通説にとらわれない新しい歴史解釈

2010年 05月 28日 の記事 (1件)


 芥川龍之介いわく「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、いわゆる光栄を好んだりするのは今更ここに言う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。ことに小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当たることである・・・勲章もーわたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのだろう。(侏儒の言葉):
「勲章なんて人を沢山殺したからもらえたんだろ」と芥川は言いたかったのではないか。

 芥川が「将来に対するボンヤリとした不安」を感じて自殺したのは昭和二年なので芥川は山本五十六も東条英機も知らなかっただろう。それでも既に軍人のレベルの著しい低下に気づいていたようだ。
太平洋戦争の時の軍部が幼稚で常識に欠けていたことは国民に竹やりで米軍を迎え撃つ訓練をさせたことでも明らかである。自分たちだけでは良い知恵もでないくせに国民の自由な言論を徹底的に弾圧した。そもそも明治天皇御即位の時に明らかにされた五箇条の御誓文のなかに「広く会議を起こし万機公論に決すべし」とある。
徳川幕府でさえ黒船来航の国難に際して広く町人からも意見を求めた。太平洋戦争の時の指導者は明治の時よりはもちろん徳川幕府末期の頃よりも劣っていた。結果から判断する限り少なくとも国防という観点から見た場合、帝国大学や陸軍、海軍大学校の教育はほとんど役に立たなかったと思われてもしょうがないだろう。むしろ有害だったかもしれない。私は帝国大学や陸軍、海軍大学校の卒業生が増えるにしたがって日本は衰退していったように思える。少なくとも両者は時系列的には一致している。

 帝国大学を出た井上準之助と帝国大学で学んだことのない高橋是清という二人の大蔵大臣を比較することは良い例であろう。下落していた円の実勢価値を無視し旧平価で金本位制に復帰して金解禁を実行した(円の人為的な切り上げ)井上準之助と、取り付け騒ぎの起きた時に裏面の印刷していない紙幣を大量に印刷させてそれを銀行の窓口に積み上げさせることによって恐慌状態になった預金者を沈静化させた帝国大学をを卒業していない高橋是清という二人の大蔵大臣の能力と功績の差は歴然としている。
井上準之助蔵相は実際には円の価値がドルに対して旧平価の時より下落しているのに新平価を採用することなくーつまり人為的に円高にした。円高は外国の買手からみると日本製品の購入価格が上がることであるから日本の輸出を減少させ輸入を増大させるーつまり日本が保有している金(金、金貨)の国外流出もたらすことは自然の道理である。そして金本位制は基本的に金の保有量に応じて紙幣を発行するものであるからその保有量の減少は必然的に紙幣の流通量の減少をもたらすことになった。輸出を増やすためには輸出価格を下げなければならなかったので一層不景気に拍車がかかった。つまり、井上準之助が予言した金解禁をすれば景気がよくなるというのは嘘だったわけである。金解禁前にこれに気づいた新平価による金解禁論者(円の実勢相場に基づいて円と金の交換比率を決める)を「食うために新平価解禁を唱えている」と口汚く批判した井上準之助が高橋是清より優れているのは学歴のみのようにも思える。
*(金本位制とは通貨の額面と一定量の金(きん)の量を例えば一円=金750mgというように結びつける制度で(法定平価)、この制度のもとで発行される通貨は法律で定められた等価関係に基づいて無制限に金(きん)と兌換する事を中央銀行が保証する制度である。
この法定平価は固定的なもので為替市場の交換レートの変動による影響は受けないため、為替相場はおおむね法定平価の水準に安定する。
故に金本位制を採用するメリットは為替相場の極端な乱高下を防止できるため為替リスクを避ける事ができるということである。
変動為替相場制度のもとでは例えば、一ドル100円のレートの時に一つ10ドルの商品を10個米国から輸入する契約をして、いざドル建てで決済する時に極端な円安となり円の価値が購入契約したときの半分になってしまった場合、十個につき本来は1000円払えばよいものを2000円として計算しなくてはならなくなり利益は吹っ飛んでしまう。
この場合でも、米国側の立場で見れば、あくまでも10ドルという価格はそのままで、金(きん)を基準にして見た場合、契約時とまったく変動はないのであるから日本側としては通貨を金(きん)に変えて輸入代金相当分を現送して決済すれば損害を防げるということになる。但し、実際の金本位制度下においては法定平価と著しくかけ離れた為替相場にはならない。)

 山本五十六、東条英機、井上準之助の三人に共通していることは自分の考えが一番正しいと思い込み、それに反する他人の意見は排除しようとすることであろう。

陸軍少将田中隆吉は米軍の空襲に備えて早急に十分なる防空施設を造営することを東条英機首相に進言したが、東条は「英米空軍がドイツに対して行ったような爆撃を日本に行うことは不可能である。それは貴官の取り越し苦労である」と一蹴されたことで辞表を出して陸軍省の兵務局を去り、昭和二十二年に「敗因を衝く」という著書を上梓した人物である。そのなかで東条の人物を次のように評している。

「私の親友大橋忠一氏は満州以来、よく東条氏を知っている。また第二次近衛内閣では、外務次官として外交問題に関し東条氏と折衝した人である。
氏は『東条氏の頭の中には脳味噌がない。感情ばかりである』という。松井岩根大将は『東条にはどうも私心があって困る』という。私が東条氏の部下として働いたのは、その関東軍参謀長時代に六ヵ月、兵務局長としてニ年弱である。
私の見るところでは、東条氏は非常に愛憎の念が強く偏狭である。自己を信ずる事が厚く、その行うところは独善である。直諫の士を斥けて阿諛佞弁の徒を好む。故に大橋氏の言は当っている。一見しからざるがごとく見えて極めて虚栄心が強い。また立身出世を喜ぶ。その地位を維持せんがためにあらゆる手段を講ずる。ひとたび権勢の地位に立つと、一切の権力を自己の保身に利用する。公よりもまず自己が先である。東条内閣の末期に、氏が行った憲兵警察による恐怖政治はその実証である。私心多しとする松井大将の言は実にこれを指す。事務に堪能である。努力もする。しかしそれは眼前の小事に限る。ある人はかつて、『東条氏は村役場の戸籍吏が一番適任だ』と言った。いかなる小事でも手帳に書く癖があり、書類の整理はその最も得意とするところであるからである。
小事に拘泥して物を大局から判断する能力は零である。経綸のない所以である。従って宇垣大将の言は当る・・・・・東条氏の性格かくのごとしとすれば、これをして誤りなからしむるためには、その周囲には特に剛直にして直諫の士を必要とする。書記官長の星野氏、海軍の嶋田氏、企画院の鈴木氏、大蔵省の賀屋氏、商工の岸氏、文部の橋田氏。司法の岩村氏、厚生の小泉氏ら、ともに上司の命令に忠実なる能吏ではあるが、剛直よく一身の栄辱を度外視して東条氏に対して忠諫をあえてするの気概は微塵といえども認め得ない人々である。いわんやこの中には、さきに述べた東条氏の性格とほとんど相似た性格の持ち主もある。ある人は東条内閣を評して粗製急造内閣と罵った・・・・・

近代戦の特質は航空機の質と量とが、その遂行に重大なる役割を演ずるところにある。
大東亜戦争もまたこの例に洩れることは許されない。したがって、わが日本本土の防空施設のいかんは、戦争の勝敗を左右する大問題である。しかし遺憾ながらこれに対する陸海軍首脳部の関心は、ほとんど絶無に近かった。彼らは口を開けば常に言った。『未だ寡聞にして爆撃によって破れたる国家あるを聞かぬ』と。また曰く『成層圏飛行機の出現を見ざる限り、日本本土の爆撃は絶対に不可能である』と。東条首相は満々たる自信をもって『日本の本土は、たとえ敵の爆撃を受くるも絶対に大丈夫である。それはドイツと異なり、敵の基地が遠隔の地にあるのみならず、日本の建築物は欧州のそれと異なり、平面的にして木造なるが故に、被害はドイツのごとくはなはだしくない』と言った。海軍の平出大佐は、『無敵海軍の存在する限り、わが本土には、一機といえども敵の侵入は許さない。防空演習の実施は、帝国海軍を侮辱するものである』と豪語するを常とした・・・・・」

以上、中公文庫の「敗因を衝く 田中隆吉著」より引用。


 また、終戦後最初の東久邇宮内閣で国務大臣を務めた小畑敏四郎中将は東条について「東条は、連隊長止まりがせいぜいで、師団長にもなれる人物ではない。そんな人物が、この大事な現時局に、一国の総理大臣になったのだから、日本の悲劇は生まれたのだ。東条は、一度、こうと思い込んだら、誰が何といおうとも聞く耳を持たぬ頑固で、無理押しをする面がある・・・・・」と評した。(わが東条英機暗殺計画 津野田忠重著 徳間書店)

 小児に似ていたのは高級軍人だけではなかった。当時の政治家や官僚も似たようなものであった。実際、当時の高級軍人や政治家および官僚の知的精神的幼稚さには驚かされる。その事実を証明するための実例を挙げれば殆んど無限に出てくるであろう。

 昭和天皇が終戦後、まだ少年であった皇太子に敗戦の原因として「科学を軽視したこと、明治の大山巌や山本権兵衛のような常識のある軍人がいなかったこと」を挙げられた。「常識がない」−簡潔ではあるが実に痛烈な批評である。およそどの分野でも常識の無い人間なんて使い物にならないだろう。

 軍人に常識が欠けていた事を認めていた将軍もいる。戦争中フィリピンに報道班員として派遣されていた今日出海(初代文化庁長官で作家の今東光の実弟)は兵団長三上中将から「君から軍人を見るとどうかね。これも変人組か、非常識な?」という質問を受けた。「これは困った質問だ。軍人の居候をしていて、非常識呼ばわりは出来ぬ。けれども確かに常識を持った軍人は少ない。幼年学校、士官学校の教育は世間から隔離し、常識を追放することに努めたようなものだ。『私はここへ来てつくづくアメリカの戦争振りを見ていると、決して特別な攻撃法を用いていないように思うのです。常識と申しますか定石と申しますか、そんな戦争の門外漢の私でも気がつく戦法だと思います。それが独逸(ドイツ)の精鋭を破り、日本をここまで押す力を持っているとすれば軍人にもまた常識が大事なものと考えるのですが・・・・・』『無論大切だね・・・・・日本の軍人もこういうことは戦争が済んでから、ゆっくり考えなけァならんね。しかし常識に非常識が打ち勝つということは原則的にもあり得ない。これァ自明だ』
 中将閣下の温顔が曇ったようだ。軍人も将官まで来れば常識を備え、好々爺になるのだが、佐官までは非常識が武器なのだ。官僚も大学を出て高等文官試験を受けるまでは、雑誌一冊読む暇もなく勉強に追われ難行苦行して一人前の役人になる。二十七、八歳の事務官が石油、石炭、繊維の統制の元締めであり、私と同年の男が文化全体の元締めだ。何も解らぬからやれるので、解ったら手も足も出ぬという不思議な逆説の上に日本がのっているのでは、どんなことをやり出すかどんなことになるか判ったものではない」(山中放浪 今日出海著 中公文庫)

 実際は軍の上層部にも常識を備えた智勇兼備の優れた軍人が少なくなかったことは当時の記録を見ればわかることである。問題はなぜ彼らでなく四流、五流の人材グループが主導権を握ることができて、しかもその体制が事実上日本が壊滅するまで続いたかということである。それはおそらく今日も日本の組織において同様の現象がしばしば見られるのと同じ理由であったろう。

 「幕末、内憂外患交々(こもごも)至るや、憂国の青年武士たちは、地位も名誉も金も命も捨てて救国のために立ち上がり、旧体制幕府を倒して明治維新を成し遂げた。その多くは維新の中途に倒れたが、生き残りの志士たちにより、明治天皇御統率の下、国家体制を確立し、富国強兵以て外患をことごとく突破し、僅か四十五年にして日本を世界の一等国たらしめた。
 これらの人々は、生きた政治・軍事その他を実践と実戦の中に自ら体得したが、指導者たるべき後継者の養成を誤り、地位や名誉を目標とする月給取りの文人や武人を養成して国家の指導に当たらしめたため、それより、わずか三十年そこそこで、日本は未曾有の大敗戦となり、六年八ヵ月におよぶ旧敵国の占領支配を受くるに至った・・・民間の維新運動者たちは、軍に期待したが、実は軍こそが旧体制の最たるものであった。ここでは、実戦の実力などは昇進・栄達には何の関係もなく、平和時の机上学問による点数によって一生の階級が決まるような、たわけた制度だったため、立身出世の有能者、実戦と国家指導の無能者を指導階級たらしめ、ついにこのような結果となったのである」(常岡瀧雄 世界戦略研究所所長 元陸軍大尉 歴史と人物 昭和五十六年二月号)

 「わが海軍は、敗戦壊滅のドタン場まで、ただ精勤、保守的、官僚型、小まわりのきく事務的人材が幅をきかし、上司に苦言を呈したり、型破りの独創的な考えをだしたり、反骨をしめしたりする人物をすてて顧みなかったのである」(自伝的日本海軍始末記  元海軍少将高木惣吉著 光人社NF文庫)

「陸海同額予算時代になると、軍隊はどうしても乱を好むようになる。厚生省は病人が多いほうがうれしいとか、文部省は落ちこぼれが大好きというのと同じである。
本来は、こうした職業にある人ほど、エゴイズムを抑えなければならない。大局的にみて譲り合えるという人物が、国家を背負う本当のエリートである。賢いだけでは務まらない。品格や人格を合わせ持った人でなければいけない。
戦争後半世紀を経た今も、ただ公務員試験にさえ合格すればいいという考えが尾をひいている。国益のためではなく、仲間や自分のエゴを満たすために才知を発揮するような人間ばかりになってしまった。私の友人たちを見れば一目瞭然だ。役人でも正論を言うと出世がストップしてしまうのである。一方、がむしゃらに予算をとったり、先輩の天下り先をつくった人間が出世する。今も同じ事を繰り返しているのである・・・組織は、どうしても上層部に仲間ができてしまう。仲間に入れない人間は、実戦で消耗品にされてしまう。派閥に入っていない人は仲間外れにされ、派閥に入って言い訳がうまければ出世する。仕事そのものではなく、忠誠心を売り物にするわけだが、結局そんな組織は丸ごと沈没する。日本海軍、陸軍、外務省、大銀行、大企業その他」
(組織の興亡  日下公人 三野正洋 ワック出版)

 「今の日本は、官僚主導国家、つまり政治が不在で官僚が国をコントロールしていると言われるが、実は戦前もそうだった。政治が不在で、軍部がコントロールしていた。その結果どうなったかというと、当時の日本、つまり大日本帝国は亡びたのである。同じことが起こらないとどうして言えよう。いや、このままでいけば確実に起こるだろう」

「小室直樹氏は、もし日本が中国と停戦をし、そのことで浮いた予算を全部太平洋戦争のほうに回したら、あるいは勝っていたかもしれないということを言っている。これが当然至極の考え方であって、戦力でも予算でも、特定の目的を達成しようとすれば、一極に集中しなければ勝てない。
簡単に言えば、日米開戦の時点で、陸軍、つまり大日本帝国は、何としてでも中国との停戦を実現するべきだったのだ。
その上でアメリカと戦争状態に入るならば、まだしもリーズナブルな選択と言える。ところが、当時の日本は、日ソ中立条約という形でソ連に手を打っただけで、肝心の戦争状態にある中国との講和は、陸軍自らが潰す形で消し去ってしまった。つまり、幼稚園児でもしないような馬鹿な判断を下し、国を滅ぼしたのが、あの戦争の実態であったのだ。
では、当然の論理的帰結として、その戦争を主導した日本軍、特に陸軍の最高首脳は、馬鹿ばかりだったということになる。これは論理の帰結として、そうならざるを得ない。

 「今、まさに辻政信(*1)のような人間が日本を動かしている。それは、大蔵官僚を中心とするエリート官僚である。本来、官僚はスタッフであるから、国政全体の立場から言えば、国を動かしてはならないはずだ。あくまで政治家の命令、つまりは国民の命令における公僕として動かなければならない。ところが、実際はどうか。ちょうど、国土や国民を守るべき軍隊が暴走して日本を亡ぼしたように、今は国民の忠実な公僕であるべき階層が、国民を苦しめるようなことをやっている・・・かつて、日本の政治家は二流だが官僚は優秀であるという神話があった。実は、昭和十年代も同じことが言われていたのである。『日本の政治家はろくなのがいないが、軍人は優秀である』と。そして、その「優秀」な軍人は、日本のすべてを支配することに成功し、思い通りに国を動かした。その結果、どうなったか。日本は亡びたのである。

*1「参謀本来の職務を逸脱し、独断専行を重ねた人物の典型が辻政信である。辻政信は、陸軍幼年学校を二番、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を三番で卒業した秀才である。彼は昭和十六年(1941年)七月に大本営作戦課の戦力班長という要職に就いたが、戦争中に何度か彼にあったある人物は「私はこの男は間違いなく一種の精神異常者だと考えた」という回想を残している・・・実際、日本陸軍がかつて行った無謀な戦いや市民の虐殺といった恥ずべき行動には、たいてい辻政信の名前が登場する・・・昭和十四年(1939)に関東軍とソ連・モンゴル軍が衝突した「ノモンハン事件」が起こった当時、辻少佐は関東軍の作戦参謀を務めていた。彼はそこでノモンハン方面の作戦担当をしていたが、もともと曖昧だった国境線をめぐる小競り合いが、彼の強硬論によって大規模な軍事衝突に発展した・・・また辻少佐はたびたび前線に乗り込み、現地部隊に介入を繰り返している。
『此の男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也』とは辻の上官であった山下奉文の言である。

(日本軍の教訓 日下公人  PHP)


 元官僚出身の作家・堺屋太一氏も、現在の官僚の問題を次のように指摘している。
第一に先見性がまったくないこと。
第二に情報収集能力がないこと。
第三に事務処理能力が世界最低であること。
第四に自浄能力がまったくないこと。そして最も重要なこととして、「失敗した人がどんどん出世している」と指摘している。これが最も重要なことである。

 官僚というものの本能的遺伝子の中には、「民というのは愚かである」という規定がある。だからこそ、「愚民を優れたわれわれが指導しなければならない」という思い込みから離れられない。そしてその背景には、自分たちはきわめて困難な試験を若いうちに合格したエリートであるという誇りがあるのである。しかし、こんな誇りなどは、まさに塵芥と同じで意味のないものだ。
たかだか二十一、二歳の若者がペーパーテストに受かったというだけのことであり、それを生涯の履歴にすることがおかしいのである。今、生涯の履歴と言ったが、読んで字のごとし、けっして大げさに言っているのではない。たとえば大蔵省などは、今でも国家公務員上級試験の上位一桁の人間を好んで採用し、そしてその好んで採用した人間の中から、さらに主計局へ行くエリートたちを決定する。
そして、官僚同士は、おれはあの時何番だった、お前はあの時何番だったということを最後まで自慢しあうのである。実に子供っぽい話である」(日本を殺す気か 井沢元彦 黄金文庫)

 実際のところ、二十一、二歳の年齢で到達できる知識のレベルなんてたかが知れている。試験では法律や英語の問題が出題されたろうが、その試験に合格したから即弁護士の助手や通訳、翻訳家として生計を立てることのできるレベルであるかどうかは本人に確認するまでもないことである。


2010 05/28 23:09:53 | none | Comment(0)
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