通説にとらわれない新しい歴史解釈

2009年 11月 17日 の記事 (1件)


 今からみると昭和は不吉な元号であった。昭和の昭の字を分解すると、日本の口に刀とも読める。昔、鎧を身に着けた武士が戦場で自決する場合、口に刀の切っ先を含み、刀の柄を地面に打ち当てて喉を刺し貫く方法があったが、日本も太平洋戦争でまさに滅亡寸前にまで追い込まれた。今思うと昭和という元号は本来の国民と世界の平和という理想を表す意味とは別に日本の悲劇的未来を警告していたように私には思える。

 太平洋戦争末期、勝利は既に絶望的となり、軍部の狂気じみたプロパガンダは益々エスカレートして行った。自動小銃を持った米兵に立ち向かうために国民に竹槍の訓練をさせたり、「一億総玉砕」などと叫びだした。「木戸幸一内大臣が、本土決戦の急先鋒である阿南陸軍大臣に向かい『アメリカの博物館に三種の神器が陳列されて、その横に、かつて大日本帝国という国があった。これはその遺品である、と書かれるだろう』との趣旨のことを述べて、全軍特攻、一億総玉砕の終末に注意を喚起したのもこの頃である」(別冊歴史読本「太平洋戦争敗北の責任」 新人物往来社)
阿南陸軍大臣が終戦の詔書に署名して、陸相官邸に戻って自決する直前に義弟の竹下正彦中尉に「米内を斬れ」と言ったことは有名な話である。ポツダム宣言受諾に賛成したものは他に鈴木首相や東郷外務大臣もいたのに、わざわざ米内海軍大臣だけを名指ししたのは他の理由からだろう。私はそれは米内に敗戦の責任ー特に拙劣な作戦を繰り返すことによって日本の敗戦を決定づけた山本五十六を連合艦隊司令長官に任命した責任を取らせろということだったのではないかと思うのである。
「米内光政は総理大臣として、また海軍大臣として、昭和史の重大局面にしばしば登場し、選択をせまられ、決断してきた。その重責たるや、近衛文麿、東条英機に比して、より大ではあっても、小ではなかった。しかもその判断の誤りが、敗戦の惨禍を招来してしまった。彼の舵取りは、痛恨昭和への水先案内人のそれであったのだ」(米内光政と山本五十六は愚将であった 三村文男著 テーミス)

「確かに緒戦のあれは、山本さんでなくてはやれなかったんだが、そのあとが、周囲から作戦の神様扱いされて、すること為すこと派手になりすぎ、いつか誰かが ブレーキをかける必要があった。山本にブレーキのかけられる人といえば、米内さんを措いてありません。
自分でも分かっていたろうに、米内さん、それをしなかった。立場になければ口出しはせぬ、性格的にも信条としてもそういう人なんだからやむを得ないけれど、日本のために不幸なことだったし、米内さんについて惜しいと思うのはこの点です」前田稔中将
(米内光政 阿川弘之著  新潮社)



 山本五十六に河合千代子という新橋の芸者の愛人がいたことはよくしられているが、この千代子の晩年の主治医であった望月良夫氏が彼女から直接聞いた話では、山本五十六戦死の当日か翌日に軍務局の人間が押しかけてきて彼女に自殺を迫ったそうである.
奇妙なことに、この時のことを千代子は「三十台の若さで死ねなかった」とあたかも自殺を迫られてもしょうがないような言い方をしていることである。

 普通なら「何で私が自殺しなくちゃいけないんですか」と反論するべきであろう。この時に千代子は山本五十六から受け取った手紙のほとんどを持ち去られてしまった。客観的に考えて山本五十六と千代子は機密漏洩等の重大な嫌疑を受けていたとみるべきではないだろうか。(参照文献「山本五十六の恋文 望月良夫著 考古堂書店より) 
事実、ミッドウェー海戦の直前昭和十七年五月二十七日付で山本から千代子に宛てた手紙の中で「・・・私の厄を引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上はー万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日にはこちらも早朝出撃して、三週間ばかり洋上にて全軍を指揮します。多分あまり面白いことはないと思いますが。今日は記念日だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれも大事にね。

 うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふも暮らしつ (山本五十六 半藤一利 平凡社)
 うつし絵とは写真の事である、それにしてもこの手紙は重大な機密漏洩である。おそらく検閲官には見られていた可能性がたかい。山本五十六はそれまでにも度々死を覚悟しているような手紙を知人に送っているが、こちらの「万事を放擲して、二人だけになりたい」の方が本音だったのではないだろうか。
「身は鉄石にあらずとも、堅き心の一徹に敵陣深く切り込みて日本男子の血をみせむ。いざ待てしばし若人ら死出の名残の一戦を華々しくも戦いてやがて追うわれなるぞ」などと言っているが、実際には自分は全然敵陣深く切り込んでなんかいないではないか。真珠湾奇襲の時も、ミッドウェー海戦の時もガダルカナル攻防戦の時も、いつも前線からはるか後方の安全地帯に引っ込んでいたではないか。ただ、何も知らない国民はこのような山本の手紙をみて感激し、また頼もしく思ったことだろう。(前掲書参照)

 河合千代子こと新橋の芸者梅龍について山本の同僚で海軍省書記官であった榎本重治は戦後次のように語っている。「飲んだくれの芸者でね。芸の無い芸者で、ただ酒を飲んで酔っ払うだけ。乱暴な口をきくしね。五十六はそういうところを面白がっていたな。掘(悌吉)さんなんかも困っていたが、五十六は憎めない男ですからね。何くれとなく山本のことをかばい、我々もウワサが広がらないようにごく一部で止めて、知っていたのは幕僚と知人たちのごく少数でした。あれこれ書かれるようになったのは、戦後のことですよ」(ミッドウェー海戦 第一部 森史朗 新潮選書)

 戦後明らかにされた元艦長クラスの山本評は概ね、最悪と言ってもよいものであるが、陸軍の山本評も同様であり、東条の側近だった佐藤賢了中将などは山本五十六のことを「凡将中の凡将であり、その罪は万死に値する」と痛罵している。

 東条首相は4隻の空母と百余人のベテランパイロットを失ったミッドウェー海戦の真実を知った時に「これでもうお仕舞だ」と目に涙を浮かべていたということである。(「地獄のニューギニア戦線  栗崎ゆたか著 フットワーク出版)
 米国とオーストラリアを分断するために海軍が設置したガダルカナル島の飛行場を巡る攻防でも奪還が絶望的になり、多くの日本軍将兵が飢え死にしていることを知った東条は参謀本部作戦部の田中新一部長と服部卓四郎課長に「三万人を餓死させたらお前たちとは生きてお目にかからない。地獄で会おう」と言い切った。海軍に対しても「海軍が知らないうちにおかしな作戦をやって尻拭いを陸軍に頼む、そんな事をやられては困る。なぜ近くに飛行場を作らないのか。絶対優位の海軍力を持ちながらなぜ昼間の制空権を握れないのか等、皇族の竹田宮参謀に対して、海軍に対する怒りを顕わにしたという。(「遠い島ガダルカナル 半藤一利著 PHP出版参照)

 そもそもガダルカナル島をめぐる攻防は海軍がここに設置した飛行場を守るために陸軍が駆り出されたもので、それにもかかわらず、へっぴり腰とも思われる山本五十六の中途半端な戦い方のために、陸軍は戦死八千人、餓死者一万人を出してガダルカナル島からの撤退を余儀なくされた。狭量で短気な東条英機が山本五十六を見限らないほうが不思議である。しかし、真珠湾奇襲の国民的英雄である山本を罷免することは可能ではあるが、それでは国民に戦局がはかばかしい状況ではないことを明らかにすることになる。
 一番良いのは山本五十六が戦死か病死してくれることであるが、それを待っているだけの余裕はないから戦死するような状況を作り出すしかないーと東条が考えたであろうという推理はあながち荒唐無稽とはいえないのではないだろうか。
2009 11/17 19:14:34 | none | Comment(0)
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