通説にとらわれない新しい歴史解釈

2009年 11月 の記事 (4件)

 ガダルカナルの攻防戦でも、相打ち覚悟の積極的戦法を採用すれば日本側の勝機は十分にあった。第一次ソロモン海戦で三川第八艦隊は米豪の巡洋艦と駆逐艦に大打撃を与えたが、深追いすることなく、輸送船団に一指も触れることなく引き返してしまった。巡洋艦鳥海の早川艦長は三川長官と参謀たちに「敵軍をそのままにしておくと、わが軍の爾後の作戦が極めて難しくなってきます。敵は航空基地を完成し、輸送船団は陸揚げを完了するでしょう。敵は現在、戦闘精神を完全に奪われている。船団に向けて引き返しましょう」と進言したが、夜明けとともに米軍の空母と戦艦から攻撃を受ける恐れがあることを理由に戦場から離脱してしまった。早川大佐は「ツラギ海峡夜戦に於いて敵艦隊を撃沈したる際、なお残弾は六割以上を有し、被害もまた軽微なりき。よろしく勇気を揮い越し、再び泊地に侵入、輸送船を全滅すべきものなりと確信す。同輸送船には、ガダルカナル基地を強化すべき人員資材を搭載せるは明らかなり。またこれを全滅せる場合、敵国側におよぼすべき心理影響の大なるべきは、察するに余りあるところなり」と記した。(遠い島ガダルカナル 半藤一利著 PHP文庫)

 こうしてガダルカナル島を奪還する好機をみすみす逃してしまった。山本は自分が常に後方に引っ込んでいる手前、部下に対しても強いことが言えなかったのだろう。山本五十六はギャンブルや逆立ち、皿回しがプロなみだったそうだが、そっちの方に進んだほうが 、日本のためにも本人のためにも良かった。職業の選択を誤ったとしか思えない。
2009 11/20 22:59:27 | none | Comment(0)
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 日本の指導者の間で真珠湾奇襲の前後にその政略的および戦略的影響、価値について科学的に分析され正しく認識された形跡がないのは驚くべきことである。
 大西龍治郎などは最初から米国を刺激するようなやり方は良くないと認識しており、周囲の者にもそう話していたそうである。
 反戦感情が支配していた米国民を一挙に戦争へと結束させた真珠湾奇襲を歴史家のモリソンは「歴史上これほどの愚行は無い」と酷評したが、冷静に分析すればその通りである。
第一次大戦に参加した米国ではまだ戦禍の記憶が生々しく、国民の間には根強い反戦感情があった。
米国の国民も議会もマスコミも非戦派が優勢だったのだから、日本はその事実を利用するべきであった。
 石油を手に入れるのにハワイを攻撃する必要はなかった。米国の一方的な対日禁油の不当性を米国民に十分に訴えてからオランダの植民地一帯の油田地帯に侵攻して正当な対価を支払って石油を確保するだけだったら、米国の議会や世論はルーズベルト政権が対日参戦に踏み切るのを許さなかっただろう。

「ガ島戦で得た教訓を、天皇は東久邇宮にこんな風にいったという。『ノモンハンの戦争の場合と同じように、わが陸海軍はあまりにも米軍を軽んじたため、ソロモン諸島では戦況不利となり、尊い犠牲を多く出したことは気の毒の限りである。しかし、わが軍にとってはよい教訓となったと思う』
いや、日本の軍部はこの惨たる敗戦から何も学ばなかったのである。その後の歴史がそれをわれわれに教えてくれる。結局は同じことを際限なく繰り返し続ける、いや、日本人の独善性と硬直性と無反省と、情報無視はいまに通じているのである。(遠い島ガダルカナル 半藤一利著)

 山本は自分の負け戦を隠蔽することによって身の保身を図った。ミッドウェーの敗戦で既に自分の能力は思い知らされたことであろうから、山本は自ら身を引いて有能な人材に連合艦隊司令長官の座を譲るべきであった。作戦も拙劣、死を恐れ、最前線で先頭に立って戦う勇気も無いのなら当然そうすべきであった。最低それくらいの責任感はあってしかるべきである。実に責任感の無い不適格な人物が連合艦隊司令長官になったものである。
 沖縄特攻途上で戦艦大和が撃沈されて作戦中止命令がでたとき、駆逐艦雪風の寺内艦長は「駆逐艦だけで沖縄に突っ込みましょう」と意見具申した。この時の寺内艦長の心境は自分の生死は度外視していただろう、というより完全に死を覚悟していたのは間違いない。このような勇猛さと軍人としての強烈な責任感が山本五十六には欠如していた。
2009 11/20 22:09:05 | none | Comment(0)
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 狭量な独善家の東条は自分に敵対する人間を容赦なく弾圧ーしばしば死に追い込んだ。有名な例では「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」という見出しで、もう後がないという状況まで追い込まれていた日本の真実の戦況を国民に知らせようとした記事を書いた東京日々新聞(現毎日新聞)の新名丈夫記者を懲罰徴集して激戦地に送り込み戦死させようとした。新名は近視のため徴兵免除になっており、当時新兵にするには異例の37歳という高齢であった。このような東条のやり方に対して、さすがにおかしいという声が大きくなると、東条はつじつま合わせのために新名と同世代の徴兵免除者250名を召集して硫黄島に送った。新名は元々海軍報道班員であったため、海軍側の庇護によって生命をまっとうできたが、つじつま合わせのために召集された250名は全員戦死してしまった。
 また東条は自分を批判した部下を激戦中の硫黄島に派遣して即日戦死させたこともある。「東条の狭量ときてはお話にならず、反対意見のものは陸軍士官でさえすぐ死場所に追放されるから、苦言を呈するバカはいない」(自伝的日本海軍始末記 高木惣吉著 光人社NF文庫)
 東条が敵対者を抹殺するやり方として、激戦地に追いやって、敵の手によって殺させるというパターンがあったことが分かる。

 東海大学の創立者でもある松前重義は当時、通信院工務局長兼防衛通信施設局長であったが、各省庁の信頼できる技術専門家を集めて日本の生産力の実情を厳密に調査分析した結果「東条内閣の発表する軍需生産計画はデタラメである」、「このままの態勢では戦争の将来は惨憺たる滅亡あるのみだ」、「現内閣の施策はすべて非科学的だ」と結論し、現内閣は国を滅ぼすものだと高松宮や永野修身元帥等海軍の高級将校たちに力説した。これを東条が見逃すはずはなく、即座に松前に対し報復措置をとった。
 それまで上限が四十歳だった徴兵年齢を四十五歳にまで引き上げて、四十二歳の松前を陸軍二等兵として召集し、淡路丸という爆薬運搬船に乗せて南方に送ったのである。通常はこのような爆薬船に兵隊は乗船させないのだが、この時は松前の部隊の百名が乗船させられていた。

 松前の部下で逓信省工務局調査課長であった篠原登は松前の召集解除を画策し、兵器行政部長の管清次中将から富永恭二陸軍次官に頼んでもらったところ、富永は直立不動の姿勢で「これは東条閣下の直接の命令であるので絶対に解除できぬ」と拒絶した。

 絶体絶命のピンチに陥った松前は台湾の高尾から無線電話で篠原に連絡をとり、海軍から松前の転船命令を出してもらうことに成功し、ようやく石炭船に乗り換えることに成功した。
 淡路丸は港をでるとすぐに松前の見ている前で爆発を起こして沈没してしまった。(証言・私の昭和史  文春文庫より引用)


 このエピソードから、東条は確固たる意志を持って、松前を殺害しようとしたことが窺える。おそらく、爆薬運搬船の淡路丸が台湾の高尾に入港するという情報をなんらかの方法で敵方に漏らしたのではないだろうか。私は山本五十六も同じ方法で殺害されたのではないかと思うのである。

 ガダルカナル島奪還のための作戦の打ち合わせに戦艦大和を訪れたある陸軍大本営参謀(辻政信であろう)が「成る程、大和ホテルとはよく言ったものだ。こんなところで、鯛の刺身で晩酌などやっていては、ガ島でトカゲを食っている陸軍の苦しみはわかるまい。陸軍は百武軍司令官自ら上陸して陣頭指揮だ。海軍の長官はトラックの大和ホテルだ。ここなら潜水艦も来ないし、命も安全だからな。これでは、海軍に応援を頼んでも、軍艦を出してくれぬわけだ。司令長官が一番後方では、部下もついて来ぬし、第一、士気が揚がらぬ。日本海海戦のときは、東郷大将自ら三笠で陣頭に立ったと聞いている。帝国海軍も変わったものですな」と毒舌を叩いて高笑いした(激流の孤舟 提督米内光政豊田穣著 講談社)
 付け加えればトラック島には日本から慰安婦も来ていたからまさに天国であったろう。

 


 
2009 11/18 20:25:35 | none | Comment(0)
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 今からみると昭和は不吉な元号であった。昭和の昭の字を分解すると、日本の口に刀とも読める。昔、鎧を身に着けた武士が戦場で自決する場合、口に刀の切っ先を含み、刀の柄を地面に打ち当てて喉を刺し貫く方法があったが、日本も太平洋戦争でまさに滅亡寸前にまで追い込まれた。今思うと昭和という元号は本来の国民と世界の平和という理想を表す意味とは別に日本の悲劇的未来を警告していたように私には思える。

 太平洋戦争末期、勝利は既に絶望的となり、軍部の狂気じみたプロパガンダは益々エスカレートして行った。自動小銃を持った米兵に立ち向かうために国民に竹槍の訓練をさせたり、「一億総玉砕」などと叫びだした。「木戸幸一内大臣が、本土決戦の急先鋒である阿南陸軍大臣に向かい『アメリカの博物館に三種の神器が陳列されて、その横に、かつて大日本帝国という国があった。これはその遺品である、と書かれるだろう』との趣旨のことを述べて、全軍特攻、一億総玉砕の終末に注意を喚起したのもこの頃である」(別冊歴史読本「太平洋戦争敗北の責任」 新人物往来社)
阿南陸軍大臣が終戦の詔書に署名して、陸相官邸に戻って自決する直前に義弟の竹下正彦中尉に「米内を斬れ」と言ったことは有名な話である。ポツダム宣言受諾に賛成したものは他に鈴木首相や東郷外務大臣もいたのに、わざわざ米内海軍大臣だけを名指ししたのは他の理由からだろう。私はそれは米内に敗戦の責任ー特に拙劣な作戦を繰り返すことによって日本の敗戦を決定づけた山本五十六を連合艦隊司令長官に任命した責任を取らせろということだったのではないかと思うのである。
「米内光政は総理大臣として、また海軍大臣として、昭和史の重大局面にしばしば登場し、選択をせまられ、決断してきた。その重責たるや、近衛文麿、東条英機に比して、より大ではあっても、小ではなかった。しかもその判断の誤りが、敗戦の惨禍を招来してしまった。彼の舵取りは、痛恨昭和への水先案内人のそれであったのだ」(米内光政と山本五十六は愚将であった 三村文男著 テーミス)

「確かに緒戦のあれは、山本さんでなくてはやれなかったんだが、そのあとが、周囲から作戦の神様扱いされて、すること為すこと派手になりすぎ、いつか誰かが ブレーキをかける必要があった。山本にブレーキのかけられる人といえば、米内さんを措いてありません。
自分でも分かっていたろうに、米内さん、それをしなかった。立場になければ口出しはせぬ、性格的にも信条としてもそういう人なんだからやむを得ないけれど、日本のために不幸なことだったし、米内さんについて惜しいと思うのはこの点です」前田稔中将
(米内光政 阿川弘之著  新潮社)



 山本五十六に河合千代子という新橋の芸者の愛人がいたことはよくしられているが、この千代子の晩年の主治医であった望月良夫氏が彼女から直接聞いた話では、山本五十六戦死の当日か翌日に軍務局の人間が押しかけてきて彼女に自殺を迫ったそうである.
奇妙なことに、この時のことを千代子は「三十台の若さで死ねなかった」とあたかも自殺を迫られてもしょうがないような言い方をしていることである。

 普通なら「何で私が自殺しなくちゃいけないんですか」と反論するべきであろう。この時に千代子は山本五十六から受け取った手紙のほとんどを持ち去られてしまった。客観的に考えて山本五十六と千代子は機密漏洩等の重大な嫌疑を受けていたとみるべきではないだろうか。(参照文献「山本五十六の恋文 望月良夫著 考古堂書店より) 
事実、ミッドウェー海戦の直前昭和十七年五月二十七日付で山本から千代子に宛てた手紙の中で「・・・私の厄を引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上はー万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日にはこちらも早朝出撃して、三週間ばかり洋上にて全軍を指揮します。多分あまり面白いことはないと思いますが。今日は記念日だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれも大事にね。

 うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふも暮らしつ (山本五十六 半藤一利 平凡社)
 うつし絵とは写真の事である、それにしてもこの手紙は重大な機密漏洩である。おそらく検閲官には見られていた可能性がたかい。山本五十六はそれまでにも度々死を覚悟しているような手紙を知人に送っているが、こちらの「万事を放擲して、二人だけになりたい」の方が本音だったのではないだろうか。
「身は鉄石にあらずとも、堅き心の一徹に敵陣深く切り込みて日本男子の血をみせむ。いざ待てしばし若人ら死出の名残の一戦を華々しくも戦いてやがて追うわれなるぞ」などと言っているが、実際には自分は全然敵陣深く切り込んでなんかいないではないか。真珠湾奇襲の時も、ミッドウェー海戦の時もガダルカナル攻防戦の時も、いつも前線からはるか後方の安全地帯に引っ込んでいたではないか。ただ、何も知らない国民はこのような山本の手紙をみて感激し、また頼もしく思ったことだろう。(前掲書参照)

 河合千代子こと新橋の芸者梅龍について山本の同僚で海軍省書記官であった榎本重治は戦後次のように語っている。「飲んだくれの芸者でね。芸の無い芸者で、ただ酒を飲んで酔っ払うだけ。乱暴な口をきくしね。五十六はそういうところを面白がっていたな。掘(悌吉)さんなんかも困っていたが、五十六は憎めない男ですからね。何くれとなく山本のことをかばい、我々もウワサが広がらないようにごく一部で止めて、知っていたのは幕僚と知人たちのごく少数でした。あれこれ書かれるようになったのは、戦後のことですよ」(ミッドウェー海戦 第一部 森史朗 新潮選書)

 戦後明らかにされた元艦長クラスの山本評は概ね、最悪と言ってもよいものであるが、陸軍の山本評も同様であり、東条の側近だった佐藤賢了中将などは山本五十六のことを「凡将中の凡将であり、その罪は万死に値する」と痛罵している。

 東条首相は4隻の空母と百余人のベテランパイロットを失ったミッドウェー海戦の真実を知った時に「これでもうお仕舞だ」と目に涙を浮かべていたということである。(「地獄のニューギニア戦線  栗崎ゆたか著 フットワーク出版)
 米国とオーストラリアを分断するために海軍が設置したガダルカナル島の飛行場を巡る攻防でも奪還が絶望的になり、多くの日本軍将兵が飢え死にしていることを知った東条は参謀本部作戦部の田中新一部長と服部卓四郎課長に「三万人を餓死させたらお前たちとは生きてお目にかからない。地獄で会おう」と言い切った。海軍に対しても「海軍が知らないうちにおかしな作戦をやって尻拭いを陸軍に頼む、そんな事をやられては困る。なぜ近くに飛行場を作らないのか。絶対優位の海軍力を持ちながらなぜ昼間の制空権を握れないのか等、皇族の竹田宮参謀に対して、海軍に対する怒りを顕わにしたという。(「遠い島ガダルカナル 半藤一利著 PHP出版参照)

 そもそもガダルカナル島をめぐる攻防は海軍がここに設置した飛行場を守るために陸軍が駆り出されたもので、それにもかかわらず、へっぴり腰とも思われる山本五十六の中途半端な戦い方のために、陸軍は戦死八千人、餓死者一万人を出してガダルカナル島からの撤退を余儀なくされた。狭量で短気な東条英機が山本五十六を見限らないほうが不思議である。しかし、真珠湾奇襲の国民的英雄である山本を罷免することは可能ではあるが、それでは国民に戦局がはかばかしい状況ではないことを明らかにすることになる。
 一番良いのは山本五十六が戦死か病死してくれることであるが、それを待っているだけの余裕はないから戦死するような状況を作り出すしかないーと東条が考えたであろうという推理はあながち荒唐無稽とはいえないのではないだろうか。
2009 11/17 19:14:34 | none | Comment(0)
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