団が帝国陸海軍と政治を牛耳った事が敗戦の大きな原因の一つであろう。
「日本陸軍の体質は現代にあっても残っている。それは各省庁、地方自治体の官僚、役人の体質と一致すると考えるのは著者だけであろうか。規制々々で民間の活力を奪い、許認可を盾にして改革の芽を摘み、海外の動きには目を向けず、広い視野を持とうとしない。加えて弱い立場の民間から甘い汁を吸おうと画策する。もちろん官僚がある程度、戦後のわが国の発展に貢献した実績を認めないわけではないが、すでに時代は変わりつつあるのである・・・現在の役人たちの状況は、日露戦争の後の陸軍軍人に似ている。多くの重大な失敗を辛くも逃れて薄氷の勝利を握った、という真相を短時間に忘れ去り、勝利の栄光だけを声高に叫んでいるのである。日本陸軍ーある意味では海軍もーは、日露戦争後慢心し、本当に精強な軍隊を育成するための努力を怠った。そしてそのツケが太平洋戦争の敗北であったにもかかわらず、その後の社会体制はたいして変わっていない。

 今後あらゆる面で例外なく行政改革を推し進めない限り、わが国の将来は決して明るくはなく、国際的地位さえ低下するばかりであろう・・・」  (日本軍兵器の比較研究 三野正洋著 光人社)

 フィリピンの日本軍は敗戦後、文字通り「石をもて」追われた。無蓋の貨車やトラックに乗って引き上げる日本軍将兵に対して、原住民は石を投げつけながら、バカヤロー、ドロボー、バタイ、パタイ(死ね!死ね!)などの怒声とともにギリン、ギリン(キチガイ!、キチガイ!)という罵声も浴びせたそうである。そう、真に太平洋戦争時には良く言って科学的思考能力の欠如した、悪く言えば限りなく精神異常に近い高級軍人が少なからず存在した。一例をあげれば、悪名高いインパール作戦の推進者牟田口中将である。「三週間分の食料、弾薬、手榴弾、テント、カッパなどを合わせるとゆうに40キロを超える荷物を背負い、世界でもっとも激しい雨が降るといわれる雨季のアラカン山系を超え、インド国境を越え、英国軍を撃破するというのだ。土台が不可能な作戦である・・・牛に荷を積み運ばせ、到着後は食料にするという牟田口のアイディアも実際には急峻な地形のため、牛の歩みが遅く、牛に合わせると食料が無くなってしまうので、仕方なく放牧した。
 インパール作戦はすべてこの調子で現地の地形も、牛の生態も、気候も、現場を無視して進められた・・・牟田口は4月末には作戦の失敗を認識した。6月6日、ビルマ方面軍の川辺正三中将と面会した牟田口は作戦を断念すべき時期であると言いたかったが言えなかった。『佐藤の野郎は食う物が無い、撃つ弾が無い、これでは戦争ができない、というような電報をよこす。日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが神兵だ』と放言したそうである。
このインパール作戦で日本軍十万のうち三万が死亡、傷病兵は四万人にあがった。
結局、失敗すべくして失敗したインパール作戦の責任はだれも取らなかった。
 責任を取らないー、責任の所在を曖昧にするー現代の学校、会社、役所など、日本の不祥事の多くはこの事に起因している。
もっとも大きな組織である国に当てはめても同じことが言えるのではないだろうか。日本軍のインパール作戦失敗から何も変わっていない日本の組織。これが日本人集団の特性としたら、あまりにも寂しいが、現実である。私達日本人は、60年以上前の失敗から何も学んでいないのだろうか」(未帰還兵 将口泰浩著 産経新聞社)


2008 02/29 23:44:30 | none | Comment(0)
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次は平家物語より鵯越の急坂を前にして一同が評定に移った場面です。

兵共 
「これは聞こえた悪所である。同じく死ぬにしても、敵にあってならともかく、悪所に落ちては死にたくない。だれかこの山の案内人はないものかのう」
平山季重 
「季重は案内を知っている」
義経 
「お主は東国育ちのものだ。今日はじめて見る西国の山の案内人になろうといっても、どうもまこととも思われない」
平山 
「これはおことばともおぼえない。吉野・泊瀬の花は歌人が知り、敵の立てこもる城の後の案内は、剛の者が知っている道理だ」(みんなあきれかえる)
2008 02/29 23:23:19 | none | Comment(0)
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山本五十六が天下分け目の戦いを指揮する大将としての資質を欠いていたことはミッドウェー海戦の経過を振り返れば明らかである。
準備期間も不十分であり、作戦計画もリスクが大きく色々な矛盾を含んでいたため、連合艦隊司令部の上位機関である、海軍軍令部はもとより、山本五十六の部下からも作戦の成功を危惧する声が大きかった。
例えば、ミッドウェー基地の攻略が成功しても、ここはハワイの米軍基地から近いため日本側が維持することは事実上不可能であったこと、ミッドウェー基地攻撃中に敵機動部隊に襲われたらどう対処するかーという問題にたいして有効な解答が出せなかったことなどである。これらの作戦の前途にたいする多くの不安の声を山本五十六は「確かに危険性のあることは認めるが奇襲攻撃でやればみすみすやられることはないだろう」と作戦を強行してしまった。
2008 02/29 23:05:24 | none | Comment(4)
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 今日から見ると夢のような話であるが太平洋戦争の開戦時には日本の海軍力は米国を上回っていた。
長期戦になったら巨大な米国の生産力に太刀打ちできない日本が必敗することは事前の研究で明らかであったので、短期決戦早期講和しか日本には選択支がなかった。
そのために真珠湾を奇襲した時に打ち漏らした残存する米国の空母を誘き出してこれを葬ることによって一気に勝敗を決しようとしたのが昭和17年(1942年)6月5日から6月7日にかけて行われたミッドウェー作戦であった。
 この海戦において帝国海軍は4隻の空母と多くのベテランパイロットを失い、その後の大日本帝国の運命を決定づける致命的な惨敗を喫したのは戦史の語るところである。
ハワイの手前にあるミッドウェー島基地に対する第二次攻撃のために飛び立とうとするまさにその時に突然上空から40機を越えるドーントレス急降下爆撃機が日本側の3隻の空母に襲いかかった。この奇襲で加賀には4発の命中弾、赤城には2発、蒼龍には3発が命中した。そしてこの9発という数字は実に5月に戦艦大和において行われた図上演習で日本側の空母群が受けた命中弾の数と一致していた。
ミッドウェー基地を攻撃中に敵機動部隊の攻撃を受けた日本側の空母群は9発の命中弾を受けるという図上演習の結果どおりになったわけである。
 敗因については索敵の失敗や運が悪かったというのが日本側の一般的な結論であるし、米側も「ミッドウェーの奇跡」というような言い方をする向きもあるが、これをそのまま受け取るべきではなく戦闘記録を注意深く読めば米側が勝利したのは奇跡でも幸運のためでもなく当然の帰結であったことは明らかである。
最初に立てた作戦がパーフェクトに遂行されたまでの話である。
「フレッチャーとスプルーアンスが最も望んだのは、南雲機動部隊の飛行機が母艦の飛行甲板に並んでいるときに先制攻撃をかけることであった。航空出身の指揮官であっても、このような瞬間的タイミングを決めるのは、至難のことであったであろう。一九四二年出されたレポートで、ニミッツは次のように述べている。『わが空母部隊にとってこれ以上ない微妙なタイミングを必要とするきわめて困難な状況であった』」。(ミッドウェーの奇跡 上巻 ゴードン・W・プランゲ著 千早正隆訳 原書房)

 牧師のような風貌のスプルーアンスと田夫然とした山本五十六とでは見た目も全然違うが頭脳の方も月とすっぽんであった。「敵機動部隊の動静を確認したなら、まずミッドウェー島にある陸上攻撃機を発進させて向かわせる。その攻撃によって敵の注意をあくまでミッドウェー島にひきつけておいて、その間にひそかに近づいて艦載機を飛ばし、敵のミッドウェー島空襲部隊が母艦に帰った直後を叩く」という戦略をスプルーアンスは立てていた。
 参謀長のブラウニングは「ミッドウェー基地の友軍機が、その数とパイロットの技術の面からみて、敵空母部隊と四つに組んではとうてい勝ち目がないことをしっていた。かれはそれを十分に計算に入れたうえで、敵が味方機を撃破した直後の心の隙を衝こうとくわだてたのである。(時間がたてば、敵はふたたび緊張をとりもどすだろう。この機をのがしては、永遠に勝利はつかめまい)」
「私はあの時味方の被害を冷酷に計算していたのである。私は人非人になっていた」(ミッドウェー戦記  亀井宏著 光人社)
 もし、日米がまた戦うと仮定した場合、日本人の国民性からいって、また同じ手をくうだろう。

 スプルーアンスは圧倒的に優勢な日本帝国海軍の機動部隊と戦って勝利を得るには先制攻撃を行うことーそれも日本の空母が甲板上に爆弾を装備した攻撃機を満載している時に攻撃を加えるーそうすればたった一発の爆弾でも致命的な損害を与えることができるーという作戦を立てた。これはスプルーアンスの参謀であったブローニングの発案をスプルーアンスが採用したようだ。
そして結果はこの作戦どおりになった。
米側は先に日本の機動部隊を発見してから常時接触を保ち、8次にわたり攻撃をしかけてきたが日本側はこれらを全滅に近い損害を与えてことごとく撃退した。重い魚雷をぶら下げ、護衛の戦闘機を伴わない米側の雷撃機は次々とゼロ戦の餌食になり打ち落とされて行った。
日本側が「やれやれアメリカのパイロットも勇敢だが技量はたいしたことないわ」とホッと一息ついた時、突然上空から太陽を背にして40機を越える爆撃機が日本の空母に殺到した。
スプルーアンスとブラウニングがあらかじめ立てた作戦はパーフェクトに遂行された。すなわち、日本側を徹底的に油断させるーその為に勇敢だが腕の未熟な雷撃機のパイロットを犠牲にして成算の無い攻撃を繰り返させる。空母の上空を警戒しているゼロ戦を低空に引き寄せ上空をガラ空きにする。そしてゼロ戦のパイロット達が疲労して注意力が低下し銃弾を撃ち尽くした時を狙って一気に上空から攻撃をしかけるーという筋書きだったのだろう。日本側は米側の典型的な陽動作戦に見事にひっかかったのである。
 この日本側を油断させるために犠牲になったパイロット達はおそらく陽動作戦の囮であり捨石であるという自分達の本当の役割に気付いていたことだろう。当時世界最強の戦闘機であったゼロ戦の待ち構えているところに護衛の戦闘機無しで攻撃することがいかに無謀で自殺的行為であるかは子供でもわかる。でも彼等は立派に責任を果たした。敵ながら天晴れというべきであろう。零戦の名パイロット坂井三郎もその著書「零戦の最期」講談社刊の中で「一機の戦闘機の護衛も受けず、重い魚雷を抱いた鈍足の雷撃態が撃墜されることは覚悟の上で日本の空母めがけて殺到し、その大半が零戦隊に叩き落され戦死していったが、彼らは自らが犠牲となって零戦隊を低空に引き付け、SBD(ダグラスSBDドーントレス)急降下爆撃隊の降爆を成功させたのだ。いわば、これはアメリカの特別攻撃隊であった」と語っている。

また坂井三郎が戦後米側から聞いた話ではこの時の米側の雷撃隊の搭乗員全員が「俺たちが犠牲になる」と宣言し、「俺たちが超低空を這ってゼロを全部引きつけるから上空が空っぽになったすきにあの空母四艦を屠ってくれ。ハワイの仇を今討つんだ」と覚悟のほどを述べたそうである。(歴史通 2009 Spring No.1「太平洋戦争は無駄ではなかった」)

 恐らく米側は最初に日本の機動部隊を発見してから常にその位置を見失わないようにして未熟なパイロットを捨石にして(飛行時間が三、四時間しかない者も含まれていたようである)、攻撃隊を横に広く散開させることによって必ず攻撃隊の一部が南雲機動部隊を発見できるようにして発見後は上空で密かに最も効果的な攻撃チャンスをうかがっていたのだろう。だから赤城、加賀、蒼龍の三隻に対する攻撃が僅か一分間ほどーほぼ同時に行われたのだろう。
 亀井宏著の「ミッドウェー戦記」(光人社)には「ちなみに、この時、アメリカ軍は、突撃の体勢に入る15分も前に上空にたどりつき機会をうかがっていたといわれている」という説が紹介されているが(P432)、おそらくこちらの方が真実であろう。次々と発艦しようとする日本側の空母の甲板上の攻撃機のエンジンの轟音は来襲する米側の急降下爆撃機のエンジン音をかき消したことだろう。まことに緻密に計算しつくされた攻撃であった。

 蒼龍の零戦パイロットだった藤田怡与蔵氏は次のように語っている「米軍が戦闘機をつけずに(もっと正確に書けば一刻を争って)攻撃隊をして索敵をかねさせ、いっきょに勝負にでたことが成功をおさめた原因と思います。空母同士の戦闘は、すこしでも彼に先んじて搭載機を発進させて艦を空にし、相手よりも先に飛行甲板をたたくことが原則だったのです」(ミッドウェー戦記 亀井宏 光人社)
2008 02/19 21:54:22 | none | Comment(0)
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同士の中から密告者が出た為に予定を繰り上げて決起した約三百人の大塩一党は「救民」や「天照大神」の幟を掲げて処々に放火しながら東町奉行所を目指し、船場では豪商宅を焼き討ちしたが奉行所側の鉄砲隊の本格的な反撃を受けて半日で壊滅した。
大塩平八郎の野望は実現しなかったが、この事件が徳川幕府に与えた衝撃は大きく備後国三原で大塩門弟を名のる一味八百人が蜂起したのを始め「奉天命誅国賊」の幟を掲げて蜂起した越後の国学者生田万の乱など同様の事件を次々と引き起こし徳川幕府の土台を大きく揺り動かした。
2008 02/04 21:37:34 | none | Comment(0)
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餓死の貧乏人乞食をも敢えて救わず、その身は膏梁(美味な肉と飯)の味とて結構な物を食い、妾宅等へ入り込み、あるいは揚屋、茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑むも同様にいたし、この難渋の時節に絹服をまとい候かわらものを妓女とともに迎ひ、平生同様游楽にふけり候は何等の事哉。紂王長夜の酒盛も同事、其所の奉行諸役人手に握りおり候政をもって、右のものどもを取り締まり、下民を救い候儀もできがたく、日々堂島相場ばかりをいじり事いたし、実に禄盗にて、決して天道聖人の御心に叶いがたく御赦しなき事に候。
2008 02/02 23:50:47 | none | Comment(0)
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是皆、天より深く御誡の有がたき御告げに候えども、一向上たる人々心もつかず、猶小人奸者の輩、大切な政を執り行ない、只下を悩まし金米を取り立てる手段ばかりに打懸り、実にもって小前百姓どもの難儀を、吾等ごとき者草の蔭より常に察し悲しみ候えども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳も無ければ、いたずらに蟄居いたし候処、此節米価いよいよ高値に相成り、大阪の奉行ならびに諸役人共万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、天子御在所の京都へは廻米の世話もいたさざるのみならず、五升一斗位の米を買いに下り候ものどもを召し捕りなどいたし・・・
2008 02/02 23:22:41 | none | Comment(0)
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幕末に元与力であった大塩平八郎が起こした大塩の乱の時に配布された檄文の中で天照大神の時代を理想化し、その時代に復帰することは難しくともせめて神武中興の政道に戻したいという強烈な尊王思想が吐露されている。それは要約すると下記のようなものである。最初の「四海云々」は国民が衰亡すれば国運も尽きるというほどの意味であろう。
「四海(人民)困窮いたし候わば天禄(天佑、天の恵み)長く絶たん。小人に国家をおさめしめば災害並び至ると、昔の聖人深く天下後世人の君、人の臣たる者を御誡置かれ候ゆへ、東照神君(徳川家康)にも、鰥寡孤独(やもめ、ひとりもの)におひてもっともあわれみを加うべくは、是仁政の基と仰せ置かれ候。然るにここ二百四五十年太平の間に、追々上たる人驕奢とておごりをきわめ、大切の政事に携わり候役人ども賄賂を公に授受とて贈貰いたし、奥向き女中の因縁をもって、道徳仁義をもなき拙き身分にて立身重き役に経上がり、一人一家を肥やし候工夫のみに智術をめぐらし、その領分知行の民百姓へ過分の用金を申し付け、是迄年貢諸役の甚だしき苦しむ上へ、右の通り無躰の儀を申し渡し、追々入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成り候に付き、人々上を怨まざるものなき様に成り行き候えども、江戸表より諸国一同右の風儀に落入。
2008 02/02 22:50:06 | none | Comment(0)
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