通説にとらわれない新しい歴史解釈

2014年 04月 の記事 (1件)

 建久九年(1198年)十二月七日、頼朝が家臣である稲毛重成の造営した橋供養に参列した帰途落馬して翌年の一月中頃に死去したことは吾妻鏡の記録で明らかであるが、その直接の死因については諸説があり、中には愛人の家に忍んで入ろうとしたところを家人に斬り殺されたというものまである。
だが京都の公家の記録にある「飲水」「所労(病気)」などの記録が一番信頼できるであろう。飲水とは糖尿病のことなので糖尿病に由来する合併症が頼朝の直接の死因とするのが妥当ではないだろうか。
私はそのなかでも心筋梗塞ではなかったかと思うのである。心筋梗塞の発作が起きた時の典型的な症状は顔面蒼白になって冷や汗をかき、重症の場合は激しい胸痛を伴い意識を失うというものである。これなら頼朝が落馬したことも納得できるし、間近にそのありさまを見た家来があたかも恐ろしいものを見たかのような頼朝の表情をみて、安徳天皇や義経の亡霊を見たというように噂が発展していったのではないだろうか。

心筋梗塞の発作の前兆は必ずしも心臓部分の痛みを感じるのではなく、肩や胸骨、奥歯等の痛みとして現れることもある。また虫歯による細菌が心臓の内膜に感染して炎症を起こして重度の心臓病を引き起こすこともあるそうである。
鶴岡八幡宮に伝来する木造の頼朝像をみてもかなり豊頬であり、典型的な糖尿病体形である肥満体であったことをうかがわせるし、死去する五年前には激しい歯痛に苦しんでいたことが吾妻鏡に記録されている。

建久五年八月二十二日  
将軍家いささか御不例。御歯の勞(いたわり)と云々。これによって雑色上洛し、良薬を尋ねらると云々。
建久五年九月二十二日  
 歯の御勞(いたわり)再発すと云々。
建久五年九月二十六日  
 歯の御勞(いたわり)の事、療法お京都の医師に尋ねられんがために、わざと飛脚をを立てらるる所なりと云々。 
建久五年十月十七日    
 歯の御治療の事、基朝臣これを注し申す。その上良薬等を献ず・・・・・
建久五年十月十八日   
 上総介義兼、御使いとして日向薬師堂に参ると云々。歯の御勞(いたわり)御祈のためなりと云々。
建久六年八月十九日   
 将軍家御歯の勞(いたわり)再発すと云々。    

糖尿病になってから合併症を併発するまで数年間かかるのが普通なのでやはり糖尿病の合併症の一つである心筋梗塞が直接の死因となったと考えるのが一番妥当ではないだろうか。

2014 04/27 19:59:15 | none | Comment(0)
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