通説にとらわれない新しい歴史解釈

2018年 05月 の記事 (2件)

「チャップリンは合衆国の有名人であり、資本家どものお気に入りである。われわれは彼を殺すことでアメリカとの戦争を引き起こさせることができると信じていた」と首謀者の一人である古賀清志中尉は後に語った。
(チャップリン アメリカと戦った天才道化師 福川粛著 メディアファクトリーより引用)
そして、この暗殺計画が未遂に終わった理由を古賀は「アメリカとの戦争を引き起こし、軍部の勢力を拡大できるかもしれないという小さなチャンスのために一人のコメディアンを殺害することは賢明なことだろうかという議論になり、結局、暗殺計画は放棄された」と語っている。
(The same prisoner said that the plan to kill Chaplin was   abandoned because ‘It was disputed whether it was advisable to kill the comedian on the slight chance that it might bring about war with the United States and increase the power of  the military’)A PENGUIN BOOK MY AUTOBIOGRAPHYより引用

国民にとって最大の不幸は戦争の惨禍であろう。五・一五事件の首謀者達が大衆を貧窮に陥れている政治を糾弾し、大衆の救済を唱えながら、一方で、はるかに大きな不幸を国民にもたらす戦争に国民を巻き込もうと考えていたことは大きな矛盾であり、私は彼らの真意と誠意を疑わざるを得ない。二・二六事件の青年将校たちは日米戦が日本に破滅をもたらすものと正確に予見していたので、戦争を避けるために米英や中国に対しては融和的な考えを持っていた。この点で五・一五事件の青年将校たちとは本質的に異なっていた。

どう考えても日本の農村の不況や中国の排日、侮日運動もチャップリンの罪ではない。その無関係なチャップリンの暗殺を発想するという時点で、既に彼らの思想がまともなものとは私には思えない。同じような話が五・一五事件の青年将校たちのなかでリーダー的存在であった藤井斉(ひとし)中尉(後に上海で戦死)と血盟団の井上日召の間でもあった。(下記文中の「大川」とは東京裁判でA級戦犯に指定され、たびたびクーデター計画の黒幕となっていた大川周明)
「藤井は『すごい情報を握ってきた』と言い、大川から聞いた具体的計画を語った。<この秋には満州(中国東北)で、中国人をそそのかしてニ、三人の日本人売薬商を殺させる。それをきっかけに、国際問題を起こし、日本は中国に対して断固たる処置にでる。そうなれば中国でも、排日、排貨を必ずやり出す。関西の商人たちの間では貿易不振が問題になり、財界は混乱し、ひいては内閣も倒れる。その混乱に乗じて、愛国者たちに国会を襲撃させる。すると警視庁の巡査と衝突し、流血の惨事となって、革命の火ぶたが切って落とされる。つまり、こうして社会を混乱に落とし入れて、そのドサクサに革命を成就させる>ーというものであった。藤井は独断で大川に対して、この計画に仲間と共に参加する意思を伝え、計画実行の際には『拳銃ニ十挺の交付を受くる約束を結んできた』と語った。これを聞いた井上は激怒した。『藤井、貴様も貧乏人の子じゃないか、そうして大衆の為と云うことを大川は言うではないか、藤井も能く大衆々々と云うことを言うではないか、そうした気の毒な満州へ行って売薬して生活して居る、そう云う人を殺すと云うことは断じていかぬ、そんなことが抑々(そもそも)革命精神の非常に違う所だ・・・・・そういう者が権力を握った時には決して日本を善くせぬ、握るだけは握っても、握ってから必ず日本を毒する、それにお前が合流すると云うことを約束するとはなにごとか・・・・』(「血盟団事件 中島岳志著 文芸春秋社」より引用)

どうも五・一五事件の首謀者達には純粋な意味での革命家というよりも革命ブローカー的な色彩を私は強く感じるのである。三上卓中尉は戦後、今度は「無税」、「無失業」、「無戦争」の3つをスローガンとし、政府の要人や労働組合の幹部を暗殺するクーデター計画(三無事件―未遂)に参加して1961年に逮捕されている。ただし、証拠不十分で不起訴)
(三無事件の詳細についてのリンク)http://kh16549.blog.fc2.com/blog-entry-159.html

五・一五事件の被告たちは昭和十三年には仮釈放されたが、山本五十六に出所の挨拶に行っている。そのときのことを古賀清志(当時は古賀不二人と改名)は戦後「昭和史探訪」という番組に出演して司会の三国一郎の「十三年に仮出所。それからどうなさいました」という質問に対して「当時山本五十六元帥は海軍次官で、お礼の挨拶にいったら、当座のこづかいと言って一○○○円づつくれました。当時近衛文麿内閣書記官の風見章、これも一○○○円づつくれました。当時の一○○○円は大きいですものな」と答えている。(昭和史探訪 2 日中戦争 日曜日の弾痕 「五・一五事件」古賀不二人  番町書房)昭和15年の大卒の初任給が月給で75円〜80円くらいだったらしいので、今日の貨幣価値に換算すると二人から貰った計2000円だけでも700万〜800万円くらいになるだろうか。その後も彼らは仕事の面などで色々と優遇されたらしい。ちなみに風見章はソ連のスパイであったゾルゲの逮捕事件に関連して処刑された朝日新聞記者尾崎秀実の親友であり、尾崎を近衛内閣のブレーンの一人として引き入れた人物である。

公判で明らかになっただけでも、古賀清志中尉は暗殺決行前の四月三日にも大川周明から拳銃五挺と弾丸百二十五発及び運動資金として一千五百円を受領し、二十九日には再び大川から運動資金として二千円を受領している。
五月十三日には犬養首相に最初に発砲した黒岩勇中尉が大川から二千五百円を受領している。彼らの活動規模に対して不釣合いなほどの大金といえるだろう。「話せば分かる」と話し合おうとした犬養首相に対して「問答無用」と叫んで発砲を促したことで有名な山岸宏中尉は「軍資金を貰って残ったら弟の学資にしよう」と笑いながら話した。(五・一五事件 陸海軍大公判記 時事新報社)
2018 05/22 20:01:45 | none | Comment(0)
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チャップリンの自伝のなかに昭和七年五月十五日に首相官邸を襲撃して犬養首相を暗殺した六人の海軍士官および陸軍士官候補生(*1)とチャップリンの秘書高野虎一が直接関わりがあったのではないかと疑わせる記述がある。
前日十四日にチャップリンと兄のシドニー、秘書の高野等が食事中に突然闖入してきた正体不明の男達も六人であったのだ。シドニーはこれを「単なる偶然ではない」と言っている(‘It is more than a coincidence that six assassins murdered the Prime Minister and that six men came into the restaurant that night while  we were dining.’)

神戸に到着した時からチャップリンと兄のシドニーには、出迎えた秘書の高野が何か心配事を抱えているように見えた。(He looked worried ever since we arrived at Kobe)
シドニーの私物が留守中に検査されており、チャップリンの世話を担当する政府の係員がやってきて、もし行きたい所があれば秘書の高野を通してその係員に連絡するようにとのことだった。
シドニーは「我々は監視されている。高野は何か隠している」と言い張った(Sydney insisted that we were being watched and that Kono was holding back something.)
「私も時間が経つにつれてだんだんと高野の苦悩といらいらしている感情が深まっていくように見えたことを認めねばならない   (I must admit that Kono was looking more worried and harassed every hour.)
同じ日、高野がおかしな話を持ち込んできた。それは絹の布地に描かれた春画を所持している一人の商人がチャップリンに家に来てもらって見て貰いたいというものであった。チャップリンが興味が無いと答えると、高野は困った様子だった。
「私がその男に絵をホテルまで持ってきて置いていってくれと頼んだらどうでしょうか?」
「どんな条件でもダメだ、時間を無駄にするなとその男に言っておけ」
「この人たちはノーという回答は受け入れません」
「お前は何を言っているんだ?」
「えーとですね、彼らは数日間私を脅迫しているのです。ここ東京には無法者集団がいるのです。」 (Well, they’ve been threatening me for several days: there’s a tough element here in Tokyo.)
「馬鹿馬鹿しい!すぐに警察を動かそう」(‘What nonsense!’ I answered.‘We’ll put the police on their tracks.’)
しかし、高野は首を振って、暗に「彼ら」が警察の手にも負えない存在であることを示唆した。

翌日の夜、前述の六人の正体不明の若い男達がレストランの個室で食事中のチャップリンの前に現れた。一人は高野の隣に腰掛けて腕を組んだまま怒りを押し殺した様子で何か言うと高野の顔から血の気が引いた。身の危険を感じたチャップリンはとっさにコートのポケットに片手を入れてさも回転式拳銃を構えているような仕草をして叫んだ「これはどういうことなんだ!」高野は顔を伏せたまま料理から目をはなすことなくつぶやくように言った。「彼はあなたが彼の絵を見ることを拒否したことで彼の先祖を侮辱したと言っています」
チャップリンは勢いよく立ち上がると片手をポケットに入れたまま、その若い男を睨みつけた。「一体これはどういうことなんだ?」チャップリンは兄を促して直ちに部屋から脱出し、高野にはタクシーを呼ぶように指示した。「いったん、安全に通りまで出ることができたので我々は皆ほっとした」と自伝のなかで回想している。

この事件に関わった当時の日本側の関係者の証言とチャップリンが自伝の中で語っている事には幾つかの重大な食い違いがある。一番問題なのは首相官邸における歓迎会は五月十五日ではなく、「惨劇の翌日」すなわち十六日に予定されていたとチャップリンが書き残していることである。(The day after the tragedy I was to have met the late Prime Minister at an official reception, which was, of course, called off.)
十五日には首相の息子である犬養健から相撲に招待されていたと述べており、首相訪問の予定を気が進まなかったため相撲観戦に変更したなどとは一言も書いていない。
要するに日本側では首相官邸での歓迎会は十五日と思っており、チャップリンは十六日と聞かされていたということである。なぜこのような奇妙な食い違いが生じたかは秘書の高野虎一が何者かに脅迫されて首相が十五日に官邸に滞在しているようにしむけるためにチャップリンと日本側には別々の事を言ったと考えるとつじつまが合うように思える。

(以上、英文はA PENGUINE BOOKの 「CHARLES CHAPLINE MY AUTOBIOGRAPHY」より引用)

(*1)実際に首相官邸を襲撃したのは四人の海軍士官と五人の陸軍士官候補生の計九人であったが、どういうわけか翌日の新聞には六人と報道されている。

2018 05/12 14:19:06 | none | Comment(0)
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