通説にとらわれない新しい歴史解釈

2010年 09月 の記事 (2件)

 ミッドウェー海戦は山本五十六とスプルーアンスの戦いであったが、控えめに見てもこの二人の提督の能力と人間性には悲劇的なほどの差があった。ギャンブラー山本に対して、スプルーアンスは「冷静沈着でその決心はきわめて堅確であったが、よく部下の意見に耳を傾け、広く分散した部隊の状況を常に明確に把握し、しかも好機に際してはすかさずこれを利用した」
「戦争も終わりに近づいた頃、仲間の提督がスプルーアンス
に対して指揮官は戦いに勝つためにいかにすべきかを決定するにあたり、賭けをしなくてはならないといったことがある。このときスプルーアンスは、もしそうだとすれば、彼だけはその例外の一人であると答えた」

「1944年末、スプルーアンスは真珠湾の日本兵捕虜の収容所の前を通りかかった。ここにはアメリカ本土へ移されるのを待っている捕虜の収容所があったのである。
彼は思わず捕虜収容所の鉄条網に近寄り、身振りを混じえながら簡単な英語で話しかけた。そして驚いている捕虜たちに、『君たち日本軍の戦闘ぶりは立派だ』と何度も何度もいうのであった。四つ星の肩章をつけた海軍大将が、敵に向かって熱心に話しかけている光景をみて、アメリカ人も日本人も驚きの目をみはった。
しかし、ムーアは少しも驚かなかった。彼はスプルーアンスに同行して病院へ、アメリカ軍および日本軍の負傷者の見舞いに行ったことがあった。このとき、スプルーアンスは戦いに傷つき、あるいは不具となった将兵に対し、敵味方の区別なく心から同情の気持ちを表したのであった。彼はアメリカ軍の負傷兵だけでなく、日本軍の負傷兵についても非常な思いやりを示したのである」、またスプルーアンスは子供の頃世話になった二人の叔母に対する経済援助をまだ経済的にあまり余裕のなかった少尉の頃から生涯に渡って継続した。顔色の変わるような強い寒気のなかに身をさらす事も厭わなかった。(参照文献ー提督・スプルーアンス トーマス・B・ブュエル著 小城正訳 読売新聞社)*「ムーア」はスプルーアンスの部下で参謀長)ーつまり、自分には厳しく、他人には優しい人間であった。

 ミッドウェー海戦の時はスプルーアンスも参謀長のブラウニングも空母エンタープライズにあって、直接攻撃隊のパイロット達の意見を聞いて細かな作戦まで決定した。スプルーアンスは刻々と変化する敵味方の位置を記録する航跡図をどこへ行くにも手離したことがなかったそうである。
一方,山本五十六や黒島亀人等の幕僚は安全快適な戦艦大和に座乗して南雲機動部隊のはるか後方―全速力で駆けつけても9時間以上もかかる後方に位置していたばかりか山本五十六は海戦の最中に部下と将棋をしていた。
 沖縄攻略戦の時もスプルーアンスは旗艦ニューメキシコに座乗して前線で指揮を執ったため、特攻機の体当たり攻撃を受けて死者50人、負傷者100名以上の被害が出たときもあった。(提督・スプルーアンス)
 
 また彼の上司であるニミッツは次のようにスプルーアンスを評価している。「スプルーアンスは素晴らしい判断力を持っていた。彼はあらゆる事を徹底して検討し、それをきわめて慎重に判断し、一度攻撃すると決定すると、徹底的に攻撃するタイプであった。スプルーアンスはグラント将軍のように、敵に向かってゆくタイプであり、私はそのような指揮官を必要としていた。彼は大胆であったが、無謀になることはなかった。彼はまた慎重であり、戦闘に対する勘を持っていた」(ミッドウェーの奇跡 下 ゴードン・W・プランゲ 原書房)

 ミッドウェー海戦では空母の数においては日本が6隻に対して米国は3隻、戦艦は日本11隻に対して米は0巡洋艦は日本14、米国8、駆逐艦は日本52隻、米国15隻、潜水艦は日本16隻、米国20隻で航空機は日本372機対米国354機であった。
さらに帝国海軍連合艦隊は空前絶後の巨大戦艦大和と格闘戦の性能と航続距離においては当時世界一であった零戦を保有していた。それでも惨敗したのである。

 松田千秋元少将は山本五十六を連合艦隊司令長官にしたのは間違いで「人事の失敗が、あのようなみじめな戦さにしたといってもいいでしょうね」と語っている(艦長たちの太平洋戦争 佐藤和正 光人社)
山本五十六は合理的な思考ではなくギャンブラーとしての勝負勘に基づいて作戦をたてて惨敗した。

 当時の日米の主要なリーダーを比較するとその資質の差というか人間としてのレベルの甚だしい違いを痛感させられる。大人と子供くらいの差があったのではないか。
源田実のことを同期の柴田武雄大佐は「源田のように実戦に通用しない、人をたぶらかす魔力が強いだけで、実際的には弱い欠陥頭脳者が作戦を指導したので、勝てる戦に負けたのだ」とまで極言している。(日米海戦史 田村正三  図書出版社)
山本五十六を連合艦隊司令長官にした米内海軍大臣は「金魚大臣」とも言われていた。その意味は見かけは派手だが煮ても焼いても食えないということだそうである。
杉山元陸軍元帥は押した方に動くので「便所の戸」といわれていたそうである。
東条英機を著名な右翼学者の大川周明が「下駄」と評したのは有名な話である。下駄は足の下に履くには便利なものだが、頭に乗せて使用するものではない。東条が指導者として国民の上に立つ資格も能力もないという意味である。金魚や下駄や便所の戸でマッカーサーや、ニミッツ、スプルーアンスなどの超一流の将軍を相手にして勝てるはずがなかった。
東条は首相になってから食物の配給が庶民にちゃんと行き渡っているかを確認するために残飯を見て確認しようとゴミ箱の中を視察して回ったので「ゴミ箱宰相」とも言われた。尊敬の念を込めて言われていたとは思えない。元々役所の戸籍係が向いているといわれた程度の人物である。

「東条程度の人物のやれることは知れている。彼は、戦国乱世の中にのしあがった織田信長でもない。幕末の混乱に生き延びて明治政府を作り上げ、その独裁者になった大久保利通でもない。幼年学校、陸士、陸大と、鋳型にはめられてポンと押し出されたその他大勢の人間の一人である。
片寄った狭い知識しか持ち合わせていない軍部という封鎖社会で、派閥のたたき合いで多くの人が消え去ったあとに生き残り、少し頭が切れるとか、実行力がある、努力家である、まじめで謹厳である、とかが目立っただけで陸軍の最高位に出世していった・・・」(松岡英夫 東条英機論 より引用 一億人の昭和史 3 太平洋戦争 毎日新聞社)

 昭和の帝国海軍では年功序列と情実および不合理な感情に基づく非科学的な人事が大勢を占めていたため、開戦時のハードウェアの点での優勢さを生かすことができなかった。
武器の性能に相当な差があっても、例えば戦闘機などの場合、パイロットの技術の差が大きければカバーできるそうである。
極端なたとえ話であるが、もし宮本武蔵をタイムマシンで呼び出して私と決闘すると仮定して、私が上野の国立博物館に秘蔵してある、おそらく時価一億円はくだらないと思われる源頼光が大江山で酒天童子を斬った刀剣との伝承がある国宝の「童子切安綱」を用い、武蔵はどこかの観光地のみやげ物屋で二千円くらいで売っている木刀で立ち会った場合、向き合って数秒後には私は武蔵の木刀で打ち殺されるだろう。いくら優れた武器を持っていてもそれを扱う人間がそれを生かせる能力を持っていなければ役に立たないということである。

 山本五十六という人間について知れば知るほどあの時期に日本側によって暗殺されることは当然であったという私の考えは一貫して変わらない。
山本五十六に関係していた幾人かの高官達の証言を読むと何か隠しているという印象を私はぬぐえないのである。

 一例を挙げれば海軍少将高木惣吉は東条政権末期に神重徳大佐、小園安名大佐、渡名喜守定大佐、矢牧章大佐、伏下哲夫主計中佐や後に高松宮宣仁親王や細川護貞なども加わった東条暗殺計画を立案した人物であるが、その著書「自伝的日本海軍始末記」のなかで「永野総長のごときは、山本元帥を殺した一事だけでも、引退謹慎すべき責任者である」と明記しているが、私にはこれが単なる比喩とは思えないのである。
2010 09/28 20:44:55 | none | Comment(0)
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 終戦四カ月前の昭和二十年四月七日、空前絶後の巨大戦艦大和は沖縄特攻作戦の途上三百八十機を超える米軍機の猛攻を受け三時間の激闘の末、東シナ海で撃沈された。米戦艦と一度も砲火を交えることなく誕生してから僅か3年半の短い生涯であった。
この時大和が撃墜できた米軍機は僅か十機であったという。あまりにも少なすぎるので間違いではないかとも思われるが、この時に攻撃してきた米軍パイロットの技量と勇敢さは大和の艦橋から見ていた森下参謀長が「見事なものだ、おそらく米軍きっての精鋭であろう」と感心したほどだったので、やはり事実かもしれない。大和を沖縄に出動させた理由としては沖縄の海岸に乗り上げて陸上砲台となって米軍を攻撃すという狙いがあったが、このような殆んど実現不可能な非現実的な理由よりも歴史上最大最強の戦艦を建造しておいてこれを満足に活躍させないうちに港に浮かべたまま敗戦を迎えることはできないという海軍の面子が大きかったようである。それにしても無駄な使い方をしたものである。大和を沖縄の海岸に乗り上げさせ陸上砲台として上陸した米軍を殲滅するという計画はもっと早い時期―天王山といわれたガダルカナル攻防戦で実施していれば太平洋戦争の結果は変わっていただろう。
 
1200隻の艦船と18万2千名からなる米艦隊が待ち構える沖縄に到達できる可能性は事実上ゼロであったがガダルカナルの場合は一時期、苦境に陥った米軍が撤退することも考えていた時期に大和を投入すればガダルカナル争奪戦は少なくとも一時的には日本が勝利を収めることができたであろう。ガダルカナルでは駆逐艦を利用して武器や兵員の輸送を行い大きな被害をだしたが、大和を利用すれば防御力がはるかに強大なので必要な武器や兵員の輸送にかなり成功したのではないだろうか。当時、戦艦は時代遅れだと言われていたが、このガダルカナル争奪戦において幾度か戦艦同士の決戦は行われている。大和は米国の最新鋭の戦艦より射程が2000メート以上長かったからアウトレインジで攻撃してほとんどの戦艦を沈めることができたであろう。
 
 只何といってもこのとき連合艦隊司令部は「実は燃料が無い」とか狭い海域なので大和では座礁する恐れがあるとかいって出て行こうとしなかった。(参考文献:帝国海軍はなぜ敗れたか 御田俊一 芙蓉書房出版)

 「日本海軍は、大和の戦力『世界一の艦砲と重防禦』を生かした作戦を考えず、後方で漫然と旗艦任務に充てているうちに、ついに使用の時期を失った。大和は二十年四月七日、航空機の掩護なしに沖縄特攻作戦に出撃し、悲運の最期をとげたのである。
大和の悲運は、時代遅れだったのでも、性能的に問題があったのでもなく、その持てる力を十分に引き出すような使い方が全くなされなかったことにあるというべきであろう」
(写真記録 昭和の歴史3 太平洋戦争と進駐軍)小学館


 山本は、昭和十五年四月に全国地方長官会議に出席したお歴々を旗艦「長門」に案内した際、「一旦緩急あるときは常に最前線に立って全艦隊を指揮する」と語ったところ、それでは長官が危ないではないかと問い返された。これに対して山本は次のような指揮官論で応じている。
「これは何も私の考えたことではない。二十七八年の役の黄海海戦以来、長い間海軍の伝統なのだ。東郷元帥も軍艦三笠の艦橋に立って戦われた。指揮官が先頭に立たなければ、海戦は出来るものではない」
(山本五十六 田中宏巳 吉川弘文館)
全然言行不一致であり、詐欺と言ってもよいレベルであると思う。

「その作戦はつねに、内容がともなわないわりにゼスチャアが大きい。軍政家に向いた方であったろう」草鹿龍之介
ハワイ作戦の際、総指揮官として直接真珠湾の上空に飛んでいった淵田美津雄はいきなり「山本五十六なんて凡将なんだよ」と吐き捨てるようにいった。
昭和十七年十二月から十八年五月まで戦艦大和艦長だった松田千秋は「あの人はギャンブルが好きだったでしょう。本当はあまり強くなくて、ハッタリ性の強いものだったというが。あの人の立てた作戦はすべて、見た目はハデだがシロウト考えでね。それも国力を無視した、イチかバチかのギャンブルみたいなものだった。それから、真珠湾奇襲をやって航空機こそ兵器の主役であるということを、敵側に教えてしまった。航空機の重要性については、アメリカ側もそれほど切実に考えていたわけじゃないんだから」

昭和十二年海軍次官時代、かつての教え子である南郷茂章少佐が、中国南昌上空で戦死したときのエピソードが知られている。南郷家に弔問に訪れた山本大将(当時中将)は、父親の挨拶を伏目がちに無言で聞いていたが、突如体を前に倒して、まるで幼児のごとく大声あげて慟哭し、大勢の弔問客が見守る中、ついにはその場に横ざまに打ち倒れた。しばらくたって起き上がったが、ふたたび激しく哭き伏して、同じように倒れたという(反町栄一著『人間山本五十六』)
歴史群像太平洋戦史シリーズVol 7 ラバウル航空戦 学習研究社

 私は山本五十六は役者に向いていたように思う、その世界に入っていればかなり成功したにちがいない。軍人になるべき人ではなかった。まして連合艦隊司令長官などには絶対なってはいけない人間だった。人目を引く派手なゼスチャーと一見誠実そうな風貌を利用して、弁舌巧みに勇猛かつ人情味のある提督という役をずっと演じ続けていた幼児性の強い人間ではなかったかという気が私にはしてならない。

山本五十六の裏の顔を暗示する見逃せない証言が「二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房」に記述されている。五・一五事件で犬養毅首相を暗殺した罪で下獄した古賀清志らが出獄して山本五十六海軍次官のところへ挨拶に行くと「御苦労であった」と、副官を通じて一人千円ずつ(筆者山口註:平成二十六年の価値では五百万円くらいか)与えて慰労したという。犬養首相は清廉潔白な人柄で知られ、組閣してまだ半年ばかりしかたっていなかった。国民の人気も非常に高かった首相である。拳銃を構える兵士たちに臆することなく「話せばわかる」と説得しようとした老宰相を「問答無用」と一方的に射殺するとは何事であるか。そのような無慈悲で浅はかな犯人たちに対して「御苦労であった」とは何たる言い草か。
このエピソードについては古賀不二人(古賀清志から改名)が戦後「昭和史探訪」という番組の中で司会の三国一郎の「一三年に仮出所。それからどうなさいました」という質問に対して「当時山本五十六元帥は海軍次官で、お礼の挨拶にいったら、当座のこづかいと言って一○○○円ずつくれました。当時近衛文麿内閣の書記官長の風見章、これも一○○○円ずつくれました。当時の一○○○円は大きいですものな」と答えている。(昭和史探訪  2 日中戦争 日曜日の弾痕「五・五一五事件」古賀不二人 番町書房) 古賀のこの話が事実であるとすると山本五十六の背後の闇が一層深くなると思われる。また風見章はソ連のスパイであったゾルゲの逮捕事件に関連して処刑された朝日新聞記者尾崎秀実の親友であり、尾崎を近衛内閣のブレーンの一人として引き入れた人物である。
2010 09/27 20:19:28 | none | Comment(0)
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