通説にとらわれない新しい歴史解釈

2019年 08月 の記事 (1件)

「一人殺せば、犯罪者になるが、数百万人殺せば英雄になる。(戦争による大量殺人の)人数は崇高視されるのだ」
“One murder makes a villain, millions a hero. Numbers sanctify.”

この言葉はチャップリン自身が自分の作品のなかで最高傑作と自負する「殺人狂時代」で金持ちの未亡人に近づいて次々に殺害し、その財産を奪う犯罪を重ねた主人公アンリ・ヴェルドゥが処刑台に向かう直前に残したセリフである。
その真意は個人の殺人も戦争による殺人も本質は同じであり、違うのは被害者の数の違いであり、個人的殺人は醜悪な犯罪とみなされるが、戦争による殺人は崇高な行為とみなされるという意味であろう。
全ての戦争がそうだとは言えないとしても、人道とか正義とか、もっともらしいことを言っているが、客観的に見ると実際は大規模な火付け強盗と火事場泥棒にしか見えない戦争もあるのが現実ではないだろうか。誰でも自分の子供に「お父さんは本当は火付け強盗の親分なんだよ」とは言いたくないだろうし、自分でもそうは思いたくないだろうから「盗人にも三分の理」で、人道だとか正義だとか自由とか、もっともらしいことを言って嘘も交えて色々と火付け強盗を正当化して正義と自由を守るための戦争のようにでっちあげる例は歴史上少なくないのではないだろうか。

外国のことばかり批判するのは不公平なので日本の実情はどうであったかというと、やはり、似たようなことはあったようである。二・二六事件の青年将校も「勲章を貰うための戦争などあってはならない」と批判したが、そのような戦争が実際に存在した事を裏付けるエピソードが戦後、海軍の高官を中心としておこなわれた「海軍反省会」の記録のなかに見ることができる。

満州事変が勃発したとき司令官だった本庄繁が男爵の称号と金鵄勲章功一級を貰ったため、それにあやかろうとした軍人がいたことを示唆している。(金鵄勲章は年金が加算され、功一級は900円の年金がプラスされたー当時の大将の年収の半分以上)

大井篤元大佐―近衛文麿さんが終戦のときに天皇陛下に上奏したの。(註1)右翼は、国体の衣を着た左翼である、と、こう言っているんですね。それから、平沼騏一郎さんの回顧録、あれに語ったのを見ますと、これは昭和十八年ですよ。戦争の真っただ中に語っているのを見ると、コミンテルンは、転向させられてなかったんです。この頃はみんな転向させるという、大いに、そして転向しておいて、政府のところにとうとう入っていると。
それで、日米間の戦争をやらせるのも、片一方は、蒋介石とか何とかって戦争をやらせるんですよ、コミンテルンが。そして、日本の中で戦争に、英米とは戦争するように持っていくし、もう一つは、戦争が始まったら、戦争が終われんようにしていくんです・・・・・第5巻−P488

それで、とにかくそのとき満州であのことをやった連中は、司令官が男爵で、確か金鵄勲章功一級もらったと思いますが。
寺崎隆治元大佐―(そうですね。本庄繁さん。)
保科善四郎元中将―うん、そういうことをやっている。それで、天津軍の司令官、それを満州と同じことをやって、功名を立てたいという感じが非常に強いんですね。第5巻−P502

勲章が欲しい司令官が一人で戦争をすればいいが、己の個人的野心のために多くの部下を死なせることになるのだから、これも一種の戦争犯罪といってよいだろう、欲に目がくらんで、本来の任務を忘却して大小の犯罪的行為に手を染めるということは企業社会でもそれほど珍しいことではないのではないか。故意にミスやトラブルの起きやすい環境を作って、それを収拾することによって、自分の管理者としての能力をアピールしようとする管理者はいるでしょう。企業で言えば部下を自殺させるほど追いつめて働かせる管理職のようなタイプの人間が軍隊の組織では、己の栄達のために平然と多くの部下を死地に追いやる指揮官になるのだろう。(ただし、本庄繁司令官は清廉潔白な人物でした)。 

(註1)近衛文麿自身がコミンテルンの一味だと評論家の宇野正美氏は言っていますね。真偽のほどは分かりませんが、興味深い見方だと思います。
 https://www.youtube.com/watch?v=YvNW4W50UWw&feature=relmfu

ノモンハン事件はインパール、ガダルカナル作戦と並び酸鼻を極めた戦いとして知られている。ソ連の衛星国となっていた外モンゴルと満州国の国境紛争に端を発した日ソ両軍の四カ月間に及ぶ戦闘であるが、日本側の主張する国境であるハルハ河を巡る攻防で、この人の住んでいない砂漠地帯の国境紛争で日本側は戦死8600人、負傷9000人の損害を出した結果、事実上ソ連とモンゴル側の主張する国境線を受け入れて停戦した。

第七師団第二六連隊長としてノモンハン事件に応援の形で参戦した須見新一郎中佐は参謀長から遠足にでも行くような調子で「どのみち須見さん、須見さんにも金鵄勲章をあげるようにしますよ」と言われたことを証言している。「須見さんにも」ということは当然自分たちも貰うつもりでいたのだろう。実際に彼らが受け取ったのは死神からの招待状であったが。この戦いの主役であった小松原師団長(中将)も、「まるでお茶を飲むように『いってもらえばいいんだ』と」―これはお茶でも飲みに行くような感じで、という意味であろう。この小松原師団というのは実戦経験が乏しかったそうで、そのために本当の戦闘の恐ろしさを実感できなかったのだろう。

須見大佐は状況を憂慮する直属の上司であった園部師団長から「須見大佐殿必親展」で受け取った手紙には小松原師団長を批判する内容が書かれていた。「小生がハルハ河の渡河を非常に無謀と思ったのは、第一、上司のこの作戦は行きあたりばったり、寸毫も計画らしきところなきの感を深くしたこと。第二、敵は基地に近く、われは遠く、敵は準備完全、われはでたらめなることのように思われる。第三、敵は装備優良、われは全く裸体なり。第四、作戦的の関係上ノモンハンの敵は大敵なり、しかるにもかかわらず上司はこれを侮って、ほとんど眼中に置かざる態度なりと、要するに敵を知らず己を知らず」

今日、このノモンハン事件を振り返ってみると、本当にこの戦いは必要だったのか?率直に言えば、現地の軍の上層部が金鵄勲章欲しさに安易な気持ちで暴走したのではないか?という疑いを少なくとも私は拭い去ることは困難である。
誠に悪名高い辻政信参謀が起草したと言われている「ソ満国境紛争処理要綱」では「国境線が明確でない地域では、防衛司令官が自主的に国境線を認定して、第一線部隊に明示し、万一衝突したときは兵力の多少、国境のいかんに拘わらず必勝を期する」となっていた。
あたかも進んで衝突を引き起こそうとするような規定である。

木下末一氏は須見大佐の部下として参戦した一人であるが、やはり、何のための戦いであったのか強い疑問を吐露しています。「もうこれは、われわれはほとんど敵の物量でやられたんですね。戦車が一列横隊に並ぶんですね。ザーッとね。そして砲塔から火炎放射器でやってくるんです。それに対してこちらはなにものもなく、火炎放射器で重油をかけられない者も、戦車に踏みつぶされる。踏みつぶされなかった者は焼かれる。ですから停戦後の戦場掃除ということになったときに、このノロ高地一帯に、もうほとんどごま粒をまいたようなと言っても過言じゃないくらいの日本軍の死体でしたよ。ほとんどの死体が火炎放射器で焼かれた、砲弾でたたかれた・・・・・それが草原を埋め尽くすように倒れておったんです。これはもう全般的に見て負けです。はっきり負けです、これは・・・・・やったこと自体が無駄な戦いでしたよ。あの砂漠地帯でですね、あの誰も住んでいない、どこが国境やら何もないんです・・・・・そんなところで、あれだけの人を死なせなきゃならん戦いが、なんのために必要であったかと、もうその期(ご)に至ってですね、いちいち例をあげていったら、これはもうとうてい表現し得ないくらい悲惨な戦闘を九月十六日まで続けたわけでしてね。本当に無駄であった、まことに情けないと思いますねえ」(参照文献:証言・私の昭和史 第2巻 文芸春秋)


小松原師団各指揮官の最後 (北海タイムズ刊『ノモンハンの死闘』より)

大内大佐(参謀長)七月四日戦死
小林少将(師団長)八月二十四日負傷
山県大佐(第六四連隊長)八月二十九日連隊旗を焼き自決
岡本大佐(参謀長)負傷入院中某大佐により斬殺
森田大佐(第七一連隊長)八月二十六日連隊旗を焼き自決
東中佐(第七一連隊長代理)八月三十日戦死
酒井大佐(第七二連隊長)負傷入院中自決(部隊全滅)
井置中佐(捜索第二三連隊長)フイ高地放棄の責をとり自決
伊勢大佐(野砲第二三連隊長)後退の責をとり自決
内藤大佐(野砲兵連隊長)包囲され自決
染谷大佐(連隊長)自決(部隊全滅)

小松原師団長はノモンハンでは生き残りましたが、予備役編入後、胃がんにより一年後の1940年(昭和15年)に死去しました。最近の研究ではソ連のハニートラップに引っかかりスパイ的な行為をしていたという説もあるようです。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm18129592

2019 08/10 00:11:44 | none | Comment(0)
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